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宵渡り-花盗人 ……………

 さやさやと音を立てて、草花が夏の宵風に揺れている。睡はどこか浮かれたような笑顔で、カランカランと下駄を鳴らしながら僕の隣を歩いていた。
 辺りは真っ暗で、新月だから月明かりさえない。それでも不思議と夜目の利く睡の足取りは確かだった。
 睡の美しい真っ黒な髪が風に揺らめいている。まるでそのまま闇に溶けてしまいそうな黒は、僕のお気に入りだ。髪と同じ、夜空を切り取ったような透き通った真っ黒の瞳も同じくらい気に入ってはいるけれど。
 普段は大抵、根をつめてアトリエに篭っている睡を、夜の散歩に誘ったのは僕からだった。何かを盗むなら、月明かりの無い新月の夜だと言うだろう?
 けれども、僕は睡を脅かさない、怯えさせない、驚かさない。
 ただ、細心の注意を持って、繊細な硝子細工に触れるように睡に触れる。
 睡の無垢さは類まれ無い。その純粋さと穢れなさを僕は踏みにじるつもりなど無かった。だからといって、他の人間になど渡すつもりは毛頭無い。いずれは、その美しい艶やかな黒髪の一本さえ残らず、何もかも睡の全てを僕のものにするつもりではいるけれど。その辺の匙加減は案外と難しい。
 けれども、睡は全くもって鈍感で、僕のそんな苦労や葛藤など微塵も理解などしていない。睡は今年で十五の歳になったのだけれど、このあどけなさや屈託の無さは奇跡に近い。まるで赤子のそれのようだ。
「神無、神無、見て。蛍が飛んでいるよ?」
 大層珍しいものでも見つけたかのように睡は嬉しそうに光っては飛ぶ蛍を指差している。美しく光を放つ蛍よりも、微かな星明りに浮き上がる、睡のその無垢な笑顔の方が僕にとっては価値があるのだと、きっと睡は知らない。
「睡。知っているかい? 蛍の光は雄が雌に発している求愛の合図だと」
 それとなく、色めいたことを仄めかしてみても、睡はきょとんとした顔で僕を見上げ、それから、感心したように相槌を打っただけだった。
「僕、そんなこと知らなかった。神無は本当に色々なことを知っているね」
 そんな風だから、僕に子ども扱いされるというのに睡にその自覚は無い。全く困った子だと思う。苦笑しながらふらふらとあちこち彷徨う睡の手を取る。ひんやりとした手が気持ちよかった。
 暫く二人、言葉もなく、ただ風に揺れる夏草など眺めながら道を歩き続ける。ちらりと見下ろした睡の表情は、どこか翳りが見えた。
「睡。君、嘘を吐いたね?」
 責めるでない、ただ事実を確認するだけの淡々とした口調で僕が尋ねると、睡は可哀想なくらいビクリと体を揺らし、どこか泣きたそうな表情で僕を見上げた。漆黒の、美しい瞳がゆらゆらと揺れている。まるで僕を誘惑するように。その気がないのなら、そんな瞳で人を見るものではないと忠告したところで睡には理解できないだろうが。
「家の人に、黙って出てきたのではないかい?」
 深夜の散歩。何も言わずに出てきたのなら家人が心配するに違いないと思っての言葉だった。そうでなくとも、僕はあまり睡の両親に良くは思われていないのだから。
 睡はゆるゆると億劫そうに首を横に振り、それから、
「別に黙って出てきたってどうということはないよ」
 と、硬い声と表情で答えた。らしくないその姿に僕は小さな溜息を漏らす。
「本当の意味で、僕を心配する人などあの家にはいないのだから」
 そして、小さな声でそう告げた。
 睡は自分の両親を好いてはいない。時折、感情的に『恥知らずの大人達』とさえ罵る。
 実の子供の睡を売ってさえ、贅沢を止めようとしない。その癖に、たかが爵位に拘り、僕たちを成り上がりの成金だと侮蔑している。
 それを僕は知っていたけれど、それでも、睡が誰かを罵る姿など見たくないので、そんな睡を窘める。ごく稀にしか行われない僕と睡の喧嘩の原因は、いつでもそれだった。
「けれども、やっぱり、何も言わずに出てきたのは宜しくない」
「なぜ神無は、あんな人たちを庇うの?」
「睡はご両親を恥知らずだと罵るけれど、僕はもっと恥知らずだからね」
「どうして? 神無は恥知らずなどではない」
 その全幅の純真な信頼は、時折、僕に畏敬の念さえ抱かせる。踏みにじられ蹂躙される可能性など全く考えていない睡。けれども。
「けれども、僕が金にものを言わせて、君を買い取ったのは事実なのだから」
 そうでなければ、睡は、どこぞの、好色な変態公爵の家に養子という名目で売られていく羽目に陥っていただろう。だから僕が父に頼み込んで『援助』という名で睡を買い取ったのだ。馬鹿馬鹿しい。睡に値段をつけることなど出来るはずがないのに。
「違う。神無は僕を救ってくれただけ」
 はっきりとした口調で言い切る睡に、苛々と僕の心の表面がざわめく。
 僕は睡を大切だと思っている。睡の無垢さを愛している。けれども。
 けれども、時折、例えばこんな時、無性にその穢れの無さを滅茶苦茶に踏みにじりたくなるのだ。
 ふわりと宵風に揺れている路傍の白い花が視界の端に移る。僕は睡を踏みにじる代わりに、その花を手折った。そして、そうすることで自分の中の衝動を鎮火する。
「誰かが育てている花かもしれないのに」
 と、睡は心配そうに僕の手元にある花をじっと見つめた。
「花盗人に罪は無いと言うよ?」
 戯れに、僕は笑いながらそう告げる。少し珍しい真っ白な桔梗。その清楚な凛とした姿は、どこか睡に似ていた。
「睡のような花だったから、欲しくなったんだ」
 そう。今はこれでお仕舞いにするけれど。僕はいずれ睡を手折り、盗むだろう。けれども、やはり花盗人に罪があるとは思わない。
「何を言っているのさ」
 どこか照れたようにそっぽを向く睡の首筋は、微かに赤く染まっている。
「睡、この花の花言葉を知っているかい?」
「知らない」
 僕が悪戯に笑って睡の耳元に顔を寄せ、それを囁いてやったら、睡の白い頬は夜目にもはっきりと分かるほど赤く染まり、僕は声を立てて笑ったのだった。




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