奇妙な感触だった。
場所という現実的な形を取ってはいるものの、所々にはイメージの断層があり、そこへ行き当たる度にガルルは戸惑い、進む事を躊躇してしまう。
こんな所に長居してはおそらくこちらの身が持つまい。やはり自分は実世界の住人だ。
そう思った時、聞き慣れた声が響いた。
『問題は、コレが一体何のための仕掛けかって事なんだよな』
「全てわかった上でここへ寄越したのではなかったのか?」
『いくら俺様でも、他人の中味なんざ簡単に解ってたまるかよ』
不快な物言いは相変わらずであったが、確かに言う通りだった。
「……トロロ新兵は、おそらく作戦のためのシミュレーションを組んでいたのだと思う」
『何の作戦だよ』
「機密だ。俺も末端に過ぎん」
気がつくとクルルという忌むべき存在に、どこか気安くなっている自分がいた。
『……フーン…… シミュレーションね』
ガルルの背後を声が追って来る。
断層はあちこちに見え、それがまるでトロロの整然と築かれた世界を理解するための、ひとつのキーのように感じられた。
それはプログラムの林であり、意図的に組まれた言語の海だった。
ガキの遊びにしちゃ……
水には多くの豊潤な可能性が含まれ、原始の惑星の生命のスープを思わせる。
林は整然と並列し、表面的な無造作さとは印象の違う美しさを含む。
クルルはモニタの中味を目の当たりにし、トロロという才能を甘く見くびっていた事を痛感した。
いや、かつての自分に似ているという評は変わらない。
という事はやはり自分は、自己愛という迷宮から抜け出せないという事なのかも知れない。
「……恐れいったぜ、クソガキ。お前ェ、なかなかやるよな」
イメージが途切れ、別のイメージが接続された箇所。
そこが唯一クルルが突っ込めるバグ部分らしかった。
閉じた世界をこじ開けるための亀裂は、おそらくそこだけだ。
「割って入るための何か道具が要るぜェ。ガルル、あんた何かこいつに関するキーを持ってないのかよ?」
『キーか。思い当たったものを入力してみよう。方法は?』
中にてやはり断層の特異性に気付いたらしいガルルが返事を寄越す。
「あんたのお得意な分野でどうだい? 俺様が見ても楽しいからな」
どうせ茶番ならできるだけ派手に、がモットーだ。
クルルは簡単なキーボードの操作にて、ガルルの手に狙撃銃を送る。
「入力装置だ。うまくやんな」
それをひょいと片手で受け取る仕種が、はっとするほど弟のギロロと相似形で、クルルは可笑しくなった。
それにしても。
「ガキにしちゃ悪くねぇ」
珍しく素直な感想が出た。
確かにあのガルルが引き抜いただけの事はある。
「あの時は混乱させられたもんネ」
どこか満足気に見えたのだろう、ケロロも言葉を継いだ。
「性格悪い所もクルルに似てるし、後継機?」
「何の冗談だぁ? 俺様は唯一無二の天才だぜェ」
そう、おそらくあのクソガキもそう答えるだろう。
クルルは画面の断層に向けて銃を構えるガルルの背を見ながら、込み上げる笑いを堪える。
キーワードについて思い当たるのは、この後に控えた作戦名であった。
小隊に知らされているのは一部に過ぎない。だが戦局を左右する重要な位置に自分達は配置されている。
ガルルはトロロがその世界に姿を消す直前まで取り組んでいた作業について、思いを馳せる。
狙撃対象は常に移動を続け、追う形では到底落とす事は叶わない。
変化する速度、そして移動した地点を計算する能力、それが彼に求められた課題であった。
―――――mission『F』。
一撃が戦局が決定する。故に『fortune』。
ということは、この世界は狙撃対象の位置を知るための装置であったのか。
改めてあの尻尾のついた部下の、恐るべき才能について舌を巻く。
ガルルは画面上に出現したアルファベットを一文字ずつ狙い、まるで儀式のように丁寧に撃ち抜いていた。
「F」
「O」
「R」
「T」
「U」
「N」
「E」
果たして、断層のようであった亀裂はその部分から更にずれ、世界は大きく裂けた。
『よーし、扉は開いたぜェ、早いトコ呼び掛けて、こっちへ帰って来な。でないとあんたも二次遭難の危険があるぜぇ』
「どこだ、トロロ新兵!」
『ガキにゃガキらしくママみてぇにもっと優しく呼べよぉ、気のきかねぇオッサンだな』
クルルの茶々を他所にガルルは裂け目の中へと踏み込む。新たなステージがそこから始まっていた。
しかし、ガルルにはそれがそれまで居た場所とどう違うかすら解らない。
ここはそもそも「世界」ですらない。
便宜上「世界」の形を与えられているだけの、トロロが作戦のために書いたシステムの中だ。
その奥底。
まるで薄いベールのかかったような先、「世界の中央」にトロロ新兵の姿を発見し、ガルルは思わず安堵の溜息を吐く。
「トロロ新兵!」
しかしそこは目と鼻の先のように見えながら、辿り着く事が困難な場所になっていた。
「トロロ!」
こちらに気付いているのかいないのか、トロロは微動だにせずじっとその場に座り続けている。
ガルルは手を伸ばし、そのオレンジ色の身体を捕まえようとする。
指先は空を掻き、擦りもしない。
ここまで辿り着きながら。ガルルの奥歯が鳴る。
「トロロ!」
彼は反応しない。
この場にいる自分もまた、トロロの目には言語の羅列にしか見えないという事なのかも知れない。
ではその目を見開かせ、この場に存在する「異物」を確認させるにはどうすればいいのか。
ガルルは考え続ける。
クルルに提案されるより早く、何か策を見つけ出したい。
それは既に気に食わない存在への個人的感情を越え、ガルルの中で堅固なプライドとなっていた。
そう、トロロ新兵は自分の部下なのだ。
成体にも遠い子供を強引に軍に引き抜き、過酷な任務に組み入れた張本人は紛う事なき自分なのだ。
「……ありゃー…… あのクソガキ、またとんでもねぇガチガチのFirewallで防御してやがる」
キーボードを叩けど、簡単には突破できそうにない。
「クルルに胸借りて、実力つけちゃったでありますか?」
「俺の所為かよ?」
考えられない事ではない。トロロにとって自分は完全な目の上の瘤であり、越えるべき壁だ。
「完璧に闘争心に火、つけちゃったと思うヨ〜」
「悪ィな、俺は何度でも王座の防衛続けてやるぜェ」
とはいえ、この状況を打破するには少なくとも数時間の猶予が必要だ。
末端には内容すら知らされない大きな作戦のための、最高レベルのセキュリティはそう簡単には破れないだろう。
そこにまさかシステムを作った本人が閉じ込められるとは、誰も考えない窮地だ。
「……たしかにちょっと見ない間にあのガキ、腕を上げてやがる」
「感心してる場合じゃないっしょクルル! このままじゃガルル中尉が二次遭難しちゃうでありますよぅ!」
「……クソ……」
キーボードの音の軽快さが鈍る。
面倒このうえない状況だ。しかし、ガルルの手前絶対に弱音は吐けないという意地が、クルルを奮い立たせる。
「おい、そこの糞野郎、何でもいいから突破できそうな脆そうな部分を探しな。さっきみたいな分りやすさでは見つからないだろうけどなァ」
ガルルが言葉に反応し、振り向く。
『ここが一体どういう仕組みで成り立っているのか、私にはわからん。しかし…… 見たところどこも均一だ。どこにも脆弱な部分はない』
万事休す、か。
しかしそれなら一体、あいつはこのままどうする気なんだ?
ずっとあっちの住人になる気か?
確かにここは優れた仮想空間だ。
だが現世を放って、作戦を放って、ヤツは一体何を目的に生きる?
それはクルルの中で思わぬヒントとなった。
「おいオッサン、このクソガキに二日前、一体何があった!?」
こうして目の前にいながら遠い存在となった部下と対峙し、ガルルは二日前を思い起こす。
休暇の前だった。
実家へ顔を出すには日数も足りず、軍の宿舎を借り、雑事をこなす事にした二日間。
確かに最後に会ったトロロは不機嫌そうに見えた。
作戦前だ。若い兵隊が神経質になる事は珍しい事ではない。
何があったと問われたところで、思い当たる節もなかった。
しかしトロロの性格を考えると、それが深い部分での懊悩であればあるほど内へ溜めるのではないか。
作戦に気を取られ、部下の気持ちを考える事を疎かにした自分をガルルは苦い思いで振り返る。
彼は一体何を苦悩したのか。
何を言いたかったのか。
「トロロ新兵、私だ。こちらを見てくれ」
呼び掛ける。しかし壁の奥に佇む小さな身体からは反応がない。
「トロロ!」
それほどお前にとって現実世界は生き難い場所なのか。
それほど私はお前に忍耐を強いていたのか。
「この作戦が終わったら、いつでも家族に会える部署に転属できるようにしよう。私はお前に無理強いする事ばかりだった。だからトロロ、私と戻ろう」
こちらを向いたままのトロロ、そして依然としてベールを一枚隔てたような感触。
しかし、これまでにない手応えがあったようで、ガルルは前へと一歩を踏み出す。
「よし、いい傾向だぜぇ、一枚目の壁を突破だ」
ガルルの呼び掛けはトロロの内面に響いた。
ということは、この防御壁に対抗する術はメンタルな部分にあると言える。
クルルは自分によく似た性質を持つこの子供について考える。
幼い日の自分が一体何を求め、何を不自由に感じていたか。
それが突破のために必要なキーである事は、確信になりつつあった。
「俺はクソガキよりずっとガキの頃から、軍のために働いてきたんだ」
トロロとの相違点、そして類似点は山のようにある。
しかし最も違うのは、全面的に自分を委ね、甘えられる大人が傍にいるという事だ。
それが虫の好かないガルルという存在であれど、クルルはかの男が部下を大切にし、その命を背負う覚悟を常に持っている事だけはよく知っている。
それならばトロロのフラストレーションとは何なのか。
「案外、逆から辿れば早かったりしてな」
それまで頑に守り続けてきた方法を変えてみる。それは物事が閉塞した時の意外に有効な手段だった。