きみから400光年



3.



町中歩きまわり日はとうに暮れた。
くわえ煙草で、なだらかに続く坂道をのぼる。
小高い丘の斜面に沿った、舗装もされていない、けもの道と言ってもよいような細い道だった。踏み込む土は柔らかく湿りさきほどから革靴を汚している。
どうやら広大な果樹園の一角らしい。道に沿って見たことのない果実がなっており、熟す少し前の、みずみずしく甘酸っぱい匂いを発していた。見た目も香りもみかんに近い、白っぽい皮をしたそれらは、月の光を受けて淡く輝き、宵闇にぽかりと浮かぶ街灯のようにサンジの道行きを照らしてくれる。
ここに着いたとき、なんとなく予感がした。
まさかこんなところにと思うような場所に、ゾロはよく迷いこむのだ。毎回苦労させられるが、たとえこの世界の果てにいたとしても、ゾロを見つける自信ならあった。
振り向くと、眼下に広がる町の灯りがもうずいぶん遠くちいさく見える。
顔を戻し道の消えていく先を目で追った。あと少しで頂上のようだ。
きっと、そこにゾロがいる。
「ああ、すげえ星」
見上げれば降りそうな星空。
天空に近づいているような感覚に、サンジは大きく息を吸いこんだ。



     *



ただどうしても気持ちを伝えたくなった。
だから、すきだと言った。それだけだ。
仲間として共に戦い、コックとしてその血を肉を作る、それで十分だと、それ以上を望むことなどあきらめていた。
けれどゾロが腕を掴んだあのとき、これまで抑えていた欲望が堰を切って、どろどろと内側からあふれだすのを止めることができなかった。ずっと前から、頭のなかでなんどだってゾロにしてきた、その通りのことを、ゾロにした。すきだすきだとうわごとのように囁きながら、見て、触れて、舐めて、奥まで開いた。
ゾロは懸命に声を殺していた。
男が声をあげることに恥じらいがあるのだろう、そう思うと、サンジの愛撫はなおさら執拗になった。ゾロは口を押さえたまま、全身をこわばらせて達した。赤く染まった強い眦がたまらなく愛しくて何度も高めた。
つながっているとき、一度だけ、ゾロがサンジの名を呼んだ。甘く掠れたその声は今でも鼓膜を震わせつづけている。あのとき確かに、ゾロはこの腕の中にいたのだ。
なんの抵抗もせずすべてを寛容に明け渡してみせたのに、ゾロは一人で出て行った。
わからなかった。いつだってゾロはサンジの理解の埒外にある。
同情であんなことをして後悔しているのかもしれない。もう顔も見たくないと、二度と俺に触れるなと、罵られるかもしれない。下手したら刀の錆だ。誇り高い男にそれだけのことをしたとわかっている。ゾロに会うのは、だからほんとうは、とても怖い。それでもゾロを探し求める自分を、どうすることもできなかった。
覚悟を負った美しい背中から片時も目が逸らせないでいる。
はじめからだ。
そしてたぶん、これからもずっと。

念のためにと思い、停泊中の船に寄ってみた。
船番のはずのチョッパーはすこやかに寝息をたてていて、なぜだかナミとロビンがラウンジでお茶を飲んでくつろいでいた。なにかお茶うけをだそうかと、慌ててキッチンに立とうとしたサンジに、二人は、それはいいからゾロを探しに行ってあげて、と言った。
口にしたことはもちろんない。けれど、サンジの気持ちに、二人ともずいぶん前から気が付いているようだった。そんなに態度に出ているのかと恥ずかしく思ったものだ。
「あいつ、サンジくんを探しにいったのよ」
「……俺を?」
そう、航海士命令でね、と紅茶をすすりながらナミが言う。
「でもきっとまた迷ってるわ」
だから探してきて。そう言って、二人してサンジの背中をぐいぐいと押し、ラウンジから追い出そうとする。いやでも、お菓子だすくらいは、とサンジがねばると、最後はロビンの白い手が咲いて船の外にぽいと放られた。
「今のサンジくんの仕事は、あの馬鹿を探すことよ」
航海士命令です。船縁に立ったナミが、わけ知り顔で笑いながら言う。ロビンも微笑んでいた。
おそらく事情はある程度知っているはずだ。なのに何も言わずこうして送り出してくれる。かなわない、なんて素敵な女の子たちなんだろうとサンジは思う。それなのに俺ときたら、あの寝ぐされ剣士しか欲しくないのだ。
我ながらあきれてしまう。
「ありがとう!だいすきだよ、ナミさん、ロビンちゃん!」
こころからの気持ちを叫ぶと、おこぼれをありがとう!と大声で返された。
サンジは情けなく眉を下げて笑うしかなかった。



     *



唐突に視界が開けた。
連綿と続いていた木々が姿を消し、目の前には平らな土地が広がっている。
ちょうど真ん中あたりに、ゾロがこちらに背を向けて、まるで不貞寝でもするかのように寝そべっているのが見えた。迷ったときはそこを動くなというサンジやナミの言葉を、今日ばかりは守ったらしい。
「よう。探したぜ」
ちゃんと普通の声が出せた。吸いきった煙草を落とし、踵で火を消してから、サンジはゆっくりとその背中に近づいた。ほんの少し距離を置いて横に腰を下ろす。下草がクッションの役割をしてくれるのか、思ったより座り心地は悪くなかった。
サンジがすぐそばにいても、ゾロの気配は身構えるでも緊張するでもなかった。常との違いは特に感じられない。安堵しつつも、やはり、残念にも思った。
ゾロにとってはその程度のことだったのだろうか。
それとももう、見限られたか。
嫌悪と、無関心と。どちらがよりつらいだろうかとサンジは考える。
「やっぱ、てめえか」
片手で肘をつき、そこに頭をのせ、そっぽを向いたまま、ゾロが言った。
悪かったな俺で、とサンジが苦笑いで答えると、そういう意味じゃねえよ、とゾロが低く返した。
短い髪には草や細い枝がついている。
取ってやりたくてしかたがないが、我慢した。
「――考えてた」
ぼそりとゾロが言う。
「……何を?」
「そういえば、俺を探しにくるのはいつもてめえだなってよ」
どこにいても、お前はきっと俺が見つけてみせる。
それは、ささやかな自負だ。
「あー……、今頃きづいた?」
「まあな」
「お前、そうとうだね」
「るせえよ」
「俺の愛の深さにびびったろ?」
ふざけた調子でサンジは言ったけれど、ゾロは何も答えずそのまま黙り込んだ。だからサンジも黙った。二人のとき、会話が進まないのはいつものことだった。
知りたくてしょうがないのに、どうしてもうまく近づけない。もっと自分は器用だと思っていた。あまりに不様だ。ほんとうにひとをすきになると、格好などつけていられないことを、サンジは知った。
夜の匂いを帯びた風がサンジの前髪を揺らす。両手を後ろについて夜空を仰いだ。
遥か遠く、鮮やかに輝く星々の瞬きは、ゾロと一緒に見た蛍を思い起こさせた。
どうやっても思いを捨てることなどできないと、あのときわかったのだ。
ならばせめて自分に出来ることはなんだろう?
あれからずっと、サンジは考えている。

「なあゾロ。旅人の星って、知ってるか?」
空を見上げたままサンジは言った。宝石のようだった。いまにも落ちてきそうだ。
「……いや」
「前にナミさんに聞いたんだ。北極星のことらしい。旅人に方角を示してくれるから、そう呼ばれてるんだと」
迷える旅人は夜空を見上げる。
彼を導く星を、遠くから彼を見守る星を。
「俺はよ、それになりてえ。もちろん、てめえにとってだぜ?」
野望への遠く険しい道のりをほのかに照らす希望の光。
たとえ自分の居場所を見失っても、傷つき倒れ一歩も動けなくなっても、夜空を見上げればその星が示してくれる。
お前は一人じゃないと。いつだって見守っているからと。
それはまるでなにかの祈りのようだろう。
こころもからだもとてつもなく強いお前に、そんなのは必要ないかもしれないけれど。
「そんなふうによ、馬鹿みてえなこと考えるくらいには、俺はお前がすきだ。ちっとも自分を大事にしねえお前を、大切にしてえし、甘やかしてやりてえし、今だってな、ほんとは抱きしめたくてしょうがねえ。そのごっついからだをだぜ。マリモ頭をおもいきり撫でくりてえし、熱烈なキスだってしてえ。もちろんその先も。でももう、二度としねえよ。昨日のあれは、てめえの情につけこむ卑怯な真似だった。悪かったな」
サンジはひといきに言った。そうしないと声が震えそうだったからだ。
ゾロは最後まで黙って聞いていた。沈黙は肯定だと思った。それでよかった。
もう二度と触れなくても、遠くから見ていることだけ、許してくれるならそれで。
「……ほんと、てめえは馬鹿だな」
まあ、ひとのことは言えねえが。つぶやくようにゾロが言う。
横でごそりとゾロが動く気配がして、サンジは上を向いていた顔を戻した。あいかわらず寝そべったまま、けれどゾロはサンジを見ている。サンジがめったに目にすることのない、ひどくおだやかな表情だった。月明かりに縁取られた、その顔はほの青く見える。
「どれだよ」
「……なに?」
「お前がなりたいとかいう星」
「……」
もう一度見上げる。
北の方角、きらめく無数の星をじっと見てはみたが、どれだかまったくわからない。
サンジがぼうぜんとしていると、ゾロが横で噴き出した。だいなしだな、と声をあげて笑う。ほんとうにだいなしだ。ものすごく恥ずかしい。
ひとしきり笑ったあと、ゾロは勢いよく身を起こした。
あぐらをかいて、服についた草きれを面倒くさそうに手で払いながら、ゾロは言った。
「男ははじめてだった」
「――え?」
「同情でもねえよ。たぶんな」
サンジは呆けたようにゾロを見つめた。
夜は刻々と更け、夜気が薄いシャツをしっとりと湿らせている。けっこう寒い。スーツのジャケットは慌てて出てきたせいで宿に忘れた。あとで取りに行かなければと、ぼんやり考える。
ゾロの言葉が、昨日サンジが聞いたことの答えなのだと、そう気がついたのは、どれくらい経ってからだろうか。
そのあいだ、サンジが口を開くのを、ゾロは静かに待っていた。
「……ゾロ」
「とりあえず今は、これだけで勘弁しろ。慣れねえことに頭使って熱がでそうだ」
だいたいてめえは極端すぎんだよ。もうちょっと小出しにしろ。いっぺんにあんなだと訳わかんなくなんだろうが。ゾロは続ける。
「ちょ、待って、それって――」
言いたいこと聞きたいことはやまほどあるはずなのに、後が続けられない。うまく言葉がでなかった。でるわけがない。
ゾロがサンジのほうへ腕を伸ばした。サンジは動けない。髪のあいだに指を入れる。じわりと温かな指先の温度が、冷えた地肌に直接伝わる。
「髪、やわらけえなって、昨日思った」
ゾロが言う。
サンジの髪を梳きながら、幼いような、ひどく無防備な顔で、サンジを見ている。
息をするのも忘れた。
「すきとか、俺は正直よくわからねえ。だがよ、お前といろいろすんのは、悪くなかった。つーかまあ、よかったから、動揺したってものあんだが。料理してっとことか、手とか、髪とか、目の色とかも、悪くねえよ。こういうの、すきっていうのか?」
訊かないでくれ俺にそんなこと。なんという天然だろう、心臓に悪すぎる。
できればそうだよと言ってこのままなしくずしにしてしまいたい。なのにやはり言葉は出なかった。ただゾロの、無骨な指がたどたどしく皮膚の上を滑るのを、全神経で追うばかりだ。
サンジが黙っていると、ゾロがサンジの顔を覗き込んだ。あいかわらずの無防備な顔は、魔獣と恐れられていた男とはとても思えない。ただえさえパニック状態なのに、頼むからその顔はやめてくれとサンジは思った。
腹が痛すぎて胃にでかい穴があきそうだ。
鼓動が早すぎて心臓なんて破けちまいそうだ。
「なあ、星でいいのか?」
「……な、にが、」
「星じゃあ、俺に触れねえだろ?」

てめえがそれでよくても、俺が触れねえのはつまらねえ。

ゾロが言い、サンジはへなへなと全身の力が抜けるのを感じた。

ああ、骨抜きと言うのは、まさにこういうことを言うのだ。



急に脱力したように、サンジがへたりとゾロの肩に頭を乗せた。
首筋にさらりと冷えた髪が触れ、昨夜知ったばかりのサンジの匂いがふわりと香る。
そうだそういえば、この匂いも、それから声なんかも、悪くねえよなとゾロは思う。
手の届かない星になど興味は無い。
北極星なんて、たとえ教えられたって、きっと、自分には見つけられない。
まばゆく光るこの髪のほうがよほどきれいで確かだろう。
やっぱすげえ、参った、もうどうにでもして、などといいながら、サンジはなにやら肩をぶるぶると震わせている。笑っているようだ。意味はわからなかったが、なんとなくゾロもうれしくなった。

また一つわかった。
サンジが笑うと、どうやら俺はうれしいらしい。



                                        end. (09.04.18)



←2      text→



「蛍火」の続きを、サンジを幸せに、というお声をいくつか頂いていて、私もあのサンジは気に入っていたので、書いてみようという気持ちになりました。
でもねえ、海賊でなれそめなんて書くもんじゃありませんね。珍しく精神的に迷走しました。なんというか、それこそ遠い星を掴もうとしているような心持ちになって。
それでもできあがったものを見てみれば、良くも悪くもとても私らしい感じかな、と今は思います。あと、ゾロはいつもより天然かもしれない。
最後までおつきあい頂きありがとうございました。すこしでも何か、伝わるものがあるといいです。