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『098:墓碑銘』@ ……………

 僕の名前は、ハレ、といいます。
「ここ」の人が、教えてくれました。

 時々、自分の名前なのに忘れてしまうことがあります。
 自分の名前なのに忘れてしまうなんて変な気もするのですが僕は「病気」だから仕方がないそうです。
「病気」だからこんな風に色んなことを、それこそついさっき教えてもらった事さえ忘れてしまうのだと「せんせい」は、言います。
「せんせい」は毎日、僕の診察をしてくれるのですが、僕は「せんせい」の顔を知りません。わかるのは、「せんせい」の声と指の形だけです。なぜなら、僕は、目が見えないからです。
 いつから見えなくなってしまったのかは、覚えていません。
 目が見えないのも「病気」だからなのだと、先生が教えてくれました。
 僕の目には、いつも何かが巻かれていて、僕がそれをはずそうとすると「ここ」の人が、怒ります。なんでも、僕の目は、何度も何度も手術をして、弱ってしまっているので包帯をはずすと、もう、完全に見えなくなってしまうのだと言われました。
 可能性は、低いのだけれど、もしかしたら、また目が見えるようになるのかも知れないのだから、大事にしなさい、と「せんせい」は、いいました。
 最近は、耳もだんだん遠くなってきたのですが、それも「病気」のせいなのだそうです。
 僕は、難しい事はよくわからないのですが「せいめいいじきのうがていか」してきているせいだそうです。
 病気になってからというもの僕はもうすぐに、色んなことを忘れてしまうので家族の事も友達の事もちっともわかりません。
 もう、みんなみんな覚えていないのです。
「せんせい」に色々聞かれて、前のことを思いだそうとしても、頭に白いもやがかかって、ぼぅっとしてしまって、よくわからないのです。
 それでも一生懸命思い出そうとすると、そのうちだんだん、頭が痛くなってしまうのです。本当に痛くて、死んでしまうかと思う位です。だから僕がわかるのは、自分の名前が「ハレ」というのだということと、自分が病気だということと、それから、多分、僕は死ぬまでこうして「ここ」にいるのだろう、ということだけです。
「ここ」の人は、別に意地悪な事もしないし、「せんせい」も、なんだか優しそうな感じがするので別に淋しくはないのですが「食事」と「診察」以外、僕がしなくてはならないことは何も無くて、あとは、こうしてベットで眠ることしかできません。せめて目が見えたのなら本でも読めたのでしょうが、それもできません。ほんの少し外に出てみたいな、とも思うのですが、「外に出たい」というと、「ここ」の人は、絶対にダメだといいます。僕の身体は本当に弱くなってしまっているので、外に出たりしたら死んでしまうというのです。だから僕はいつも退屈で、時間をもてあましてしまうのです。
 でも毎日決まった時間に遊びに来てくれる友達がいるので少しはマシなのですが。

 お友達の名前は「ジウ」といいます。もちろん顔は分かりません。声と触った感じしかわからないのです。
「ジウ」は僕が「病気」になる前からの友達らしいのですが、僕は「病気」になる前の事を思い出せないので、あまり「ジウ」のことは、わからないのです。
 でも、僕は、今のジウが好きなので昔のジウもきっと好きだったのだろうと思って、せめて、ジウの顔くらいは、思い出そうと一生懸命考えるのですが、考えれば考えるほど頭がぼうっとしてしまって、ますますわからなくなって、そのうち、昨日ジウと話していた事さえ曖昧になってくるのです。
 それが悲しくて、僕がそう言うと、ジウはいつも優しい声で
「無理に思いだそうとすることはないよ」
 と言ってくれるのですが、その声が、なんだか悲しそうな気がしてしまって、やっぱり僕はせめて「ジウ」のことだけでも思いだしたいと思うのですが、いくら考えても思い出せないのです。
 だから、結局、僕がわかるのは「ジウ」の声がどんな声かということと、どんな話し方をするかということと、ジウの身体は触るとどんな感じがするかということだけなのです。

 あとはジウが僕に気持ちの良い事をしてくれると言う事。

 ジウは僕の所にくると、決まって僕の身体に触ります。
 最初の頃は驚いて、騒いでしまったこともありますが最近は慣れてしまいました。最初の頃は痛いだけだった事も、今は、そんなに苦しくはありません。
 ジウが
「慣れれば、だんだん気持ちが良くなってくるんだよ」
 と言っていましたが、本当にその通りで、最近は気持ちが良いので僕はジウと「遊ぶ」のが、唯一の楽しみなのです。ジウと「遊んで」いると、とても、気持ちが良くなって、時々、苦しかったりつらかったりすることもあるのですが、何だか不思議な感覚がして、僕が僕でなくなってしまうような気がします。
 僕が僕で無くなると、僕は自分の体なのに、自分で自分の体を自由にできなくなってしまって、出そうと思っていない声が出てしまったり、動かそうと思っていないのに身体がかってに動いてしまって、少し困る事もあります。でも決まってそういう時に、ジウは僕に話し掛けるのです。僕はもう、自分で自分が自由に出来ないので、一生懸命ジウに答えようとするのですが、うまく答える事ができません。でも、ジウはちっとも気にならないみたいで、やっぱり僕に話し掛けるのです。
 それからその「遊び」が終わると、ジウはいつもいつも僕に身体をくっつけて一緒に眠ります。僕はジウのことを覚えていないのですが、そういう風に身体をくっつけて眠っていると、なんだかジウのことを思い出せそうな気がします。でも、やっぱり、ちゃんとは思い出せないのがいつものことなのですが。
 ただ、僕は、きっと全部を忘れてしまう前からジウが好きだったんだろうということは分かります。きっと、本当にずっと前から、僕とジウは「友達」だったのだろうということも。だから僕はジウに何をされても、怖くはないし嫌だとも思わないんだと思います。
 僕がそう言うとジウはいつも嬉しそうに「そう」と返事をしてくれます。それから、ぎゅうぎゅう僕をだっこするのです。そうすると、ほんの少しだけジウの「悲しい空気」が薄まる気がして、僕はほっとしてしまいます。

 僕は目が見えないので人の表情はわからないのですが、何というか、その人の「空気」みたいなものが何となくわかります。だから、誰かと一緒にいると、何も言わなくてもその人が「怒っている」とか「喜んでいる」とか「悲しそうだ」とかいうことは大体わかります。
 ジウの空気はいつも「優しい」感じがするのですが、いつもいつも、何かしら「悲しさ」とか「寂しさ」みたいなものも同時に感じてしまいます。何がそんなに悲しいのか、寂しいのか、僕にはわからないのですが。
 僕はジウといると退屈じゃなくなるし、寂しくなくなるし、とても楽しいと思うのですが、ジウはそうでないらしく、いつもいつも、僕といるときのジウは「悲しい」空気をしているのです。
 どうしたらジウが悲しくなくなるのか僕は一生懸命考えて、僕のできることをいろいろジウにしてみるのですが、そんな風に必死にすると、ジウはかえって「悲しい」空気になってしまうのです。
 もう、そうすると、僕は何をどうすればいいのかわからなくなって、ただジウの言う事をなんでも聞くことしかできなくなってしまいます。
 それでもやっぱり、ジウは「悲しい」空気のままなのです。
 僕と一緒にいるからジウは「悲しい」空気になってしまうのかな、とも思いました。だから僕が死んでしまえば、ジウは「悲しい」空気じゃなくなるのかもしれません。
「ここ」の人が、僕はそう長くは生きられないだろうと話していたのを偶然聞いたことがあったので、ジウが「悲しい」空気じゃ無くなるかもしれないと思ってそれを教えてあげたら、ジウはすごく「怒った」空気になってしまいました。
 それから、色々「ひどいこと」をされてしまって、僕はもう何遍も死んでしまうかと思いました。僕が泣きながら何度も「ごめんなさい」と謝っても、ジウは許してくれなくて、僕を離してくれませんでした。
 もう、僕がぐちゃぐちゃで、よくわからなくなってしまったころに、ようやくジウは僕を離してくれたのですが、その頃にはもうジウの空気は怒ってはいなくて、とても、とても、「悲しい」空気になってしまいました。
 悲しい、というより、もう「絶望」に近いみたいな空気で、僕は怖くなってしまって、もう2度とあんなことを言ってはいけないのだと思いました。
 だから、もう、そういう事は言ったりしません。
 それでもやっぱりジウの空気は悲しくて寂しいままなのですが。

 それから最近は、ジウは前より僕と一緒にいる時間が増えました。
 僕はうれしいのですが、そんなことをして大丈夫なのかなと心配になることがあります。僕は「病気」なので、もう行くことはできませんが、ジウは「学校」にいっているはずなのです。
 でも、最近は耳もよく聞こえなくなってきてしまったし、物を忘れる早さも、ずっと早くなってしまいました。
 だから僕は少し不安なのです。このままジウのことをみんなみんな忘れてしまわないかと。だからこうしていつもいつもジウが近くにいる間はとても安心してしまいます。一緒にいれば、ジウを忘れたりしなくて済むと思うからです。僕がジウが言った事とかジウとしたことを忘れると、ジウはとても「悲しい」空気になってしまうので、とても、嫌なのです。

 とても、とても。

 今日もジウは僕のところに遊びに来てくれます。それで、僕等はまた、いつもの「遊び」をします。
 僕はジウの顔を知りません。でも、ジウの声と身体と空気はわかります。僕はジウの声と身体が好きです。
 顔はわからないけれど、きっと見えていたならばどんな顔でも好きになると思います。












 ぼくのなまえは、ハレ、といいます。
 じつは、もう、よくわからないのです。
 でも、べつに、わからなくてもいいとおもうのです。
 ジウが、ぼくのことを「ハレ」と、よぶので、きっと、そういうなまえなのでしょう。

 それで、いいのです。







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