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金糸雀 ………………………




 唄(うた)を忘れた 金糸雀(かなりや)は
 後(うしろ)の山に 棄てましょか
 いえ いえ それはなりませぬ

 唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は
 背戸(せど)の小薮(こやぶ)に 埋(い)けましょか
 いえ いえ それはなりませぬ

 唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は
 柳の鞭(むち)で ぶちましょか
 いえ いえ それはかわいそう

 唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は
 象牙(ぞうげ)の船に 銀の櫂(かい)
 月夜の海に 浮(うか)べれば
 忘れた唄を おもいだす





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 ** 蒼い月夜の晩でした。 **






 僕等は旅の楽師だった。気ままに歌を歌い、弦を奏で、一夜の夢を紡いでお金をもらって暮らしていた。
 僕は、歌うたい。
 相棒の少年は暫く前に砂漠で出会ったのだが、なぜだか不思議にウマがあったので一緒に旅を続けている。
 彼が弦を爪弾き、僕が歌う。すると、お金持ちがお金をたくさん投げてくれる。
 一人で歌っていた時よりも、彼が弦を爪弾き、それに合せて僕が歌う方が倍もお金がもらえた。面白いくらいお金が儲かるので、僕は彼と旅を続けることにした。彼はどちらかというとおとなしい性質で、僕が一緒に旅をする事をもちかけたならば、頬を微かに赤く染め、はにかみながら頷いた。
 僕は、彼の夜の闇のような真っ黒な瞳と髪を気に入ってはいたが、別段特別な感情はなく、ただ利害の一致のみの理由で一緒にいたに過ぎない。
 僕等は、二人で様々な土地を巡った。

 緑の豊かな国。
 歌を知らない人の街。
 誰も彼もが棒のような手足をしている飢えた国。
 噴水の美しい街。
 お酒の美味しい国。

 そのどれもの場所で、彼は弦を爪弾き、僕は歌を歌った。すると、皆が、拍手する。僕等を賛辞する。お金を投げる。世の中は素晴らしい。まるで、僕等を中心に回っているかのようだった。だのに、彼は多くを取りたがらなかった。もらったお金のうち、質素に生活するのに必要な分だけを取り、残りは全て僕に与えた。
 おかしな少年だ。だが僕には都合が良い。見目麗しく、弦を美しく爪弾き、おとなしく僕の言う事を聞く。理想を絵に描いたような相棒だった。
 そして、ある日、僕は喉を傷めた。その日は、とても偉い王様の前で歌を歌う日だったのだ。僕等は途方に暮れ、仕方が無いので辞退しようと、僕は言った。ところが、彼は、少しの間何かを考え、不意に自分の持つ弦を僕に手渡した。
「君は、弦を弾くといい。今日は、僕が歌を歌う」
「けれども、君に歌など歌えるのかい?」
「大丈夫。もし、王様の機嫌を損ねたのならば、僕だけが罰を受ければいい」
「けれども」
「なに、君は、その弦を右端から順番に弾いていくだけで良い。僕が、それについて歌うから」
 かれは、何事も無かったようにそう言うと、そのまま王宮の真中に、臆しもせずに出ていった。僕は、不安に思いながらも、言われたように、右端から順に弦を爪弾いた。彼の、形の良い口から、するりと声が滑り出す。

 その声の美しい事、艶やかな事。

 いつもの、おとなしい彼からは想像できない堂々たる仕種で、彼は、胸を張り、腕を伸ばし、目を閉じて、天を仰ぐように、声高らかに歌った。

 その、姿、形、の美しい事、艶やかな事。

 僕は、弦を爪弾く事の忘れ、ただ、ひたすらに、彼の声を聞き、彼の姿に見入った。それは、僕だけでなく、その場にいる全ての人も一緒に同じ夢でも見ているかのようだった。その時ばかりは、彼が世界の王様で、世界は彼にひれ伏した。
 全てが終わると、ようやくこの世界に戻ってきた本当の王様は、夢見る少年の態で、僕等にたくさんのお金を与えてくれた。けれども、彼は、そのうちの僅かの取り分を取ると、残りを全て僕に与えた。
「君の弦が素晴らしかったからだろう」
 僕は、酷く惨めな気持ちで、何も言う事が出来ずにそのお金を受け取った。

 そして、その夜、僕は夢を見た。僕は、彼を縄で繋ぎ、柳の鞭で、鞭打っている。
 けれども、彼は、どんなに激しく打ち付けようと決して僕に屈することなく、ひたすら、歌を歌い続けている。
 歌を歌うのをやめろ、と、僕が更に鞭打つと、彼はようやく口を噤んだ。僕は、更に、僕を見ろと、鞭を打ち付けたが、彼はひたすら目を閉じたまま、言う事を聞かない。僕は、何度も、何度も柳の鞭を振るった。けれども、彼は屈しない。更に、何度も柳の鞭を振るうと、彼は、きつく閉じたその眦から、つ、と、一筋の涙を流した。真珠のような涙だ。僕は、それで、ようやく満足して柳の鞭を振るうのをやめた。
「最初から、そうしていれば良かったんだ」
 と、笑って言うと、彼の涙の辿った跡を舐めあげた。潮の香りがした。昔嗅いだ、海の香りと同じだった。

 次の日、僕は目を覚ましてその夢を思い出し、何とも言えない、苦い気持ちになった。彼は、見目麗しく、弦を美しく爪弾き、おとなしく、僕の言う事を聞く文句の無い相棒だ。だのに、僕は、なぜ、あんな酷い夢を見てしまったのだろう。一縷の憐憫も無く、ただ、ひたすらに鞭を振るっていた。僕は、人非人のようだ。何となく気まずく、口数が減った。僕がよそよそしいので、彼はしきりに気にしていた。僕は、何とか作り笑いを浮かべると気のせいだと答えたが。
「今日辺り、喉の調子が戻ったろう。今日は、今日こそは、君が歌を歌うのが良い」
 彼は、僕を慰めるように笑った。否。彼には、慰めるつもりなど、全く無かったろう。彼は、心底、そう思い、そう言ったのだろう。僕は、彼の邪心の無さと、邪気の無さを知っている。とても、とても、よく知っている。だからこそ、尚更、僕は複雑な心持ちに追いやられた。
 その日の夜、僕の喉の調子は、すっかり戻っていたし、決して体調も悪くはなかった。歌う前には、美味しい蜂蜜湯を飲ませてもらっていた。けれども、なぜだか、彼の弦としっくりこない。一昨日までは、まるで、自分の体の一部かと思うほど、何の違和感も無く、ぴったりと息が合っていたのに、一体どうしたことだろう。時折、歌の調子や、早さがずれて何度も彼がヒヤヒヤした表情で僕を見た。
 ああ、僕は一体どうしてしまったのだろう。彼の弦の音が分からない。次は彼がどう弾くのかがわからない。それまでぴったりとはまっていた歯車が、ほんの少しの拍子にガタガタと大きくずれてしまう。そんな風だった。それでも何とか、その日の歌を終え、言葉少なに寝床に戻る時、彼は、困ったような表情で僕を見た。
「すまなかったね。僕の調子が悪かったみたいだ。君の歌に上手に合せる事が出来なかった」
 馬鹿正直に、すんなり謝る彼が、その時ばかりは頭に来た。彼は、全く、いつもと同じ演奏をしていたに過ぎない。昨日と変らぬ、美しい弦の音。それを台無しにしたのは僕の方だったのに。
 僕は、何も応えず、ただ、むっつりと黙り込んだまま寝床に潜り込んだ。彼が、僕の傍らで、何か言葉をかけようとしていた事に気が付いていたけれど、僕は、平気でそれを無視したのだった。

 その日も、僕は夢を見た。
 彼は縄で繋がれたまま、涙を流し、けれども決して目を開いて僕を見つめようとはしない。僕は、やはり、柳の鞭で彼を鞭打った。彼は、ただ、頑なに瞳を閉じ、こうべを振って、やはり、真珠のような涙を流した。僕は、また、それを舌で掬う。またもや、潮の香りがした。僕を見ろ、と、僕は怒鳴った。けれども、彼はこうべを振る。
「後生ですから許して下さい」
 と更に泣いた。それで、僕は、また、少しばかり満足して、
「最初から、そうしていれば良かったんだ」
 と笑った。

 次の日、いよいよ僕は彼の顔が満足に見れなくなった。嗚呼、僕は、一体全体、どうしてあんな夢を見てしまうのか。これまで、ずっと彼といてもあんな風な夢を見た事など、一度たりとて無かったのに。僕は、彼の顔が見れない。彼の黒い大きな瞳を見る事が出来ない。ゆるぎない、汚れない、そんな瞳を見る事は出来ない。
 その日の夜の演奏は最悪で、あまりの出来の悪さに、僕は絶望してしまう思いだった。けれども、やはり、その日も彼は同じような言葉で僕に謝った。誰がどう考えても、僕の歌が最悪なのは明らかだった。それなのに、なぜ、彼は、そんな風に謝るのだろうか。一体全体、彼の心持ちはどういった仕組みになっているのか。僕は、彼の謝罪の言葉に応える気にもなれず、やはり、ただ、黙って寝床に潜り込んでしまうしか出来なかった。

 そして、その夜、やはり僕は同じ夢を見た。彼は籠の中に閉じ込められている。ああ、彼が縄で繋がれていたのは、籠の檻だったのか。僕は、やはり、柳の鞭を振るった。ヒュンと柔らかな茎がしなり、彼の滑らかな背を打つ。彼は、真珠のような涙を流すと、声高らかに歌を歌い始めた。黙れ、と、僕は叫んだ。目を開け、と怒鳴った。けれども、彼は歌う事をやめない。僕は頭に来て、何度も何度も彼を鞭打った。彼は、泣きながら、歌うのを止めると、
「なぜに、この様な無体な仕打ちをなさるのか」
 と、尋ねた。
「お前が歌うからだ」
 僕は、答えた。
「けれども、僕等は鳥なのだから、歌わなければ死んでしまうのです。僕は、歌うためならば何事でも致しましょう。だから、歌を歌わせて下さいまし」
「ならば、目を開け。僕を見ろ。跪いて傅くが良い」
 僕が蔑むように彼に言うと、彼は、ふるりとその長い睫を震わせて、一粒の真珠をほろりと零した。僅かに開いた唇が震えている。暫しの間があった。彼は、酷く怯えた様子でゆっくりとその瞳を開いた。美しい、濡れた漆黒の瞳。哀願するように僕を見つめて来るので、僕は酷く浮き立って、乱暴に彼の黒い髪を掴むと、そのまま、震える唇に口付けた。
 彼は、僕に傅いた。傅いたのだ。
 僕は、酷く愉快な気分で、彼を人形のように陵辱した。
「最初から、そうしていれば良かったんだ」
 そして、やはり、笑いながらそう言った。

 次の日、目が覚めて、僕はいよいよ彼の顔が見れなくなった。話をするなど、とんでもない。近づく事すら出来なくなった。酷く苦々しい思いがした。僕は、一体全体、どういうつもりであんな夢を見てしまったのか。彼は、見目麗しく、弦を美しく爪弾き、おとなしく、僕の言う事を聞く文句の無い相棒だ。だのに、僕は、なぜあんな酷い事を彼に。
 僕は、自己嫌悪と後ろめたさに彼を避け続けた。
 それでも、やはり夜は来る。歌を歌わねば僕等は飢えて死を待たねばならないのだ。僕は、一度も彼と目を合せる事も無く、その日の仕事場に足を踏み入れた。彼とは、その日、一言も口をきいていなかった。彼は、時折、何か言いたげな視線を僕に送ってきていたが、僕には、気が付かない振りをする事しか出来なかった。
 苦々しい気持ちと、空々しい気分で僕は群集に目を向けた。僕の歌と、彼の弦を期待しているその視線が、その時ばかりは、僕を嫌な気持ちにさせた。一体全体、こいつらは、歌など聞いてどうするのか。歌など、何の腹の足しにもなりはしない。世の中の役に立つ事も無い。馬鹿馬鹿しい。それでも、僕は歌わなくてはならない。歌わなければ、今日食べるものにも、寝る場所にも困ってしまうのだから。
 僕は、イヤイヤ口を開いて、今日の歌を歌おうとした。ところが、一体、どうした事だろう。するりと、いつもはいとも容易く滑り出していた声が今日は出てこない。入りのタイミングを外したのかと、彼がさりげなく同じ一節を爪弾いたが、やはり、二度目にも僕の声が出る事は無かった。
 そして、僕は、その時ようやく気が付いたのだ。自分が、すっかり歌など歌えなくなっていた事に。
 群集は、不思議そうに、ざわざわとさざめいている。けれども、僕の喉は、嗄れ果ててしまったかのように、一切歌など出てこなかった。
 僕は、その場から逃げ出し、宿屋に戻り、寝床に潜り込むと体を丸めて頭を抱えた。
 嗚呼、僕は、歌が歌えなくなってしまった。歌えなくなってしまったのだ。
 歌の歌えなくなった歌うたいなど、一体、どんな価値があるというのか。路地裏に捨てられた猫ほどの価値すらない。僕は、いよいよ死んでしまうほか無いだろうと、被っていた毛布を取り去る。すると、僕の傍らに、彼が困ったような顔で立っていた。今にも泣きそうな表情で僕を見つめている。それはそうだろう。歌を歌う人間が突然に逃げ出してしまったのだから、彼にしてみれば良い迷惑だ。いや、それよりも、歌が歌えなくなってしまった今、彼が僕と一緒にいる理由など無かった。
 僕は別れを告げられるのかと思ったが、彼は沈痛な面持ちで、しばらく黙っていたが、やがて、ふいと顔を上げ、僕に手を差し伸べた。
「今日はね、蒼い月夜の晩なんだ」
 そして、その美しい音色を紡ぎ出す、美しい手で僕の手を取る。
「僕と一緒に来てくれないか」
 そうして、僕を寝床から立ち上がらせると、そのまま黙って歩き出した。
 彼は、どこに行こうとしているのだろう。どんどん、町外れの方に向っている。終いには、街から出てしまった。彼は、ずんずんと更に進み、僕を森の奥深くまで連れていった。こんな所まで僕を連れてきて、一体、彼はどういうつもりなのだろう。役に立たなくなった歌うたいを、森の中に捨てていくつもりなのだろうか。そんな、馬鹿馬鹿しい考えが頭を過ぎったが。
 しばらく歩くと、不意に、視界が開けた。
 目の前に広がったのは、美しい湖。
 こんな場所に、これほど広い水場があったなんて、露程も知らなかった。僕は、驚いて言葉を失う。彼は、更に僕の手を引くと、粗末な作りの、ただ、板を繋げただけの船着き場に連れていった。そこには、一艘の粗末な小船が。
 彼は、緩やかに僕の背を押し、その小船に乗せると自分は櫂を持ち、のんびりと船を漕ぎ始めた。僕と彼を乗せた粗末な小船は、やがて湖の真中当りで止まった。彼は、櫂を置くと、僕の顔を見詰め酷く穏やかに笑った。
「上をご覧。今日は、奇麗な月夜だよ。こんな日は、何もかも忘れて、ただ、水の上を漂うのが良いとは思わないだろうか?」
 彼はそう言うと、ただじっと、真ん丸の、銀色の月を見上げた。僕は、彼の真意が読めず、ただ、戸惑いながらも辺りを見回す。こんな場所があるなんて、少しも知らなかった。それにしても、ここは、何と美しい場所だろう。青く澄み切った湖水が、夜の群青に更に深みを増し、空には銀色の光の矢を放つ月が浮かんでいる。その月が、更に、湖面に映り、それは、幻想的な風景だった。
 彼は、ひたすら、穏やかな表情のまま、月を見つめていたが、不意に唇を開き、ある、歌の一節を歌いだした。

 唄を忘れた 金糸雀は
 後の山に 棄てましょか
 いえ いえ それはなりませぬ

 唄を忘れた 金糸雀は
 背戸の小薮に 埋けましょか
 いえ いえ それはなりませぬ

 唄を忘れた 金糸雀は
 柳の鞭で ぶちましょか
 いえ いえ それはかわいそう

 唄を忘れた 金糸雀は
 象牙の船に 銀の櫂
 月夜の海に 浮べれば
 忘れた唄を おもいだす



 歌詞など、ひどく子供じみた馬鹿馬鹿しい文句。曲調さえも、単純な、飾り気も何も無い素朴な曲調だったが、僕には、今迄聞いた事のあるどんな歌よりも、美しい歌のように聞こえた。そして、それを歌う彼の姿も。
 蒼い夜と、銀色の月と、群青の湖と、その上で、ただ無心に歌う彼。
 その情景の何と美しい事。
 彼は、僕を責める事を一切せずに、ただ、ひたすら、その美しい歌を歌い続けた。
 嗚呼。僕は、何と愚かだった事だろう。僕は、ただ、彼の心の美しさと、清らかさを愛しただけだったのだ。元々は、ただ、そうした、単純な心持ちであっただけなのだ。僕は、彼の黒い髪を愛し、彼の澄み切った黒い瞳を愛し、艶やかなるその声を愛し、清らかなるその心を深く愛した。だのに、愚かな僕は、そんな事も分からずに歌を忘れてしまった。忘れてしまったのだ。

 涙が溢れて止まらなかった。

 彼は僕が泣いているのに気がつくと、驚いて歌うのをやめ、オロオロと僕の顔を覗き込んだ。
「どうしたんだろう。どこか痛いのだろうか」
 僕を心底、心配する、そのあどけない声に、僕はたまらなく愛しさが込み上げてきて、どうしようもない心境に陥った。僕は、彼の腕を強引に掴むと僕の方に引き寄せる。船は僅かにバランスを失い、ゆわんと揺れ、静かだった湖面に波を起こした。僕は、ただ、切なさと、愛しさ故に彼に口付けたが、彼は酷く驚いていたようだった。
「ああ、僕は、君が好きなんだ。ただ、好きなだけなんだ」
 僕は、驚愕と、拒絶と、侮蔑を覚悟してそう告げたが、彼は、豆鉄砲をくらった鳩のように目を大きく見開いて、それから、不意に、その子供のような頬を赤く染めた。彼は、何やら、酷く興奮しているような仕種で、僕の手をぎゅっと握り、真摯な眼差しで僕を見つめる。
「本当に? 僕をからかっているのではなくて? 僕も、君がとても好きなんだけど」
 彼が、らしくもない早口の口調で告げるのを、今度は、僕が驚愕のうちに聞いた。だがしかし、僕等には言葉の壁があるのだと、思い当たり、苦虫をかみつぶしたような苦い思いで更に口を開く。
「僕の気持ちは、君の言うような汚れの無いものとは違う。例えば。例えば、君と裸で抱き合いたいと言ったような、心持ちだ」
 僕が正直に告げると、彼は僅かに頬の赤味を増し、けれども、怒った様子も無く、その黒い目をきょとんと開いて僕を見詰めた。
「好きな人と、裸で抱き合いたいと思う事は、醜い事なのだろうか? 僕は、君と唇を重ねても、体を重ねても、決して不快だとは思わないだろうが」


 嗚呼、本当に。
 僕は、この日ほど、ありとあらゆるものに感謝した事は無かっただろう。彼の清らかさは、何事をもってしても、壊される事などありはしない。ありは、しないのだった。その汚れの無い、純粋な好意を僕に向けてくれる、ただ、それだけで、幸福だと言う事に僕はようやく気が付いた。
 僕は、無言で、何度も彼に口付ける。
 蒼い夜と、銀色の月と、群青の湖と。
 美しいその情景の中で、彼は、僕の腕の中に留まり、先ほどとは違う、また、何とも艶やかな歌を、僕だけに聞かせてくれたのだった。



 さて。
 けれども、人間など愚かなもので。
 次の日には、僕等はまたいつも通り。彼が、弦を爪弾き、僕が歌を歌う。
 不思議な事に、僕と彼はまた、まるで兄弟かのようにピタリと息が合うようになり、もう、歌が歌えないと泣いた昨日が嘘のように、僕はまた歌を歌っている。そして、お金持ちはお金を投げる。以前とは何も変ってはいないようだ。ただ、違うのは、少しばかり、彼の取り分が増えただけ。
 ああ、まことに、人間とは懲りるという事を知らぬ愚かな生き物。けれども、僕は歌わねば飢えて死んでしまうので、幾ばくかの欲と、俗にまみれ、決して澄み切っているとは言い切れぬ心持ちで、日々をなんとか暮らしている。

 それでも。

 時折、僕等は口付けを交わし、青い月夜の晩は、裸のままで抱き合う事も、しばしば。
 そして、僕は、その度に心洗われ、彼の清らかさを、更に愛する日々なのです。



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