泣きボクロ 3 ……………………………… |
「俺と蓮川の関係って何?」 一宮裕太が、セックスの後で何気なく蓮川要に尋ねた質問だ。 一瞬、何を尋ねられたのか分からずに、蓮川は目を大きく見開いた。この期に及んでこの男は何を言い出し始めたのか、と呆気に取られたからだ。 首尾良く裕太と初めて寝て、押しの一手でなし崩しに落としてかれこれ一ヶ月は経った頃だ。 三日と明けず、実に情熱的なセックスを繰り返している相手から、よもやこんな質問をされるとは、蓮川が20年生きてきて初めての経験だった。 鈍い鈍いとは思っていた。自分が周りに与える影響と言うものにも、とんと疎い。ある種の人間に対して強烈なセックスアピールを発しているという事にも全く無自覚で、無防備な事この上ない。 特に、蓮川と関係をもってからのフェロモンといったらただ事ではなく、この間の酒の席で、隣の研究室の男が、 「俺、ヤバイのかなあ・・・最近、ユウタ見てるとムラムラすんだけど・・・俺、道踏み外したのかな・・・」 と、酔っ払って真剣に悩んでいたのを目撃してしまったばかりだ。 見せびらかすつもりで連れて行った父親が経営しているクラブやバーにも、隙あらばとユウタを狙っているヤツが何人かいる。 だが、当の本人は、それに全く気がついていない。下心が見え見えの男に対して、簡単に酔っ払って無防備な笑顔を振りまいている。 正直言って、心配で仕方がなく、この一ヶ月間、蓮川は気の休まる時がないと感じていた。それでも、セックスをしている時だけは他の連中には見せない淫蕩な表情を隠すことなく曝け出してくれるし、それなりに、裕太から誘ってくる事もあったから、何とか耐えてこれたというのに。 言うに事欠いて二人の関係は何か? とは一体、何のつもりだ、と、腹が立った。 嫌味のつもりで、 「セフレだろ?」 と言ってやれば、反論もしてこない。少しは否定しろよ! とイラつきながら蓮川は、さらに嫌味を重ねてやったが、それにも裕太は反論することなく、投げやりに肯定してそのまま寝てしまった。 懐かないノラ猫。 蓮川にとっての裕太はまさに、こんな存在だった。いっそのこと、鎖に繋いで軟禁してしまおうかとさえ思う。部屋に閉じ込めて、他と接触させないで、飼い殺しにしてしまいたい。 そんな物騒な執着を持っていると気がついているのかいないのか。 酷い猫背で、本物のネコみたいに小さく丸まって寝ている体を背中から抱きしめて蓮川は小さな溜息を吐いた。 * * * 「だっから忠告してやったってのにサ。あんたも大概バッカよねー」 ケラケラと楽しそうに笑いながらイチコはマニキュアを直している。講義の終わった講義室。五限目の講義だったので、この後はもう講義は一つもない。室内にはイチコと蓮川の二人きりだった。 「放っておいてくれよ。・・・つーか、あんなに一宮が手強いとは思わなかった」 「そ? でもエッチはしてんだから良いじゃないの。是非、一度、ユウタが蓮川に鳴かされてるとこを拝見させて欲しいもんだわね。さぞかし絶景なんでしょうねえ」 「減るからお前には見せない」 「あら。すげないわね。それにしても、思ったよりハマっちゃってる?」 明らかに面白がっている様子のイチコに、蓮川は不機嫌な顔を見せ、フンと鼻で返事を返す。 「ま、ユウタがああいうヤツだから、ハマるとは思ってたけど・・・蓮川がこんなに誰かに執着するヤツだったなんて、ちょっと意外だったわ」 「・・・悪かったな」 「悪くなんてないわよー。イイ男が苦悩してる姿は目の保養だし?」 チラリと爪の先から視線を上げてイチコは意味深な表情を見せた。 そうだった。コイツは根っからのサド女だった、と蓮川は肩をすくめる。 「・・・一宮って、淫乱なんかな」 「あら。何よ、やぶからぼうに。ユウタがそれ聞いたら頭から湯気出して怒るわよ?」 「セックスの時と普段の落差があり過ぎんだよ、アイツは」 そう。ベッドの上では酷く素直で、蓮川にも、快楽にも忠実なくせに、終わったとたんに冷めた表情を見せる。ツンと澄ましている、隙の無いそんな表情もキライではないけれど。 たまには、自分に関心があるような素振りを見せてもらえないと、さすがの蓮川も自信がなくなってくるのだ。 珍しく、煮詰まっている蓮川をイチコは実に楽しそうに眺める。いつもは、どこか余裕のある態度で、一段高いところから冷静に人と接しているような印象を受ける男。だが、その実態がかなり歪んでいると、イチコは初めて蓮川と一言二言言葉を交わしただけで分かったしまった。 多分、自分と似た空気を持っているからだろう。 余り褒められたものではない性癖と、性質。同類相憐れむつもりもなければ、傷を舐めあうつもりも無い。だが、不穏な企みを共謀するには実に持って来いの相手だ。 「Love is blindってのは良く言った言葉ね」 マニキュアを塗り終えた手をヒラヒラと振りながらイチコはクスリと笑った。いっそ、毒々しいような真っ赤な爪が宙を舞う。独特の有機系の匂いがあちこちに振りまかれる。 「何だよ?」 「恋は盲目。って言うじゃない? ユウタなんて、ちょっと見てりゃ簡単に分かるけどね。蓮川の頭に血が上ってるってコト」 「どういう意味?」 「どうもこうも無いわよ。あんたたち似たもの同士ね。駆け引きしすぎ。ま、ユウタは駆け引きの自覚はなさそうだけどネ」 さらに爪を乾かそうとして、イチコはふうっと爪に息を吐きかける。爪と同じくらい真っ赤な唇が誘うように窄められるのを見て、蓮川はゲンナリした。 実に、魅惑的で色気のある唇にうっかり騙されて引き寄せられる人間はさぞかし多い事だろう。だが、イチコの魅力は獲物をおびき寄せる餌でしかないと蓮川は思う。華やかなバラには棘があり、鮮やかな美しい蛇には毒がある。騙される人間はバカだな、と思いつつも気の毒だとも思った。 恐らく、イチコにそう言ったなら、同じ言葉がそっくりそのまま蓮川に返って来ただろうが。 「そんなにユウタに縋って欲しいなら焦らしてみたら?」 何か、良からぬコトを思いついたときの表情でイチコは上目遣いに蓮川の顔を覗き込む。 「どうせ、あんた達サルみたいに毎日セックスしてんでしょ? ちょっと、ユウタと距離を置いてさ、反応見てみたら?」 イチコの発言にはつっこみたい場所が多々あったが、文句を言ったところで取り合わないのは目に見えていたので蓮川は敢えてコメントを控えた。それに、裕太と距離を置いて反応を見てみるという提案は、悪い提案では無い。だがしかし、あのツンと澄ました懐かないネコが、たったそれだけの事で折れたりするのかという疑問もある。距離を置いたところで、冷めた表情で、「あ、っそう」としか言わないような気がして、蓮川は理不尽に裕太に腹を立てた。 「そろそろ乾いたかな・・・じゃ、アタシは行くから。これから約束あるのよ」 上機嫌でにっこり笑ってイチコは席を立つ。その上機嫌からして、今日は「本当の」恋人に会いに行くのだろう。一度、蓮川が偶然会ったことのあるその少女は、意外なほど地味で、どこかあどけない垢抜けない少女だった。ただ、眼鏡の奥の瞳がとても利発そうだったのが印象に残っている。イチコの相手にしては酷くまともそうな少女で、蓮川はその少女を気の毒に思ったものだ。 「ああ、じゃあな」 どうでも良さそうに等閑に手を振る。 一人きりになってシンとした講義室で蓮川は、イチコが言っていた事を真面目に考え始めていた。 サルと指摘されるのは甚だ心外だが、あながち否定も出来ない。裕太の体調と二人の時間の都合が許すときは殆ど毎日セックスしているからだ。少なくとも三日と空けた事は無い。 まあ、付き合い始めた恋人同士ならそんなものだと言えなくも無いが、裕太の態度を見ていると、『恋人同士』という言葉が当てはまるのかも怪しい。 「一週間くらい、置いてみるかな」 ポツリと独り言を漏らす。それでも、一週間と言う期限を切る辺り、相当やられているなと自嘲的な気分に陥った。色恋がらみで、ココまで度を失うのは本当に珍しい。もしかしたら、初めてのことかもしれない。 生まれたときから特殊な環境に置かれてきたせいか、そもそも、蓮川には恋愛に溺れるという経験が殆ど無かった。初めて女とセックスしたのは十も年上の、しかも商売をしている女だったし(正確には父親の店の従業員だ)、初めて男とセックスしたのも似たような状況だった。 年上の、後腐れの無い、しかも性技に長けた玄人ばかりを相手にしてきた蓮川にとって、裕太は殆ど未知の存在と言っても良い。 同じ年頃の、しかもごく普通の学生なんて、相手にするだけで煩わしいと思っていた半年前が懐かしい。 一体、何がどうなってこんな罠にはまってしまったのかさっぱり分からなかったが、それでも、蓮川はこの状況が楽しいと思っている自分を否定は出来なかった。 * * * 苛々としながら煙草を口に咥え、ライターを取り出す。カチカチと何度か火をつけようとしてみたが、運の悪い事にガスが切れているようで、一向に上手くいかない。すると、スッと隣から火の付いたライターが差し出される。チラリと目線をそちらにやれば、飲み会が始まってから自分の横にずっとへばり付いている女が、まるでホステスのように火を差し出しているのだった。 確か、カオリだか、カオルだかいう女だったなと蓮川は冷めた目でその女を見た。その視線をどう勘違いしたのか、カオリは媚びた上目遣いで蓮川を見詰めにっこり笑った。 「ライター、ガス切れてるみたいだから。どうぞ?」 「・・・どうも」 余りに板につきすぎて、もう、自分でもそれが本性なのではないかと勘違いしてしまいそうになる愛想笑いを浮かべ蓮川は礼を言った。カオリは、その笑顔を見てほんのりと頬を赤くする。多分、普通の男が見たら、カワイイと思うのだろう。「普通の」男だったら。 だが、悲しいかな、蓮川は普通の男ではなかった。 いつまでも、人の隣にへばりついていて鬱陶しいと思う。そもそも、ライターを持っているということは煙草を吸うという事だ。蓮川はあまり女が煙草を吸うのが好きではない。裕太は煙草を吸わない、煙草を吸った直後にキスをすると苦くてイヤだと言ったことがある、と考えて、大分遠い席に座っている本人を盗み見た。 蓮川の苛々など知りもせずに、暢気にビールを飲んでいる。少し酔いが回っているのか白い頬が少し赤みを帯びて、目が心なしかトロンとしているようだった。危なっかしい雰囲気極まりない。 しかも、裕太の隣に座っている男は、確か、以前、裕太を見ると変な気分になると言っていた男だ。そんな男をなぜ、平気で隣に座らせているんだと、自分のことは棚に上げて蓮川は理不尽に腹を立てた。 イチコに言われたからという訳でもないが、何となく、蓮川は裕太と一週間ほど距離を置いてみた。もちろん、セックスもしていない。その間に、裕太から何か言ってくるかと思ったが、残念ながら蓮川のもくろみはあっさりと裏切られた。ケロリとした顔で、蓮川に頓着などしない。しかも、今日になって、少し躊躇いがちに、 「蓮川、今日、来る?」 と尋ねてくるから、もしかして裕太から誘ってきたのかと思えば、単に、合コンに呼ばれているから予定を聞いただけだと言った。余りに腹が立ち、たまたま同じ合コンにイチコに誘われたので参加してしまった。 普段なら、煩わしい事がキライなので合コンなど殆ど断っているのだが。 その合コンも蓋を開ければこんな状態で、蓮川の苛々は頂点に達しようとしていた。が、幸いな事に、蓮川は感情が表に出にくい。使い慣れた愛想笑いを振りまけば、周りの人間は勝手に誤解して勝手に納得する。恐らく、カオリも蓮川が非常に機嫌が悪いなど全く気がついていないだろう。 結局、その、不愉快極まりない合コンはそのまま終わりを告げ、蓮川は面白くない気分のまま帰ってしまおうと思っていたのに、良くないことは重なるらしい。 ずっと、ひっついていたカオリは何を勘違いしたのか、業とらしい態度で蓮川にしなだれかかって、酔ってしまったので送って欲しいと媚を売る。 ほとほと煩わしくて、いっそ振り切ってしまいたかったが、さすがに女性にそんな態度も取れずに成り行き上、送っていく事になってしまった。 だが、部屋に上がっていって欲しいというカオリのお誘いには丁重にお断り申し上げた。 馬鹿馬鹿しい。こんな女と寝るくらいなら、裕太をとっ捕まえて部屋に連れ込んで泣かせた方が余程楽しい。表面上は至極、真面目な顔で誠心誠意お断りしながら、内心ではそんな失礼な事を考えている最低な蓮川だった。 * * * 恋は、惚れた方が負け。 高校生の頃、一回りも年上の女と寝たときに言われた言葉だが、その頃はまったく意味が理解できなかった。その女性ともサバけたドライな関係だったし、その前に付き合っていた女も、その後に付き合った男も似たようなものだった。 だが、今なら、その言葉の意味が良く分かる。 今、蓮川のマンションの冷凍庫の中には昨晩コンビニで買ってきたアイスが眠っている。蓮川は普段、余り甘いものを食べないので裕太の好きなアイスが結構高い事に少しだけ驚いた。そもそも、付き合っている相手にこんな風に気を使ったり、心を砕いたりしている自分にはもっと驚きだ。 こんなに自分は堪え性がなかったのだろうか、自分はもっと淡白だったのではないかと思ったが、これ以上は蓮川のほうが我慢できなかった。 裕太の方から縋ってくるのを待つ、などと悠長な事を言っている余裕は既にない。イヤだと言われても、無理矢理連行してしまうだろう程、切羽詰っていた。 余裕の無い態度で裕太を誘えば、不思議な表情で蓮川を見上げている。 その気があろうがなかろうが、下から見上げているだけで誘っているように見えるから始末に終えない。だが、そう見えているのは、自分がバカになっているせいかもしれない。 「・・・良いよ」 と、熱を吐き出すように呟かれた言葉は簡単に蓮川の体温を上げてしまう。 タチが悪い。本当にタチが悪い。 イチコの言ったとおりだ。 中毒性の強いドラッグみたいな男。 完全に、その毒に参っている自分が余りに馬鹿馬鹿しく、滑稽だったが、そんな自分は嫌いじゃない、と蓮川は思った。 * * * 「・・・アッ・・・ハァ・・・ンッ・・・まっ・・・待って・・・」 白い腕が空を切ってシーツの上を滑る。いつもは猫背の背中がこの時ばかりは綺麗にしなって、それを後ろから見るのが蓮川は好きだった。だから、裕太はあまり好きな体位ではないが、時々蓮川はこの体位を強制する。 グッと深く抉ってやれば、腰が跳ね上がって、 「アアンッ!」 と、嬌声が漏れた。いつもは隙の無い澄ました顔が快楽に溺れている様が堪らない。服従させて、支配しているような錯覚がじわじわと体を侵食していく。これが、裕太の毒の本質のような気がした。 プライドの高い、懐かないネコが完全に自分のモノになったような錯覚。 もちろん、それとは別に堪らない色香が裕太にはあって、それも性的な衝動を激しく刺激する要因ではあるけれど。 多分、無意識なのだろう。あるいは生理的なものか、裕太の眦が涙で濡れる。そこにある泣きボクロも濡れて、蓮川は多少強引に体勢を変えてその泣きボクロをネットリと舌で拭った。 体勢を変えた事で、裕太の口から、悲鳴のような喘ぎ声が上がる。 声も、顔も、体も、裕太のその何もかもが蓮川を浮き立たせてどうしようも無くしてしまう。挙句、 「顔・・・見たい・・・」 などという言葉を吐いて、ますます夢中にさせてしまう。この男は俺に殺されたいのかと呆れたが、 「・・・達く時にキスしようぜ」 と甘ったるい言葉を返してしまう。自分はどうしようもない阿呆だと思いながらも、背中に立てられた爪が、痛みとジワジワ体に染み込む毒のような快感を体に刻み込んだ。 * * * 餌付けは、どうやら成功したらしい。 美味しそうに蓮川が買っておいたアイスを食べながら、裕太はやたらとニコニコしている。しかも、素直に、「愛してる」などという言葉まで返して寄越した。 なるほど、ネコを手懐けるにはやはり餌付けかと、妙に納得した蓮川だった。 それ以来、蓮川の部屋の冷蔵庫には、山ほどアイスだのプリンだのが常備されるようになったが、裕太が陥落したかどうかは定かではない。 --- end. |