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人魚 ………………………



 僕は浜辺を歩いていた。天気の良い夕方に、浜辺を歩くのは僕の日課だ。
 人影まばらなこの海辺の町に僕がたどり着いたのは、もう、三年も前のことだ。それ以来、特に親しい知り合いも作らず、ただひっそりと誰にも知られることもなくのんびりと暮らしていた。
 時折、寂しいと思うこともあったけれど人の柵(しがらみ)が煩わしく、都会の水が全く合わずにひたすら疲れ果てて逃げてきた僕には少し寂しいくらいが丁度良かった。
 人は傷つけ合う生き物だ。無理に分かり合おうとするよりは必要以上に近づかないのが自分を疲弊させない賢いやり方だと思っていた。
 そんなことよりも、この世の中にはもっとすばらしいものがある。美しい海や、空。四季折々の表情を見せる植物達。今の時期なら、吸い込まれそうな深い夏の空と真っ白な入道雲。どこまでも透き通ったエメラルドグリーンの海。それだけあれば僕には十分だった。
 けれども、僕は、ある日とても素敵な宝物を拾ってしまったのだ。

 以前、偶然浜辺であった町の人に聞いたことがあった。僕には特に親しい知り合いはいないけれど、この町の人達はこの穏やかな海と同じくみな、気さくで衒いのない人ばかりで、時折、僕に世間話を持ちかける。ある日散歩の途中で出会った、見た目よりずっとロマンチストな中年男性が教えてくれたのだ。
 この町の海はいつも穏やかで、荒れると言うことが全くないが数年に一度嵐が訪れることがある。その時に、人魚の子供が浜辺に打ち上げられることがあるのだと。
 正直に言えば、その時は実にのどかなこの町らしいおとぎ話だと思っていた。だが、この町に来て初めての嵐を経験し、三日三晩家の中に閉じこもった後ようやく静まった浜辺を歩いている時に、僕は「彼」を見つけたのだ。嵐のせいで、浜辺に打ち上げられた海の藻屑達に混じって、一人の少年が倒れていた。僕は驚いてその少年を抱き上げるとその頬を軽く叩く。少年は暫く目を覚まさなかったが、やがてケホケホと小さな咳を吐き出してその瞳を開いた。開かれた瞳は、まるで夜の海のような美しい漆黒の瞳で、僕は一瞬吸い込まれそうになる。この地方では黒い髪も黒い瞳もとても珍しかったので彼の容姿は僕に衝撃を与えるには十分だった。
 少年は、その黒い瞳で僕をじっと見つめ、それから不思議そうに首を傾げた。きょとんとしたあどけない表情のまま僕を見つめ、それから自分の体を見つめ、最後に驚いたような表情で自分の足をさすった。それで、僕は漠然と、嗚呼、この子は人魚の子供なのだろうと思いその子を拾って自分の家に連れていくことにしたのだ。
 彼は驚くほど警戒心が無く、僕が手を引いて上げると何の抵抗も示さず僕について歩き始めた。ただ、酷く歩き方がぎこちない。足を引きずるような歩き方なのだ。やはり、魔女にもらった足では歩きづらいのだろうと思い、
「大丈夫かい?」
 と、尋ねると、彼は不思議そうな顔で僕を見つめそれから首を少し傾げてにこりと笑った。その表情が、とても無防備で可愛らしく僕をとても暖かい気持ちにする。
 僕は優しく彼の頭を撫でると、その小さな手を引いてゆっくりと浜辺を歩いた。

 やはり、彼は人魚の子供だったらしく、言葉が話せなかった。
 地上を歩く足をもらった代わりに、美しい声を捧げたのだと思ったら彼が、酷く可哀想に思えて、僕は彼のために何でもしてあげたくなった。けれども、彼は多くを欲しがらない。ただ、僕が彼に優しく触れるのをとても好んだので僕は、しばしば彼に触れた。
 僕は、彼を見て初めて、人間というものが美しい形をしているのだと知った。
 すらりと伸びた細い手足。無駄な肉の付いていない、それでいて痩せぎすではない、しなやかな胸や腰。天使の羽が生えていないことが不自然にすら思える滑らかな背中と惜しげもなく無防備に晒されている華奢な首筋。隅々まで隙のない美しい指先の爪はまるでピンクの桜貝でも貼り付けているかのような繊細さだった。
 そして、何よりも僕が気に入ったのはその透き通った漆黒の瞳だった。
 汚れのない光を湛えて、ゆらゆら揺れながら僕を見つめてくる。目が合うと、嬉しそうに静かに笑う。その嬉しそうな顔が見たくて、僕は彼の頭を撫でたり彼を優しく抱きしめたり、その頬にキスを上げたりした。
 嗚呼、なるほど。
 誰かを慈しむという気持ちはこういう気持ちだった、と不意に思い出す。
 今まで、人との柵や煩わしさに目が眩んですっかり忘れてしまっていた。人と人は傷つけ合うこともあるけれど、こんな風に慈しむことも出来るのだ。それならば、僕らはこうしてここで身を寄せ合って暮らしていくのも良いだろうと思った。

 ところが、とある満月の夜から、突然に彼が変わってしまった。
 それまで、彼は僕にとても懐いていて頭を撫でて上げるだけでも嬉しそうに笑っていたのに度々、海を見てははらはらと悲しそうに泣くようになってしまったのだ。
 僕は、一体、何がどうしてしまったのか分からず、ただ、優しく彼を抱きしめて、その頬を撫でるしか出来ない。それでも、やはり、彼は悲しそうにはらはらと泣き続けるのだった。
 よもや、仲間のことを思いだして恋しがっているのかと尋ねても、ただ首を横に振り、はらはらと泣くばかり。僕はもう全くお手上げで、ただ強く彼を一晩中抱きしめているしか出来なかった。
 仕方無しにある日、僕は彼を家に残しただ一人浜辺に出かけた。僕に人魚のことを教えてくれた男性を捜してフラフラと波打ち際を散策する。ようやくその人を見つけて事情を話すと、彼は「その人魚の子は、泡になるのを恐れているのだろう」
 と、教えてくれた。
 人魚が足を得たのは愛する人の側にいたいがため。
 もし、愛する人の心を勝ち得なければ、魔女の魔法で人魚は泡になって海に溶けて消えてしまうのだ。
 なるほど、彼は、泡になるのを恐れて海を見つめて泣いているに違いない。
 男性は、人魚を海に溶かしたくないのなら愛する人を見つけて上げなさいと最後に言った。
 僕はもう一度彼の嬉しそうなあの笑顔が見たかったので彼の愛した人を捜して上げることにした。
 早速家に帰り、彼にそれを伝えたのだけれど彼は、不思議そうな顔で僕をじっと見つめて首を傾げるばかり。
 しかも彼は声を魔女に奪われてしまったのだから彼の愛した人をどうやって捜して上げたら良いのだろうかと今更ながら途方に暮れた。
 ただ気休めに彼の体を抱き「君が愛したのが僕ならば、僕は、幾らでも君に心をあげるだろうに」
 と、ぼんやり呟くのが関の山。
 けれども、僕がそう言うと彼はふと顔を上げ僕の瞳をじっと見つめた。
 それは、偶然の悪戯。
 甘美な誘惑。
 それとも、気まぐれな人魚の暇つぶし?
 それまであどけないと思っていた黒い瞳に何とも抗いがたい艶のようなものがふと浮かぶ。
 未成熟なその肢体が拙い媚態を見せたとき、溜まらず僕は彼に口づけた。
 遠くで、静かな波の音。
 水面に光を落とす月は、僕らの所在を明らかにする。
 それまで、慈しみと親愛の意味でしか触れたことのない唇が途端に、癖になりそうな官能的な甘さを露呈し僕に狂ったような衝動を起こさせる。
 彼は、驚きも、抗いもしなかった。
 ただ、緩やかに僕の首に背に、腕を回して抱きしめ、爪を立て、しがみつき。
 予想だにしなかった淫らさで僕を更に煽り立てる。
 彼の体はしなやかで、滑らかで、甘くて不思議な引力で僕をどこまでも沈めてしまう。
 まるで、船人を誘惑し海の底に引きずり込む悪い人魚のように。
 頬を上気させ、薄い胸を上下させ必死に空気を取り込もうと喘ぎ、背中をしならせてまるで陸に打ち上げられた魚のように、彼は僕の下で果てた。
 すぐ近くで波の音。
 汗で額に張り付いた彼の夜の海色の前髪を人差し指で掻き上げるとくすぐったそうに笑い、僕の体に自分の体をすり寄せる。
 それが何だか嬉しくて、彼の形の綺麗な桜貝みたいな爪にキスをした。
 すると彼は、楽しそうにくすくす笑ってお返しみたいに僕の指にキスをした。
「ねえ、君、僕の心を上げるから海に溶けたりしないでずっとここにいておくれ?」
 僕が睦言を囁くと、彼は口を開きなにやら訳の分からぬ言葉を吐き出した。
 僕は、それに仰天して慌てて体を起こす。
 彼の言葉の意味は全く分からなかったけれど、でも確かに彼は声を出しその声は、ただの普通の少年の声だった。
 彼は、魔女に声を奪われたはずではなかったのか。
 僕は、驚いて彼に尋ねたけれど、僕に彼の言葉が分からないように彼にも僕の言葉が分からないらしく、意志の疎通がままならない。
 仕方なく、僕は彼を町一番の物知りだという老人の家に連れていった。
「ふむ。東の国の言葉じゃのう」
 老人は簡単に言うと、彼の言葉を聞き始めた。
 それによると、真相はこうらしい。
 彼は東の国の住人で、ある日家族と共に航海に出かけた。
 ところが、彼の乗った船は運悪く嵐に遭遇し、その船は難破してしまい彼も、もう、死んでしまうと思っていたのだが、運良くこの町の浜辺に打ち上げられたというのだ。
 口がしばらくきけなかったのは、嵐のショックで話せなくなっただけで満月の夜に泣いていたのは、家族のことを思っていたからだという。
 もちろん、彼は東の国の言葉しか知らないから僕が何を言っていたのか全く分からず、いつも不思議そうな顔をしていたらしい。
 僕は、すっかり気が抜けてしまって、彼を人魚だと思っていたいきさつを話したら老人にはロマンチストだと大笑いされ、彼にも苦笑いされた。
 実は、この町で言われている「人魚」とはロマンチックな出会いを期待する若い人たちが言い出した「恋人」を暗喩する単なるジンクスだったらしい。
 こうして僕にかけられた嵐の魔法はあっさり解け人魚の子供は、僕の目の前からいなくなってしまったけれど。
 彼は、そのあどけない顔ではにかみ少しだけ頬を染めて何事かを老人に告げた。
 老人はそれを聞くと楽しそうに笑い僕の顔を見る。
「この少年が、君を好きだと伝えてくれと言っとるがのう」
 それを聞いて僕が彼を見ると、彼は頬を染めたままにこりと笑った。
 その笑顔の威力は、口では到底言い表せない。
 本当の人魚の子供なんて足下にも及ばぬ魅力で僕を引きずりおろしひざまずかせる。
 僕は、老人に簡単な謝礼を述べ、彼の手を引いて家への道を辿った。
 真実が明らかにされて、まあ、暫くは色々と面倒なことも多かった。
 僕は、彼の国の言葉を何とか覚え、彼は僕の国の言葉を何とか覚え彼の家族が、無事に別の浜辺に流れ着いていたこともわかったけれど。
 何だ、かんだと良いながら、結局、彼が海に溶けてしまうことも無かったし相変わらず、満月の夜には、度々、その瞳と体で僕を困らせたりもしているけれどとりあえず、僕は、人を思う気持ちを思いだして蜜月のような幸せな日々を送っているのです。





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