不確定Q&AK ………………… |
Q12.不確定の未来を確定していくのは現在の連続である? ○か×か。 「体痛くない?」 心配した声で郁人に尋ねられて、奏は首を横に振る。が、ベッドにつっぷしたまま起き上がることは出来ない。このまま、横になって寝てしまいたいと思っていたが、そういう訳にも行かない。 「ん、ヘーキ。それよか、今、何時?」 「8時ちょい過ぎ」 「うー・・・ダルイ。帰りたくないな」 「泊まって行けば?」 「兄貴に連絡するの面倒。大体、郁人ンち泊まるなんて言ったら、何言われるか分かんないもん」 「俺、電話しておこうか?」 機嫌良さそうにあれこれ奏の世話を焼く郁人に、思わず笑いがこぼれてしまう。何だか、よく懐いてる犬みたいでおかしかった。再会してからの郁人とはイメージが離れていると思ったが、ふと、そういえば、子供の頃はこういう感じだったと思い出す。 何かといえば奏の周りに纏わりついて、おせっかいなくらい奏にちょっかいを出したがった。大人ぶって、アレコレ口や手を出してくる癖に、妙なところで抜けてたりして、結局、逆に奏が郁人の世話をする羽目になったりした。 そんな風に、昔の事を思い出しても、もう胸が痛んだりしない。それが嬉しいと奏は思った。 「郁人が電話なんかしたら尚更、何言われるか分からないって」 あの聡い兄のことだ。それだけで全てを察して、何もかも分かった風にからかわれるのは目にみえている。それは、少しばかりバツが悪い。体はだるいが、やっぱり帰ると今一度言おうとすれば、 「泊まっていけよ。一緒にいたい」 と、まるで、捨てられそうな犬みたいな目をして郁人が言う。その拗ねた表情がどこか子供っぽくて、奏は思わず噴出してしまった。 「甘ったれ」 そう言いながら郁人の手を引く。そのまま軽くキスをしてやれば、郁人はますます拗ねたようにむっとした表情になった。 「じゃ、郁人、兄貴に電話して」 それでも、奏がそう言えばすぐに嬉しそうな顔になる。そんな郁人に、餌を貰った犬じゃないんだからと少しばかり呆れたけれど、再び機嫌を損ねる事も無いので、黙って電話をしている背中を見詰めるだけにした。 嵐みたいな時間が過ぎて、奇妙に甘ったるい空気が漂っている。別にそれも悪くはないけれど、少しだけ背中がくすぐったいような気がして、奏はベッドの中で肩をすくめた。 話さなくてはならない事が、聞かなくてはならない事が沢山あったような気がしたけれど、今になってみれば、そのどれもがどうでも良いことのようにも思えた。 自分が何にこだわっていたのか、わだかまっていたのか、不思議と曖昧になってしまっている。疲れている頭と体が、考える事を拒否しているせいかもしれなかった。 まあ、別に良いか、と奏は静かに目を閉じる。言いたいことを伝える時間も、聞きたいことを聞く時間も、これからは余りあるほどあるはずなのだから。 郁人の低めの声が静かな室内に響いている。何かを言われて、焦ったり、苦笑いをしているようだった。きっと、響に意地の悪い事を言われているのだろう。そもそも、奏を焚きつけたのは響の癖に、本当に性格が悪い兄だと、小さな溜息を一つ吐く。 暖かい毛布の中で、うつらうつらとまどろみ始めると、穏やかな声で、 「奏?」 と呼ばれる。 「ん」 と、いい加減な返事を返したら、サラリと髪を撫でられた。その仕草が心地良い。 すぐ隣に、郁人がいる。 その状態があまりに自然で、収まりが良くて、奏は自分でも不思議だった。 今までが、不自然な状態だったのかな、と、ぼんやり考える。そういえば、里佳が奏の隣には郁人、郁人の隣には奏がいるのが自然だと言っていたなと思い出した。 それから、年明け、どんな顔をしてあの幼馴染に会えば良いのかと考えて、不意に、少しだけ憂鬱になる。里佳も貴史も、二人を見たとたんに、何もかもを悟りそうで、それを思うだけでとてつもなく恥ずかしい。 それを言うなら、透と梓もそうだな、と思って益々気が重たくなった。 恋愛って本当に面倒くさくて煩わしい。それでも、もう、多分、郁人の手を離せないだろうと確信している自分が一番始末に終えない。 自嘲気味に薄く笑うと、毛布の上からやんわりと抱きしめられた。確かな感触と体温が、奏に安息を与える。嗚呼、そうだ。ずっとこんな風に郁人の近くで安心して眠りたかったんだと、おぼろげな意識の片隅で思う。 五年前の、小さな子供の頃に戻ったように、そうやって、二人で身を寄せ合って寝入った冬の夜だった。 * * * 「いや、実にその場面を見たかったね」 と、透は楽しそうに笑う。年明け、一番最初のアルバイトの夜の事だ。一体、どこから聞いてきたのか、透は殆どの経緯を知っていた。 「三駅分を全速力で走ったカナちゃんなんて、そうそう見られるもんじゃないよね」 からかうように下から覗き込まれ、奏はわざとらしくプゥと頬を膨らませてみせた。 「別に体育の時間だって全速力で走ってるよ」 無愛想にそう答えてやれば、透は声を上げて笑った。 「そういう事じゃないデショ。情熱のまま突っ走ったという君を見たかったって言ってるの」 大体、なんで三駅分走ったって知ってるんだと、奏はさらにムクれてみせる。あとで、梓にはキツく文句を言ってやらねば、と心に誓った。 「まあ、でも、俺の言った通りだったよね?」 「何が?」 「カナちゃんは情熱家だっただろ? なあ、佐宗郁人君?」 人の悪い笑みを浮かべて、透はカウンターの少し離れた席に座っている郁人に話を振る。郁人はどこか不機嫌な顔で、その言葉を思い切り無視した。 奏は、あーあ、と心の中で溜息を吐く。響も大概人が悪いが、透は輪を掛けて人が悪い。あとで、ご機嫌取りをしなくてはならないのは自分なのに、いい気なもんだと肩をすくめた。 「で? 大学にも進学する事にしたって?」 「あ、うん。兄貴に聞いた?」 「うん。やっと決心してくれたって喜んでたよ」 「喜んでた? あの人が?」 奏は驚いて目を見開く。 あの次の日、非常に重い足取りで帰った奏に、意外なことに響は何も言わなかった。いつもと同じように、興味があるんだか無いんだか分からないような態度で、ぶっきらぼうに奏に接していただけだった。 一緒に除夜の鐘を聞きながら、年越しそばをすすり、何気なく、 「俺、やっぱ、音大目指す事にした」 と奏が言った時も、 「ふうん」 と、気の無い返事をしていたのに。 「まあ、いずれにしても良い傾向だよね」 「そうなの?」 「うん。どんな形にしろね。カナちゃんは人前でピアノを弾く職業に就くべきだと思うよ」 「そうかなあ」 奏は照れ隠しに、そっけなく返事を返したが、そんな風に自分の才能を買ってもらえるのは素直に嬉しいと思えた。最近の奏は、自分でも笑ってしまうほど前向きだ。 「音に深みも出てきたみたいだしね」 「透さん、そう思う?」 「思うよ。いつものラ・カンパネラよりも、ずっと音が深かった」 年が明けても相変わらず、同じ曲を透にリクエストされて、さっき弾いたばかりだったのだ。何となく嬉しくて、口元が緩みそうになり、慌てて奏は俯く。けれども。 「それに、艶が出てきたよね。音の色気って言うかね。やっぱり違うよね」 ニヤニヤと笑いながら更に言われて、奏は真っ赤になってしまった。やっぱり、透は人が悪い。意地が悪いと恨みがましい視線を向けても一向に介する様子も無い。 「奏。休憩終わりだろ」 不意に、後ろから機嫌の悪い声で言われて振り返る。郁人が奏と透を睨みつけていて、奏はうんざりした気分になってしまった。 完全に郁人はへそを曲げている様子だ。何度も好きだと言って、気持ちも確かめ合って、ちゃんと付き合うことにしたんだから、気にすることは無いと思うのに、やっぱり奏が透と話をするのが気に入らないらしい。 案外、心の狭い、嫉妬深い恋人の事を思って、奏はやれやれと席を立ち、ピアノに向かった。 別に、リクエストされていた曲ではないけれど、郁人のご機嫌取りの為にサティを弾き始める。指の滑りはとても良かった。 最近は、ピアノを弾くことが楽しくて仕方が無い。何かから解き放たれたように自由な気持ちで伸び伸びと演奏できるからだ。そもそも、奏を縛り付けているものなど最初から何も無かった。自分で自分に不必要なブレーキを掛けていただけで。 奏は、あれ以来、少しだけ考え方を改めた。 事故にあうことや、転んで怪我をすることを恐れて、ブレーキを踏んでばかりなんてつまらない。それが、今しか許されないというのなら、思い切り、自分の望むままに走り続けてみようと思う。 人との出会いもそうだ。郁人の事だけでなく、別れる事を恐れて、人を好きになったり、親しく交わったりすることを避けるなんて、卑怯な、愚かなことはしたくない。 一曲弾き終ると、パチパチと店のあちこちから拍手が聞こえて、奏は思わず微笑んでいた。郁人は少しだけ機嫌を直したのか、複雑そうな顔をして奏をじっと見詰めている。あの顔は、ニヤけてしまうのを必死で堪えている顔だな、と、奏はおかしくなった。 横から、すっと何枚かのリクエストカードを差し出される。奏はそのどれもを、一つ一つ丁寧に、心を込めて演奏した。 帰り際の客に、不意に声を掛けられる。 感じの良い老夫婦は、ニコニコと笑いながら、 「今日は結婚記念日だったんです。初めて二人で行ったコンサートで聞いた曲がさっきリクエストした曲だったんですよ。とても感動しました。ありがとう」 と、奏にお礼を言った。 奏は最上級の笑顔を浮かべて、 「どう致しまして。こちらこそ、ありがとうございます」 と、深々とお辞儀をした。やっぱり、どんな小さな店でも良いから人の為にピアノを弾き続けて行こう、と、素直な気持ちで決心した。 * * * 年明け、初めての登校日に里佳は奏と郁人の二人の顔を見ると、急に憮然とした表情になって、思い切り力いっぱい郁人の足を後ろから蹴りつけていた。 実に容赦のない蹴りで、あれは痛いだろうと奏でさえ気の毒に思ったが、郁人は涙目になって我慢していただけで、里佳に文句を言ったりはしなかった。 「コレ位で許してやるんだから、ありがたいと思いなさいよ!」 と、いつもはぽやんとした里佳らしからぬ剣幕で郁人に食って掛かっていた。けれども、ほんの少しだけ、皆に隠れるように里佳が泣いたのを奏は知っている。里佳の気持ちを考えると、胸が痛かったが、そこで里佳を慰めたりするのは間違っている。だから、奏はそれには気がつかない振りで、わざとふざけて見せた。 里佳は、いつものように屈託無く笑っていた。 今までと何ら変わらぬスタンスで、里佳の事は大事にしていこうと、奏は思った。 貴史は相変わらずで、何もかも分かっているのだろうが飄々とした態度で奏にも郁人にも接している。薮蛇になるのもイヤなので、敢えて奏からは何も言ったり、聞いたりしないけれど、何となくいつもよりも楽しそうな目をして二人を見ていた。 奏があの劇的な告白をして以来、郁人とは何度か行き来をして、片手で数えられる程度寝たりもしたけれど、基本的には何も変わらなかった。 ただ、郁人と再会してからずっとこのかた付きまとっていた居心地の悪さはきれいさっぱり剥げ落ちてしまった。郁人と背中を合わせて、言葉も交わさず本を読んでいたり、足の爪を切ったりしていても、何の違和感も感じない。重苦しい空気も感じない。まるで、そこにいるのが当たり前のように感じてしまう自分がゲンキンで時々、笑ってしまったりもする。 響は相変わらず意地悪で、 「両親が早く死んでて本当に良かったな」 などと物騒な事を言っていた。何でそんな事を言うんだと、奏が訝しげに尋ねれば、 「兄弟二人してホモに走って、孫の顔を見せてやれないなんて、俺が親でも泣くっつーの」 と答えて、奏を辟易させた。 響は、郁人にもズケズケと言葉を選ばずに嫌味を言っている。郁人は苦笑いしているだけで言い返さないので、奏が代わりにしょっちゅう怒っているけれど、以前のような腫れ物を扱うような空気は兄弟の間には無くなった。今では、素直に、音大の受験の事について相談したりもできる。そんな時、響はぶっきらぼうな返事を返しながらも、少しだけ目が優しくて嬉しそうなのを奏は発見した。 先のことなんて分からない。変わらないものなんて何も無いのだと今なら奏は素直に認める事ができる。郁人との関係だって例外じゃない。何かがあって、もしかしたら、別れる日が来るのかもしれない。来ないのかもしれない。 けれども、そんな不確定の未来を恐れて、立ち止まる事はもうやめようと、奏は決めた。 今の気持ちを大切にして、一生懸命走る。それが先に繋がっていって、不確定の未来を確定していく。 皮を一枚脱ぎ捨ててしまったように、前向きで、しなやかで、のびのびとしている奏を郁人は鬱陶しいくらい心配している。確かに、以前より言い寄られる回数が増えてはいるけれど、そんなことで奏の気持ちが揺らいだりはしないのに。 案外、独占欲が強くて、子供っぽい郁人が何だか、可愛いと思う。 「奏は、ずっと俺のもんなんだよな?」 と、不安げな顔で何度も尋ねるのがおかしい。 「さあ? そんな先の事、分かんない」 と、わざと素っ気無く答えると、口を尖がらせて郁人は拗ねる。その口に掠めるような軽いキスを落としてやって、郁人の顔がニヤけるのを見るのが、最近の奏の密かな楽しみだ。 先の事は分からないけど、郁人の隣にずっと並んでいられるように、奏なりに努力をするつもりでいる事は言ってやらない。 それが、五年前、何も言わずに置いていったことへの仕返しなのだということは、暫くの間、郁人にはヒミツだ。 <END.> |