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『087:コヨーテ』 …………………


 今日、帰国するから家で待っていてくれ、と言ったのは他でもない慈朗だ。時間は指定されていないから、いつ行こうかと散々迷って、結局、秋葉は午後三時という、早いとも、遅いともつかない時間に慈朗の家を訪れた。
 慈朗と秋葉が通う高校は前後期制で、今は、試験後の秋休みだった。慈朗が長期の休暇にフラリといなくなるのは今に始まったことではない。知り合った頃には、既に、慈朗は自由に国内に留まらず海外まで飛びまわっていた。
 ギリギリの旅費と必要最低限の旅行道具だけを持って、後はひたすらヒッチハイク。もちろん、秋葉は同行などしたことがないから、その様子を実際に見たことは無い。けれども、慈朗のあの人懐っこさと人好きのする性格ならば、案外、困ったことも無く、楽しく旅をしているのだろうと容易に想像できた。学校での英語の成績はさして良くも無いくせに、慈朗は実際の英会話の能力には長けている。それは、自分の足で英語圏を飛びまわって培い、自然に付いた能力だった。学校の成績は常に上位でも、本当の英会話になるとさっぱりな秋葉とは正反対だ。けれども、生きていく上で、本当に必要なのが一体どちらなのかを秋葉は知っている。知っているから、いつでも秋葉は慈朗に敵わないと思ってしまうのだ。
 今頃は、飛行機に乗っているのだろうか。あるいは、まだ、カメラを片手に色んな景色に夢中になっているのだろうか。もし、そうなら、きっと、今の慈朗の世界に自分は存在しないだろう。
 それを想像するとき、秋葉の胸は少しだけ痛む。自分と慈朗が世界の違う人間なのだと、改めて実感してしまうからだ。秋葉には、絶対に、慈朗のような真似はできない。酷く保守的で、常識に縛られているつまらない人間だからだ。いつだったか、慈朗が、そんな秋葉を評して、
「石橋を叩いて、叩いて、叩いて、叩きすぎて壊してしまうタイプ」
 と笑ったことがある。言いえて妙だと思いながらも、秋葉はその言葉に少しだけ傷ついた事を、ふと思い出した。

 少しばかり緊張しながら、秋葉は慈朗の自宅の家のインターフォンを押した。慈朗の家は高級住宅街にある大きな家だ。本人からは想像できないが、実は、慈朗は、父親は医者で、母親はカルチャースクールの講師をしている、いわゆる良家のボンボンなのだ。秋葉の家も、比較的、上流階級に属するが、些か、慈朗とは事情が異なる。秋葉の家は、由緒だとか、格式だとかに拘る、旧家に近い雰囲気だ。その重苦しい空気が、秋葉はあまり好きではない。好きではないけれど、多分、自分も、あの家と全く同じような雰囲気を纏っているのだろうとは思う。
 取り留めのない事を考えていると、目の前の大きなドアが開き、一人の男性が現れた。慈朗ではない。慈朗の兄の、壱耶(いちや)だった。何度か顔を合わせたことのある、この五つ年上の男性が、秋葉は少しだけ苦手だった。
「ああ、秋葉君。いらっしゃい」
 と、温和な、優しげな笑顔を向けてくる。そこには何の棘も無い。疎んじられている様子も無ければ、批判的な態度を取られたこともなかった。けれども、秋葉はなぜだか壱耶が苦手なのだ。
 壱耶と慈朗は、実に似ていない兄弟で、むしろ、タイプ的には、壱耶は自分に近いのではないかと秋葉は思う。父親の跡を継ぐべく、医学部に在籍している大学生の壱耶は堅実で、真面目で、外面的には優等生にカテゴライズされるだろう。だから、親近感を感じてもおかしくないはずなのに、秋葉はこの年上の青年と接するとき、なぜだかいつも、奇妙な緊張を強いられる。
「慈朗、まだ帰ってきてないんだ。部屋で待っていて?」
 何の嫌悪も抵抗も見せない壱耶だけれど、でも、彼は、知っているのだ。慈朗と秋葉の正確な関係を。
 慈朗はこの兄を、ひどく尊敬し、信頼していて何でも話してしまうらしい。マイノリティであるはずの二人の関係でさえ、だから、この目の前の人には話してしまったのだ。知られている、という後ろめたさから来る苦手意識。それももちろんあるのだけれど、秋葉が、それよりも、もっと苦手だと感じるのは、その聡明な瞳だった。彼には、きっと、見透かされているのだと、思わせられる瞳。
「…すみません。お邪魔します」
 と、あまり、壱耶の顔を見ずに秋葉は玄関の框をくぐる。パタンと音を立て、背中で閉まるドア。不意に訪れた静寂に、秋葉は俄かに怯えた。何かを言われる前にと、慌てた仕草で靴を脱ぎ、勝手知ったる慈朗の部屋へ急ぐ。逃げ込むまでに、声をかけられることはなかった。


 慈朗の部屋は、随分と広い。秋葉の部屋の1.5倍はあるだろう。あまり、ものの無いシンプルな部屋は、慈朗の性格そのままを現している。本当に大切で、必要なものしか、身の回りには置かない。そして、案外、ロマンチストだ。机の上に飾ってある、フォトフレームの中には、一体、いつ撮ったのか、遠くに視線をやりながら薄っすらと微笑んでいる秋葉の写真が飾られていた。その脇には、いつだったか、秋葉がプレゼントしたブックスタンドと写真集。乱れた様子も無く、綺麗に並べられているそれに、不意に秋葉は慈朗の気持ちを突きつけられたような気がした。面映い、嬉しさと恥ずかしさが入り混じった気持ち。
 慈朗は、いつだって、秋葉を大切にする。それは実際に秋葉に接しているときの態度だったり、言葉だったりしたけれど、こんな風に、秋葉の目の届かない所でまで大切にされているのだと思うと、なぜだか、胸が痛くて、泣きたくて仕方が無い気持ちになってしまった。
 それを誤魔化すように、ふ、と視線を逸らせば、いつの頃からか増え始めた写真が目に入る。どれもこれも、慈朗が旅して自分で撮ってきた写真だった。それを見た途端、秋葉の胸は、今度は、別の意味で痛くなってしまった。
 慈朗がカメラを始めたのは、割合に、最近の事だった。多分、ここ、1年くらいの事だ。慈朗に、カメラを教えたのは他でもない、壱耶だった。秋葉は、そのことを少しばかり恨めしく思っている。

 秋葉には決して聞こえない声を聞き、誘われるままに自由に飛び回る慈朗に、よりにもよって、世界を切り取る道具を与えてしまったのだから。

 一体、どうすれば、そんな慈朗に鎖を繋げておけると言うのだろうか。恐らく、秋葉が行くなと言えば、きっと慈朗はその通りにするだろう。けれども、そんな傲慢で、残酷な事は、秋葉には出来ない。野生の鳥を、無理やり、鳥かごに押し込むような、そんな真似は。
 そもそも、秋葉は、慈朗のその自由奔放さにまず惹かれたのだ。それを失わせたくは無い。だから、慈朗と一緒にいるのなら、この寂しさは飼い慣らさなくてはならないのだ。例え、それが、時折、胸を突き刺すような痛みを秋葉に与えたとしても。

 何枚か貼ってあるその写真を一つずつ鑑賞しながら、秋葉は無意識に小さな溜息を一つついた。慈朗の写真は、慈朗そのものを表しているようだ。広く、おおらかで、躍動感があり、そして、自由で暖かい。
 北米で撮ったのだと教えてくれた、一枚の写真の前で、秋葉はふと立ち止まる。狼に似ているその動物は、コヨーテだった。
「でも、俺は、狼より、コヨーテの方が好きなんだ」
 と、慈朗は、どこか大人びた遠い目をして言ったことがある。狼は小さな群れを作る性質だが、コヨーテは番(つがい)を作り、死ぬまで夫婦単独で行動する性質だ。もしかしたら、そんな所が理由だったのだろうか、と秋葉はぼんやり考えた。
 今度は、アフリカ大陸に行きたい、サバンナに落ちる夕日を撮ってみたいのだと言っていた慈朗を思い出す。一体、どこまで飛んでいけば気が済むのだろうと、秋葉が苦笑いを漏らしたところで、小さなノックがあった。
「はい」
 と、秋葉が返事をすれば、カップを乗せたトレーを片手に、壱耶が部屋に入ってきた。ふんわりと、コーヒーのいい香りがする。それに少しだけ気を緩めて、秋葉は、ごくごく自然に、
「ありがとうございます」
 と礼をいい、慈朗のベッドの上に腰掛けた。
 シンプルなローテーブルの上にカップを置きながら、何気ない口調で、壱耶は、
「その写真、良い写真だよな」
 と秋葉に話しかけてきた。
「そうですね」
 と他愛ない相槌を秋葉が打ち、一瞬の間があった後で壱耶は不思議な笑みをその端正な顔に刷いた。
「俺の知り合いに、趣味が高じてプロのカメラマンになったヤツがいるんだけど」
「……はい?」
 唐突に始まった話題に戸惑いながらも、秋葉は当たり障りのない返事を返す。壱耶はなぜか、それに苦笑を漏らしてから、
「ソイツが、慈朗の事をすごく買ってるんだ」
 と続けた。
「弟子にして、育ててやりたいって言ってた。今は、アメリカを拠点に活動してるんだけど。今度、帰国したときに、慈朗を誘うつもりらしい」
 秋葉は一瞬だけ目を見開き、けれども、すぐに動揺を隠して無表情を装った。
「…そうなんですか。でも、どうして、俺に、そんな話をするんですか?」
 隙を見せないようにと細心の注意を払っていながら、けれども、足元から這い登ってくる不安を秋葉は押し殺しきれない。避け続けてきた何かを、唐突に、目の前に突きつけられてしまった、そんな気がした。
「うん? 秋葉君と慈朗って、全然タイプが違うよね。まあ、だから惹かれたってのもあるんだろうけど。でも、そういうのって、きついんじゃないの?」
「…どういう意味ですか」
 余計な事を言うな、という意味を込め、威嚇するように秋葉は眼鏡越しに壱耶を睨みつけたが、壱耶はそれを簡単にいなして、面白そうに笑っただけだった。
「どうもこうも。君が一番良く分かっているんじゃないのか? 慈朗よりも君のほうがリアリストなんだから」
 見透かされている。秋葉の内側に巣食う不安も、そして諦めのような、ともすれば慈朗に対する、裏切りのような気持ちも。
「夢だけじゃ生きていけないとか、好きという気持ちだけでいつまでも一緒にいられるわけがないこととか」
「分かりません」
 即座の、強い口調での反論は、むしろ肯定にしか聞こえない。それでも、ここで肯定してはいけないのだと言う事だけは秋葉にも分かった。壱耶は、不意に口元の笑みを消し、じっと秋葉を見つめる。
「……何だか、君は、見ていて痛々しいね。別に、俺は、君たちの関係を否定しているわけじゃない」
「別に、貴方に、肯定されても否定されても関係ない」
 駄々をこねる子供のように、説得力のない反論を続けると、壱耶はやはり、困ったような苦笑を浮かべて肩を竦めて見せた。それが、まるで、仕方のない子供だとあしらっているようで、秋葉の神経に触る。
「秋葉君。君、慈朗がどうして君を好きになったか聞いたことある?」
 不意に、話題を変えられ、え、と秋葉は面食らう。こういうところも、秋葉が壱耶を苦手な一因だった。のらりくらりと身をかわし、本心をつかませない。そんな得体の知れないところが壱耶にはある。
「……聞いたこと、ありませんけど……」
「そう。じゃあ、慈朗と別れるときに、教えてあげるよ。絶対に、慈朗は言わないと思うから」
 やはり、どこかからかうような口調で壱耶は言い、秋葉はあからさまに、隠すことなくムッとした表情を見せた。一々、癇に障る物言いをする人だと思う。
「別れませんから、聞かなくていいです」
 はっきりとした口調で答えた秋葉に、壱耶は楽しそうに笑う。
「いつまで?」
「え?」
「いつまで別れないつもりなの?」
「……え?」
「一生? 死ぬまで別れないとか、そんな御伽噺みたいなことを本当に信じてる?」
 虚を突かれて秋葉は絶句する。何も反論できない。たったの一言も、答えることが出来なかった。言ってやれば良い。一生別れるつもりは無いのだと。けれども、それを答えることは、まるで、嘘を嘘と分かって言うようで、どうしても答えることが出来なかった。
 きっと、慈朗なら、答えるだろう。絶対に、一生、別れたりしないと。
 慈朗は簡単に『絶対』という言葉を使う。逆に秋葉は使えない。唯一使えるとしたら、この世の中には『絶対』に『絶対』はありえないと言うパラドクスだけ。
 思考の混迷に入り込み始めた秋葉を、けれども簡単に掬い上げたのは。
「あっちゃん! ただいま!」
 と言いながら、笑顔全開で部屋に走りこんできた慈朗本人だった。
「あー! スッゲー久しぶり! あっちゃんの匂いがする! あっちゃん、スキスキー!」
 能天気な声で叫びながら慈朗は秋葉を抱きこみ、そして、少しばかり髭の伸びたジョリジョリとする頬を秋葉にこすりつけた。
「…ったい! 痛いって!」
 その髭の感触と、抱きしめる腕の余りの強さに、秋葉は先ほどまでのことなどすっかり忘れ、必死に抵抗する。けれども、慈朗は強引に秋葉にキスをして、仕舞いには平手打ちを食らう羽目になった。
「お前! ちょっとは力加減を考えろ!」
 真っ赤な顔で言い返してから、ハタと気が付いた。この部屋にいたのは秋葉だけではなかったはずだ。ふと、慈朗の肩越しに向こう側を見れば、必死に笑いを押し殺している壱耶の顔が見えた。
「…慈朗が、秋葉君を好きな理由、何だか分かるような気がするよ」
 と、笑い混じりに壱耶が言うと、慈朗は本気で怒り出し、
「何言ってんだよ! あっちゃんは俺のもんだ! 兄ちゃん、絶対手を出すなよ!」
 と兄を怒鳴りつけ、秋葉は呆れ果てたように、ゴツンと慈朗の頭を拳骨で殴った。
「それじゃ、俺は出かけるから秋葉君、ごゆっくり。久しぶりに、愛でも確かめ合ったら?」
 からかうように最後に言って、壱耶はあっさりと慈朗の部屋を出て行ってしまった。その後姿を、秋葉は何とはなしに見送りながら、けれども、すぐに、ベッドに押し倒されてしまった。久しぶりの慈朗の体温と匂い。それを愛おしく思わないはずが無い。けれども。








 壱耶が投げた数々の言葉は、秋葉の胸に、微かな、けれども決して無視できない澱のようなものをいつまでも残したのだった。
 



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