突然、誰かから呼ばれた気がして夏美は飛び起きる。
どこから入って来たのか、白い猫がしきりに耳元で鳴いていた。
ベッドの上でぼんやりと部屋の四隅を見回す。何も変わったところはない。
カレンダーの印は昨日の日付け。ベッドの下に脱ぎ捨てられたままの新調した服。
ああ、今日で夏休みも二日目。
私、何をしようとしてたんだっけ?
のろのろとベッドから起きだそうとした時、再び耳の奥で誰かが呼ぶ声を聞いた。
「……誰? 誰なの?」
声を出して始めて喉が乾いている事に気付く。
まるで、親しい誰かと一晩中話し続けていたように。
「私……何だか……、おかしい……」
脳裏に過るものが再び鮮明なイメージを伴って、夏美の目の前にフラッシュバックした。

赤。

「何だろう、……私、思い出さなきゃいけない気がする」
頭を抱え、夏美が蹲る。
先刻から鳴き続けていた猫が再び足下へ身体をすり寄せてきた。
「……私の知りたいこと、何か知ってるの?」
猫は悲し気な目を夏美に向け、しきりに何事かを訴えようとしている。
「……私、おかしいの。……思い出そうって考えると、……何だか胸が苦しくて、涙が出る……」
涙。
夏美は自分の目から溢れた涙を拭い、その熱い感触を掌に押しつけた。
こんな風に、誰かが涙を堪えているのを見たことがある。
冬樹? ママ?
ううん、違う。
抱き上げた猫の潤んだ目もまた泣いているように見える。
その猫が首輪のように付けている松ぼっくりの飾り。
確かに夏美の記憶の中で結びつくものがあった。

そう、赤。

何故それがこうまで切ない思いに繋がるのかわからない。
私、一体何を探しているんだろう。

手掛りを探そうと部屋のドアを開け、二階からの階段を駆け降りる。
台所、洗面所、応接。
違う、こんな場所じゃない。
どこも夏美には見慣れすぎた場所ばかりで、どんどん探し当てたい核心から遠ざかる気がした。
私は何を思い出したいの?
あの鮮やかに甦った色彩を求め、夏美は家中をさまよう。
そんな矢先。
夏美は庭に面したガラス戸を前に、我が家に住み着いた小さな緑の侵略者が、空に向かって敬礼しているのを見つけた。

「な、なッ夏美殿! な、なんで? まだ正午には早……」
突然抱き上げられたケロロは心臓が飛び出す程驚いたらしく、じたばたとその腕の中で暴れた。
夏美は「ボケガエル」を発見した瞬間、本能が命じるままに抱き上げ、半信半疑でその感触を確かめる。
違う、ボケガエルは緑。
赤じゃない。
「夏美殿〜〜〜! 苦しい!!」
腕の中でもがくケロロを他所に、夏美の中では混乱が起こっていた。
ガラス戸の外から見える、芝生の色が四角く切り抜いたように違う箇所。
猫。
赤。
目を見開く。
その瞳に、昨日までの残像が甦る。
あそこには、テントがあった。
あそこには、絶やされる事のない焚き火の炎があった。
テントがあって、猫がいて、焚き火があって、輝く黄金色の完璧な焼き芋。
ママじゃない、冬樹じゃない。ボケガエル? 違う。
タママ、クルル、ドロロ…… あれ? あいつらって四人だっけ?
ううん、違う。彼等のうちの誰も赤くはない。
赤、そして夕陽、そして銀色に磨かれた武器。
私を、護る……
これまで瞬間的に浮かび上がり、閃いては消えた赤のイメージが、ようやく夏美の中で像を結び、その名をも導き出す。

「……ギロロ」

夏美がそう呟くのと、突然降ってきた涙の粒にケロロが驚くのは、ほぼ同時だった。
「夏美殿!」
長く居所のわからなかった探し物がようやく見つかった喜びと、塞き止められていた昨夜までの記憶の奔流がぶつかり合い、気が付くと夏美はぼろぼろと涙を流していた。
「ギロロ、ギロロはどこ!?」
身体をぎゅうぎゅうに抱きしめられたまま力一杯頭を掴まれ、ケロロは四苦八苦しながら空を指差す。
そこにあったのは、空の一点を不自然に占める灰色の影。
「……何でそんな所にいるの!? 何で? ちょっと、何とか言いなさいよボケガエル!」
「そんな事言ったって……クルシ……我輩、も、駄目……」
「あいつ、どこへも行かないって言ったのよ! あたしに約束したのよ! 何であんな所にいるの!?」
ようやく夏美の腕の力が弛み、ケロロは脱出に成功する。が、再びその頭頂部を掴まれ、じたばたと暴れた。
「ギ、ギロロは、……本部に転属願いを出して、……移動が決まったで、あります。……今日は新隊員との、引き継ぎで……」
「何よそれ!?」
夏美の声は既に叫びに近い。
「あいつ、言ったのよ、どこへも行かないって! だからあたし、今日になったら……」
ケロロを抱いたまま走り出す。
「ど、どこへ行くんでありますか!?」
「地下基地よ! 私にソーサーを貸して!」
「そ、そんな事は」
「出来ないなんて言わせないわ。貸してくれなきゃわたし、あんたのガンプラルーム、全壊させてやるから!」
「ゲロォ〜〜!」
そう、今度の事はこのままで終わらせられない。
夏美はケロロを羽交い締めにしたまま、地下基地の扉を開いた。

ギロロ。
あんなに私に優しくして、あんなに私を幸せにして、私に何も言わないで行ってしまうなんて。
だって私、あんたにまだ何も言ってないじゃない。

息を荒げ、辿り着いた基地の格納庫。ケロロがリモコンでその扉を開く時間すらが惜しく、夏美は中を覗き込んだ。
整然と並んだ搭乗機体の中に、ちんまりと置かれた小さなソーサー。
そこを目指して駆け出す。
「夏美殿!」
背後からケロロに声をかけられ、振り返る。苛立つ夏美を他所に、ケロロはもう走り出そうとはしていない。
「夏美殿、このソーサーでは全力で追いかけても、もう間に合わないであります」
「でも……」
自分の目から次から次へと涙がこぼれ落ちるのがわかる。
もう夏美は自分の心を偽らない。
「でも、嫌なの。……私、あいつに言いたいことがあるの。諦めたくないのよ!」

「そういう時は、コレだぜェ」
いつの間にいたのか、クルルが背後からひょいと投げ渡したもの。
それはかつて夏美を混乱させ、小隊を巻き込む騒ぎの元となった、パワードスーツのチョーカーだった。
「おおっ、クルル曹長! さすがの機転であります!」
「そいつならソーサーにも追いつけるだろぉ? オレ様が位置を計算して知らせてやるから、ドコへでも飛んで行きな」
夏美は既にそれを装着し、涙でくしゃくしゃの顔で微笑んだ。
「ありがと、クルル」
「勘違いすんなよ、オレはまだ取りたいデータが山ほどあるんだ。アンタ、こんな事態にならなきゃそれ、使わねぇだろぉ?」
「有意義に使わせてもらうわ。私、必ずギロロを連れて帰って来るから」
臨戦体勢。
夏美の身体を覆う強硬な盾。そして圧倒的な攻撃力。
これは、今の私の願いそのものかも知れない。
私を助けて。そして私に本当の思いをぶつける勇気をちょうだい。

「僕、ダメ元でギロロ先輩に通信、入れてみるですぅ。先輩たちより僕がそうした方が、伍長さん意地にならないで済むんじゃないかって、思うんですぅ」
タママが名乗りを上げる。
「では、拙者が夏美殿の援護を仕ろう。本国の船は小型艇とはいえ、下手に近付くと危険極まりないでござるからな」
ドロロも起った。
「あんたたち……、ありがとう! 何だかあたし今、すごくいい気分よ。何でも夢が叶いそう」
使われなかったソーサーの傍で、ケロロは小さく溜息を吐く。
「我輩、今度こそ軍法会議もの? ……ヤベー……」
「ってゆーか、一蓮托生?」
「……モア殿、何かソレ……我輩、出口なし?」
「諦めろョ、隊長」
地下基地にてそんな会話が交されたのは、飛行ユニットを広げたパワード夏美が、轟音を響かせて大空へ飛び立った後であった。




それは突然やって来た。
最高速度は光速下にて無制限。
ナビゲーションを担当した自分が、それを知らぬ筈がない。
心ならずもソーサーの速度を鈍らせた原因は未練であったかも知れないが、まさか未練の正体そのものが目の前に現れるとは、予想だにしない事態であった。

ギロロは信じられない思いで、目の前に現れたパワード夏美『KLL-00729-G7 POWERD 723』を見ていた。