1.サンジ、恋に落ちる





ふうっと、軽く息を吐いた。
三桁の数字を順番に押し、つづいて呼、と書かれた丸いボタンを、人差し指でぐっと押す。ぴいん、ぽおーん、と間の抜けたチャイムの音が、エントランスホールに高くこだました。
しばし、そのまま待つ。応答はない。
待っているあいだ、斜め上にある防犯カメラの存在がひどく気にかかって、サンジは思わず顔をしかめた。別に、何も悪いことはしていない。なのになんとなく、悪いことをしているような気持ちになるのはなぜだろう、とサンジは思う。
居心地悪げに視線をずらした。よく磨かれたガラス越し、小ぶりの桜の木が、ちらちらと桃色を散らしているのが目に入った。よい季節の、よい日和だ。桜を見るたび、いかにも日本だな、という感じがサンジはする。
気を取り直してもういちど押してみた。やはり、チャイムの音だけがむなしく響いた。海外旅行用の、ばかでかいスーツケース、その取っ手をいらいらといじりながら、けして気の長いほうではないサンジは、呼び出しボタンを高速で連打した。
それでもやはり、反応はない。サンジは舌打ちをして煙草を取り出し、口に銜えてそれに火をつけた。
今日は休みだから一日家にいる、そういう話のはずだったのだ。居留守か、居留守なのか。そういえばだいたい電話で話したときから、無愛想で気に食わないやつではあった。
この話を持ってきたシャンクスの、にやけた顔をサンジは苦々しく思い浮かべる。
「誰かに用? 」
腹立ちまぎれにカメラを睨みつけ、インターホンに向け一撃必殺の踵落としを決めようとしていたら、後ろから高い声がして、サンジはその姿勢のまま振り向いた。
買い物袋を持ったオレンジの髪の美女が、サンジを不思議そうな顔で眺めている。
サンジは何ごともなかったように、すうっと足を下ろし、それから、彼女に向かってにっこりと、対女性仕様のとびきり柔和な微笑みを浮かべた。
「ここに住んでるの? 」
「ええ、そうよ」
「502号室に用があるんだけど」
「502? 」
「うん。いるはずなのに、出なくて困ってる」
「ロロノア・ゾロね」
「……知り合い? 」
 サンジが訊くと、彼女はうなずいた。
「君も病院のひとなんだ」
「ううん。私は違うけど、同居人がね」
だけど、ここの住人はだいたい知ってるわ。
そう続けた彼女はにっこりと笑い、そのとても愛らしい笑顔に、サンジはぼうっと見惚れてしまった。
この建物は、すぐ近くにある総合病院の職員寮なのだと聞いている。着いたときには、これが寮だって? とサンジはかなり腹が立ったものだった。ややこじんまりとはしているものの、外観的には、分譲マンションと比べても遜色がない。サンジはここしばらく、まともな場所で寝泊りをしていなかったので、そのひがみ根性もあって、よけいにそう感じたのかもしれなかった。
五階建ての、一階部分は駐車場と駐輪場になっている。ほぼ同じ見かけをした建物が、広い敷地にいくつか並んでいた。おそらくそれらも職員寮なのだろう。そう、サンジは推察している。
オレンジの彼女はしげしげと、スーツケースとサンジをかわるがわる見ていた。
「ねえ、あなた……もしかして、サンジくん? 」
言い当てられ、サンジは目を見開いた。
「どうして、俺の名前知ってるの?」
運命か、運命なのか?
「シャンクスからね、聞いてたの。ゾロのところに男が入るぞって」
「あ、そうなのか」
運命じゃなかった、と、サンジはちょっとがっかりする。
それにしても、言ってたとおりねえ。感心したように、彼女はサンジの特徴的な眉毛のあたりにじっと、視線を注いでいた。
えへへ、と意味なくサンジは笑った。
「私はナミ」
ナミは空いている手をサンジのほうに差し出した。サンジはそれを見て、あわててズボンでごしごしとてのひらを拭いてから、その柔らかな手を軽く、握った。
「よろしくね」
ナミが、明るい笑顔を見せる。
「私はゾロのお隣、503号室よ」
幸先のよいスタートだなァ。
先ほどまでの怒りを、けろりと忘れてサンジは思った。


     *


きっかけは、はっきり思い出せないくらいだから、かなりたわいもないことだったのだろう。サンジの味付けにゼフが文句をつけたとか、あるいはその逆であるとか、たぶん、その辺りの日常のひとコマだ。それがいつもの喧嘩の範疇に収まらなかったのは、この半年で積もり積もった鬱憤が、一気に爆発したせいだ、とサンジは考えている。
遠い海の向こうに渡って五年。皿洗いからはじまり、朝から晩までまさに馬車馬のように働いて、血の滲むような努力を続け、サンジは驚くべき速さで、一流レストランの副料理長にまで登りつめた。意気揚々と帰国したサンジを、けれどゼフは、ことあるごとに昔と変わらず半人前扱いした。
自分の味に自信を持っていたサンジにとって、それはとても腹立たしく、とうてい納得のいかない仕打ちだった。毎日のように小競り合いは続いて、もともと仲良し、とは言えないゼフとの関係は日増しに険悪になっていった。
そうして、とうとうひと月ほど前だ、てめえなんざこの店にゃいらねえ、と言い放たれ、それを受けてサンジは、こんな店こっちからやめてやらあクソジジイ、と負けじと捨て台詞を吐いた。その足で店の二階に向かい、荷物をまとめると、勢いのままゼフと住んでいたそこを飛びだした。
までは、まあ、よかったのだ。
はじめのうちは、安いビジネスホテルを転々としていた。けれど貯金はそこそこあっても、なるべくなら無駄使いはしたくない。この生活がいつまで続くかも、まったくわからないのだ。それで、もっと安く済ませようと、カプセルホテルに居を移した、これが、非常にまずかった。
そのときのサンジは知らなかったが、そこはゲイたちの巣窟、俗にいうハッテン場として、地元では有名な危険スポットだったらしい。隙あらばカーテンを開け誘いをかけてくる、いかつい男どもを夜な夜な退けるのは、サンジにとって大変な苦痛だった。
それに何よりも、料理と長く離れていることが、サンジにはとても、つらかった。
そんな心身ともにやつれ果てていたサンジに、シャンクスから連絡があったのは数日前だ。シャンクスは、D総合病院の救急部の部長をしていて、なぜだかゼフの旧友で、サンジのことも幼い頃からよく知っている男である。
「おめえ、とうとう家出したんだって? 」
「反抗期みてえに言うな! 」
サンジが携帯ごしに怒鳴ると、シャンクスは高らかな笑い声をあげた。サンジはシャンクスが苦手だった。嫌いというわけではないが、どうしてもペースを乱されてしまう。なんとなく腹黒い。あくまで印象だが。
「そうつんけんすんなよ」
いい話、あるんだけどなァ。
シャンクスに対しけしてよい印象を持っていないのに、なぜその言葉に食いついたのか、今でもサンジにはよくわからない。追い詰められて、少々精神状態がおかしなことになっていたのかもしれなかった。
いずれにせよ、そのようなわりといい加減ないきさつを経て、サンジは、ロロノア・ゾロという名の、顔も見たことのない男と一緒に暮らすことになったのである。
ナミの荷物を持ってやり、片手でスーツケースをひきずってエレベーターに乗り込む。ここにも防犯カメラはついていた。やっぱり、どこか落ち着かない。
「ゾロとは、はじめて? 」
「あー、うん。電話でちょっとだけ話したけど」
そう、とナミは深くうなずいた。どことなく、憐れむような目をしているのが気にかかる。
「まあ、はじめはいろいろ驚くと思うけど、きっとそのうち慣れるわ」
サンジは、ナミをじっと見た。ナミはすうっとパネルのほうに目を逸らす。
「……それって、どういう意味? 」
ちん、と音がして、エレベーターが目的階についたことを知らせた。さあ着いたわ、とナミが言い、サンジの問いは宙ぶらりんのまま放置された。
降りてすぐ目の前が501号室だった。共用廊下をざっと見渡すと、ドアは全部で五つ、並んでいる。
道向かいには、D総合病院のどうどうたる佇まいが見えていた。歩道に沿って、桜の木が植えられていて、散りぎわのそれが薄紅色の美しい帯を作っている。入院患者だろうか、車椅子でそこをゆっくりと移動している者がいた。
502、と書かれたドアの前で、二人は立ち止まった。表札に名前はない。
「ここよ。鍵はいつも空いてるから、勝手に入って」
自分の部屋のようにナミは言う。
「そうなの? 」
「そうなの」
「……不用心だね」
「たぶん、ゾロは眠ってるはずよ。直明けはいつもそうだから」
「ちょくあけ? 」
「夜間当直の次の日のこと」
そうだった。ゾロも救急部のスタッフなのだ。それにしてもあのチャイムの猛襲で起きないとはすごい。どんだけ眠りが深いんだよ、とサンジは感心する。
「じゃあ、がんばってね」
「がんばって? 」
その問いも、ナミは有無を言わせぬ笑顔でうやむやにした。買い物袋を受けとり、くるりとサンジに背を向け歩き出すと、そのままそそくさと隣の部屋へ消えていく。
残されたサンジは、所在なさげにそこに立ちつくした。遠くで車のクラクションが聞こえる。ふと見ると、車椅子の人物はもういなくなっていた。眠いようなぼやけた春の陽射しが、銀色のスーツケースをちかちかと光らせている。
ナミとの会話を、サンジは反芻してみた。情報量は、ごく少ない。けれどそこから導かれる結論はひとつだった。
どうやら、ロロノア・ゾロという男は、なにがしかの問題を抱えているらしい。
「……とりあえず、入るしかねえか」
今のところ他によりよき選択肢は持たなかったし、それに多かれ少なかれ、どんな人間にだって欠点はあるものだろう。相性、というものだってある。しばらく暮らして、どうしても気に食わなかったら、すぐさま出て行けばいいだけのことだ。
根っこの部分の作りがわりあい楽観的に出来ているサンジはそう考えて、うんうんとひとりうなずいた。
さっそくドアノブに手をかける。ナミの言葉どおり、鍵はかかっていない。ドアが小さな音を立ててすっと開いた。
「こんにちはー」
今日からここで暮らすのだから、お邪魔します、も変かなと思いサンジはそう言った。言ってから、でもこれも変か、と思ったけれど、他に何と言っていいかもわからない。
玄関には、男物の靴が脱ぎ捨てられている。サイズはサンジと変わらないくらいに見えた。それをきちんと揃えてから、サンジは靴を脱いで、その横にやはりきちんと揃えて置いた。
廊下を歩くと、向かって左側にドアがひとつ、右側にはふたつあった。間取りは2LDKだと聞いていて、ならば、どれかのドアがトイレか何かだろう。
つきあたりにもドアがあり、そこがリビングの入り口のようだった。とりあえず、そこに向かうことにする。
「ん?」
思ったより重く、少し手に力を込めた。ずずず、と何かを引きずるような音がする。内側から、ドアを塞いでいるものがあるようだ。
ある程度まで開けて、サンジは体をその隙間に滑り込ませた。障害物の正体は、大きめのショルダーバッグだった。当直用のバッグかな、とサンジは思う。帰ってきて、ここにそのまま置いたのだろう。
サンジは部屋を見渡した。カーテンの閉められた薄暗いリビングは、おそらく十畳ほどで、ぱっと見、いくつかの本と衣類が床に置いてある以外には、それほど散らかった印象は受けなかった。多忙な独身男性の一人暮らしにしては、むしろきれいなほうかもしれない。
テレビの前には、長いソファが置いてあって、足が二本、にょきりとはみだしているのが見える。そこから、かすかに寝息が聞こえていた。ナミの言ったとおり、部屋主は本当に熟睡中らしかった。
とりあえず後で起こすことにして、サンジとしてはもっとも気になる、カウンターで仕切られたキッチンのほうへと向かってみた。
やはり、ここもきれいだ。というか、きれいすぎる。
「自炊してねえな、こりゃあ」
独りごちながら、冷蔵庫を開けて、サンジはますますその思いを深めた。なかはがらんとしていて、水と酒とチーズとかまぼこときゅうり、くらいしか入っていない。あとはマヨネーズ。もろに、酒とそのつまみ系だった。とりあえずまずは買い物だな、と思いながら、さっそくサンジは、頭のなかでこれから数日ぶんの献立を思い浮かべる。
そのとき、ぎし、と音が聞こえた。見れば、ゾロが寝返りを打った音のようだった。ひととおりキッチンのチェックを終え、そろそろ起こすか、と、サンジは眠っているゾロのほうへと近づいた。
近づくにつれ、死角になって見えていなかったソファ周りの床が視界に入ってくる。菓子パンの袋、ビールの缶、何か飲みかけのコップ、カップラーメンや弁当の空き容器、脱ぎ捨てたシャツ、開いたままの医学書らしきぶ厚い本、爪きり、ティッシュ、その他、もろもろの生活雑貨。それらの存在は、彼がおもに、このソファから手の届く範囲で日々の生活を送っていることを教えていた。
なんたる不精だ。ナミはこのことを言っていたのかもしれない、とサンジは思う。ひどいものである。シャンクスが話を持ちかけてきたのも、これならわかる気がした。
「おい、あんた、……ゾロ。起きてくれよ」
同い年とは訊いていたし、しかも男だ、遠慮なくサンジはゾロと呼び捨てた。
ゾロは起きない。不快げに低い呻り声をあげ、サンジと反対のほうに顔を向けた。
「ちょっと、なあ、起きてくんねえかな」
手を肩に置いて、ぐらぐらと揺さぶった。しっかりと筋肉のついた、逞しい肩だった。
呻り声だけは大きくなるけれど、ゾロが起きる気配はまったくない。サンジはため息をつき、窓のほうへと大股で歩いて、しゃっと音を立ててカーテンを大きく開けた。
光が、一気に部屋のなかに降りそそぐ。サンジはしばらく目を細め、慣れてから、ふたたびゾロのほうを見やった。驚いたことに、眉間に深い皺が刻まれてはいるがまだ眠っている。
俺ほどじゃないけど、整った顔してんな、とサンジはその寝顔を見て思った。
すっきりとしているが男くさい。女にもてそうだ。俺ほどじゃないだろうけど。
「あんたさあ、いい加減に……、!」
罵倒しかけたとき、かさり、と不吉な音が、倒れたカップ麺(シーフード味)の容器のなかから聞こえた。サンジは、せりあがる緊迫感にこくりと唾を飲み込んだ。
見てはいけないとわかっている、そういうものほどひとは不思議と見てしまうものだ。サンジもその例に漏れず、容器のフタが三分の一ほどめくれている部分、その部分から目を逸らすことができなくなってしまった。
身動きさえせずに、そこを凝視する。かさ、とまた音がして、ひっ、とサンジは思わず声をあげた。それでも、どうしても、目を離すことができない。
そして次の瞬間、のれんをくぐるように、サンジがこの世でもっとも忌み嫌うあの節足動物が、隙間からひょこりとその顔をのぞかせた。
目があった。
ような気がした。
サンジは躊躇する暇さえなく、かん高い悲鳴をあげながらゾロの上にどすんと飛び乗った。うおっ、と衝撃に声をあげ、ゾロがさすがに目を開ける。
「……なんなんだ、てめえ」
「ごっ、ごっ、ごっ! 」
名を口にするのも嫌だった。サンジは必死の形相で、容器のほうを指さしてゾロに伝える。
ゾロが視線を動かしたので、つられてつい、またそちらを見てしまった。頭だけをそこから出した状態のまま、例のアレはじっと大人しくしていた。
「ああ、あいつか」
目を細め、旧知の友のようにゆったりとゾロは言った。サンジは、信じられない思いでゾロを見た。
二十九年生きてきて、アレに対してこのように鷹揚な態度を取る人間を、サンジは初めて見たからだ。
「ど、ど、どうにかしてくれ! 頼む! 」
我を忘れ、懸命に懇願する。まだ眠そうな目のまま、ゾロはサンジのほうに顔を戻した。
「どうにか」
「早くつまみだせ! それか退治しろよ!」
「苦手なのか」
苦手じゃねえ人間なんてお前くらいしか知らねえ! とサンジは心のなかで叫んだ。
「……とりあえず、どけ」
落ち着いた様子で言われ、サンジはゾロに馬乗りになったままであることにようやく、気がついた。
極力、アレのいる場所から距離を取りつつ、ソファから恐る恐る降りる。一メートルほど離れた場所に立ち、もし飛んできたときいつでもブロックが出来るよう、サンジは下に置いてあった本を両手で抱え込んだ。
それからサンジは、ますます信じられないものを目にすることになった。ゾロの動きには迷いがなく、とてもすばやかった。
「これでいいのか? 」
ゾロは、サンジの言葉を、そっくりそのまま叶えてくれた。
平然とアレを素手でつかむと、窓を開け、それを外にぽいと無造作に投げ捨てた。黒っぽいアレがのびのびと羽を広げ、陽光のなかを元気よく飛び去っていく姿が見える。
「……そうか、てめえ、もしかして」
言いながら、ぼうぜんと突っ立ったままのサンジのところにゾロが近づいてくる。サンジはじりじりと後ずさった。
「サンジ、だな? 」
もう来てたのか。わりい、ぜんぜん気がつかなかった。それにしてもお前、聞いちゃあいたがずいぶん奇抜な眉毛だな。
ゾロが、アレを鷲掴んだその手でサンジの肩をぽん、と叩き、サンジはふたたびかん高い悲鳴を長くあげた。



「すまねえ。さっきはつい、取り乱しちまって」
サンジがしおらしく言うと、頭をタオルでごしごしと拭きながら、べつに、とゾロは、実にどうでもよさそうに言った。いろいろな方面に無頓着な男らしい。どさりと、そのままソファに腰を下ろす。
「お、きれいになってんじゃねえか」
床回りをぐるりと眺め、ゾロが言う。へへん、とサンジは得意げに片方の眉を上げた。
ゾロがシャワーを浴びているあいだに片付けたのだ。アレの温床になるものを、一刻も早く排除したかっただけなのだけれど。
「で、さっそくだがよ」
ゾロがタオルを首にかけて言った。よく鍛えられた上半身は裸のままだった。引き締まった、なめらかそうな浅黒い肌を晒している。
なぜだかあまり、見てはいけないもののような気がした。アレとはまた、まったく違う意味合いで、だ。
「シャンクスからは、どう聞いてる? 」
「仕事は、おもにあんたの栄養管理。俺はここに住んで、あんたのために飯を作る。家賃はいらねえかわり、食費だけは折半、掃除とか洗濯とかの家事も、あんたが望めば俺がやる」
「それでいいか? 」
ゾロが訊き、それでいい、とサンジはうなずいた。
家事は全般的にあまり苦にならない。なにより、ただで寝泊りができるうえ料理に携わることができるなんて、これまでと比べたらそれこそ天国みたいな生活だ。
「うし。じゃあ、契約成立だな」
「おう」
手を差しのべられて、サンジはそれを握った。しっかりとした造りの手だ。ゾロが大口を開けてにかりと笑い、そうすると、年よりぐっと幼いような顔になる。
反射的に、かわいいな、と思ってしまって、サンジは慌てて頭をぶるぶると横に振った。男相手に、さっきから俺は少しおかしいようだ。ようやく、サンジはそう自覚した。
ゾロは、そんなサンジを見て、笑うのをやめた。サンジの目を、下から覗き込むように顔を近づける。意志の強そうな目元、そのなかの澄んだ赤茶の眸を、サンジは真正面から見つめることになった。心臓が、どくんと波打った。
これは、見たら、やべえ。
そう思うのに、やっぱりさっきと同じで視線をずらすことができない。とてもきれいな目だった。そんな馬鹿な、という思いとは反対に、顔はどんどん熱くなるばかりだ。
「へえ」
息を吐くようにゾロは言う。さきほどまでと、声のトーンががらりと変わった。やけに、色っぽい。考えて、色っぽいって何だよ、とサンジはさらに慌てた。
「シャンクスのやつ、さすがだな」
「な、なに、が」
それには答えず、ゾロが、サンジの手首をぐいと掴む。今日は誰も俺の質問に答えてくれない日だな、とサンジはぼんやり考えた。
風呂あがりのせいなのか、ゾロの手は、ひどく、熱い。
「男にゃ興味はねえって聞いてたが」
「……ねえ、よ」
ない。ない、はずだ。あるわけがない。ゲイから逃れるためにここに来たくらいで、だけど。
「そうか?」
そのままぐいと引っ張られ、バランスをくずしたサンジは、ゾロに覆いかぶさる形で倒れこんだ。
ちょうど、首すじ辺りに顔を埋めることになる。石鹸らしき匂いと、ほのかな、たぶんゾロ自身の肌の匂いに頭がくらくらした。いよいよおかしい。
「ちょうどよかった」
声が、耳朶をくすぐっていく。な、に、と答える声が上ずった。
「近ごろ忙しくてな、溜まってたんだよ」
「なっ、なに言って! ちょ、ちょお! 」
サンジの動揺など、少しも意に介さず、狭いソファの上でゾロはすばやく身体を入れ替えた。さっきとは反対に、サンジの腹に馬乗りになる。
抵抗しようとすると、後ろ手に、実はさっきから熱のこもりはじめていたサンジの股間をつうう、と撫でてきて、その力加減がまた絶妙で、う、と思わず声が漏れた。
「いい子にしてな。そしたら……」
首にかけていたタオルを取り、すでに力の抜けかけたサンジの手首を戒めながら、ゾロは囁いた。さっきまでと同一人物とは思えないくらい、その表情は艶っぽいものだった。
目の前で、ゾロの指が膨らんだジッパーにかかり、サンジはごくりとのどを鳴らした。なんだろう、逆らえる気がまったくしない。
「天国、見せてやるよ」
目を細め、ゆっくりと、ゾロは唇の端を上げる。
ああ、ナミさんが言ってたのはこのことだと、サンジはそのときようやく悟った。
そして、サンジは、天国を見た。


 
俺は夕飯までもうひと眠りする。
当直明けとは思えない、すっきり晴れ晴れとした顔つきでそう言って、ゾロはふたたびソファで眠ってしまった。泉が枯れるかと思うほど絞り取られたサンジは、しばらくのあいだ、心身ともに痺れるような余韻にぼうっと浸っていた。
のどがむずむずとする。あー、と声を出してみたら少し嗄れてしまっていた。それもそのはずで、セックスであんなに喘いだ、というか喘がされた、のははじめてだった。サンジにまたがって、腰を揺らめかせ、サンジをじらしながら、てめえ、かわいいじゃねえか、気に入った、とゾロは言った。
思い出して、性懲りもなく下半身が疼いてくる。口の端がゆるみ、そこからへああ、とおかしな声が漏れた。
そうしながらも、ふと時計を見て、夕食の時間が近いことに気がついた。慌ててリストを作り、サンジは買い物のために外に出た。ここに向かう途中、スーパーの位置はすでにチェック済みである。
ぷかりと浮いた丸っこい雲が、赤っぽく色を変えはじめていた。空のきわはちょうど桜を濃くしたような色で、上に向かって淡いグラデーションになっている。
エレベーターのほうに顔を向けると、ナミとは反対側の隣室、501号室の前に、一人の男が立っていた。全身黒っぽい服で、ゼフほどではないが目立つひげを蓄え、目つきがただものでなく鋭い。
殺し屋とか、会ったことはないけれどそういう雰囲気だ、とサンジは思った。その男と目が合って、サンジは軽く会釈をしてから近づいた。
「あの……、501号室のかたですか? 」
「そうだが」
男は低く言った。
「俺、今日からここに住むことになったサンジと言います。よろしくおねがいします」
ぺこりと頭を下げると、男も、意外なくらい律儀に返してくる。
「我が名はミホーク」
以後よろしく。
厳かにミホークは言い、部屋の鍵を開ける。
「ミホーク? 」
ドアが閉まってからサンジは首を傾げた。どこかで聞いたことがある名のような気がしたが、思い出せなかった。


     *


その日の夕食は豚肉のしょうが焼きだった。サンジは知らないだろうが、ゾロの大好物である。
「おら、できたぞ」
キャベツのせんぎりと、トマトが同じ皿に乗り、野菜の煮ものと、みそ汁は油揚げとほうれん草。
山盛りごはんをどん、とテーブルに置いて、あとはビールもついている。
「うめえ」
ゾロが感心すると、まあそうだろうよ、とサンジは満足げな顔をした。天才だからな、と得意げに続けるのは無視しておいた。
がつがつと食事をするゾロを、サンジはうれしそうに眺めている。たぶん、本当に料理が、ひとに食わせるのが好きなんだろう、とゾロはそれを見て思った。
同い年にしてはずいぶん落ち着きが足りないようだが、世話好きだし、なにより、セックスの相性がばつぐんだ。声に色気があるし、イくときの顔も非常にかわいかった。
三大欲の充実は仕事ぶりにも影響する、というのが、ゾロの上司にあたるシャンクスの持論である。睡眠に関しては、どこであっても一瞬で眠れるゾロだから、このたびは食事と性生活を充実させてくれたのらしい。
ゾロに遅れて、サンジも手を合わせる。ぷしゅ、とビールのプルタブを開けた。ゾロは、がつがつと豚肉を食べている。ちょっと焦げたところがまたうまい、などと考えていたときだった。
「あ、そうだ」
サンジが唐突に言い、ゾロは肉を箸でつまんだまま、手を止めてサンジを見た。
「どうした?」
「あんたに、言っとかなきゃいけねえことがある」
おう、とゾロが応じると、サンジが箸を置き、おもむろに姿勢を正したから、つられてゾロも箸を置いた。あのさ、とサンジが言う、その顔はどこか恥ずかしげだ。
「今日はじめて会ったやつに、こんなこと言うのもおかしいかもしれねえんだけど」
「なんだよ」
「こういうことってあんだなって、俺も驚いててよ」
「だから、なんだ」
前置きはいいから早く言え。ゾロはいらいらと言った。回りくどいのは苦手だった。
サンジは、急に、きりっと顔を引き締めた。
「好きです」
「……てめえ、阿呆だろ」





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