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『027:電光掲示板』 ………………………………



 ユラユラと揺れている自分の足を眺めながら、布袋秋葉(ほていあきば)はぼんやりと思考を漂わせていた。聞こえているグチャグチャという湿った音も、時折、堪えきれずに漏れる、いつもよりは幾らか高い声も、自分の体から出ている音のはずなのに、どこかで思考だけが分離しているようだと思う。あえて、意識をはっきりとさせることをせずに、ただ、ひたすら、自我を曖昧に溶かそうとする。その曖昧さが、気持ち良い。
 正常位で抱き合って、けれども、秋葉の手の位置は床。それは、いつもと変わらない。どんなに体が切羽詰っても、その腕が、相手、三好慈朗(みよしじろう)の背中に回されることはない。
「…あっちゃん、イきそ。出して良い?」
 耳元で囁かれる声は、秋葉の喘ぎ声とは正反対に、低く押し殺したようなそれだ。普段の声は若干、秋葉の方が低いのに、セックスしているときだけはそれが逆転する。それが不思議で、どこか、物慣れなさが、いつまで経っても消えてくれない。
 慈郎とセックスするようになって、すでに半年、回数にしたら、下手をすればその日数よりも多いかもしれないというのに。
「……ッ…い…ま…ゴム……は…アッ……」
 コンドームを付けたかどうかさえ曖昧で、確認するように秋葉が尋ねると、切羽詰った声が、
「…悪ぃ…付けてない…」
 と答える。普段の無邪気さが嘘のように、こんな時の慈朗は酷く男っぽく見えて、秋葉は複雑な気持ちになる。自分が、女の子だったら良かったのに、とどうしても思うようになってしまったのは、三ヶ月ほど前からの事だった。
「…じゃ…中で出す…な…」
 予定しなかった場所で、突然に襲い掛かってきたのは他でもない、慈朗だ。シャワーも無ければタオルだって持っていない。だから、学校でするのは嫌いなのに。
 慈朗はところ構わずに盛っては、ヤらして、と飴玉をねだる子供のように秋葉を誘う。二回に一度はそれを跳ね除けても、残りの一回はどうしても押し切られてしまう。惚れた弱みなのだろうかと半ば馬鹿馬鹿しくなりながら秋葉は所々染みの残るコンクリの天井を見上げ続けた。
「…分かった。外に出す」
 いつもの明るい、あっけらかんとした物言いが嘘のように、素っ気無く、短くそれだけを言うと慈朗は秋葉の腰を抱え直し、急に早いピッチで揺さぶり始めた。
「アッ! …ア、ア、ア…ヤメッ…ンンッ! !」
 こうなると、慈朗は殆ど秋葉の都合を考えてくれない。本能のまま一人で頂点を目指してしまう。それは、どこか、慈朗の本質に似ている。冷たいのではない。自分本位でもない。それが証拠に、秋葉がイかなかったことなど一度も無いからだ。慈朗が射精する前に、大抵、秋葉の方が先に達してしまうか、でなければ、秋葉が達するまで、慈朗はセックスを終わらせない。だから、秋葉は自分が蔑ろに扱われているだなどと思ったことは無い。むしろ、慈朗の方が感情の表し方はストレートだし、滅多に好きだと伝えないのは秋葉の方だ。
 この時も、やはり秋葉が先に達してしまい、そのすぐ後に、ズルリと中のものが引き抜かれる。そして、生暖かい感触が腹の辺りに散った。短いうめき声の後、ドサリと慈朗の体が落ちてくる。身長は秋葉の方が三センチほど高いが、体重は慈朗の方が若干重たいので、決して楽ではないのだが、それでも、その体温と重さが秋葉には心地良く感じられた。
 耳元で荒い息遣いが聞こえる。自分の息もかなり乱れていて、それなのに、時々、二人の呼吸のタイミングがぴったり合わさるのが秋葉には、とても不思議だった。
 暫く、そうして、折り重なるようにしたまま二人とも動かなかったが、先に息が整った慈朗がゆっくりと体を起こし、名残惜しむように、秋葉の前髪をかきあげて、その額に短いキスを一つ落とした。その仕草は、酷く優しい。まるで、硝子細工でも扱っているかのような丁寧さだ。面映い気持ちで秋葉は目を閉じる。男なのだから、別に、無造作に扱ってもらっても、秋葉は気にしないだろう。むしろ、こういう扱いの方が、秋葉には不自然に感じられる。
 動くのが億劫で、マグロのように転がっていると、汚れたあちこちを綺麗に拭われた。服を調えるのはさすがに断って、何とか自分で制服を着直した。それでも立ち上がる気力が沸かずにリノリウムの床にへたりこんでいると、心配そうな目が覗き込んでくる。
 慈朗の目は若干色素が薄い。こんな風に窓から光が差し込んでいると、茶色っぽくキラキラと光を反射するのだ。それが綺麗で、秋葉は半ば見とれるように慈朗の目を見つめる。すると、慈朗は微かに頬を赤く染め、困ったように首を傾げた。
「あっちゃん、立てる?」
「何とか」
 差し伸べられた手を素直に取って、秋葉は立ち上がった。腰に鈍い痛みとだるさが纏わり付いている。けれども、その痛みさえ、秋葉は厭わしいとは思わない。ふと見下ろした床に、眼鏡が転がっている。拾う気にもなれず、やはり、ただぼんやりと立ち尽くしていると、慈朗が身をかがめ、それを拾ってしまった。
 手渡された薄いフレームの眼鏡を、惰性のように慣れた手つきで掛け直す。すると、なぜだか、慈朗が嬉しそうに笑った。こういう時の慈朗の表情は、どことなく、犬を連想させる。屈託も邪気も無い。ただ、飼い主を信頼し、好意を寄せる真っ直ぐな眼差し。
「…何?」
 照れ隠しに秋葉がぶっきらぼうに尋ねると、慈朗は、
「うんー?」
 と、とぼけた振りをする。
「だから、何だよ?」
 重ねて尋ねると、慈朗は降参したように少しだけ苦笑の色を強くして、
「うん。俺、あっちゃんが眼鏡かける仕草好きなんだよね」
 と、のんびりとした口調で答えた。秋葉にしてみれば、眼鏡をかける仕草など、取り立てて、珍しい事ではない。
 秋葉が裸眼で、視力検査表の一番上丸の穴の位置が判断できなくなってしまったのは小学六年生の頃だった。その頃から、眼鏡無しでは、普通の生活もおぼつかない。眼鏡を外すのは、風呂に入る時と寝る時くらいだ。
 ふ、と思いついて秋葉は顔を上げた。眼鏡を通した慈朗の表情は、はっきりと見える。どこか、子供じみた、悪戯な表情。
 秋葉が眼鏡を外すのは、風呂に入る時と、寝る時くらい。つまり、逆に言えば、眼鏡を掛けるのは風呂から上がった時と、朝、起きた時くらいなのだ。それは、あまり、他人に見せる機会は無いはずで、けれども、慈朗はそれを頻繁に見たことがある。
「俺にしか、見せたこと無いでしょ?」
 慈朗は、キスをするときと、セックスをするとき、大抵、秋葉の眼鏡を外したがる。
「眼鏡を外してるときのあっちゃんって、目が潤んでて、しかも、視界がはっきりしないから、微妙に不安そうな顔するんだよね。その無防備な顔がスッゲー好き」
 ニコニコと、上機嫌で、少しの照れも見せずに慈朗は言う。秋葉は、頬を微かに染め、そんな自分に自己嫌悪を感じつつ慈朗の脛を、乱暴にガンッと蹴りつけた。
「そんな顔してない」
 全く説得力の無い反論を、慈朗は分かっている。分かっているけれども、ほんの少しだけ痛そうに笑って、
「あー、そうだね、してません。俺の勘違い」
 と秋葉の言葉を肯定した。秋葉が、慈朗に敵わないと思うのはこんな時だ。
 敢えて無理やり分類するなら、秋葉は優等生にカテゴライズされるし、慈朗は問題児に入れられるだろう。成績だって、比べようも無いほど秋葉の方が優秀だし、色んなことにきちんとして、しっかりしているのも秋葉だ。
 慈朗は酷い時は赤点も取るし、羽目を外しすぎて、教師に大目玉を食らうこともある。放浪癖さえあって、出席日数だってかなり危ないし、その行動が常識の範疇を超えることもしばしばだった。きっと、世間一般的な評価を下すなら、秋葉の方が優れているだろう。けれども、それがいかに価値の無いものなのか、秋葉は知っている。秋葉自身が、一番良く知っている。だからこそ、秋葉は慈朗に惹かれたのだ。

「あのさ、あっちゃん、お疲れのトコ悪いんだけど。俺、ちょっと帰りに寄りたい場所あるんだけど」
 珍しく、どこか遠慮がちな口調で慈朗が秋葉にお伺いを立て、秋葉は不思議そうに首を傾げた。正直に言えば、体はだるいし、さっさと家に帰って休みたい。けれども、上目遣いで、情けない表情でこちらを見ている慈朗の顔を見たら、断れなくなってしまった。
「…別に良いけど。どこ?」
 簡単に承諾してしまう自分が男として情け無いようで、ついつい、ぶっきらぼうな口調で答えてしまう。男同士は面倒だと一番感じるのはこんな時だ。
 慈朗のことは好きだ。それは否定しようが無い。好きだ好きだと四六時中口に出して纏わり付いているのは、一見、慈朗の方に見えるけれど、でも、きっと、どっちが沢山好きかと言うナンセンスな質問をされたなら、間違いなく、自分の方が好きだと秋葉は答えるだろう。セックスが、女とのそれに比べて、準備やら手間がかかることも、さして気にならない。そうではなく、いつでも、秋葉を邪魔するのは男としての矜持なのだ。それが面倒だと感じる。
「うん? 駅前の店。まあ、ついてきてよ」
 もったいぶった言い方をして、慈朗は秋葉の手を引き歩き始める。土曜の午後の校舎は人気も少なく、二人の足音が、不必要に響き渡っているようで、秋葉は訳も無く、忍ぶように歩いた。



「そう言えばさ。あっちゃん、タバコやめてないのな」
 もったいぶった割に、秋葉が慈朗に連れて行かれた場所は、どうと言うことも無い駅前のファーストフード店だった。二階のテラス席。眼下には、スクランブル交差点を行きかう、沢山の人が見える。土曜の午後だから、尚更、人が多いようだった。これから、遊びに行く人が大半なのだろう。
「…なんで?」
「さっき、キスしたとき、タバコの味がした」
 あからさまに、ムッとした表情で慈朗は秋葉を責める。
 髪の毛を赤茶色に染め、耳にはピアス、授業もさぼりがちな慈朗の方が、余程、素行不良のように思われるけれど、案外と、モラルだとかルールに拘るのは慈朗の方だ。今時、17、18の少年がタバコを吸うことなど珍しくも無いだろうに、慈朗は決して喫煙しない。飲酒もしない。ついでに言うなら、バイクの免許の不携帯も絶対にしない。それは、融通がきかないだとか、真面目でつまらないヤツだから、だとかではないのだ。慈朗の中には慈朗のルールとモラルがあり、こういう訳でしてはいけないと慈朗が理由付けしたことは、決して破らない。人目が気になるから、大人に叱られるのが面倒だから、という下らない理由で、それを隠れてしている秋葉とは根本的に違う。
「…仕方ないだろ。時々、口寂しくなるんだよ」
 幾らかの罪悪感に背中をチクチク刺されながらも、意地っ張りの子供のように秋葉は口答えする。慈朗は、窓の外を見つめたまま、
「口寂しいときは、俺とキスすればいいのに」
 と、相変わらず、何の照れも見せずに、あっさりと言った。
 寂しいときに、お前はいつもいないじゃないかと反論しかけて、秋葉は辛うじて口を噤む。寂しいときに、慈朗がいないのではない。慈朗がいない時に寂しくなるのだ、と気が付いたからだ。
 秋葉は慈朗の自由奔放さを愛している。憧れて、羨ましいとも思う。時には妬ましくさえある。秋葉には持ち得ない奔放さだからだ。けれども、時々、酷く不安になるのだ。
 フラリと糸の切れた凧のように、いなくなる慈朗。それを繋ぎとめる引力に、自分はなれないのだ。ほんの少しの諦めを胸の奥に抱きながら、秋葉はいつでも慈朗の隣にいる。
「なーなー、あっちゃん。ちょっと、あっち見て」
 黙り込んだ秋葉をどう思ったのか、不意にあっけらかんとした口調で慈朗は窓の外、上のほうを指差す。ビルの上の、大きな電光掲示板。炭酸飲料だとか、スポーツメーカーのCMだとかが漫然と流されている。それがどうしたのだろうかと、秋葉が首を傾げていると、慈朗はチラリと腕時計に目をやり、
「あー、あと十秒」
 と訳の分からない事を言った。秋葉は、眼鏡の奥の目を訝しげに眇める。
「ほらほら、あっちゃん、ちゃんと見て! スッゲー短いんだから!」
 そう言われ、両頬に手を当てられて、強引に顔を上向きにされる。何だと思った視界の先には、不意に表示の切り替わった電光掲示板があった。パタリと止んだCM。代わりに流れ出したアルファベットの文字を見た途端、秋葉の目は点になり、思考はストップした。

 『HAPPY BIRTHDAY TO AKIBA!I LOVE YOU!』

 電光掲示板一杯に大きな文字。流れたのは、ほんの十数秒だ。それを読んで、ようやく秋葉は、今日が自分の誕生日だということを思い出した。だが、そんなことは大したことではない。
「……慈朗」
 低い、地を這うような声でその名を呼ぶと、呼ばれた本人は能天気に笑って、
「俺の気持ち。あっちゃん、分かってくれた?」
 と悪びれもせずに首を傾げて見せた。秋葉は乱暴な仕草で、テーブルを挟んだ向かいの席に座っている慈朗の胸倉を掴み上げる。
「お前! アレ、幾らかかった!」
 都心の、こんな繁華街の電光掲示板だ。例え、十数秒だとしても決して安くなど無いはず。
「やだなあ。プレゼントの値段を聞くなんて、マナー違反でしょ?」
 ふざけたようにおどける慈朗の胸倉を、更にぐっと引き寄せて、額がくっつくほどに顔を近づける。そして、恫喝するように、
「い・く・ら・か・か・った!」
 と同じ質問をした。慈朗は急に、叱られた犬のようにオドオドと手悪戯を始めながら、
「え、えーっと…さ、三十万くらい?」
 と観念したように答える。それを聞いた途端に秋葉は眩暈がした。慈朗から手を離し、ドサリと席に座る。
「お前…もしかして、先月までのバイト…」
「あ、うん。バイト代、全部つかっちゃった」
 てへ、と誤魔化すように笑う慈朗を、秋葉は本気で殴りたくなる。
 急に慈朗がアルバイトを始めたのは三ヶ月ほど前の事だった。始めた途端、まるで、それが生き甲斐にでもなったかのようにバイトを優先させるようになった。秋葉との時間よりもバイト。酷いときには、授業をサボってまでバイトを優先させ、そのせいで、テストでは赤点を三つも取ったのだ。よもや留年かと、秋葉ばかりが気を揉んで心配していたというのに。
 呆れ果てて声も出ない。何を言っていいのか分からずに、額に手を当てて脱力していると、
「最初はさ。ピアスとか、指輪とかも良いカナと思ったんだけど。あっちゃんが、残るものは嫌がると思って」
 と、思いの外、真面目な口調で慈朗はポツリと漏らした。虚を突かれて、え、と秋葉は顔を上げる。
「残るものは、あっちゃん、嫌でしょ?」
 少しだけ、寂しそうな顔で慈朗はそんなことを言う。普段、あまりしないその表情は、いつもの無邪気さが欠けた、大人の男の顔のようだった。
「……別に、嫌だなんて言ってない」
 慈朗の真意を量りかね、戸惑ったように秋葉が答えると、やはり、どこか大人びた男の顔で、慈朗はクスリと笑った。
「うん、まあ、そうなんだけど。例えば、明日、急に俺が死んだりしてさ。あっちゃんが、俺が上げたものを何年も捨てようと迷って、でも捨てられなくて苦しんだりするのがさ。俺が、嫌なの」
 不意に、何かの真理を解き明かしたような事を口にする慈朗に秋葉は絶句する。
 絶対的に、慈朗には敵わないという敗北感。そもそも、勝ち負けを付けようとする時点で秋葉は、何かが間違っている。間違っていると分かっているのに、不要の矜持が捨てられない。それすら慈朗は分かっていて、そして許すのだ。
「セックスのときに、あっちゃんが、絶対、俺の背中を抱かない理由(わけ)も、さ。ちゃんと、分かってるし。口にしなくても、あっちゃん、俺の事、愛してるよな?」
 お日様みたいな明るい笑顔と、真っ直ぐな眼差し。それを直視できなくて秋葉は俯いた。泣きたい、と無性に思って、けれども、拳をギュッと握り締めて堪えた。
 せめて、否定はするまい。いつものように、プライドと照れ臭さだけで、大事なことを否定したりは。
 そんな秋葉の何もかもを分かっているような、鷹揚な笑顔で慈朗は笑い、
「まあ、でも、その何倍も、俺のほうが、あっちゃんを愛しちゃってるけどね」
 と、あっさり告白した。








 堪えきれずに、一粒だけ、涙が膝の上に落ちた。



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