きみから400光年





俺は星になりたいんだと、まじめな顔でサンジは言う。



1.



ゾロはとろとろと浅い眠りを漂っていた。呼吸のたびに沈みこみ、浮きあがる、それを繰り返す。
肌に触れるやわらかな布の感触がひどく心地いい。ゾロの重いまぶたを、ますますもって重くする。硬い木の床やハンモックとはあきらかに異なるその感覚は、ここが陸であることをゾロに知らしめた。
そういえばいつもはあるはずの揺れがない。海では時化でも来ないかぎり知覚することすらないのだが、無くなってはじめて、あったと気がつくものだ。
そうだ、昨日この島に着いて、ナミが宿を取って、男連中はくじで部屋割りを決めて、とそこまで思いだしたところで、すぐ横でみしりとスプリングの鳴る音がしてゾロは一気に覚醒した。
勢いよく身を起こす。マットレスが大きく、波を打った。音がした右側を見る。狭いベッドのなか、壁際に見知った金髪。
ぎこちない動作で今度は左を見る。空のベッドのうえ、ぴんと糊のきいていたはずのシーツが、見る影も無くぐしゃぐしゃになって丸まっている。
すべてを思い出したゾロは煤けた天井を仰いだ。剣呑な目つきで、しばらくじっと凝視する。虫のように見えなくもない茶色い染みを射殺すみたいに。
しばらくそうしてから、顔を戻し、もういちど右を見た。サンジは壁の方を向いていた。長い前髪に隠されたその表情はうかがえない。
頭を抱えそうになる腕をなんとかおさえ、唇から出かけたため息を無理にのみこんだ。
朝だか昼だかわからないが、カーテンの合わせ目からは光が細くさしこんで、宙を舞う埃をちらちらと白く輝かせている。乾ききった室内にのどが痛んだ。ベッドサイドに置かれた水差しを取ろうと、ゾロは立ち上がった。
全身が重くけだるい。あらぬ場所が不穏な痛みを訴えていた。裸の胸を何気なく見下ろせば、ちいさな赤い花のように、吸い痕がいたるところに散っている。
今度こそはあと息を吐くと、背後でサンジがびくりと身じろぐ気配がした。

コップに水を注いでひといきに飲む。こん、とテーブルに置く音が、静かな部屋に思いのほか冷たく放り出された。
丁寧にたたまれた服を着ると、ベッドに立てかけてあった刀を差し、ブーツを履いてゾロはそのまま部屋を出た。いかれ気味の蝶番が、いかれた音をたてる。じっと息をひそめているサンジに、声をかけることも、視線を投げることさえしなかった。
――できなかった。

なんでお前こんなことまで許すの?
男、はじめてじゃねえの?
すこしは期待していいのそれとも同情?

昨夜のサンジの声がよみがえる。耳を塞げば聞こえなくなるのならばそうしたい。
はじめて聞いた、痛々しいほど頼りなげな声に、なにひとつ言葉を返せなかった。
すきだとは言われていた。その意味も理解しているつもりだった。
けれどちがった。
あの男の気持ちなど、俺は、まったく、わかっていなかったのだ。

からだだけくれるなんてお前はほんとにひでえ男だ。
それでもすきですきでしょうがねえよ、ゾロ。
すきになってなんて言わねえからすきでいさせて。
 
うす暗い宿から外に出る。真上からは太陽のつよい光。
瞬間、視界が白い。

めまいがする、とゾロは思った。



     *



東の海を思わせる海域の、ごくちいさなさびれた島だった。
サンジと一緒に蛍を見た。

その日のサンジは様子がおかしかった。
どこかぼんやりとして口数が妙に少ない。なにより煙草に手をつけようとしなかった。以前からときどき、とりわけ二人きりになったとき、サンジはそんな風になることがあった。
もともと仲がよいとはお世辞にも言えない。同い年というのもまた悪かったのかもしれない。売り言葉に買い言葉、喧嘩と生傷は日常だった。
旅を続けていくうち、すこしずつ、サンジとの関係は穏やかなものに変わっていったけれど、あいかわらずゾロにとってサンジは謎のいきものだ。
戦闘のときは驚くほど息が合う。
だがそれ以外のときは、何を考えているのか、いまだに、よくわからない。
サンジもそうなのだろうとゾロは思っていた。二人きりのときに流れる、気まずいような妙な空気もそれで説明がつく。
暗闇を舞う蛍を見る、目を細めたサンジは泣きそうな顔をしていて、自分とはまったく違うその感受性に、ゾロはあらためて驚いたものだった。
その島を出て数日後だ。
サンジに思いを告げられたのは。

 

見張り台から降りたゾロはまっすぐラウンジへ向かった。
藍色の空はまだ夜のなごりを残し、いつもさわがしい船を、夜明け前の透きとおった静寂が包んでいる。丸窓から光が漏れていて、サンジがすでに起きて朝食の準備をしているのだとわかった。
サンジの朝は誰よりも早い。
かといって夜が早いというわけでもなく、ゾロのように昼寝もしない。睡眠不足にならないのだろうかとゾロはいつもふしぎに思う。
ひとのことばかり考えて、ひとの世話ばかりしている男だ。
それが悪いとはもちろん言わない。
ただ、やはり、自分とは違う。
ドアを開けたゾロに背を向けたまま、おはよう、とサンジは言った。あいさつを返しながらゾロはどかりと椅子に腰をおろした。
部屋は火を使うためか暖かく湿り、食欲をそそる匂いが満ちている。水でも飲んでもうひと眠りするつもりだったゾロは、その匂いを嗅いで、唐突に空腹を覚えた。
「まだか」
ゾロが言うと、サンジはそれだけで意味がわかったらしい、包丁を扱う手を止めることなく、まだだ、と短く答えた。
野菜を切る小気味のいい音がしている。
サンジのすこし猫背気味の背中を眺める。
悪くねえ、とゾロは思う。
じつはゾロはサンジが料理をしているのを見るのがわりとすきだった。
料理に向かっているときのサンジは悪くない。性質は違えど、ゾロが剣に向かうときとよく似た心持ちなのがわかる。それに、ゾロにはあんなふうに刃物を扱うことはできないから、見ていておもしろい。
動こうとしないゾロに、作業を続けながらサンジが言う。
「てめえいま何時だと思ってる。まだスープの仕込み中だぜ」
「腹が減った」
うまそうな匂いすっから。
なにげなくゾロがそう言うと、流れるように動いていたサンジの手が止まった。また何かまずいことでも言ったかと、ゾロはすこし身構える。ゾロだってべつにすき好んでもめ事を起こしている訳ではないのだ。
「――うまそう?」
尋ねるサンジの声はうわずっている。
ああ、とゾロは答えた。なんとなく、ここは素直に答えるべきところのような気がした。
「俺のめし、うまいのか?」
「うまいな」
「……なにがうまい?」
ちょっと考える。
「なんでもうまい」
ゾロは言った。
背を向けたままだったサンジがゆっくりと振り向く。目を見開いて、驚いたような幼い顔をしている。サンジの右手は包丁を握りしめたまま、左手には野菜のきれはしがついてぷらぷらと揺れていた。
「……言ったことないじゃねえか」
「そうか?」
そうだったろうか。
そう言われれば、あえて口に出したことはなかったかもしれない。
サンジの作ったものがおいしいのは、ゾロにとって当たり前のことだから。
あんたは言葉が足りなすぎるのよと、ナミあたりがよく言うのはこういうところなのだろうと、サンジの手についたにんじんとキャベツを眺めつつ、ひとごとのようにゾロは思った。
「ねえよ。いつも仏頂面でかき込みやがって」
「悪かったな。こういうツラだ」
ゾロが憮然として返すと、サンジはまあなあ、へえ、そうか、うめえのか、そうか、となんどか同じような台詞を繰り返した。
ふたたびゾロに背を向ける。包丁をまな板のうえに下ろし、蛇口をひねる。水の音をさせながらシンクで手を洗い、冷蔵庫から卵とベーコンを取り出した。
ちょっと待ってな、と言うと、コンロに火をつけフライパンに油をひきはじめる。なにか作ってくれるらしい。じゅうと肉の焼ける音、ますますいい匂いがしてきた。
「ほらよ。食え」
どん、と皿を乱暴に置く。いり卵と、焼いたベーコン。ゾロはありがたく頂戴することにして手を合わせる。サンジはゾロの前に座った。
食べながら、ふと視線を感じて顔を上げると、サンジがなんともいえない微妙な表情でゾロを見ていた。
うれしいのか、悲しいのか。笑いたいのか、泣きたいのか。
そのどれとも言えるし、どれとも言えないような。
とにかくゾロがはじめて見る種類の表情にはちがいなかった。
ゾロが見ていると、サンジははっとしたように表情を戻した。もういつもどおりのサンジだった。煙草に火をつける。すう、と吸い込み、横を向いて、白い煙を細く吐き出した。
サンジが煙草を吸う仕草もゾロはわりとすきだ。よくわからないが、あの手つきがすきなのかもしれない。そう考えて、自分は思ったよりこの男を気に入っているらしい、とやはりひとごとのようにゾロは思った。
卵を口にいれる。ほんのりと甘い。
「やっぱ、てめえはすげえなあ」
サンジが言う。
立ちのぼる煙をぼんやりと目で追っている。先端の灰が、いまにも落ちそうなほど長くなっていた。
「かなわねえよ。とっくにわかってたけどな、かなわねえ」
「……なんのことだ」
「たったひとことで、俺をこんな気持ちにしちまうんだからよ」
灰がぽとりと床に落ちた。サンジはそれに気が付いていないようだった。
――ほんと、まいる。
ちいさく、つぶやくように、サンジは言う。
「だから、なにが」
「ゾロ」
「?」
「お前がすきだ」
指のあいだに煙草を挟み、横を向いたままそう言った、サンジの口調は軽かった。その日の料理の献立を口にしているかのようにさらりとしていた。
だからゾロははじめ、なにかの冗談なのかと思った。
どういう反応をしていいかわからずぼうっとしていると、サンジは煙草を揉み消し、ようやくゾロの方を見た。一瞬だけ、その目が細くすがめられて、ゾロは蛍を見ていたときのサンジの顔を思い出した。
よほどゾロが呆けた顔をしていたのだろう、サンジはくすりと笑って、いっとくけど冗談じゃねえからな、と言った。
あいかわらず、あっけらかんとした口調で。
「気持ち悪いか?」
サンジが訊く。
「……いや」
驚きはしたが、気持ち悪いとはなぜか思わなかった。ゾロがそう言うと、口元で笑んだまま、そうか、とだけサンジは言った。
「まあ俺が言いたくなっただけだ。てめえは気にすんな。これまでどおりにしてりゃいい」
俺もいままでどおりにするからよ。
言って、サンジはなにごともなかったかのように席を立った。
床に落ちた灰を拭きとると、ふたたび、朝食の準備を始めた。

この島にくるまでに、すきだと言われたのはそのいちどきりだ。



     *



どうやら時刻は昼に近いようだ。太陽の高さと明るさからゾロはそう判断する。
この島の商店街は充実している。心地よい天候のせいもあるのか、石畳の通りはひとで混み合っていた。ところどころ出ている露店には、色鮮やかな野菜やフルーツが山のようにつんである。それでフレッシュジュースを出している店もあった。
うまそうだ。思ったら、反射的に金髪が脳裏にちらついて、それとともに昨夜の記憶を反芻しそうになり、ゾロは思いきり眉をひそめた。
店先に出て客を呼び込む男のだみ声がやけに耳につく。くそ、と誰にともなくゾロは悪態を吐いた。刀を扱っている店もさきほど見かけたが、入る気にはとてもなれなかった。
しいていえばしこたま酒を飲みたい。けれどそのためには、いま来た道を、宿の近くまで戻らなくてはならない。町のなかで店の住み分けができているのだ。いまサンジと顔を合わせるのはかなり気まずい。
出港は明日の昼。それまでにはなんとか、いつもの精神状態に戻っておく必要があった。今夜はとりあえず、船に戻るしかない。たしか船番はチョッパーだから都合もよかった。事情を詮索されることはないだろう。
もやもやとした心持ちのまま、ゾロは機械的に足を動かす。
酒が飲めないのならからだを動かして発散するしかないか、と考えていたところ、ちょうどいいタイミングで人相の悪い4人組の男がゾロの前に立ちはだかった。
物騒な雰囲気を察して、潮がひくように、巻き込まれるのを恐れた人々が距離をつくる。
「どけ。俺はいま、非常に機嫌が悪い」
ゾロはいちおう言ったが、男たちは馬鹿なのか、ゾロの殺気を感じ取ることができないらしく、うす笑いを浮かべながらゾロを囲んだ。
お前賞金首だな、とそのうちの一人が言う。いちばんちびな奴だ。
リーダー格らしいひげ面のいかつい男が、いくらだ、と尋ねる。
忘れた、とちびが言った。でも4対1なら勝てるだろう、と。
やはり馬鹿らしい。
「俺とやりてえのか?」
ゆったりとした姿勢で立ったまま、ゾロは尋ねる。
男たちはへらへらと笑っている。
ゾロはふうと息を吐いた。いつもなら相手にするのも時間の無駄だと思うくらいの雑魚どもだ。だがいまは少々事情が違う。
ゾロはとても、機嫌が悪い。
「……今日の俺と出会った、てめえらの不運を恨むんだな」
すこしぐらいは楽しませろよ?
ゾロは凶悪な顔で笑った。
黒手ぬぐいを腕からはずす。
頭の後ろできゅっと結び、刀に手をかけようとした、そのとき。

後頭部をぱかりと棒のようなもので叩かれた。

「なにをしようとしてるのかしら?」

背後から聞こえた高い女の声に、ゾロは身をこわばらせた。
ものすごい殺気を感じる。
鈍そうな男たちでさえ後ずさったほどだ。

誰なのかは、まちがいようがなかった。



                                          (09.04.02)


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