常初花 1
隊舎から邸に戻ったのは、を『西の離れ屋』に連れてきてから二日後だった。
玄関を入り、沓脱ぎで履物を脱いでいると、白哉の乳母だった老婆がにこにこと嬉しそうに控えている事に気が付いた。
白哉が、心を許す数少ない人物の一人である。しかし、最近は、寄る年波で床に付きがちだった。
「元気そうだな。」
「お陰さまで、最近は、起き上がる事が多うございます。
坊ちゃまも、ご健勝で何よりでございます。」
「そうか。お前のお陰か、この温かな気は。」
醸しでている柔らかな雰囲気に、白哉の表情は緩んだ。
「いえいえ、坊ちゃまのお力でございます。」
「私のと申すか?」
自分は、邸を空けていたはずである。しかし、乳母はニコニコと白哉をみつめるばかりだ。
すると、朽木邸ではついぞ見かける事のなかった喧騒が、更に気を和らげる。
「様・・・!様、お待ち下さい。まだ、髪飾りが・・・」
「えっ?・・・・あっ、ありがとう。あ〜ぁ、ほんと、この廊下、無駄に長いわね。」
聞こえた声に白哉のこめかみが、少しだけ揺れた。
「あれか・・・」
使用人たちから、明るい笑いが洩れる。しかし、それは、『蔑』ではなく『親』である事は、白哉でなくても感じ取れた。
白哉の表情を眺める乳母は、楽しげだ。
「女子(おなご)は『気立て』と申します。坊ちゃまのおめがねには、感心致しました。
出自は、存じませぬが、凛とした気は坊ちゃまに相応しいかと。
ルキア様がいらした時の様で・・・・・」
ルキアの名が出て、乳母は言葉に詰まってしまった。
触れぬように心掛けてきたのだろう。しかし、白哉の表情は変わる事はない。
本当に、心の中は、浮かべる表情と同じなのだろうか?
もしも、傷めているのであれば、その疵を癒して欲しい。
そう願いながら、乳母は、視線を喧騒の先へと移した。
すでに喧騒は収まり、再び変わった気に気づき、白哉は、居並び頭(こうべ)を下げる列の先をみた。
「お帰りなさいませ、白哉様。」
凛として、それでいて優しさを湛える声に、更に気は和らぐ。
「・・・今、戻った。」
添えられた微笑に、白哉は、表情を保つのが精一杯だった。
決して豪華ではないが、仕立ての良い薄絹の着物には淡い杜若の花が上品に散らされている。
束ね上げられた黒髪は、一見無造作に見えるが挿された髪飾りがそうでない事を教える。
その容姿だけでも、貴族が召抱える妾としての価値を十分に満たしている。
性的対象としたモノでは、『雅を愛でる』そんな言葉が似合う出で立ちだ。
それでいて、邸の気を左右する『気立て』。
己が仕える主人の選んだ愛妾を、誇らしく思える。使用人たちの表情が、そう語る。
それと同時に、白哉への推尊は高まった。
――― 散らすのが惜しい
――― だが・・・・・
――― 散らしてみたい
「白哉様・・・・?」
心配したのか表情を曇らせたに、心ならず微かな笑みを浮かべた己に、驚きはしたが嫌悪はなかった。
後に続く衣擦れの音に、低く感情を抑えて告げた。
「今宵は、西へ渡る。」
「・・・・・・・お待ち・・しております。」
戸惑いはあるが否む事はない、そんな返事に、少し視線を落とす。
迷いでも、嬉しさでもない。しかし、ざわめく心を互いに感じる。
口に出来ぬ不器用さに心は嘆き、言葉を紡がぬ心に、口の端は躊躇う。
そんな白哉を先ほどと変わらぬ視線が包んでいた。
貴族の色道楽に、興味はなかった。したがって、白哉自身がこの場所を使わせた事は一度もない。
故に、初めて『西の離れ屋』へと足を運んだのだった。
「喉を通らない」との理由で、言い付けに背き、は夕餉の膳を辞した。
それが本意なのか、謀(はかりごと)なのか、わからない。
恐らく後者であろうとの予測はつく。素直に抱かれる女ではない。
ならば自分はどうするのだろう?
ふと、今まで抱いた事のない疑問が、頭を過ぎる。
馬鹿げた事だと、すぐに平常に感情は戻った。
自分に逆らう者など、存在しない。いや、存在させない。
『抱きたい』と請う心に気づかずままに、『西の離れ屋』の扉をくぐった。
寝所に続く部屋から、明かりが漏れている。
今夜、出向く事は伝えてある。本来なら、寝所で待つのが『妾』の務めだ。
の不手際に、少なからず苛立ちを覚える。
何かを謀るにしても、あからさまな不手際が、悔しさを呼んだ。それは、に対する信頼へ向けられたものだった。
「この程度の、思慮とはな・・・」
叱責ではなく遺恨を言葉に襖を開けた白哉の視界の先には、散らばる紙。
足元の一枚にふと視線を落とすと、すぐに拾い上げた。
「これは・・・」
過ぎる不安にあたりを見回すと、部屋の奥で倒れているの姿があった。
駆け寄り抱き起こすと、意識はあるようだ。しかし、体は、驚くほど冷たい。
名を呼び始めて三度目にようやくは、うっすらと瞳を開けた。
「白…哉・・・」
安堵の表情を浮かべた白哉に、は弱く微笑み返した。
「いつからだ・・・?」
「白哉が帰る少し前・・・」
「なぜ無理を・・・?」
「どうしても・・・・顔・・・見たかった・・・・」
そう告げると、は再び意識を手放す。
「?!・・・!」
呼べども答えぬ体は、温まる気配を見せない。
白哉は、を抱き上げると寝所に用意された床へと寝かし、共に横たわる。
の霊圧を、他の霊圧が包みこんで全てを拒絶している。
それをはがす為に、しっかりとを抱きしめると、ゆっくりと霊圧を放出し始めた。
「・・事と次第によっては、許さぬ・・・・」
を包む霊圧は、まるで、その手に閉じ込めるかの様に、まとわり付いている。
己の所有を犯すものに対し嫌悪し、排除する。
それが、になぜ施されたのか、意図は解らぬ。が、を奪う為である事は明白である。
そして、その霊圧が、誰の物かも。
「許さぬ・・・市丸・・・!」
少しずつ赤みが戻るの、柔らかい黒髪に愛(いつく)しむように、くちづけを一つ落とす。
偶然なのか必然なのか、どちらとも付かない出来事で、白哉は引き返せない想いをその心に刻んだ。
解き放つ術を、見出せぬまま。