宿題 ……………… |
目をつぶっていると 神様が見えた うす目をあいたら 神様は見えなくなった はっきりと目をあいて 神様は見えるか見えないか それが宿題 (谷川 俊太郎 「宿題」) 例えば、難しい漢字の書き順だとか、方程式の解き方だとか、教科書に書いてあって、先生や友達に教えてもらえることならなんとかなると思う。一生懸命勉強すればそのうちわかるようになるだろうし、もっと複雑な問題だって解けるようになるだろう。 でも、それよりずっと厄介でわかりにくいことが、僕の中にはある。もう何年も前から。 もっと小さくて、何もかもが白黒だけで判断できていた頃はそれでも、何とかやってこれたけれど、最近、僕の世界は日増しに複雑さを深める。全てが白と黒だけでは説明がつかない。世の中は悪いことと良いことの二つに分類できるのだという幻影は、年を取るごとに崩れ去る。 「それは、いろんなことが見えるようになってきたからだよ」 いつもいつも、僕の中の小さな疑問を、いとも簡単に、容易く、魔法みたいに解いてくれた僕の「先生」は言ったけれど、この、時々胸に押し寄せる、小さな嵐みたいな感情を、何と呼んだらいいのか教科書には書いていなかった。 僕は考える。世の中で正しいとされていることと、間違っているとされていることを。そうして目を閉じる。 目を閉じると神様が見える。 ■■■ いつものように、学校から帰宅する。今日は、ナギは研究所の用事があるから、遅くまで帰ってこない予定だった。だから、鍵を持って出た。けれども、マンションの鍵を差し入れて僕は首を傾げた。鍵が、既に開いていたからだ。ナギの仕事が早く終わったのかと思って、台所を覗く。 「ナギ?」 声を掛けて、とても驚いた。だって、知らない女の人がいたから。見たことのない女の人。僕が、声を掛けたせいだろう。その女の人は振り返って僕の方を見た。そのまま、その人はしばらく、じっと僕の顔を見詰める。 とても、きれいな女の人で、ナギと同じ、灰色の混じった薄青色の目をしている。ナギと、同じ、白い肌をしている。髪の毛は、ナギより、もっと濃い茶色だったけど、とてもきれいな女の人。 本当は、どうして、知らない人がここにいるのかとか、一体この人は誰なのかとか、そういう事を尋ねなければいけないのかもしれないけれど、その人が、きれいで、あんまり、印象的だったので、僕は言葉を失って、その人を、見つめてしまう。そうしたら、その人は、にっこり笑った。とても、きれいに。 きれい、と言っても、美人だ、とか、可愛いとか、そういうことではない。おろしたての白いシャツ、とか、澄み切った湖の湖面とか。『汚れたところが一つも無い』と言う、きれいさ。 「あなたが、阿芽(あめ)ね」 その外見と同じで、きれいな声が僕の名前を呼ぶ。僕は、ますます、驚いて、何も言えずにぽかんとしていた。 「あれ? 阿芽? おかえり」 台所の向こうから、ナギがひょいと顔を出して、僕に声をかける。それで、ようやく、僕は、自分が夢をみているわけではないとわかった。 「ナギ。あの、この人…」 僕が、何を尋ねればいいか戸惑っていると、ナギはシャツの腕を捲りながら、台所にやってくる。それから 「ああ。彼女、俺の…友人なんだ。桜沢ハナさん。って言うんだ」 ナギが、笑いながら紹介すると、その人は、手を僕に差し出して、 「桜沢ハナよ。始めまして、緑川阿芽くん」 と、言った。その、差し出された手が、きれいで、白くて、僕はどうしようか、一瞬戸惑ってしまう。でも、おずおずと、手を差し出した。 「始めまして。緑川阿芽です。えっと…桜沢さん?」 「あら? ハナで構わないわよ」 うふふ。と、ハナは、楽しそうに笑う。その笑い方が、とても優しそうで、ぼくはなんだか、不思議な気持ちに陥る。僕は、お母さんがいないし、大人の女の人に接する機会があんまりないから、どうしていいかわからなくて、ちょっとだけ困ってしまった。 「話に聞いてた通りの子なのね。会えて、うれしいわ」 「まあね。俺も、一度、ハナには会わせたいと思っていたからね。丁度良かった。今日は、泊れるんだろう?」 「ええ。3日ほど研究所に滞在しなくちゃいけないから。ホテルは取ってあるんだけど」 「泊っていきなよ。久しぶりなんだから。俺も、色々、話をしたい」 ナギが、笑ってそう言うと、ハナは、うれしそうに、そうね、と頷く。ナギも、嬉しそうにそれを見ていた。何だか、その表情が、僕の知らないナギみたいで、僕は少しだけ胸がチクリとする。なんで、そんな風に感じるのかはわからなかったけど。ほんの少し、疎外感を感じて、淋しくなったのかもしれない。 暫くして、ナギが、夕飯の支度を始めたので、僕も手伝う。夕飯の支度をしながら、ナギは、ハナの話をしてくれた。ハナは、ナギが、僕と一緒に住むようになる前からの友人だということ。それから、ナギと、同じような仕事をしていて、今日は、たまたま、ナギが、研究所に行ったら、ばったり会ったこと。 「もう、ハナには、5年近くも会っていなかったからね」 ナギが、手際良く、野菜を切りながら言うと、テーブルに座って、僕等を楽しそうに見ていたハナは、悪戯っぽく笑った。 「ナギが、薄情で、ちっとも連絡よこさないからよ。それとも、そのおチビさんに夢中で、私のことなんて忘れてたのかしら?」 「はははは、便りの無いのは元気な証拠だよ」 僕は、年の割に背は低い方だけど、ハナとそんなに身長差があるわけじゃない。それなのに、ハナに『おチビさん』と呼ばれて、僕は少しだけむっとした。なんだか子供扱いされて、僕だけ仲間はずれみたいで嫌だった。でも、ハナはそんなことにはちっとも構わない様子で、嬉しそうに僕とナギを見ている。それから、すごく優しそうな声で、 「ナギ、本当に変ったわね」 と、言った。ナギは、それには、なんだか不思議な、含みのあるような笑い方をしただけで、何も言わなかった。僕は、不思議に思う。ナギが、変ったっていうのは、どういう事なんだろう。僕と暮らしはじめた頃と、ナギは、ちっとも変ってないような気がするけど、僕と暮らす前のナギは、今のナギとは、違ったんだろうか。そういえば、僕と暮らす前のナギのことを僕はちっとも知らない、ということを、僕はその時、今更ながら気がついた。 ナギが前住んでいたところも、ナギの家族のことも、ナギの友達も、何も知らない。 僕が知っていることといえば、ナギが、どんな食べ物が好きかとか、どんな服が好きか、とか、どんな音楽を良く聴くかとか、そんな事ばかりだ。 それから、実は、とても、キスが上手いということ。 それだけでナギの全部を知っているようなつもりでいたけれど、実は僕はナギのことをちっともわかっていなかったんだ、と一瞬呆然としてしまう。それから、少し悲しくなってしまった。 「ハナ、お酒、飲むかい?」 「ええ。ワインあるかしら?」 「いや、買ってくる」 「切らしてるなら、ビールでもいいけど?」 ハナが、そう言うと、ナギは苦笑いした。 「うち、お酒、置いてないんだよ」 「え?」 ナギの言葉に、ハナが驚いた様に目を見開く。それを見て、ナギは、また、苦笑いして、 「4年前から、禁酒してるんだ」 と、答えた。 「禁酒…って…何で、また…」 ハナが、本当に驚いたという顔で、尋ねると、ナギは一瞬だけ僕の顔を見て、それから、すぐに視線をそらして、肩を竦めて、 「酔って、ちょっと失敗したから」 と、答えた。僕は、その答えを聞いて、少しだけ赤くなる。心当たりが、あったから。初めてナギが僕にキスしたのは、酔っ払っているときだったんだ。それ以来、ナギはお酒を一切止めた。そして今は、もうキスはしていない。それがどういう行為か、ちっとも意味が分かっていなかったもっと子供の頃は、よくナギにキスをせがんだこともあったけど。 いつからか、僕等はキスをしなくなった。 テレビの恋愛ドラマを見たり、ませた友達の話しを聞いているうちに、その行為が、どういう意味を持っているのか、だんだん分かってくる。分かってきたら、そんなことを、せがんだり、できるわけがなかった。 もちろん、今でもキスして欲しいとせがんだなら、ナギは優しく僕の言うことを聞いてくれるだろう。でも、それは『家族』に対する優しさであって、僕が意識しているような特別な意味なんて、あるはずがなかった。だから尚更、恥ずかしくて、僕はそれをせがんだりできない。 「じゃあ、俺、ちょっとお酒を買いに行くから、阿芽準備してて」 ナギは、そう言うと、上着を羽織って出て行く。僕はハナと二人きりにされて、何を話していいかわからなくて、ただひたすら作業に没頭する。でもすぐに夕飯の支度は終わってしまって、僕はすることもなく台所をうろうろしてしまう。そんな僕の様子を見ていたハナがクスリと笑って、 「いいから、椅子に座って私の話し相手をして頂戴」 と、言った。それで僕は仕方なく椅子に腰掛ける。ハナの向かいに座り、正面からハナを見たら目が合ってしまって、僕は慌てて俯いた。そんな僕の様子を、ハナは、面白そうに見ていた。 「ナギは、優しい?」 急に尋ねられて、僕は顔を上げる。ハナの優しそうな眼差しとぶつかって、少し戸惑う。でも僕は素直に 「うん」 と、頷いた。ハナは 「そう」 と頷く。それから、ちょっと悪戯っぽく、笑った。 「いけないこと、教えられてない?」 と、表情と同じく悪戯っぽい口調で尋ねられて、僕は目をくるくるさせてしまう。 「いけないことって、何?」 僕が聞くと、ハナは一瞬ぽかんとした顔をして、それから急にけらけら笑い出した。 「いけないことって、悪いこと。物を盗んだりとかね」 ハナの言った言葉に、僕はとても驚いてしまう。物を盗むなんて、ナギが僕に教えるわけないじゃないかと、一瞬怒りすら覚える。けれども、ハナはそんな僕にはお構い無しで更に続ける。 「あとは、お酒とか、タバコとか、薬とか」 そこで一旦言葉を止めて、意味深に微笑むと、 「それと、セックスとかね」 と言った。僕はハナの表情や口調や、それから、その言葉の意味を変に意識してしまい、顔を赤くする。急に僕の中の『何か』を見透かされたような気持ちになる。それから、なぜだか悪いことをしているような後ろめたい気持ちになって俯く。僕は、自分を弁護するような気分で 「何、言ってるの…ナギも、僕も男なのに…」 と言った。僕がそう言うと、ハナは僕をからかう様に笑って 「そう?」 と僕を見つめる。 「ナギにとっては、あんまり関係ないと思うけど?」 あまりにあっさりとした言い方で言われて、僕は 「え?」 と顔を上げる。今度は少しだけ真面目な表情をしているハナの目とぶつかった。 「ナギ、もしかしてタバコも吸ってないの?」 そう尋ねれられて、僕はほんの少しの間考えてみる。思い出せる限りでは、ここ数年、ナギがタバコを吸っているところは見たことがなかったから 「多分」 と答える。するとハナは少しだけ肩を竦めて、 「阿芽って、すごいのね」 と言った。僕は言われた意味が分からずに、きょとんとハナを見つめる。僕の何が一体すごいんだろう。僕が不思議そうな顔をして見ていたのに気がついたんだろう。ハナは今度は優しそうに笑うと、 「昔はね、ナギあんなじゃなかったのよ」 と、言った。 「あんなじゃ無いって?」 「すごく、悪い人間だった、って言ったら信じる?」 僕は、その質問には、間髪入れず首を横に振る。ナギが悪い人間だったなんて、とても想像できなかったから。そしたらハナは苦笑した。 「でも本当にひどかったのよ。大抵の良くないことはやり尽くしていたし、しかも、なまじ頭が良かったから尚更質が悪くて…。きっとこの人はまともな死に方をしないだろうなって思ったくらい」 そこまで言って、ハナは、僕の目をじっと見詰める。なんだか淋しそうな、でも優しそうな不思議な表情をしていた。 「でも、今は、阿芽がいるから平気みたいね。ちょっとは、神様を信じられるようになったのかしら?」 「神様?」 「ええ。昔ね、そんな悪いことばかりしてると、ばちが当たるわよって言ったらね、ナギ、何て言ったと思う?」 僕がわからなくて、黙ってハナの話を聞いていると、ハナは優しく僕の頭を撫でた。子供扱いされて、さっきは腹が立ったけど今度は気にならなかった。逆になんだかくすぐったいような不思議な気持ちになる。 「ばちなんて、そんなもの信じてるのかい? って言ったのよ。もしかして、君、神様がいるとか信じてるのかって。そりゃあ、もう、これ以上は無いって位、意地悪な笑い方で笑って言ったのよ。ひどいでしょう?」 とハナは笑った。僕は、ハナの話を聞いて、びっくりしてしまう。だって。 「ナギはいつも『神様の前で胸を張って、悪いことはしていませんって言えないようなことは、しちゃいけない』って言うよ?」 僕が、そう言ったら、今度は、ハナがびっくりした表情になった。それから少し大袈裟に 「ナギが?」 と聞き返す。 「うん。それに、時々、教会だって行くよ。ナギはクリスチャンじゃないけど、人がお祈りしてるのを見るのが好きなんだって」 僕が答えると、ハナは、ますます驚いたような顔になって、それから急に嬉しそうに笑った。 「そう。そうなの。信じるものができるということは、素晴らしいことね」 ハナがどんな気持ちでそう言ったのかは、僕にはわからなかったけど、ハナが嬉しそうだったので、なんだか僕も嬉しいような気がした。知らないうちに、僕も笑っていたみたいで、ハナが急に表情を変える。 「阿芽は、ナギが好きなのね」 ハナは静かに微笑みながら、そう言った。僕はすぐさま、うん、と肯定したかったけど。 できなかった。 複雑な心境で返事をするのを躊躇する。するとハナはほんの少しの間目を閉じ、何かを思い出すみたいに、しばらくそのままじっとしていた。それから静かにもう一度目を開くと、穏やかな声で、 「世の中の常識が必ずしも真実だとは限らないこともあるのよ」 と言った。 「例えば、世の中で正しいとされていることが必ずしも正しいとは限らないし、悪いこととされていることが悪いこととは限らない。肝心なのは、自分が正しいと思うことを言ったり、したりすることよ」 ハナは穏やかな口調のまま続ける。 「前に、似たようなことナギも言ってた」 「ナギが?」 「うん」 いつだったか、まだ僕がもう少し小さくて、ものの分別も、そんなについてないような頃、教会に散歩に行った帰りにナギが話してくれたこと。 「正直なところ、俺には本当に神様がいるとは信じられないんだよ。でも、あんなふうに無心に祈っている人を見ると、神様が本当にいるような気がすることもあるんだ」 「例えばね、俺は阿芽にずっと幸せでいてほしいと思うけど、それを祈ったりするときには、やっぱり俺は神様を信じているんだろうね」 「別に苦しいときに救ってもらいたいとか、そういう事は考えたことがないけど、それでも阿芽にはそういう神様みたいな存在の前で、いつでも顔を上げていられるような生き方をして欲しいと思う」 だから、僕が何か迷うときには、神様の前で胸を張っていられるように行動しなさい、と言われたんだ。だから今までそういう風に行動してきたし、それで何も悩むことなんてなかった。 だけど。 僕は急に泣きたい気持ちに襲われて、ハナの顔を見上げる。ハナは相変わらず優しい目で僕を見ていた。 「僕は、ちゃんとナギに好きだって言ってるんだけど、時々それが伝わってないような気がするのはなぜなの?」 僕がじっとハナを見つめて尋ねると、ハナは少しだけ目を見開いて、それから、ふっと静かに笑った。 「阿芽って、何歳なの?」 ハナは急に僕が聞いたこととは全く関係の無いことを尋ねる。 「14」 なんでそんなことを聞くのかと思いながら答えると、ハナは 「そう」 と返事をして、しばらく何か考え込んでいた。それから急に顔を上げて僕の目をじっと見詰める。薄青色の目がほんの少しナギとダブって、僕は一瞬、ナギに見つめられているような錯覚に陥った。 「もう自分の気持ちを自分で決めれる年齢なのにね。ナギもこわいんでしょうね」 「こわい? ナギが? なんで?」 僕が聞いても、ハナはただ悪戯っぽく笑っただけで、答えてはくれなかった。ただ、優しそうな目で僕を見て、それから静かな声で 「阿芽はナギのことが特別に好きなのね」 と言った。僕は少しだけ赤くなって俯く。それから頷いて、聞こえるか聞こえないか位の声で 「うん」 と答える。 「それなら、そういう風に伝えてみるといいわ」 伝えてみればいいと言われても、どういう風に伝えればいいのか僕には、到底分からなかった。どうすればいいのか、ナギなら知っているんだろうか。ナギは僕よりずっと大人で、僕よりも色んなことを知っているのだから。でも、気持ちを伝えたい相手に、どう伝えればいいか聞いたりできるわけが無い。ぼんやり考えていたら、ガチャリと玄関のドアが開く音がする。 「ごめんよ。近くの店が閉まってたから、少し遠くまで行ってきたんだ」 ナギが紙袋を抱えて台所に入ってくる。 それから僕等は3人で少し遅くて豪華な夕食を食べた。ナギは久しぶりにハナと会えたのが嬉しかったのか、いつもよりおしゃべりだった。でもやっぱりお酒は飲まなかった。こんな時くらい飲めばいいのに、とも思ってそう言ったけど、笑って 「その一回が、全部だいなしにしてしまうこともあるんだよ」 と言って、結局、一口も飲まなかった。 ハナはずっと楽しそうにニコニコしながら話を聞いたり、したりしていた。時々僕にはわからない人の名前や、場所や、言葉が出てきて、僕はまた疎外感を感じる。急にナギが違う人みたいに思えて不安になる。自然と僕は口数が減って、ぼんやり二人の話を聞いてることが多くなる。なんとなく惨めな気持ちになってしまって、僕は先に席を立った。ナギもハナも、そんな僕を心配していたけれど、何とか笑って、何でもない、疲れているだけだと言って、先に眠ってしまった。 結局、ハナは次の日の午後には仕事があるからと言って帰っていった。 ハナは別れ際にナギの頬と唇に軽くキスをした。ナギは何も気にした様子も無く、優しく笑って手を振っていた。 それを見て、僕はショックを受ける。ひどく傷ついた気持ちになった。 今まで足元にあったものが、がらがらと音を立てて崩れていくような不安。 いつのまにか、ナギは僕の知らない人になっていた。今まで僕は、ナギのことをなんでも知っていると錯覚していただけなのだと、思い知らされる。 ナギにとって『キス』なんて、とても簡単なことなのだ。 子供の頃、僕としていたキスも特別な意味なんて無い。とても簡単な、挨拶みたいなものなのだ。だったら僕の気持ちなんて、伝わりっこないような気がした。僕は本当に何も知らない子供なのだと、今更のように情けなくなる。 僕は、自分の中の、この小さな嵐みたいな感情を伝える術をもたない。僕のできることと言ったら、ナギに甘えたり、わがままを言うことだけだった。 ■■■ 沈んだ気持ちで一日を過ごす。僕が落ち込んでいることに気がついて、ナギがいろいろ気をまわしてくれているのがわかったけど。そんな風に気を使わせてしまうことが子供なのだと、さらに自己嫌悪に陥る。 今まで意識したことは無かったけれど、ナギと年が離れていることが、こんなに悔しく思ったのは初めてだった。どうして僕は、こんなにも子供なのか。 僕の口数が少ないから、自然と家の中には重苦しい空気が漂ってしまう。そんな雰囲気に、とうとう耐えられなくなったのか、夕食の後片付けが済んで、ぼんやりリビングでテレビを見ていると、ナギは僕の隣に腰をおろし、 「何か、俺は、阿芽の気に触ることをした?」 と優しく尋ねてきた。けれども僕は答えることが出来ない。答える代りに、ぼんやりナギの顔を見詰める。僕の好きな、ナギの茶色の髪、白い肌、薄青色の目、少し大き目の口。でも、これは、みんな、僕のものじゃない。どうして、僕のものじゃないんだろう。子供の頃、ナギにキスされるたびに、僕はナギが僕だけのもののような錯覚をよく起こしていたけれど。知らず知らずに、僕はナギの唇を見つめていたことに気がつく。意識とはぜんぜん離れたところで、口が勝手に、 「ハナって、ナギの恋人なの?」 と、聞いていた。ナギは、ちょっと驚いた顔をして、それから苦笑するみたいな笑い方でちょっと笑った。 「ちがうよ。ただの友達だよ」 「ナギは、恋人じゃない人ともキスをするの」 これも僕の意志とは離れたところで勝手に口が尋ねていた。僕は何を知ろうとしているのか。ナギは笑うのを止め、静かに僕の顔を探るように見詰めている。それから、僅かに目を伏せて 「することもあるね」 と答えた。 やっぱりそうか、大人なんだしそんなものか、と思う反面、僕は、絶望的な気分でそれを聞く。なんだか、いたたまれない気持ちで立ち上がると、ナギも腰を上げた。 特別でなくてもナギはキスをする。僕にとっても特別でも、ナギには特別ではない、と言うことが僕を打ちのめす。僕はひどく傷ついた気持ちのまま、ナギの唇をじっと眺め続ける。 「ナギ、キスして」 考えるでなく口をついて出た言葉に、僕自身驚いていた。ナギも驚いていたみたいで、ほんの少し目を見開いたけど、何も言わずに軽く僕の唇に触れるだけのキスをくれた。僕はもどかしい気持ちで俯く。 「だから、そうじゃなくて」 半分怒っているような口調で僕が言うと、ナギは小さくため息をついて僕を抱き寄せて、さっきより少し深めにキスをした。ひどく落ち着いていて余裕のあるようなそれに、僕は途端に悲しくなってしまった。 ナギは僕を軽くあしらっている。僕なんて子供だから、ナギにとってみればとても簡単な存在なんだろう。事実、ナギの一挙一動で僕は笑うこともできるし泣くこともできるのだから、仕方が無いのかもしれないけど。でも僕は、ナギが好きなのに。 僕ハ、コノ人ガ、好キダ 僕ハ、コノ人ガ、トテモ、好キダ 胸の中で繰り返してみると、尚更悲しくなってしまった。だんだん涙が溜まってきて、でも泣くのは嫌で、必死に堪える。堪えて、僕は祈るみたいな気持ちで言った。 「僕は、ナギが好きだよ」 でも、返ってきた言葉は 「ありがとう。俺も阿芽が好きだよ」 と言うひどく簡単な言葉と、額へのキスだった。いつもは優しいと思っていたナギのその態度が、この時は冷たく感じた。何もかもが簡単で適当だった。 簡単な言葉。簡単なキス。簡単な僕。 僕の気持ちは、ちっとも伝わらない。これっぽっちも伝わらないんだ。 僕は絶望的な気分で立ち尽くしていた。もう堪えきれずに涙が後から後から流れてくる。ナギが僕の顔を心配そうに覗き込んで来たのがわかったけど、どうすることもできなかった。 「どうしたんだ? どこか痛い?」 僕は必死で首を横に振る。その時には、僕には意地もプライドもなくて、ただ自分の気持ちをナギにぶつけることしか出来なかった。ぐしゃぐしゃに泣きながら、必要以上に大きな声で言った。 「だって! ! だって僕はきちんとナギが好きだって言ってるのに伝わらない! ! ちっとも伝わらないじゃないか! !」 しばらく僕がしゃくりあげる音だけが部屋に響いていた。きっとナギは呆れて何も言えなくなっているのだろうと思って、僕は顔を上げることが出来ない。しばらく沈黙が続いて、僕はこんな子供みたいに泣きじゃくる自分が情けなくなってくる。けれどもナギは不意に 「そんな風にね」 と言った。僕がふと顔を上げると、少し困ったような、怒ったようなナギの目とぶつかった。 「これっぽっちも飾っていない、むき出しの気持ちをぶつけられてしまうとね、もう世の中の常識も、道徳も、神様さえどうでもいいと思ってしまうから本当は困るんだよ」 ナギは苦々しそうな表情のまま続けた。僕はナギの言っている意味がよくわからなくて、ぼんやりナギを見つめる。涙でナギの顔が滲んで見えた。 「阿芽の言ってることなんて、本当は分かっているんだよ」 ナギはそう言うと僕の顔に唇を寄せる。涙を舐め取るみたいに唇を動かされて、僕は少し驚いてしまった。 「そんな風に無意識に人を追いつめるところが、時々、俺としては少し許せないんだけどね」 ナギは意地の悪い笑い方で笑って、そう言った。許せないって僕のことかと思って、どきりとしてしまう。僕が不安な気持ちでナギを見上げていると、ナギはもっと意地悪そうに笑った。 「それから?」 ナギに急に尋ねられて、僕は 「え?」 と間抜けな返事をする。 「それからどうするんだ? 好きだって伝えて? 伝わったら次はどうするの?」 責めるように尋ねられて、僕は言葉をうまく紡げない。気持ちが伝わったらその次どうするかなんて、考えてなかった。ただ僕はこの気持ちを伝えたかっただけなのだと気がつく。僕が答えられないでいると、ナギは少し乱暴な口調で 「ほら、ね」 と言った。少しイライラしているようなカンジだった。何だか怒られているような気持ちで、僕は焦って言葉を捜す。でも何と言っていいのかわからない。僕が困ってナギの顔をじっと見ていると、ナギは 「今度はそうやって苛められているみたいな顔をする」 と吐き捨てるように言った。それから、 「もういいだろ。俺は寝るよ」 と言うと僕から離れようとした。 「待ってよ! どうしてそんな風に言うの? 僕はわからないだけじゃないか! どうしていいかわからないんだよ。そんなの先生も友達も教えてくれなかった。ナギだって教えてくれなかったじゃないか! !」 僕はこの時、このままナギに捨てられてしまうような錯覚に陥って、少し混乱していた。 「僕はナギが好きだよ。特別に好きなんだよ。でも、どうすればそれが伝わるかわからない」 もうその時は、どうしたらナギを引き止められるか、そのことしか頭にはなかった。ナギは、少し離れた位置で立ち止まって、僕をじっと見ていた。それから、ふっと笑う。 「どうやったら伝わるか、俺が教えていいの?」 と、急に優しい声で言われる。でも、表情にはまだ少し皮肉っぽい色が浮かんでいて。僕は、きっとナギは僕の何かが気に入らなくて怒っているんだと思った。でも何に怒っているかはわからない。 「だから、さっきからそう言ってる」 僕はごしごし手で涙を拭って答える。ナギは少し苦笑して、もう一度僕の側まで来た。それから僕の頬を優しく撫でる。 「そんなに乱暴にこすったら目が腫れてしまうのに」 「別に良い」 「阿芽が良くても、俺は良くないんだよ」 ナギは優しく笑ってそう言うと、僕の手を取った。それから僕を引っ張って歩き出す。 「どこ行くの?」 「俺の部屋だよ。今日は俺の部屋で一緒に寝るんだよ」 そう言うと、ナギは立ち止まって僕の顔をじっと見詰めた。 「俺の言ってる意味、わかる?」 尋ねられて、僕は少し赤くなって俯いた。寝るって、だから、そういうことなんだろう。僕は、小さく頷く。ナギはゆっくり僕の手を引いて、自分の部屋に入る。そのまま僕をベットに座らせると、僕の額に唇を寄せた。それから、じっと僕の目を見詰める。僕はなんだか気恥ずかしくて、視線をそらしてしまった。 「恐い?」 心配そうな表情で僕を覗き込んで、ナギは聞いた。僕は素直に 「少し恐い」 と答える。それから。 「あと、なんか、悪いことをしてるような気持ちがちょっとだけする」 僕がそう言ったら、ナギは困ったように笑った。 「そんな風に、阿芽が神様の前で、胸を張って、僕は悪いことをしていません、と言えなくなってしまうのが、本当は嫌なんだよ」 でも、と、ナギは僕の前髪をかきあげて、もう一度、額に唇を付けた。そうして悪戯っぽく笑って、おどけたように、 「神様には、僕はちっとも悪くありません。悪いのはみんなナギですって言うんだよ。俺が代りに地獄に落ちてあげるから。阿芽だけは天国に行けるように」 と言った。でも僕は、それを聞いてむっとしてしまう。だって、これは『僕の意志』であって、ナギに決めてもらったことじゃないんだから。 「そんなのイヤだよ! 僕だけ天国に行くのなんて! ナギが地獄に落ちるんだったら、僕も地獄に落ちるよ」 僕がそう言ったら、ナギはびっくりしたみたいに目をちょっと見開いて、それから僕の肩に顔を埋めて笑った。 「何がおかしいんだよ! ?」 僕が気を悪くして抗議すると、ナギは笑ったまま顔を上げる。 「イヤ。子供だとばっかり思っていたのに、どこでそんな殺し文句覚えてくるのかと思ってね」 僕が言った言葉のどこが殺し文句なのかわからず、僕はちょっとだけ眉間に皺を寄せる。ナギの言うことは、時々良く分からない。ナギはひとしきり笑い終わると、 「そうだね。じゃあ、一緒に、地獄に落ちようか」 と言って、僕の唇に軽くキスをした。それから器用に僕のシャツのボタンをはずしていく。僕は、そのナギの手慣れた仕種に、また少しだけ悲しくなる。それが顔に出て、表情が曇ってしまったらしい。ナギは動きを止めて、僕の顔を覗き込む。 「やっぱりやめたくなった?」 少し困ったような顔で尋ねられて、僕は首を横に振る。横に振って、ふと思い浮かんだ不安を素直に伝えた。 「僕、簡単?」 ナギは僕の質問の意味がわからないみたいで、首を傾げる。 「どういう意味だ?」 「ナギは大人で、こういうこと慣れてるから、僕みたいな子供は簡単なの?」 僕が泣きたい気持ちでそう言うと、ナギは、ああ、と納得したように頷く。それから優しく笑った。 「ちっとも簡単じゃないよ。どうしてこんなに難しいんだろうって、いつも思ってるよ」 「ほんとに?」 「ホントだよ。今まで生きてきた中で、一番難しい」 そう言うとナギは、また動きを再開した。僕は、ナギの言葉がイマイチ納得できなかったんだけど、ナギがそう言うならまあいいやと思って、とりあえず黙った。ナギの手が僕の身体のあちこちをまさぐって、なんだかくすぐったくて笑いたくなる。でも、そんな風に触れられるのは、とても気持ち良かった。ナギは、僕の身体を探りながら、僕の顔のあちこちにキスをする。鳥が餌を啄ばむみたいで、ちょっとおかしかった。でも、そんな風に冷静に考えられたのはそこまでで。ナギの手が僕のそこに触れた途端、僕はビクリと身体を震わせる。反射的にナギの手を止めようとして、ナギの腕を掴んでしまった。でも、ナギは手の動きを止めようとはしない。僕は、その時になって今更、ああ、寝るっていうのはこういう事なのだと理解する。なるべく意識しないようにすればするほど羞恥心が沸き上がってきて、しかも息はだんだん荒くなってくるし、変な声は出てしまうし、どうしていいかわからなくて、本当に居たたまれなくなってしまう。ナギの手は、とにかく巧みで、初心者の僕を容赦無く高みに登らせていく。今まで自分でしたことが無いわけじゃないけど、ナギのしていることは比べ物にならないほど、気持ち良くて、僕は羞恥心と気持ち良さがごちゃまぜになって、だんだん訳がわからなくなってくる。 「…ん…ふ…ぅ…う…ん…」 それでも必死に声を上げないように歯を食いしばっていると、ナギは僕の顔に自分の顔を近づけてキスをした。しかも、とても深いキス。今までしたことのあるどのキスよりも、深くて激しいそれに僕の息は更に上がってしまう。 こんなキスは知らない。こんなに激しいナギは知らない。 下肢からせりあがってくる快感と、舌を吸われて頭の芯がじんと甘く痺れるような感覚に翻弄されて、僕はいとも簡単に果てた。ナギの手を汚してしまったとぼんやり考えていると、ナギの唇がようやく僕の唇を解放する。離れていくときに、二人の唾液が混ざり合って糸を引いているのが見えた。ひどくいやらしいその光景を直視できずに、僕は目を閉じてしまう。僕の息は上がっていて、きっと大袈裟なくらい胸は上下していたんだろう。ナギの手が、優しく僕の胸を撫でさするのを感じた。それからナギは、いつものナギらしくない性急さで、更に僕の下肢を開いていく。しばらく僕の放ったものでそこを濡らして、少し強引に指を差し入れてきた。 ぼんやりとした知識として、そこを使うのは知っていたけれど、やはり不快感は否めない。痛みというよりは不快感。気持ちが悪くて、僕の腰は逃げをうってしまう。それでもナギは僕を逃がさずに、更に指を押し込んでくる。僕はそれを必死に我慢しながら、大きく息を吸う。息を吸い込んで、僕は口元はまだ濡れているのに、喉の奥はカラカラに乾いているのに気がついた。息をするたびに、喉がひゅうひゅう鳴る。ナギの指がそんなところを探っているのを見ていられずに、思わず目を閉じた。でも、目を閉じると返って感覚が鋭くなるみたいで、不快感が増したような気がしてしまう。それで結局、また目を開ける。 ナギは、とにかく、いつものナギからは想像できないくらい強引で、性急で、僕の身体と心は置いてきぼりを食らってしまう。指を増やされて、僕は「いやだ、やめて」と言いそうになるのを我慢するのがやっとだった。多分、ナギは、ゆっくりすることによって、かえって、僕の恐怖心が増すのを恐れていたんだと思うけど。 ナギが僕の中に入ってきたときは、本当に苦しくて、死んでしまうかと思った。この時ばかりは、我慢できずに声が漏れてしまった。 「やだ…無…理だ…よ…いっ…いた…」 僕が途端に嫌がりだしたので、ナギは途中まで入れて、そこで動きを止める。僕の身体は、もう僕の自由にならなくて、痛みと息苦しさから痙攣するみたいに小刻みに震えていた。本当は嫌がるつもりなんて無いし、ナギの苦しそうな表情が見えて、そんな風な顔をさせてしまったことが胸を痛くしたけど、苦しいものは苦しくて、僕は生理的な涙を止めることが出来ない。僕の肺は、必死に空気を求めて、大きく呼吸を繰り返す。しばらくそうやって、二人でじっとしていたけど、急にナギは苦しそうな表情で、 「やっぱり、やめるか?」 と言った。けれども、それには、僕は自由にならない身体で必死に首を横に振る。なんだか良く分からない感情が僕を支配していて、この状態は本当に痛いし、苦しいし、止めてしまいたいと思う気持ちも確かにあったんだけど、それよりも、ここで止めてしまうことの方がもっと嫌だった。 「や…だ…やめたら…ナギのこと嫌いになる」 息も絶え絶えに僕がそう訴えると、ナギは苦しそうな表情を少しだけ崩して苦笑した。 「嫌われたら困るな」 それだけ言うと、ナギは少し荒くなった息を吐きながら目を閉じて、暫く何か考えていたみたいだったけど、急に意を決したみたいに目を開いて、それから自分の右手を僕の瞼の上に乗せた。ナギの大きくて綺麗な手で僕の視界が遮られる。何だろう、と思う暇も無く、ナギは 「ちょっと我慢して」 と言って、強引にぐりっと奥まで入ってきた。衝撃で僕の喉はひゅっと音を立てる。もう、声も出せない位苦しくて、呼吸すらまともにできなくなってしまう。指一本すら、その時は動かせなかった。とてつもない圧迫感と痛みに涙腺は更に緩んで、涙が後から後から溢れてくる。涙で視界がぼやけて、ナギの顔も良く見えなかった。でも、ナギも何だか苦しそうな顔をしているみたいだった。 ナギは辛抱強く僕の呼吸が楽になるのを待つ。それでも、痛みと圧迫感は消えない。ただ、肺はようやく呼吸の仕方を思い出したようで、なんとか浅い呼吸を繰り返す。さっき、やめたら駄目だと言っていたけれど、もうそんなことはすっかり頭から飛んでいて、僕の口は 「苦しい、もう、やだ、抜いて」 と声にならない声で訴える。ナギは苦しそうな、困ったような表情の顔を僕に近づけて、僕に深くキスをした。そのせいで、更に身体は深く繋がる。もうそこから先は、僕の身体は僕のものではなくて、完全にナギの支配下にあった。 どこもかしこもナギに満たされて、僕はそのまま、ナギに溶けてナギになってしまうんじゃないかと心配になる。身体も気持ちもぐちゃぐちゃで、「いい」とか、「いや」とか、「もっと」とか、「だめ」とか、矛盾する言葉をごちゃまぜにして発し続けた。そのたびにナギは困ったような顔をしていたけれど、途中でそれすらも判断つかなくなっていた。ただ、僕は漠然とこれでいいんだと思った。ナギに伝えたいことがやっと伝わったような気がして、とても満ち足りていた。そう考えたら、もう僕の頭は馬鹿になってしまったみたいに、本当にナギのことだけになってしまって、口はひたすら「ナギ」という単語しか言えなくなる。無意識のうちに僕はナギにしがみついて、ただ、ただ、ナギの名前を呼び続けていた。 ■■■ 身体がひんやりするような感覚がして目が覚める。見慣れない天井が目に入ってきて、一瞬どこにいるのかわからなかった。ひやりと濡れた何かが僕の身体の上を動く。ナギの、明るめの茶色の髪が目に入って、それから、すぐに青灰色の目が僕を覗き込んでくる。濡れたタオルを持っていて、僕の身体を拭いてくれているのだった。 ナギは、僕が目を覚ましたのに気が付いて、優しく笑いかけてくる。 「大丈夫か?」 「うん。平気」 と答えて、自分の声がおかしいことに気が付く。僕は自分の喉に手を当てた。 「声、がらがらだ」 僕が、ぼうっとする頭で何気なくそう言うと、ナギは苦笑いした。 「あれだけ、喚いていたからな」 「僕、喚いてた?」 もう最後の方はよく覚えていなかったから、良く分からない。ナギは僕の質問には答えずに、静かに笑っただけだった。黙ったまま、ナギは僕の身体を拭き続ける。汗をかいたはずなのに、あまり身体がべたべたしないから、多分ナギが拭いてくれたんだろう。なされるがままでナギに身体を拭いてもらっていたら、ナギが 「ごめん」 と、ぽつりと言った。 「なんで謝るの?」 僕が少しきつい口調で尋ねても、ナギは答えない。ナギが何を考えているのか、だいたい分かったから、僕は言った。 「そうやって自分だけ悪いみたいに考えるの、ナギの悪い癖だよ。僕たちは何も悪いことなんてしてないんだから」 それから続けて 「僕は、ナギが好きだよ」 と、さっきと同じ言葉を繰り返す。ナギは僕の前髪をかきあげて、額に優しくキスをすると、 「俺も阿芽が好きだよ」 と答えてくれた。ナギの言葉はさっきと同じだったけれど、伝えたいことが伝わらないもどかしさはもう感じない。僕は解けなかった問題がやっと解けたような気持ちで 「じゃあ、僕たちはちっとも間違ってない。間違ってないんだからいいんだよ」 と言う。ナギはそれを聞いてとても楽しそうに、僕をからかうみたいに笑った。 「なんで笑うの?」 「いや、いつのまにかこんなに大人になったんだな、と思って」 からかうようなナギの口調に、僕は少しだけぷうっとふくれる。どうせ僕はまだまだ子供だよ。ナギはそんな僕を見てひとしきり楽しそうに笑っていたけれど、まだ何かがひっかかっているのが僕には分かった。ナギにはナギの神様がいて、ナギにはそれがどうしても気になるんだろう。でも、僕にだってできることがあるはずなんだ。それで僕は、明日のことを考える。 明日はお昼までゆっくり眠って、午後からナギと一緒に教会まで散歩しよう。それから僕は、神様の前で胸を張って、僕は悪いことをしていませんと言おう。ナギがそれで少し安心してくれたなら、今度は、僕はこの人が好きですと、胸を張って大きな声で言おう。そうしたなら、ナギも少しは楽になるのかな。楽になってくれたらいいな。 そんなことを考えながら、僕はもう一度目を閉じた。目を閉じたらやっぱり神様が見えたけど。 神様は、ちっとも怒っていないみたいだった。 |