自然に呼吸する過程で
次に続く言葉を吐く寸前に
瞬きも一瞬の遅れもない中で
やわらかな灯火が乾いた肉厚の感触と共に掠めていった。

了承無く、疎通も無く、予告も問い掛けすら無く、そうすることがさも当然とでも言いたげに。
申し分ない日常的な背景にぽっと湧いたそれは焦点が定まるまで留まることをせず、残像として瞳に張り付けられただけ。
他愛も無いながら一応会話をしていたはずの時間を一瞬にして掻き消し、返そうと開きかけた唇も言葉もあっけなく雲散し、あまりの無常さに思考よりも感情が先にたった。
驚愕と疑念と僅かな憤り。三つ巴に沸き立ちふつふつと腹の奥が熱を持ち、ようやく追いついてきた言語思考が『何故?』を訴える。
『何故?』もしくは『何なのだ』
まったく理解できない行動の押し付けに当然ともいえる非難と私訴の提起。
冗談で済まして良い事柄ではなかったし、何事も無かったと自分を諌めるのは遅鈍極まりなく、婦女子がこのようなことを経験したのであれば即刻起訴するであろう破廉恥な行為に、軽く掴んでいた紙コップを中身が零れない程度に握りつぶし、斜め前に居る犯罪者候補をそれこそ燃え盛るような敵意を持った眼で睨みつけた。
これを性犯罪と提起するなら自分は被害者であり、彼は被疑者(しかも現行犯)になる。
言及する権利は確実にあるのだからと静かな闘志すら燃やしたと言うのに、当の本人は縁が漆黒のやや大きめな瞳をこれでもかと丸くし突然の天災にでもあったかのように半ば呆然自失にだらしなく口を開け、瞬きを一つすると僅かに裏返り掠れの残る声で
「な、なんで?」
本来なら自分が言うべき台詞を先に口にするから憤りを通り越して…呆れた。



Be honest!



検事は人が定めた法を執行することで社会の正義を明確に実現する為の職責を担っている。
裁判の執行の監督や指揮、それに至るまでの証拠や証言を法と正義感、良心に従い社会正義の実現を目指し、日々努力する者だった。
故に扱う事件は刑事事件で、事件性が認められない民事には手を出さない。
また、見た目華やかだが実状行政官としての仕事の方が圧倒的に多く、事務処理的な内勤が主になっている。
対して弁護士は刑事事件での弁護人や弁護活動だけでなく民事事件も広く扱う。
依頼者の代理人になったり付添人になったり、はたまた法廷を通さず相手方と直接交渉したり、民間の相談役にもなったりして活動は多岐にわたる。ある程度行動力がなければ勤まらない職業だ。
大小に関わらず犯罪が蔓延る社会でも…同じ法曹界に従事する職種でも…実際短期間で何度も同じ相手と法廷で合間見えるのは稀なのかもしれない。
いくらその可能性が発生する地方裁判所でも、担当する公判も違うし法廷の数も一つではない。公判が同じ階とも限らず廊下でばったり、などということはまずない。個人で限定するなら各階の移動手段も通常とは違い淡い期待を抱きつつ体力勝負に挑まなければならないほどで、それは偶然とは言い難い必然だったのかもしれない。
だが、何故それが必然なのか。
誰の為に用意された時間だったのか。

「あれっ?御剣、もしかして今終わったとこ?」
地方裁判所の一階ロビーで背中越しに声をかけられた。
聞き間違えるはずもないその声は振り返らずとも分かる
「ム、君も来ていたのだな」
いまどき目に痛いほど青いスーツに身を包んだ新米の弁護士だった。
エレベーターを降りるなり目に留まったのだろう、これまた目に痛いくらい鮮やかな色をしたネクタイを揺らしながら小走りに駆け寄ってくる彼は、肩口に手を上げ単純そうな笑顔を振りまき随分と親しげだ。
検事と弁護士。それは追求する側と弁護する側、確実な対立関係にあるのだが一歩法廷を後にすればただの知己になるのだろう…笑顔同様単純そうな相対図に今更異議を唱えるのもどうかと思い、足を止め距離が詰まるのを待つ。幼少の頃彼とは短い期間でも級友だったし、互いの認識に若干のずれはあるものの知人以上の…まあ、友人枠に入るぐらいの交流はあったから一言二言、挨拶を交わしてもおかしくは無い。…のかもしれない。
場所が場所なだけに砕けすぎるのはいただけないが。
「その感じからすると検察側の立証が成功したんだ」
「トウゼンだ。君も様子から窺うに今回も随分とギリギリの綱渡り状態だったようだが、一命は取り留めたというところかね」
被告側の無罪確定とは言い換えれば検察が立証に失敗したことで局という大きな枠で見ればあながち喜べるものでもないから、少しばかり皮肉がこもる。
「ま、ね‥ギリギリでも崖っぷちに追い詰められたんでも正義がなされたんだからぼくとしては万々歳だよ。結果オーライ」
地検相手の勝訴で気を良くしているのか、はたまた同じ弁護人との論争に彼なりの手ごたえがあったのか、快活な笑顔と僅かでも深まった自信とがどこか眩しく思えた。
彼よりも早く法曹界に入り、経験を積む中で霞みかけた夢と憧れが誇らしげな笑顔に滲み、少しだけ憎らしく少しだけ羨ましい。老功が目を細め若人を見る…世間一般的にまだまだ若輩ともいえる年齢でも共感を感じ得ない心情にやれやれと自嘲し
「君の扱った事件、私が担当できなくて残念だったよ」
「げ‥いやいや、そしたら今頃控え室の隅でヘタリこんでたかも知んないし。勘弁してよ」
冗談半分の会話に気を許したのがそもそも間違いだったのかもしれない。
それとも、容疑者逮捕の一報から担当を任され現場と特捜本部、局とを行き来し起訴に至る前の下準備を完璧にこなし、公判で検察側が求める厳正公平な社会正義が下されたことで少なからず気持ちが高揚していたのかもしれない。
普段より、腰が重くなっていたのだろう。
一歩引いた場所で静かに控えていた事務官が
「御剣検事、僕は先に車に戻って今日の後半の資料に目を通していますので少し休まれては如何ですか?」
柔和な表情で彼なりの気遣いをみせた。
「あ、だったら軽くお茶でもしてく?地下の喫茶部で」
水が向けられたと思ったのか弁護士の肩書きでなく友人としての立場を意識した男が嬉しそうに肩を揺らすから、思ってもなかった提案に少しだけ瞳を大きくした。
公判が終わっても報告書の作成や当然されるであろう控訴に向けての証拠整理。それ以外にも気の遠くなるほどの仕事があるし会わなければいけない参考人も居た。それでも息つく暇もなく働き、公平な判断能力を欠いたり疲労の末心身を病んでは掲げた正義の前に膝を折らねばならなく、多少の息抜きは必要と。
仕事を抜きにしても心が解れる関係ならばそう時間は取れないけれど、是非に、勧めたくもなる。
変化に乏しい表情が一言二言の会話で驚くほど砕け(と言ってもささやかだったが)余裕すら感じることが出来るのならば。誰よりも長い時間検事の傍に控える事務官だからこその気遣いに
「ム、そう‥だろうか。だがそれならば君も‥」
「いえ、検事の休憩中こそ自分の勉強時間ですからお気になさらずに」
更なる気遣いを乗せて颯爽とその場を後にする。
「彼、気が利くね」
身内の人間を褒められるのは悪い気がしない。
「うム、優秀な人材だし人柄もすこぶる良いのだよ」
「君付きの事務官なんだからそうなんだろうね。もしかしてゆくゆくは検察官?」
「その適正はあると思うが、彼次第と言ったところか‥」
ロビーに二人、ぽつんと残され行き交う人々の好奇の交じった視線を受けながら解れた心を均して行くように、視界からとうに消えた男の背中を見送り続ける。
一呼吸、浅く頷き折角の休息。頂戴しようと視線をずらせば黒い瞳をぶつかり少しだけ‥心が跳ねた‥ような気がした。何か、些細な疑問が湧いたような気もするが曖昧なその輪郭はとらえどころがなく
「じゃ、地下へ降りようか。階段、こっちだろ」
気心の知れた笑顔に促され曖昧さを据え置きにする。

不思議な、間‥だった。
その時だけ質感の違う空気の流れがそこにあった。
不思議で奇妙な‥でも、決して不快ではないそれを、なんと言い表して良いものか分からないけれど。

喫茶部はそれなりに人が居て、空席もあったが人を待たせている後ろめたさから素通りし、売店横の自販機で暖かい飲み物を買うとそのまま硬いコンクリートの壁に軽くもたれた。
色のない真っ白の紙コップには琥珀色の液体。ほんのり湯気を立て甘酸っぱい香りが鼻先を擽った。
熱い飲み物は少し苦手な所為でぐっと一気に飲み干すことは出来なくゆるい波紋を広げる水面を無言で見詰める、と。
「御剣っ」
軽く呼ばれ湯気のたつ真っ黒な液体が差し出された。
彼の意図することが分からずそのまあるい水面と満面の笑顔とを見比べれば
「乾杯‥ほら、ぼくら二人とも公判、良い結果だったでしょ?ささやかだけど勝利の美酒って感じで」
華美に誇ることのない少年のような笑顔で彼は言う。
行政の誉れ。そんな本質を欠いた喝采やみせかけの栄誉である青銅の盾よりももしかしたら価値のある笑顔は、ほのかに温かく胸の奥に溜まる。頤を指の先で撫でられるみたいにこそばゆいそれを正面から受けると、耳の皮相が熱を持つのが分かった。
「君と私とでは立場が違う」
「あはは、そうだけどね。ん〜、じゃあ……真実に。それなら丁度良く折り合いがつくでしょ」
求めてきたもの、一つ、唯一つ。口にして。
トンと触れるカップの縁。
僅かに波打ち濃い波紋を広げる液体。
そのまま熱々のコーヒーを景気良く喉へと流し込む様子に、羨望をまじえた視線を送り上下する喉仏に視線を留めた。
少年のように…
肩を並べ安価な飲料を口にしながら、往来を眺めつつ雑談に耽る。
意味の無い会話を無造作に並べる時間は暇つぶし以外の何ものでもなかったけれど、年を重ねるうちそれなりに重みのあるものだったのかと思い直す。
ただ日常を語り、ただ感覚で笑い、ただ‥ただ‥混じり気の無い透明な時間を気のおけない友人と。
感傷に浸るほど過去そんな時間は多くなく、記憶にもおぼろげ。実在したかも分からない時間は憧れの見せる幻なのかもしれないけれど、今は有情の時。安穏の時間。
「御剣、あんま寝てないだろ」
「そう、だろうか。ここ二三日準備に追われていたが‥何故分かる?」
「眉間のヒビが、いつもより深いから」
「ヒビではない。正しくはシワだ」
「意味は同じでしょ。根詰めすぎるとそのうち倒れるよ?」
「私に科せられた責務はそれほどに重いのだよ。それに、簡単に倒れるほど貧弱にはできていないつもりだ」
「っていってるヤツほどヤバイんだって。お前、過信し過ぎるのもいい加減にしなくちゃ」
叩き合う軽口に薄く笑いながら細めた瞳で相手を見詰める。
フイと逸らしては首を傾け、重なっては外れる心地好い眼差しと笑み。
つらり、つらり、思いつくままの会話は平行線を進み、いつの間にか手にしたカップの中身があと一口ぐらいになる。休み時間が終わりに近づくと物悲しく、名残惜しいのは学生時代と同じかとぼんやり物思いに耽り意外に楽しかった時間との決別の意味で飲み干そうかと思った、その時。

自然に呼吸する過程で
次に続く言葉を吐く寸前に
瞬きも一瞬の遅れもない中で
やわらかな灯火が乾いた肉厚の感触と共に掠めていった。
不思議で奇妙な空気の流れに乗せて、何かが、何かが。

唇に触れ‥

それがキスだと理解できるまでキレ者の名をほしいままにしていた天才検事の頭脳を持ってしても数秒‥もしくは数十秒かかったほどで‥虚を衝くキスはほんのりコーヒーの味がした。




  



2007/11/22
mahiro