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泣きボクロ 1 ………………………………
 オトコは引き際が肝心とは、誰が言い出した言葉だったのか。
 そう言えば、スキューバーダイビングにハマっている従兄弟が言っていた言葉を思い出す。
 海の美しさに惹かれて引き際を間違えると溺れてしまう危険性があると。
 まさに、自分は引き際を間違えて溺れてしまった愚か者だ、と、一宮裕太は深々と溜息を吐いた。
 かなり汚れてボロボロなゼミ室のソファーにぐったりと凭れたまま、体を起こす気力も無い。吐き出す息は熱と倦怠を含んでいた。
 そんな裕太の気分など一向に解しもせず、換気扇の下で煙草を悠々と吹かしている男を ぼんやりと眺めながら、裕太は無意識に、ダラリと腕を投げ出した。
「今何時?」
「ん・・・11時過ぎ」
 二人でシケこんでから既に3時間が経過している事になる。
 今頃、ゼミの仲間達はいなくなった二人に気がついて探しているだろうか。いや、みんな、かなり酔っ払っていたからそのまま誰かのアパートに雪崩れ込んで二次会に突入している可能性のほうが高いだろう。
 不意に、蓮川要は煙草を灰皿に押し付け、裕太の方に振り返った。裕太の目を見詰めたまま、性悪な笑みを浮かべる。普段は見せないようなタチの悪い笑い顔。
 蓮川が聖人君子だなどと言ったのはどこのどいつだ、と心の中でツッコミを入れつつ、裕太は視線をはずす事ができない。タチが悪い。本当にタチが悪い。挙句、蓮川の口から出た言葉は。

「一宮が、こんなにエロいヤツだなんて知らなかったな」

 一瞬言葉の意味が理解できず、理解できた途端に裕太は頭が沸騰するかと思った。
『その言葉、そっくりそのまま返してやる』と、怒鳴ろうとした瞬間、
「泣きボクロがある男は性悪だって言うけど、本当だな」
と、蓮川に続けられ言葉を失う。ソファに横になったまま、グシャグシャと無造作に髪の毛をかき回し、
「蓮川にだけは言われたくない。性悪なんて、お前の為にあるような言葉だろうが」
と言い返せば、何が楽しいのか肩を震わせて笑いを堪えている。
 そんな風に肩を震わせて笑いを堪えている姿さえサマになるなんて詐欺だと、裕太は自分を呪った。
 一体、どうしてこんな事になったのか。
 いや、最初は自分から望んで仕掛けたはずだった。
 それが、どこでどう間違ってこうなったのか。
 問いかけてみても答えなど出なかった。



* * *


 夏の終わり。
 研究の中間発表の打ち上げと称して、花火大会を開こうと言い出したのは確か、イチコだった。
 面倒くさいと思いつつも、裏で「女帝」とあだ名されているイチコに逆らえるものなどおらず、結局、キャンパスから歩いて五分の海岸で花火をすることになった。
 ビールを飲みながら、花火を振り回したり、ロケット花火を人に向けてふざけたり、線香花火を誰が長持ちさせられるか競争させたり、と、そこまでは、まあ、普通の風景だったはずだ。
 裕太も、線香花火を一束まとめて燃やしたり、ねずみ花火を人に投げつけたり、とそれなりに楽しんでいた。
 それが、だんだんとアルコールの量が蓄積されて、他の皆も行動が怪しくなってきて。
 そんな時間帯だった。
 ふと、波打ち際が奇妙に光っているような気がして、裕太はフラフラと人の輪から離れて海のほうに向かって歩いていた。
 波打ち際のすぐそばまで来て、じっと見詰めているとやはり何かが光っている。
 波が打ち寄せると、その線に沿ってきらきらと光り、波が去っていくとすうっと消える。
 一体、何だろう、と、しゃがんでそれを見詰めていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「夜光虫だね」
 人の気配がしなかったのに、すぐ近くで声がして、裕太は少しばかり驚いて振り返る。
 すぐ近くに、蓮川要が立っていた。
「夜光虫って?」
「俺も良く知らないけど。海に住む微生物で発光虫の一種らしいよ。滅多に発生しないから、普段は見られないって聞いたけど」
「へえ」
 裕太が曖昧に相槌を打つと、蓮川は裕太のすぐ隣にしゃがみこむ。呼吸の音さえ聞こえるくらい、すぐ近くに蓮川の存在があることで、裕太は俄かに緊張した。
 チラリと、その横顔を盗み見る。秀麗と評されるその横顔に奇妙な色気を与えているのは、右目の眦のすぐ下にぽつんと存在する泣きボクロ。
 殆ど同じ位置に、裕太もホクロを持っている。
「同じ位置にホクロがあるのに、随分印象が違うね」
と、飲み会の席で言ったのは確かイチコだ。
「どういう風に違うんだよ?」
と裕太が問えば、豪快に冷酒をビールグラスで煽りながらイチコは人の悪い笑みを浮かべた。
「変に色っぽいのは同じなんだけどさ。蓮川のは『悪さされてみたい』って雰囲気だけど、ユウタの場合は『悪さしてみたい』って感じなのよ」
 なんだ、そりゃ、と、その時は思ったが、『蓮川に悪さされてみたい』と言う女の気持ちは分かるような気もする。

 蓮川要と言うオトコは、立ち姿の綺麗な男だった。
 とにかく、姿勢が良い。いつでも、背中に定規を入れているのかと思うほど背筋がピンと伸びている。
 裕太は酷い猫背で、何度母親に姿勢が悪いと注意されても直すことが出来なかった。
 蓮川と裕太は、身長こそ五センチほどしか差が無いが、姿勢のせいで、十センチ以上身長差があるように見えてしまう。
 どうして、そんなに姿勢が良いのかいつだったか裕太が尋ねたら、高校まで剣道をやっていたせいじゃないかと言っていた。
 聡明で、秀麗。いかにも優等生と言った風貌で、しかも纏う空気はどこか硬質な印象だ。下品な事や俗っぽい事には興味がありません、と言ったようなストイックな雰囲気を持つくせに、その泣きボクロのせいなのか、奇妙な艶がある。
 知らないうちに人の視線を集めてしまうような。

 なぜ、蓮川に目が行ってしまうのか随分悩んだ時期もあったが、裕太は最近では考える事を放棄してしまっていた。
 姿勢が良くて変な艶があるから見てしまうんだ、と投げやりに答えを出して、それ以上、追求する事を避けてきた。
 そんな相手から、
「一宮。そろそろ抜けない?」
と提案されて、裕太は、え? と首を傾げる。
「抜けるって?」
「まだ、花火半分も無くなってないらしいよ」
「げえ! あれだけやったのに?」
「谷畑がディスカウントショップの処分品、バカみたいに買ってきたって」
「タニ・・・・アホ・・・・」
「何か、俺、疲れちゃったから抜けたいんだけどさ。一宮も一緒に抜けない? ゼミ室に戻って飲みなおさない?」
 穏やかな微笑を浮かべて誘ってくる蓮川に、断りを入れられるヤツがいたら見てみたい、と裕太は思った。
 このオトコの威力は一体何なんだと理不尽に感じつつも、つい頷いてしまう。
(何か、俺ってチョロすぎ? )
 心の中で自分にツッコミを入れてみても、足取りは軽かった。もしかしたら、尻尾を振って嬉々としてついていく犬みたいに見えるかもしれない。
 それでも、別に良い、と、確かにその時の裕太は思ったはずだった。



* * *


「一宮は、付き合ってるヤツとかいないの?」
 ゼミ室で二人で飲み始めて、暫く世間話をしていたが、唐突に蓮川が尋ねてきた質問に違和感を感じて裕太は首を傾げた。
「一宮? 聞いちゃマズかった?」
「・・・・あ、いや。マズくないけど・・・今は、付き合ってるヤツはいない」
「ふうん」
 そこで、会話が途切れてしまう。話の繋ぎとしては、「蓮川は?」と尋ね返せば良いのだろうが、何となく、そんな俗っぽい質問をするのは躊躇われた。それでも、暫く沈黙が続くと何となく気詰まりで、裕太は、つい、
「・・・ええと・・・蓮川は?」
と尋ねてしまう。
「いない」
 短い答えはあまりにそっけなく、やはり、してはいけない類の質問だったのではないかと裕太は後悔した。
「・・・ゴメン・・・」
「え? 何? 何で謝るワケ?」
 蓮川が機嫌を悪くしたのではないかと思って裕太は謝ったのだが、当の蓮川は不思議そうな顔で裕太を見た。
「あ、イヤ・・・何か、蓮川ってそういう俗っぽい話嫌いかと思って」
「え? 何で?」
「何で・・・って・・・何つーか、下ネタとかも嫌いそうだし。軟派な話題とかも・・・」
 裕太が答えづらそうにボソボソと口ごもると、蓮川は意外そうな顔をしてそれから、不意にニヤリと笑った。
 その表情が酷く不穏で裕太は驚く。こんな性格の悪そうな笑い方をした蓮川を見たのは初めてだった。
「まさか。俺、結構、下劣でサイテーだよ」
『下劣』とか『サイテー』とか言う単語が、その秀麗な顔から出てくる事自体、裕太には驚きで言葉を失ってしまう。
「何? もしかして、俺のことマスもかかない男とか思ってる?」
 ますます可笑しそうに笑って蓮川は尋ねる。裕太は普段抱いていた蓮川のイメージとのギャップに混乱した。
「そ・・・そんな風には思って無いけど・・・だけど、下劣とか、サイテーとか・・・あんま、蓮川から想像できない・・・」
「そう?」
 蓮川はヒョイと裕太の手からビールの缶を取り上げると、ごく自然に裕太に軽いキスを落とした。
「な・・・に・・・?」
「例えばさ、一宮って雰囲気エロいな、とか、ここで犯したりしたらマズイかな、とかさ。その程度の下劣な事は考えてるよ?」
「なっ!」
 キスされた事と言われた言葉の衝撃に裕太は絶句する。呆けたまま蓮川を見上げれば、含みのある眼差しで裕太を見下ろしていた。口元には何ともいえない笑みが浮かんでいる。その恐ろしいほどの色気に裕太は別の意味で言葉を失った。

 頭の片隅で、警鐘がなる。
 目を逸らせと、ここから逃げろと頭のどこかで分かっていながら、できなかった。
 毒のように、じわじわと侵食してくる、甘くて重苦しい『何か』。
 イチコなら、それを的確に『フェロモン』と言い当ててくれただろうが、正常に頭の動かない裕太は呼吸をきちんとするだけで精一杯だった。

「・・・ふ・・・雰囲気がエロいって・・・何だよ・・・・」
 よせば良いのに問い返してしまう。
 次の瞬間、蓮川は、これ以上は無いというような魅惑的な笑顔を浮かべた。この顔は、明らかに自分の魅力を理解していながら、それをいけしゃあしゃあと利用する人間の顔だ。しかも、引っかかった人間に対して、平気な顔で自分は何もしていないと嘯く事ができるようなタチの悪い。
 引き際を見誤ったと、裕太は瞬時に悟ったが、後悔先に立たず。
 蓮川はあっという間に裕太をソファに押し倒した。
「言われた事無い? 俺なんか、初めて見たときから一宮に突っ込んでみたいって思ってたけど? 上に乗っけて、下からガンガン突き上げたいとか、立ったまま後ろから入れて泣かせてみたいとか」
 唇が触れそうなほど近い距離で囁かれ、ゾクリと背筋に電流が走る。酔いのせいではない激しい動悸が胸を打ち、奇妙な期待が裕太の精神を侵し始めた。
 押さえつける腕を跳ね除けて、ふざけるなと怒鳴れば、きっと蓮川はやめるだろう。そして、「冗談だよ」と何食わぬ顔で笑うに違いない。挙句、次の日からは裕太を視界の隅にも止めないだろう。

 そんなのはイヤだと、裕太は強く思った。

 酔っていたのかもしれない。
 実際、飲んだビールの量はかなり限界に近かった。
 それでも、その時には既に、蓮川が聖人君子などではなく、酷くたちの悪い性悪な男だと気がついていたはずだ。
 けれども、裕太は自分で腕を伸ばした。
 蓮川の首筋に抱きついて、自分から蓮川にキスをした。
「ふうん。そんなに言うなら、やってみろよ?」
 はすっぱな口をきいたが、声は震えていたかもしれない。
 目を閉じる直前に見えた蓮川の顔は酷く蠱惑的で、悪い男だと分かっているのに惹かれてしまう。
 正直、裕太は、もうどうでも良い。好きにしてくれ、と言う気分になってしまった。



* * *


「・・・・だからって、ここまでやるかよ・・・」
 グッタリとソファに沈み込んだまま裕太はブツブツと呟いた。
 やっぱりと言うか、案の定と言うか、蓮川は最低なオトコだった。
「鬼畜! 外道!」
 睨みつけて罵っても、平気な顔で楽しそうに笑うだけだ。
 煽るだけ煽って焦らす、恥ずかしい事を無理矢理させる、言わせる、泣いて許してと懇願しても笑って無視する。しかも、なまじテクニックがあるだけ始末に終えない。
 苦痛と快楽のギリギリの境界線まで無理矢理引き上げられ、何度も突き落とされて、裕太は足腰がガクガクになってしまった。
 それでも、不思議と後悔は無かった。後味の悪さも無い。

 蓮川にとっては一夜のお遊びか暇つぶしなんだろうと思うと少しばかり胸が痛んだが。

「足腰立たねえよ。ったく。蓮川、お前車だろ? 責任持って送れよ」
 この程度の横柄な態度は許されても良いだろう。案の定、蓮川は機嫌を損ねた風もなく、相変わらず楽しそうに笑って、
「お姫様の仰せのままに」
と答えただけだった。
「誰がお姫様だっつーの!」
 裕太が本気で怒ったので蓮川は肩をすくめたが、楽しそうな表情は変わらなかった。



* * *


 助手席に座ってツンと澄ましている横顔をチラリと盗み見る。目元のホクロが酷く色っぽくて、性的な衝動を感じるのはいつものことだった。どうやら、自覚が無いらしいが、とにかく一宮裕太は雰囲気がエロい、と言うのが蓮川要にとっての第一印象だった。
 情事の後の気だるい雰囲気を纏っているせいか、今の色気など殆ど犯罪的だと思う。
 一体、いつ、手を出してやろうかと機会を窺っていたが案外簡単に上手く行ったので拍子抜けしたくらいだ。

「あの泣きボクロがね、エロいのよね。なーんか、アンアン泣かせたくならない?」
 訳知り顔でイチコに指摘されたのはゼミに入ってすぐの飲み会だった気がする。思えば、あの頃からイチコは蓮川の本性を見破っていたのだろう。同じように、蓮川にもイチコの本性が手に取るように分かった。
 自分と良く似た匂いがするからだ。幸いだったのは、イチコが女にしか興味が無かった事だったが。
「何で俺に言うワケ?」
 しゃあしゃあととぼけてみせても、イチコはケラケラと楽しそうに笑っただけだった。
「ま、どうでも良いけどね。一応、忠告しとく。ああいうタイプはタチ悪いわよ。中毒性の高いドラッグみたいなモン。一遍やっちゃうとズブズブにハマっちゃう」
 確かにその通りだ、と思ったが。
「大丈夫。俺にもズブズブにハマらせれば問題ない」
 観音様のようだと評される穏やかな笑みを浮かべて物騒な事を言う蓮川に、イチコはバカウケしていた。
「なーんで、みんな、こんな猫かぶりに騙されるのかね。ユウタも全然気がついてないし」
 そう言いながらも、所詮は他人事なのだろう。蓮川がどんな策略を張り巡らそうと、イチコは傍観を決め込んでいる。今夜の事も。
 裕太を連れ出そうとしている蓮川に気がついても、肩を竦めて呆れたように笑っていた。

「そこ。右に曲がって三本目入って」
「了解。所で、一宮って自宅生?」
「いや。アパートで一人暮らし」
 あまりにあっさりと答える裕太に苦笑いが零れてしまう。無防備な事この上ない。このまま、アパートに乗り込まれて、また押し倒されるなんて、想像すら出来ないのだろう。
 もしかしたら、今夜の事は一晩限りの戯れだとでも思っているのかもしれない。

「しっかし、まあ、アンタみたいなオトコに見初められるなんてユウタも気の毒」
完全に面白がっている口調で言っていたイチコの言葉を思い出す。

(ホントにね。可哀想にね。俺みたいなオトコに引っかかっちゃってサ。ご愁傷サマ。)

 気休め程度に哀れんだのは一瞬で。
 次の瞬間には。

(今度は何をして泣かせてやろうか。)

 蓮川の頭の中は、それだけで一杯になってしまっていた。



 ちなみに、次の日、裕太がベッドから出る事が出来たのかは二人にしか分からない。


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