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イタリアンオレンジジュース ……


 ただいま、と言って靴を脱ぐのももどかしいように部屋の中に駆け込む。別にナギを信用してないわけじゃないけど、僕はいつも不安なんだ。僕がいない間に、ナギがいなくなってしまったらどうしよう、って。
 ナギは少し前に僕の父さんが連れてきた。福西さんは、父さんが僕の面倒を見れないからナギに押し付けたのよって言っていた。
 僕をナギに押し付けたのよ、って。
 福西さんは、あんまり好きじゃない。時々、僕が邪魔みたいで、意地悪を言うから。ナギに、福西さんがそう言っていたって教えたら、苦笑いして
「そんなことないよ」
 って言ってたけど、ナギは優しいから本当のことを言わないだけかもしれない。本当は、僕のことなんてうっとうしいって思ってるかも。

 だから、僕は、いつも不安なんだ。ナギが、僕を置いて出ていってしまわないか。

 リビングに入ると、ナギはいつもみたいに眼鏡をかけてノートパソコンに向って難しそうな本を見ながら『仕事』をしている。どんな仕事かは僕にはよくわからない。『せいたいぶつりかがく』って言ってた。
「それなあに?」
 って前に僕が聞いたら、
「ヒトの体を、もっとよく知るための勉強なんだよ」
 って教えてくれた。でも、やっぱり難しくてよくわからない。ナギはじっとノートパソコンのディスプレイを見ながら考え事をしているみたい。でも。
「ただいま」
 僕が声をかけると、僕の方を見て優しく笑って
「おかえり」
 って言ってくれる。それで僕はほっとする。ナギは眼鏡をはずすとテーブルから立ち上がった。
「お腹減ってない?」
「あんまり。でも喉が渇いてる」
「そう。じゃあ、オレンジジュースがあるから手を洗っておいで」
 ナギに言われて、僕は頷きかけて気が付いた。ノートパソコンの脇にある飲み物。赤くて、ちょっとだけ不思議に濁った色の飲み物。
「それ、トマトジュース?」
 僕が指差して聞くと、ナギはいったんそっちに目を移して、
「いや、オレンジジュースだよ」
 って笑って言った。
「うそだぁ。オレンジジュースってオレンジなんだよ」
「これは、赤いオレンジジュースなの」
「うそ」
「本当だってば。飲んでごらん」
 ナギは笑いながらグラスを差し出す。それを受け取って匂いをかいでみる。あんまり匂いはしない。ちょっと口を付けたら、きちんとオレンジの味がした。
「本当だ、オレンジの味がする」
「だろ? これは赤いオレンジから作るんだよ」
 ってナギは僕からグラスを取り上げる。
「さあ、いいから、手を洗って着替えておいで」
 促すみたいに言われた。でもね。
「着替えてくるから、その前にナギ、アレして」
 僕がナギを見上げてそう言ったら、ナギは苦笑いした。それから僕の方にかがんで、ちゅって僕のおでこに口をくっつける。
「ちがうよ。ちゃんと口にするやつ!」
 僕が怒って言うと、
 ナギは
「しょうがないな」
 と言って、今度は口にちゅってした。だから、そうじゃなくて。
「違うよ! ! この前、ナギが酔っぱらってたときにしたヤツ! ! ベロ、入れるヤツ! !」
僕がもっと怒って言ったら、ナギは僕の頭を撫でて、
「それは、いけません」
 って言った。
「何で?」
「それは、もっと大人になってからね」
「僕、もう、大人だもん!」
「小学生は、法律で、子供だって決められているんだよ」
「嘘!」
「本当」
 ナギはそのまま僕の額を指で突ついた。
「この間の、してくれなかったら手も洗わないし、制服も着替えないもん」
 僕が泣きそうな顔で言ったら、ナギは肩を竦めた。竦めて、腰を折って、僕の方に顔を近づけた。ナギの唇が僕の唇にくっついて、ナギの舌が僕の口の中に入ってくる。この前はタバコの匂いとお酒の匂いがしたけど、今日はオレンジジュースの味がした。
 すごく甘い。
 甘くてあったかい。
 気持ちいいなあと思ってたら口が離れた。
「もう、終わりなの?」
「もう、終わりだよ」
「なんで! ? もっと、いいでしょ」
「だめ」
「なんで?」
「俺が、困るから」
 苦笑いしながらナギが言ったのを聞いて、僕はちょっと焦ってしまった。
 俺が困る? 困るって? ナギは嫌なのかな? 僕が嫌いだから?
「ナ…ナギは、本当は、こういうの嫌いなの?」
「…? 何が?」
「…僕…僕は気持ち良いけど、ナギは、もしかして気持ち悪くて嫌なの?」
 だから、したくないの?
 僕が泣きそうな不安な顔で聞いたら、ナギは笑った。
「そんなこと、ないよ」
「だって、困るって言ったよ? ナギは、気持ち良くないの? 気持ち良いのは僕だけなの?」
「俺も気持ち良いよ」
「じゃあ、何で困るの?」
「それはね、阿芽(あめ)がもうちょっとオトナになったらわかるよ」
 オトナになったらわかる?
「よくわかんない」
 僕が、言ったら、ナギはぎゅって僕の頭を抱きしめた。
「そうだなあ。俺も、あんまり待ちたくないから、阿芽早く大人になって」
「僕、もう、大人だってば」
 僕がムキになって言ったら、ナギは楽しそうに笑った。僕の言うことちっとも聞いてないみたい。オトナって、よくわかんない。




 でも、オトナって、いつなるのかな?





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