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『098:墓碑銘』A ……………

 雨が降っていた。僕は、ぬかるんだ緩い坂道を一人で歩いている。時々水飛沫があがり、僕の足元を汚す。いくらか重たい気持ちでそれを見ながら僕は更に歩く。彼の待つ病院に向かって。

 彼が待っている? 本当に? 今日こそ僕の事を忘れているかもしれないのに?

 彼は、もうほとんど治る見込みのない難病にかかってしまって、病院から出る事ができない。病名は忘れた。何でも、脳細胞がどんどん死んでしまって記憶や思考が衰弱していく病気らしい。医者が深刻そうな表情で説明していたのを僕も後ろの方で聞いていたけれど、あの時はショックの余りきちんと頭には入ってきていなかった。そう。彼が、僕に言った言葉のせいで。
「君は、だあれ?」
 実際の年齢よりも、5歳は幼く感じる様な口調で彼は言った。よりにもよって僕に向って。彼の目には包帯が巻かれていて、それでなくとも少し小さくなったように見えた白い病人服に包まれた体がなお一層、痛々しく見えた。
 僕は最初、彼は目が見えないので僕のことがわからないのだろうと思った。それにしても僕の声がわからないなんてひどいな、と苦笑しながら
「慈雨(じう)だよ」
 と教えてあげた。けれども、彼はひどくあどけない子供っぽい表情で
「慈雨って、だあれ?」
 と首を傾げた。本当に冗談にしては質が悪いと、少し気を悪くしたところで医者に呼ばれた。そこから先はあまりよく覚えていない。色々難しい説明を受けて、彼の病気について聞かされたけど、もう、そんなことはどうでもよかった。昨日まで隣で笑っていた人が、今日は見知らぬ他人になっただなんて、一体、どこの誰なら納得できると言うのだろう。

 病院へと続く細い近道には、ひまわりの花が並んで咲いている。天気の良い日には元気良く見える花たちも、こうして雨に濡れていると、まるで泣いているみたいだ。
 僕は長くて緩い坂道の途中で立ち止まる。少し遠くの方に病院が見えた。幾つも並んだ窓の一つに彼はいる。見えもしないのに、きっと窓の方を向いて僕の事を待っているのだろう。まるで、飼い主が帰ってくるのを待っている犬みたいに。
 僕は、立ち止まったまま軽く傘をクルリと回す。傘の骨を伝って雨垂れがはじき飛ぶ。ほんの少しだけ傘は水気を失って軽くなったけれど、僕の心はちっとも軽くはならない。けれども、僕は彼のもとへと向う。半ば絶望したような気持ちで。
 いっそのこと行くことを止めてしまえば、しだいに彼は僕を忘れてしまって、そのうち完全に忘れてしまって、それで終わりになるのだろう。終わりは、きっとひどくあっけないに違い無い。でも、僕はそうすることができない。もう二度と以前と同じ意味で彼が僕に「好きだ」と言う事も、同じ意味を持って触れ合う事も無いとわかっているのに。
 彼は、ただひたすらいらない事は捨てていって、どんどん捨てていって、天上の方に近づいて行こうとする。僕の事は、もう、いらないらしい。
 何て、薄情な彼。
 何て、愚かな僕。
 僕は再び緩い坂を登りはじめる。彼に会うために。


「滝谷くん、こんにちは。晴怜(はれ)君、まだ、診察中よ」
 受付の前を通りがかったときに看護婦さんに呼び止められる。僕は軽く頭を下げて愛想笑いをする。もうずっと僕がここに通ってくるので、大体の看護婦さんには覚えられてしまった。家族でもない僕が、こんな風に毎日尋ねてくるのが不思議らしい。もっとも、彼の家族は父親だけで、しかもその父親とも折り合いが悪いらしく、ほとんど断絶状態だったらしいので、僕の方が余程家族と言えたのかもしれない。
 僕は消毒薬の匂いのする通いなれた廊下を歩いていく。松葉杖をついた人や包帯を巻いた人とすれ違う。病人のあの人達にとっては何ともない景色なのかもしれないけれど、別段悪いところがある訳ではない僕にとっては、やはりここは異世界のような印象を受けてしまう。
 長い長い渡り廊下を渡ってエレベーターに乗って最上階まで行く。最上階には個室しかない。お金持ちの人だけが入れる個室で、彼は病気にかかってからずっとここの一室にいる。彼の父親は、お金だけは沢山持っている類の人種で、とりあえず息子が病気になったので、金だけは義務で出しているらしい。けれども彼の父親が「ここ」に来たのを、僕は一度も見たことがない。そんなことを考えてエレベーターから降りて彼のいる部屋へ向う。
 彼の部屋の近くに来ると、部屋の中から医師(せんせい)の声が聞こえた。それから看護婦さんの笑い声と。あとは、急に
「慈雨! !」
 と、叫んだ彼の声。
 急に彼が叫んだので、医師と看護婦さんは驚いて振りかえる。それで僕と目が合ってしまった。医師は肩を竦めると苦笑した。
「すごいね」
「滝谷くんが来ると、すぐに分かるのね」
 看護婦さんが微笑ましそうに笑って僕に場所を譲る。僕はほんの少しだけきまりが悪い気分で彼のベッドに近づいた。
 彼の目の周りには相変わらず包帯が巻かれていたけれど、彼はまるできちんと目が見えているかのように僕の位置を的確に把握して僕に飛びついた。まるで、犬が飼い主を見つけて喜んで飛びつくみたいな行動に、僕は少しだけ苦笑する。それから、緩く彼の小さな身体を抱きかえす。高校生の男子二人がこんな風に抱き合っているのは妙な光景なのかもしれないけれど、医師も看護婦さんも、もう慣れてしまって、見守るみたいに微笑んでいるだけだった。
「晴怜君、本当に、滝谷くんが好きなのねえ」
 半ば感心するように看護婦さんが言うのを僕は複雑な心境で聞く。一旦晴怜を離してベットの上に置き、医師の方を向くと、医師はいつもの表情で
「身体の方は問題無いよ。脳の方もね。進行が止まっているみたいだから。君が、毎日来てくれてるからかな」
 と教えてくれる。それから看護婦さんの後について部屋を出て行こうとする。出て行く寸前に
「無理のないようにね」
 と静かに言い残していった。
 相変わらず、優しいんだか冷たいんだかわからない人だと思う。僕が晴怜にしていることを知っていて、別段責めるようなこともない。ただ静かに傍観しているような所のある人で、それが優しさからなのか、冷たさからなのか、僕には判断がつかない。
 看護婦さんと医師が出ていって、ドアがパタンと閉まる。晴怜は嬉しそうに口元を綻ばせて僕の方を向いている。
「今日は、何か変った事、あった?」
 僕が聞くと、晴怜は少し上を向いて何か考えていたようだけれど、すぐにまた僕の方を向いて、首を横に振る。
「診察が、あったけどせんせいは、わるいところはないですよっていってたよ」
「そう。調子が良いのは、良い事だね」
 僕は答えながらベットの横の椅子に腰を下ろす。それから、いつものように、どうでも良い事をいくつか話す。晴怜はその話を聞いて、一つ一つ一生懸命考えながら返事をする。前に聞いた事をもう一度聞くと、いつもいつも違う返事が返ってくるのが、なんとなく新鮮で面白かった。けれども、それは晴怜が気まぐれで気が変わり易いということではなくて、以前に答えた答えを完全に忘れてしまっているからなのだった。
 しばらくそうしていると、だんだんと晴怜がそわそわしてくるのがわかる。もう気になって気になってしょうがないのだろう。
 僕は話を止めにして、椅子から立ち上がり、片膝をベッドにのせる。ギシリ、とベットの軋む音がして、あとはいつもと同じだった。
 晴怜が腕を伸ばしてきて僕にしがみつくのが合図で、後は言葉はいらない。僕が晴怜のパジャマのボタンをはずし始めると、晴怜はおとなしくじっとしている。まるで餌をもらうまでおすわりして待っている犬みたいだった。あちこち晴怜の身体を撫で回すと、気持ち良さそうに晴怜が吐息を漏らす。
「気持ちいい?」
「うん。気持ちいい」
 僕が尋ねると、いつも簡単に晴怜は答えるのだった。
 そこから先も、晴怜はひどく素直で、気持ちが良ければ気持ちがいいとまるで熱に浮かされるみたいに繰り返して、感じれば甘ったるい喘ぎ声を堪えようともせずにあげる。
 病気になる前に何度か寝たときは、いつでも声を上げるのを嫌がって、何度僕が声を聞かせてと言っても頑として我慢をしていた事を思い出して、僕は思わず笑ってしまう。
 あの頃の晴怜と、今、僕の下で喘いでいる晴怜はまるで違う。全くの別人のように思えた。けれども、やはり、身体は同じ器で、敏感な場所や、反応の仕方は全く同じなのだった。それで、僕は、ひどく混乱してしまう。ここにいるのは一体誰なのだろう、と。
 晴怜と同じ唇をしていて、同じ髪をしていて、同じ首をしていて、薄い胸を上下させて、同じように背中をしならせて腰を揺らしているのに。
「晴怜、僕の事好きかい?」
 と尋ねると、いともあっさりと
「うん、うん、僕、慈雨が好き、好き」
 と、喘ぎ声の合間に答える。
「彼」は、ひどく感情を表に出すのが苦手で、決して自分から「好きだ」とは言わなかった。言えなかった。それでケンカをしてしまうこともあった位に。そんな彼の性格がもどかしく思えたときもあったけれど。
 こんな風に「好きだ」と言ってもらえるようになったら、今度はそれも満足できないなんて、何て傲慢なんだろうと、自嘲的な気分になってしまう。
 本当に。
 まるで、小さな子供を騙しているような気持ちの悪さを感じて、それでも、彼の細い首筋が、華奢な背中が、肉の薄い胸が、不自然な形にそっている足が、僕の理性を食い散らす。
 もう、どうしようもない。



 ぎゅうっと晴怜の身体を抱きしめて一緒にベッドで寝ていると、もそもそと晴怜が身体を動かす。僕の顔の前まで自分の顔を持ってきて、少しだけ顔を傾ける。包帯をしているから目の表情を読み取る事はできないけれど、こういう仕種は病気の前と今とちっとも変っていない。
「あのね、せんせいがね…」
 そこまで言って、晴怜は言いよどんだ。それでも続きを待って、僕がじっと晴怜を見つめていると、晴怜は、シュンとして
「やっぱり、いい」
 と、うつぶせた。
「何?」
「いい」
「どうして?」
「また慈雨が悲しい空気になったらいやだ」
 晴怜は拗ねてるみたいにもそもそと、また毛布に潜り込んでしまう。それで、僕はこの間のことを思い出した。急に、晴怜が
「僕、もうちょっとで死んじゃうかもしれないんだよ」
 と、言い出した日のことだ。晴怜の言った内容がひどく心臓に悪いことだった上に、晴怜はそれを嬉しそうに僕に言ったのだ。それから
「僕が死んだら慈雨が悲しい空気なの、治る?」
 と、言った。
 何をどう考えたらそんな発想になるのか僕には分からなかった。もう、晴怜が別の生き物になってしまったみたいだった。晴怜は病気で、晴怜が悪い訳ではないのだろうけど、そんな残酷なことを平気で笑って言ってしまうなんてどういうつもりなのだろう、と、僕は理不尽な怒りを彼に対して抱いたのだった。
 その時、僕が彼にした事を、まだ怒っているらしい。それでも、まだ、その程度の事は覚えていられるのだと思ったら、少しうれしかったけれど。
 また、とんでもないことを言い出すのではないかと身構えて
「ならないよ。怒らないから言ってごらん」
 と答える。晴怜は毛布に潜ったまま、顔を少しだけ出して僕の方に顔を向けた。
「せんせいがね、僕は、すぐに死んだりしないんだよって言ってた」
 と、恐る恐る、と言った口調で答える。それから
「慈雨、悲しくなった?」
 と、小さな声で尋ねる。僕は微かに笑って
「ならないよ」
 と、答える。答えて、優しく晴怜の背中をさすった。それから、晴怜の額に唇を寄せる。
「晴怜、僕の事好きかい?」
 同じ質問を、おまじないように尋ねると、晴怜は、嬉しそうに笑って
「うん。僕、慈雨が好きだよ」
 と、屈託無く答えた。その、何の迷いもない答に、僕はひどく嬉しいのと同時に、途方もなく悲しくなってしまう。
 もう、晴怜は半分位天上の方に行ってしまっていて、残りの半分もみんな天上にいってしまうのも、そう遠くないような気がした。
「晴怜はそのうち、一人で行ってしまうんだろうね」
 僕が小さな声で呟くと、晴怜は不思議そうに首を傾げた。
「? 僕、どこにも行けないよ? 行っちゃいけませんって、ここの人は、言うよ?」
「そうだね。でも、きっと、僕の事は置いて行ってしまうんだろうね」
 笑いながら僕が言うと、晴怜はぎゅっと僕にしがみついた。何かを怖がってるみたいな仕種だった。
「僕、一人で行くのは嫌だ」
 僕の胸に顔を埋めて、怯えたように晴怜は言った。
「一人で行くのが嫌なの?」
 僕が晴怜の背中をさすりながら尋ねると、晴怜は必死で首を縦に振る。晴怜の髪の毛がパサパサ揺れて、僕の胸に当たった。
「じゃあ、僕が一緒に行ってあげるよ」
 優しく僕が言うと、晴怜はますます強い力で僕にしがみつく。僕も晴怜の背中に回している手に力を入れて、晴怜を抱きしめた。
 ふと、窓の外を見ると、何時の間にか雨は上がっていた。

 晴怜が寝静まったのを見計らって病室を後にする。もう割と遅い時間になってしまったけれど、個室に来る見舞い客が咎められる事は無い。エレベーターに乗り込んだところで、ばったり医師と居合わせてしまった。
 軽く会釈して、こんばんは、と挨拶する。
「今、帰りかい?」
「はい」
 暫く医師は手元のカルテを見ていたようだけれど、急に
「君、つらくないのかい?」
 と、尋ねられた。
 僕はふと顔を上げて、医師の顔を見詰める。医師の顔には、別に興味の色や、同情の色は浮かんでいない。やっぱり、冷たいんだか、優しいんだかわからない人だと思う。
「つらくはないです」
 僕が静かにそう答えると、医師は相変わらずカルテを見つめたまま、少しだけ目を伏せた。
「そう。彼、最近、耳の調子も芳しくなくてね。そのうち、一切、意志の疎通ができなくなるかもしれないけど?」
 医師はそう言うと、急にカルテから顔を上げ、じっと僕の目を探るように見詰める。僕は少しだけ肩を竦めた。
「別に、いいんです」
 僕が強い口調で答えると、医師は再びカルテに目を落とした。それから、クスリと笑った。
「僕の幸せは、僕にしかわからないんです、か」
「まだ、覚えてらっしゃったんですか?」
「そりゃあね」
 医師は持っていたペンで頭をポリポリと掻いた。それから
「まあ、”恋人”に尽くすのもいいがね」
 と一言だけ言うと、ポンっと僕の肩を叩いて、エレベーターが止まったのでそのまま降りていった。



 もうすっかり暗くなってしまった道を一人で帰る。来たときの雨が嘘のように、空はすっかり晴れあっがていて、星がたくさん見えた。
 カエルの声と虫の声が聞こえる。
 僕は、もう、いらなくなってしまった傘をブラブラと振りながら歩く。坂道の途中で振りかえると、病院のネオンが遠く見えた。あそこに晴怜がいるのだと思ったら、ほんの少しだけ泣きたいような気持ちがしたけれど。
 僕は、それ、を、無視して再び歩き出す。



 明日は、晴怜の好きだった本を持って病院に行こうと思った。



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