「ん……っ」
自分を抱く腕に腱が浮くのが見えた。
同時に326の身体が引き、再び夏美の中へゆっくりと入ってくる。
「痛い、か?」
髪を撫で、まだ涙の乾かない頬に口付け、326は宥めるように言った。
「……ううん」
荒い息が耳にかかり、囁かれる言葉に重なる。
「必ず、俺が、……幸せにしてやる、から」
「あ……ッ」
俄に生まれた不思議な感覚に、夏美は目を閉じた。
「……辛い事が、あったら……、どこに、いても、俺が……助けに来て、やる……から」
何故、そんな事を言うの?
326先輩はさっき、どこへも行かないって言ったのに。
幸せにしてやる、傍にいるって言いながら、どうして『どこにいても』助けに『来る』の?
本当のあなたは、誰?
身体の奥底に苦痛とは違う、新しい感覚が生まれつつある。
夏美はその流れに任せようとしながら、何か頬に冷たいものが当たるのを感じ、薄目を開く。
今夜、見慣れた326の顔がそこにあった。
いや、闇に慣れた目でなければ見落としていたかも知れない。
夏美は自分を抱く326が、目を固く閉じるようにして溢れる涙を堪えているのを見た。

「……お前を、いつ、までも……愛して、いる……」

NATSUMI My Love
Kiss Me Tender
and Hold Me Tight
Forever

いつかそんな風に熱烈に愛を囁かれた事がある。
何故忘れていたの?
あれは誰だったの?

真っ赤な夕日、そしてそれを背にしたその人。
逆光で顔は見えない。
硝煙の臭いが甦る。
時折夢に見た風景が現実のものとしてフラッシュバックし、夏美は目を閉じた。
手を伸ばしても尻尾しか掴まえられない、逃げ水のような記憶。
だれかに話したら笑われてしまいそうな、映画の台詞のように甘い言葉。
あれはきっと私の夢。
326先輩をキャスティングしようとしたけれど、何だか違和感がある。
「キスして」「抱きしめて」なんて言う326先輩は、ちょっと変。
そうされたいのは、私の方なのに。
長い間、夏美の中だけで育まれていた願望と、欠片のような疑問符。
そして今夜、夢は不思議な形で成就した。
身体は痛みを越え、326の動きに合わせて心地よさを生み出しつつある。
その背に縋り、初めての行為に委ねながら、唇を合わせ、夏美は幸福だった。
私はこんなに幸せなのに。
私をこれ以上幸せにするなんて。
「……、326、先輩は……幸せじゃ、ないの?」
既に声が息に負けそうになり、夏美は喘ぐ。
「どう、して……泣くの? 幸せ、なのに?」
縋っていた腕を外し、326の頭に掌をつけ、その髪を撫でる。
「……幸せ、だ。……もう、俺は……充分」
嘘。
幸せなのに、こんなに326先輩が悲しそうなのはどうして?

そう思った瞬間、夏美の中の326の動きが変わった。
同時に身体への刺激が鋭角的になる。
びくびくと堪え切れない様子で痙攣する326のそれを、夏美の内側もまた痙攣するように締め付ける。
「あ、あ……、あたし……」
「く……っ」
「もう、声、我慢……できなく、なって……き」
言葉の間に漏れてしまう小さな叫びは、初めての夏美自身にも頂点が近い事を悟らせた。
先刻326が手首を引いて縋らせてくれたのと同じ形に、腕を伸ばして絡ませる。

その瞬間。
「!?」
……いま、何か……
夏美の目蓋の奥に閃いた記憶の残滓。
夕陽と炎、そして鮮やかな赤の符合。
それはたまらなく懐かしく、愛おしい、泣きたくなるような切なさを伴い、夏美の中を駆け巡った。
縋る肩と背中が思い出させてくれた核心が、これまで自分の中で漠然と不可解だった事のひとつひとつに、ようやく答えを出してくれた気がする。
今夜の326先輩が寡黙な理由。
今夜の326先輩がこんなに懐かしく、近しく感じられる理由。
仮定に過ぎなかった直感が、いつしか心の中で確信に変わる。

 あなた、だったのね……
 
夏美の奥深くに、根を下ろすように育っていた赤のイメージが今、目覚める。




夏美の顔。
夏美の声。
夏美の身体。

例えどこにいても、例えどれだけ時間が過ぎ去っても、決して忘れる事はない。
悠久の時を氷に閉ざされた極寒の世界。熱帯の惑星の全てを洗い流すスコールの下。滅び去った生物を今なお待ち続ける電子機器の腹の中。
例えどこにいても、お前はいつでも俺の中に生きている。

 お前をいつまでも愛している
 
326の姿でギロロはそれを告げる。
夏美は326の言葉でそれを受け止める。
長くギロロを自縛していたものは、その不安定な立場だった。
しかしそれも夜明けと共に終わる。
別離と引き換えに得るのは、自分に課せられた任務について苦悩する事なく、軍人としての自分に恥じる事なく、胸を張って夏美を思う権利。
誰に笑われてもいい、何を言われてもいい。
地球で得たものは新たな自分の誇りだとギロロは思う。

既に昂りは振り切れ、快楽は全身を覆い尽くし、感情を押さえ付けていた理性という名の重石が浮き上がり、四散する。
夏美の恍惚としながら苦し気な表情と、荒い息の間に混じる声。
初めて見る彼女を更に固く抱き締め、記憶に焼きつけようとする。
しかし先刻から、鮮明に目に映る筈のその輪郭はぼやけ、はっきりとした像を結ばない。
クルルの悪い癖か、カメラに不具合が出ている。
そう思ったのは一瞬。
様子を見ようと目頭を押さえた掌に、濡れた感触があった。
余りに精巧に緻密に作られた身体は、ギロロの心に連動し、涙まで溢れさせていた。



晴れ上がった秋の、乾いた土の校庭。
ひときわ高い歓声と、視界を流れていく大好きな友達、家族。
あの日の私も、今日みたいに少しだけ落ち込んでいた。
そんな私の気持ちを見事に浮上させてくれた、全速力の二人三脚。
先刻326が縋らせた肩の感触をきっかけに、夏美の中に記憶が流れ込んできた。
あの時、どんよりと曇っていた心がきれいに晴れて、青空みたいに明るくなった。
どこまでもどこまでも風を切って走れそうな気がした。
あんたと二人、息を切らせてゴール目指したわね。
まるで今夜みたいに。

―――――ギロロ。

私はこれまで何を見てきたんだろう。

私の蹴りを止めた時の、武器を扱う事を前提とした訓練された動き。
話術に長けた326先輩とは違う、不器用で突き放すような、それでいてどこか優しい語り。
私はそんな彼を本当によく知っていたのに。
今夜の326先輩の中味が彼だという事に、どうして今まで気付かなかったんだろう。

あの時も、あの時も、あの時も、私が悲しんだり悩んだり困ったりした時、いつも助けてくれたのは彼。
それなのに、私はいつもすぐにそれを忘れてしまった。
ううん、違う。
私はずっと、故意に彼を視界から閉め出そうとしていた。
どんなに彼が私のために奔走してくれても、私はそれにわざと気付かないふりをしていた。
鈍感で愚かな子供を装って。
どうしてそんなひどい事をしたのか、私、今やっと気付いたわ。

 あたし、いつか彼があたしを置いて行ってしまうことが
 恐かったのかも知れない
 
NATSUMI My Love
Kiss Me Tender
and Hold Me Tight
Forever

あれも、あれも、あれも、全部そうだったのね。
とても大事なことだったのに、全部素通りしてきたバカな私。
彼が嫌いだったんじゃない。
今夜の326先輩が私の理想通りだったなら、私にとって理想のひとは彼なのに。
私、ずっと自分で自分の気持ちを覆い隠してきた。
そして今夜も私は、彼を傷つけるだけ傷つけて、平気な顔をして終える筈だったのね。

夏美の身体はゆっくりと昇りつめる。
頂点がすぐそこにある。
もう一度一緒に、走りたい。
ギロロ=326の身体を強く抱きしめ、自分の熱を伝えようとする。

 今夜はあたしを抱いて
 明日あなたがあなたの身体にもどったら
 あなたが望むように、あたしがあなたを抱きしめてあげる
 そう、明日
 明日になったら必ず伝える
 あなた、どこへも行かないって言ったもの
 
「……だい、すき……よ」




答えはもうない。
ギロロは言葉に出せない。
涙と共に溢れそうになる嗚咽を堪え、ただ頷く。

やがて快楽は頂点を迎え、目眩のするような射精と痙攣が起こった。




既に夜はその闇を侵食されつつある。
装置についてクルルから説明を受けた事が、ギロロには遠い昔の出来事のように思えた。

夏美は眠っている。
326ボディの射精こそが、夏美の記憶初期化タイマーへのスイッチだった。
次に目覚める時には、夏美の中のギロロはきれいに消去されている。
命を生み出す代わりに、彼女の中の自分を殺す為の射精という皮肉な符合。
もちろん例えクルルと言えど、生命を生み出す装置など端から作れまい。
ギロロは濡らしたタオルで夏美の身体をきれいに拭い、Tシャツを着せて寝かせた。
血痕やその他の痕跡を丁寧に消し、彼女の髪を整え、最後のキスを終えた頃、長らく沈黙していたナビの回線が開く音がする。
『終わったかい?』
「……作戦終了。これより帰投する」
『お疲れさん』
昨夜、ここへ来る前と全く同じ調子のクルルの声が、懐かしく温かみを持って感じられた。

部屋を出ようとドアに手をかけ、ベッドに横たわる夏美の方を振り向く。
いい夢を見ているのだろう、夏美の寝顔は微笑んでいた。
最後に見るのが笑顔でよかったと思う。
夏美、幸せになれ。
ギロロは姿勢を正し、眠る夏美に向かって敬礼した。