―――――到着まであと半日。
精密機器の低い唸りに満たされた自動操縦の宇宙船内部。
久しぶりの無重力状態にもすぐに飽き、地球とほぼ同じ重力を発生させた不便な状態の中、既にクルルはシートを180度倒し、背中を向けて寝息を立てていた。

対話がないだけで、たった一人、誰もいない場所に残された気がするのは何故なのか。
これまでクルルと行動する機会は殆どなかった。そんな縁遠かった相手と、今は絶えまなく話し続けていたい。
ああ、悪い病気が出始めている。
ドロロは額に手を当て、目を閉じる。



弟はおそらく姿を見せないだろう。
代理人を務める男には一度だけ会った事がある。
血筋の中で最も俗人だと言われた弟は、意外な事に博物館の学芸員となった。
結局家で軍属は自分だけになってしまった。
父も母も弟も、家族はどこまでも善良で暖かい。
しかし、帰宅する度に縁遠くなる気がしたのは何故だろう。
自分を守り育ててくれた筈の強固な家、そして少年時代の思い出が詰まった部屋。
涙が出る程懐かしい筈なのに、回想の肌触りは冷たく、違和感を伴う。
それほど僕は昔と変わってしまったのだろうか。
思い起こすのは、真っ白な天井、そして枕元に置かれた水の入ったタンブラー、氷枕のゴムの臭い。
額のタオルを取り替える度に、頭を撫でる母の優しい掌の感触。
真四角の自室だけが、病弱だった少年時代のドロローゼロローの小さな世界だった。
同じ兄弟でありながら丈夫だった弟は、毎日大勢の友達を伴って同じ間取りの隣室で騒いだり、窓から見下ろす位置にある公園で駆け回っていた。
喧噪が通り過ぎた後に覗いた隣の部屋の、放り出されたマンガ雑誌や食べ散らかされたスナック菓子の箱、そして人数分用意されたマグカップを見た時、弟には当たり前のように存在しながら、自分に与えられなかったものを思い、ひとりで泣いた。
神様、僕を弟と同じにしてください。
一週間だけ、一日だけでいいから、僕を弟と同じにしてください。
孤独な心は羨望だけを膨らませる。
羨望はいつしか嫉妬を内包し、憎悪をも呼び込む。
あの頃の僕は、自分をこの世で一番不幸で哀れな子供だと思い込んでいた。
幸福な存在は、幸福であるというだけの理由で、可哀想な自分に分け与える義務がある。
弟も、父も、母も―――――
ああ、あの家の中には、そんな幼い僕の抱えていた闇が未だに巣食っているのだ。

そしてドロロは思い起こす。
家を出る前夜、弟が初めて兄に打ち明けた思いを。

 僕は兄さんが羨ましくてたまらなかった
 病気の兄さんの傍には、いつも母さんがいたから
 兄さんはよく僕に「ずるい」って言ったけど
 僕もずっと兄さんの事をそう思っていたんだよ

兄弟に当たり前のように存在したものを与えられなかったのは、自分だけではなかったのだ。
幼かった弟に、いかに自分が忍耐を強いていたか。
目を耳を塞ぎ、考える事を放棄してきた事を思い知った。
何も言い返す事ができないまま、時は過ぎた。
今もその言葉はドロロの中で痼りとなって残っている。



気がつくと数時間が経過していた。
いつの間にか寝入っていたらしい。背中に寝汗をかいている。
先に目覚めていたクルルがドロロの覚醒に気付き、振り向いた。
「何か寝言、言ってたぜ」
「えっ、何をでござるか?」
「さあ、わかんね。……ンな事よりエスティメイトの金額、出てるぜェ」
公式に発表された落札予想金額は、ほぼ予想通りであった。
しかし気になるのはもう一人の偽名と、異星人のエントリーである。
「それにしても先輩、他の奴等はともかく、あんたの弟はなんでこんな物がお入り用なんだ? 金持ちのお坊っちゃんが面白がるにしちゃ、マニアックすぎるだろ」
そう、今回のオークションで取り引きされるのは、一般には殆ど価値がないと思える地味な品だった。
地球のある場所から発見された、ケロン言語でのメモリーボール。
まだ数十年しか経過していない真新しい物で、骨董的な価値は皆無の筈だ。
「弟は人文系の研究者ゆえ、辺境で発見されるケロン系の遺産収集を楽しみにしているのでござる」
「そりゃ随分と富裕層らしい、心が洗われる話だな」
クルルが笑う。ドロロは常日頃から感じていた家族の世俗への無頓着を指摘された様で、思わず恥じ入る。
「面目ない」
「そりゃ構わねぇが、あんた弟とこんなことで争って大丈夫なのかい? あんたの大義名分も趣味人の弟にしちゃただの妨害だぜ?」
返答できなかった。
弟とは長く話どころか、顔すら合わせていない。
未だに痼りの残る別れ際の対話を思い出す。
言い淀んでいるドロロに背を向けたまま、クルルは先刻壊してしまった万能リモコンの残骸を玩びながら呟いた。
「……面倒だねェ、兄弟ってのも」
モニターに映し出された金額と、これまでのエントリー者の落札履歴を参照しようとして、逐一キーボードに向かうクルルの不自由そうな背中。
リモコンが無くなった事によって、窮地に陥るのはこの男だけではない。
ドロロの目の前でそれを壊してみせた事は、信用を得るためのデモンストレーションであると同時に、自分を命懸けで守れという無言のプレッシャーもあるのだろう。
結局二兎を得てしまっている。
つくづく、どこまでも抜け目のない男だと思う。

「全く驚いたぜェ、あんたがいきなりこの話を持ってきた時は」
ドロロの奇妙な感心を他所に、クルルは背を向けたまま言う。
それはちょうど三日前。
明けそうで明けない梅雨空の下、唐突にラボを訪ねたドロロはずぶ濡れだった。




日向家の居間から漏れ出したTV番組の音、そしてそれを見ている冬樹と夏美の対話が、まるで筒抜けのように響いてくる。
それ程今のケロロの私室は静まり返っていた。

 多数の亡命科学者たちの協力のもとに―――――計画は推し進められ―――――全世界の
 姉ちゃん、―――――この頃飛躍的に進歩した―――――20世紀の
 何? ―――――そんなの難しくてよくわかんない―――――宇宙人?
 そう、その頃ね―――――言われた小咄にね―――――
 ―――――四人のハンガリー人が、実は宇宙人だとか―――――

宇宙人、という言葉が耳に飛び込んで来た時、思わず反応してしまった。
しかしすぐにTVの音声は軽快なCM曲に切り替わり、冬樹や夏美の話題もどこか別方向へ流れてしまったらしい。
ギロロはひとり、ケロロの部屋に座り込み、途方に暮れている。

クルルのヒントを発見した直後、今後小隊の取るべき道について意見が割れた。
目的地はオークション会場。どう考えても緊急性に乏しい私用でしかない。
しかしクルルはともかく、ドロロが一緒という事はどう解釈すべきなのか。
ケロロはそこにこだわり、追うべきだと主張した。
―――――あのドロロが遊び目的でそんな場所へ、しかもソリが合わないクルルと共に旅立ったりするとは思えないであります。
確かにそれは納得できる意見だった。
そしてドロロが積極的に関わらねば、あの腰の重いクルルが遠距離用宇宙船を奪取してまで、星の彼方へ出向く事などあるまい。
しかも気になるのは行われるオークションの出品物である。
『地球から出土した数十年前のメモリーボール』
肝心のメモリーの内容は非公開となっていた。
メモリーボールとはケロンの調査隊がよく使う、遠征先滞在記録の総合、言わばブラック・ボックスである。
数十年前にそれを土中に埋めたのは、何らかの目的を持って地球を訪れていたケロン人であると見ていい。
ドロロが、そしてクルルが出向かざるを得ない動機がその物自体にあるとすれば、それはケロン軍や地球にとって、何か重要な物なのかも知れない。
―――――我輩、気になるし、今すぐ追えば間に合うであります。
ケロロはそう強固に主張した。
確かに更に速度を出せる高速艇を使えば、何とか二人を追う事はできるだろう。
しかしギロロの中にあるもやもやとした何かが、その先へ踏み出す事を躊躇わせた。
あのクルルが、理由もなく小隊の半分を地球へ残すなどという事をするだろうか。
メモリーボールとやらが地球から出土したという事は、自分達残された小隊メンバーに、何か役目が与えられるのではないか。
結局、ギロロはどうしてもクルル達を追うというケロロの意見に賛同できないまま、地球へ残る事になった。
―――――じゃギロロ、我輩担当のお掃除洗濯洗い物、ヨロシクっ!
嬉々として宇宙船に乗り込むケロロとタママをモアを見送った後、一人この部屋へ帰って来た時、例えようのない疲労感に襲われた。

一体俺は何をやっているのだ。
まるでこれではクルルの信望者の様ではないか。
一人、ケロロの部屋の中で立ったり座ったりしながら考え込む。
少しの間馴れ合っただけで、クルルのやる事がひとつひとつ見えるようになっている。
今に至るまで自覚のなかった変化が、自分の中で起きているようで薄気味悪い。
しかし、ケロロ達と共に行くべきであったかと自問すれば、やはり自分の中からは強固なまでに同じ答えが返ってくる。
クルルは間違いなく、残した俺に一仕事させる気だ。
根拠などない。しかし確信に近い。
ギロロはケロロが電源をつけたままにしているパソコンの画面を見る。
そこにはまだ、オークションについてのガイダンスが表示されていた。
メモリーボール、出土地。
大きさ、質量。メモリの記録媒体と再生のための注意書き。
慣れない手つきでマウスを握り、ギロロはそれぞれをひとつずつクリックしていく。
今後何が起きようが、前線からの指示に即時対応が出来るように。




宇宙船内部から見る真空の空は、心許なくなる程広く、吸い込まれそうに暗い。
しかし目が慣れればまるで壁に貼付けられた絵のようにも見える。
地球を出て18時間。たったそれだけの時間が切ない。
ドロロは後にした第二の故郷を思う。


あの雨の日、ドロロは弟宛に配達された手紙を間違って開封してしまった。
ケロン本国の宛先が黒々と書かれた手紙が、どう間違って地球にいる自分の元へ届いたのかわからない。
しかし、千年に一度あるかないかという偶然の賜物で、ドロロは『I-U378星雲・NO-56星系・2番惑星』でのオークションとその出品物を知ったのであった。
地球から出土したというメモリーボール。
カタログを読み進めるにつれて、この星について思い入れ、特に独学で様々を学んだドロロは震撼する。
『それ』が如何に忌わしく、危険極まりない意味を持つ物であるか、出品者は理解しているのだろうか。
何も知らずに手にしようとする弟と、その内容が外宇宙へ流出する事に頓着しない安逸な意志。
いや、意図して解き放つという悪意が働いていないという保証など、どこにもない。
阻止しなければならない。
それは殆ど脊椎反射のような、しかし強固な意志だった。
外は豪雨。
どうするべきか。
オークションやバイヤー、そして流通ルート。
今の自分には全てが縁遠い世界だった。
やがてドロロは脳裏に身近な一人の男を思い描く。
迷っている時間はなかった。

「力を貸してほしい。拙者にはオークションの知識も、勝つための技量もござらん。あるのは口座のこの金額だけでござる」
そう頭を下げ、通帳を差し出したたドロロの身体からは雨水が滴り、床には丸く痕がついた。
話を聞いたクルルは表面上平静のまま、ドロロが差し出したオークションの詳細を何度も読み返している。
しかしこの男が思いの他驚き、衝撃を受けている事を、ドロロは鋭敏な五感で気付いていた。
あらゆる分野に通じたクルルは、このメモリーボールが出品される経過と行末について、直感的に薄ら寒いものを感じ取ったのかも知れない。
正直、手を貸す貸さないはこの男の機嫌次第、つまり五分と踏んでいた。
この様子は、脈があると見ていいのだろうか。
ドロロは紙に落ちたままのクルルの視線を確かめながら、もう一度頭を下げた。
「頼む、クルル殿」
黄色の背中はまだ動かない。
沈黙は何を意味するのだろうか。
普段の全てを達観するようなクルルの様子とは違った、奇妙な急迫が感じられる。
「ク……」
三度目を実行しようとした瞬間だった。
クルルは座っていた椅子から立ち上がり、水を滴らせたドロロの方を向き直った。
照明は逆光になり、その表情はわからない。
ただ不思議な凄みを伴って、クルルはこちらを見据えていた。
気配を読む事に長けたドロロには、この男の纏う空気がびりびりと緊張している事がわかる。
この様子では、興味を引かれたどころではないのかも知れない。
あるいは、クルル自身がこのメモリーボールの流出に関わっているとしたら。
しかし、ドロロの中に生まれた疑惑は、唐突な言葉によって断ち切られた。
「力を貸すのは簡単だぜェ。……だが、その前にあんたの覚悟を聞かせてもらおうか」

「……前から聞こうと思ってたんだ。あんたみたいな真面目な男が、全てを捨ててまで守りたいと思わせるモノが、この星にあるのかい?」
まず浴びせられたのは、クルルの単刀直入すぎる質問であった。
しかしこの胸の内をうまく理路整然と説明できるとは思えない。
「……拙者は、地球が好きでござる」
苦心惨憺して導き出したのは、自分で呆れる程省略が過ぎた感覚的な答えとなった。
やはりクルルにはそんな小手先の舌先三寸は通用しない。
「だから、アレを弟に渡さず手に入れたいってのか? そんなんじゃ納得できねぇな。俺は降りるぜェ」
「……厳しいでござるな」
そう、この男はどこまでも踏み込み、切り込んで来る。
ドロロは慣れないクルルとの対話に悩みながら、ひとつひとつ言葉を選び出そうとする。
「あのメモリーボールは、地球の地中深く埋めておくべきもの。あの場所は決して掘り返すべきではござらん。……今の地球がどこへ向かうか、審判の土地として地球人が守り続けるべき場所」
敵か味方かが不鮮明な相手に、どこまで手の内を見せていいものか迷う。
しかし引き入れるためには、決して臆するべきではない。
ドロロは悟る。
自分がこの男との対話を成立させる為には、互いに差し出した手の甲に、ナイフを突き付け合う程の踏み出しが必要なのだ。
生温く外から廻り込んで腹を探ろうとする事は、何より機嫌を損ねる結果となる。
必要なのはクルルを楽しませるための、野蛮で暴力的な応酬だ。
そう、ちょうどギロロが交している類の―――――
「拙者が守りたいと思う地球は、地球人のものであって地球人のものでござらん。……地球人が地球にとって悪しき選択をするならば、拙者、地球人とも戦う覚悟にござる」

ドロロは流れるように素直に、長く胸の内に留めていた心を吐き出した。
不思議な程心は平穏で、全てを告白した後の爽快感さえある。
この男が納得しようがするまいが、これ以上の手札は自分の中には存在しない。
聞いていたクルルは一呼吸置いた後、肩を震わせて笑い出した。
奇妙な事に、その笑いは不快ではなかった。
間違いない。ドロロは感じ取る。
クルルは今の告白に、悪くなりかけていた機嫌を直したのだ。

勝つ為に不可欠な男を手に入れた。
ドロロの中の強かな部分がそう思った。