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宵渡り-明けの明星 ……………

 カタリと微かな物音がして、それから呆れたような軽い笑い声がすぐ近くで聞こえた。
「随分と精が出るね。けれども、あと一時間もすれば夜明けだ。徹夜は体に良くない」
 そんな風に言いながらも、神無(かんな)は冷たいお茶の入った硝子の器をカンバスの隣にある小卓の上に置いてくれた。カランと涼しげな音を氷が立てる。
「ありがとう」
 お礼を言って、僕はその汗をかき始めている器をそっと手に取った。いつの間にか、そんなに時間が経っていたのかと、古めかしい掛け時計に視線をやる。夢中になりすぎると時間を忘れてしまうのが僕の悪いところだと、神無などはしょっちゅう窘めるけれど、これが性分なのだから仕方がない。
「嗚呼、随分と仕上がってきたね」
 そう言って神無は僕の描きかけの絵をじっと眺めた。
「睡(すい)にしては随分と珍しい色合いの絵だね。カンバスが硝子だから?」
「どうだろう? でも確かに、いつもよりも暗い色合いになってしまったね」
「うん? こういうのは暗い、とは言わないよ? 落ち着いていると言うんだ」
 神無はこちらが面映くなってしまうほど優しげな綺麗な笑顔を浮かべてそんなことを言う。僕は顔を赤くして、思わずもじもじとしながら冷たいお茶に口をつけた。広がる、甘い、林檎の香り。神無は僕の好みを良く知っている。
「それにしても」
 神無はじっと硝子のカンバスを見つめながら、少しだけ悪戯な笑みを浮かべた。
「カンバスからこしらえるというのは、いくら睡でもやりすぎじゃないのかい?」
「そんなことはないよ。僕は、この色がどうしても出したかった。この色を出すには硝子にも拘らなければならない。珪砂(けいさ)と石灰(カルキ)の配分によって硝子の透明度は変わってしまうのだから」
 僕が力説すると、神無はますます悪戯な笑みを深くした。こういう表情をしているときの神無は大抵、宜しくないことを考えている。
「だからと言って、わざわざ硝子工房へ弟子入りするのはいくら睡でも頂けないね」
「なぜ?」
「なぜ? 身に覚えが無いとでも?」
「無いけれど」
 僕が不思議そうな顔で即答すると、神無はすっと僕の方へ体を屈め、そしてそのまま僕の唇に口付けた。ただ触れるだけの、子供の悪戯のような接吻。神無が時折、僕に仕掛けてくるおふざけだ。
「工房で一番の職人に言い寄られたと聞いたよ?」
「言い寄られてなんていない。ただ、珪砂(けいさ)はふざけていただけで…」
 僕が慌てて反論すれば、神無はやれやれと大袈裟に呆れて見せた。
「これだから睡は目が離せない」
 そして、そんな保護者のような口を利く。たった一つしか年が上じゃないくせに、神無はいつだって僕を子ども扱いして馬鹿にするのだ。
 それが気に入らなくて僕がむすっとしていると、今度は音を立てて眉間の辺りに口付けが落ちてきた。
「こんな所に皺を寄せるものじゃない。それよりも」
 すっと流麗な所作で神無は体を起こすと僕のすぐ隣に立つ。綺麗な色の瞳がじっと僕の絵を見つめるのを、僕は奇妙に浮き立った気持ちで眺めていた。
「何を描こうとしていたの? これは、夜明けだね? この透明な陰影を描く青の連鎖は」
 褐(かち)から藍へ、藍から瑠璃へ、そして瑠璃から東雲へ次第に移っていくそれは、ともすれば夕暮れとも見間違いかねない。けれども神無は見間違えない。すぐに夜明けだと分かってくれる。
「けれども、この絵の主題は夜明けではないね? この不思議な色の光の粒?」
 左から右へと次第に明るさを増す青の連鎖、そこに散らばる明るい色を神無は指差した。そう、まさに、それが主題だったのだ。
 僕はふっと視線を逸らし、窓の外へと目をやる。東の空が微かに白み、濃紺だった夜空が明るさを増し始めていた。そして、東南の方角には一際明るい星が輝いている。
「神無。見て」
 僕はそっと窓の外を指差す。
「金星? 明けの明星だね」
「うん。それをね、描きたかったんだ」
 知らず微笑みながら僕がそれを告げると、なぜだか神無は眩しそうな表情で僕をじっと見下ろした。上から覗き込んでくる、美しい明るい色の瞳。僕の真っ黒な目とは対照的なそれが、僕は大好きだった。
「神無の瞳ととても似ているから」
 だから、僕はそれを描きたかった。透明な美しい硝子に夜を描き、そしてそこに神無の瞳のような明けの明星を。
 明けない夜は無いと人は言う。
 僕にとって神無は、そう、夜明けの象徴のような存在なのだ。神無はふっと口元を緩ませて、不思議な笑みを浮かべる。何だか、普段の神無らしくない、どこか大人びた、男の人のような笑みを。
 どうしてそんな表情をしているのか分からなくて、僕がぼんやりとその綺麗な顔を見上げていると、神無はやっぱり、もう一度、僕の唇に口付けを落とした。どこか恭しい、畏まった態度で。
「睡は全くもって困ったコだね」
 そしてそんなことを言う。
「僕のどこが困ったコなんだよ?」
 憤慨して僕が睨み上げると、神無は肩を竦めて、
「もう、僕に黙って、硝子工房になど行ってはいけないよ?」
 と、僕の首筋をくすぐるように撫でながら囁いたのだった。



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