『079:INSOMNIA(不眠症)』A …………… |
白い手に、押さえ込まれ水の中にどんどんと沈んでいく。もともと、和巳はカナヅチだったから泳ぐことは出来なかった。慌てて水面に浮かぼうと暴れたが、まるでその白い手に魔法でもかけられたかのように体は動かなかった。溺れてしまう、死んでしまうと必死になって手を伸ばすと体がびくりと震える。 ハタ、と気がつくとベッドの上でぐっしょりと汗をかき天井に向かって両手を伸ばしている自分に気がついた。 何だ、夢を見ていたのか、と安堵するとともに一抹の気恥ずかしさがこみ上げてきて、自分の他は誰もいないはずの部屋の中を見渡す。もちろん、部屋の中には和巳一人しかおらず、和巳は、ふ、と小さくため息を一つ吐くと額の汗を手で拭った。ひどく恐ろしい夢を見ていたのだという自覚はあったのだが、すでにどんな夢だったのかはきれいさっぱり頭の中から消え失せていて、ただ、白い手と水、というイメージだけが頭の奥にこびりついていた。 最近は、こんな風に恐ろしい夢を見て目が覚めることが多い。眠りも浅く、不眠症になりかけているのかとも思う。けれども、決まってその夢の中身は覚えていないのだ。ただ、どの夢にも必ず白い手と水の中に溺れていく自分が出てくる。 最近、何もかもが上手くいっておらず、イライラしているのが自分でも分かるからそのストレスのせいかもしれないと、和巳は小さくため息を一つ吐いた。 窓の外はすでに白んでいて、チチチという鳥の声が聞こえた。枕元の目覚まし時計を見ると、いつも起きている時間より1時間ほど早い時刻を指し示している。いつもより早く起きてしまったせいで、なんとなく損をしたような気分にさせられたが、もう一度寝直す気分には慣れなかったのでそのまま体を起こした。 カーテン越しの明るい光が、今日もいい天気になりそうなことを告げている。 何だか、暑くなりそうだな、と思いながら和巳はベッドから立ち上がった。 学校は、もう、とっくに夏休みに入っている。けれども、オーケストラ部に所属している和巳は、秋の文化祭の演奏会のために毎日学校へ通っていた。もっとも、部活動があるからではなく、なぜか本人の意思に反して副部長に抜擢されてしまったため、演奏会の草案を練らなければならなかったからだ。 オーケストラ部は、常時、活動している部活ではない。文化祭が近づいてくると、メンバーを募集し、3ヶ月ほど活動して文化祭が終わると解散する特殊な部活だった。音楽科の一年生の生徒は半ば強制的に参加させられる。だから、部員はほぼ100%一年生だ。和巳も例外ではなく、だから1年ながら副部長など担当しているのだ。 もともと、和巳はあまり、部活動というものに進んで参加したいと思っていたわけではなかったので最初は頑なに参加を拒んでいたのだが、ホルンの奏者が少ないので、手伝ってくれと、教師に泣きつかれて入部させられた。それなのに何で自分が、と思わないでもなかったが選ばれてしまった以上、責任を放棄するようなことはできずに、こうして律儀に夏休み中も学校に通っている。 体よくやっかいなことを押しつけられて、ずっと憂鬱な気分でいたが、このごろ何もかもが上手くいっていないと感じる最大の原因はそこではなかった。 もともと和巳は社交的な方ではない。本来なら、大勢の人間と音を合わせるようなオーケストラ部などにはすすんで所属しようなどとは思わないタイプだったが、入部したのは教師に泣きつかれたからではなく、入部すれば夏休みの間、校舎内を好きに使用しても良いという交換条件を提示されたからだった。 和巳の母親は和巳が小さい時に事故で死んでしまった。父親は、仕事にしか関心が無いような男で、しかも外に愛人でもこしらえているらしく、滅多に家に帰ってこない。だから高校生でありながら和巳は殆ど一人暮らしのような生活をしている。人付き合いが苦手なのはその辺りにも原因があったが、だからといって、まだ未熟で幼い和巳にそれを理解して克服することなど、到底無理な話だった。 実に少年らしい不器用さと、寂しさのようなものを抱えている和巳にとって、夏休みはあまり楽しい時間ではなかった。学校に行かなくて良いと、それを楽しみに待ち、それが来たならば飛び上がらんばかりにあちこち遊びほうけるのが普通の少年の反応であろうが、和巳にとっては、夏休みは時間を持て余してしまう中途半端な期間なのだった。 もちろん、それなりに友人はいたが、そう毎日一緒に遊べるわけではない。家族とか、親戚と言ったものがほとんどいない和巳にとっては、ただひたすら誰もいない家の中で一人で過ごさなくてはならない夏休みは、気を滅入らせてしまう期間でしかなかった。だから、その教師の出した条件につい、惹かれてしまったのだ。 もちろん、家では近所迷惑があるので思う存分引けないホルンが、学校でならば幾らでも弾けるというも魅力だった。けれどもそれを抜きにしても、和巳は、誰もいない休日の校舎というものが嫌いではなかった。がらんと静まり返った教室は、不思議な寂しさのようなものも醸し出してはいるが、けれども「一人」というものに慣れ親しんでしまっている和巳には、ある種の安心感のようなものを与えてくれる。いつもの喧噪とは別世界になってしまったような、静かな校舎を好きなように使って良いということも大きな魅力だった。 (でも、やっぱり失敗だったかもしれない。) まだ、そう暑くはなっていない朝の空気の中でノロノロと着替え学校に行く支度をしながら、和巳はため息を一つ吐いた。 オーケストラ部が本格的に活動を開始するのは夏休み明けからとなる。それまでは、部員の中から選ばれた演奏会実行委員会が演奏会の草案の練り、練習のスケジュールを立て様々な準備を行わなくてはならない。つまり、実行委員会に選ばれてしまうと、夏休み中にも学校に来なくてはならなくなる。実行委員会などというと聞こえは良いが、実質、単なる雑用係でしかなく、誰もが委員になるのは嫌がった。実行委員会は、全員で5人から構成され、うち三人は部員の中から選ばれるが、残りの二人は部長と副部長が否応なしに組み込まれてしまうのだ。 なぜ、これといった取り柄もなく目立つわけでもない自分がよりによって副部長に選ばれたのか、未だに和巳自身は疑問に思っていたが、和巳のホルンの腕前を知っている人間ならば、彼を推したとしても何ら不思議はなかった。それだけならばまだ良かったのが、一番問題なのは和巳が最も苦手とする人物が実行委員の中にいることであり、しかも、その人物が部長であることだった。挙げ句の果ては、残りの三人の実行委員会が揃いも揃ってことごとく打ち合わせをサボるため、演奏会の草案を練るための会議は必然的にその人物と二人きりになってしまう。それが、和巳を憂鬱にしている最大の原因だった。 その人物の名前は、須崎俊哉という。 一学期の半ばに転校してきたその少年は、随分と目立つ容姿をしていた。まるで外国の血でも入っているのではないかと思うような白い肌に、色素の薄い薄茶の瞳、栗色の髪。背が高く、手足もスラリと長い。体のバランスも日本人離れしているが、生粋の日本人だと言うのだから不思議だ。ただ、数年ほど前に海外で暮らしていたことがあるという話だった。 転校してきた当初は、まるで映画の中から出てきたようだとざんざん女生徒に騒がれていたが、俊哉には聞いた風なところが少しもなく、どちらかというと落ち着いた、大人びた雰囲気を持っていたので、一目置かれることはあっても、反感を持たれると言うことが全く無かった。 実際、和巳も俊哉の良い噂を聞くことはあっても、悪い噂を耳にしたことは一度もなかった。接してみても悪い人間だとは思わないし、どちらかと言えば少し大人びた「できた人間」だと言う印象すら受ける。だがしかし、性格の善し悪しでは相性は算出できないらしい。どんなに良い人だろうと、相性が合わない人間とはとことん合わないんだ、と人生16年目にして人付き合いの難しさを、和巳は実感していた。 徐々に強くなる夏の朝の日差しの中を、重たい足取りで校門をくぐる。音楽室のある方向から澄んだバイオリンの音が聞こえ、今日も彼がいることを和巳に教える。俊哉のバイオリンの音は澄んでいて、なお且つその歳には似合わぬ成熟した艶のようなものを含んでおり、和巳は、決してその音が嫌いではなかった。嫌いではなかったが、彼自身に対して感じるのと同様にどうしても受け入れられない部分を感じてしまう。 同じオーケストラ部に所属しているとはいえ、和巳の本職はホルンであるから厳密には分からないが、技術的には恐らくかなりの高レベルに位置するのであろう事は容易に想像できた。それなのに、なぜ、素直に好意を持てないのか、一体、何が原因なのか和巳には全く見当が付かなかった。 他の三人が非協力的なのとは対照的に、俊哉は責任感が強いのかほぼ毎日と言っていいほど学校に来て、確実に計画を進めている。だからと言って強引な訳ではなく、和巳が意見を言えばそれを積極的に取り入れてくれたりもする。けれども、和巳にしてみれば、「自分はほとんど相槌を打つのが仕事」のように感じていた。 もともと和巳は計画性がある方ではないし、人をまとめるのが得意ではないがそれにしても、俊哉とのこの差は愕然とするものがある。俊哉は外国に暮らしていたせいで、実際は和巳よりも一歳年上だという話だったが実際に和巳が感じている年齢の差は、その数倍以上だった。 (あまりに大人びているから苦手なのかもしれない。) 和巳は、生徒玄関に向かいながら最近癖になりつつあるため息を、また一つ吐いた。 (例えば、大学生とかあまりに歳が離れている人とは何を話して良いのかわからないっていうのと似たような苦手意識なのかもしれない。) 生徒玄関にたどり着く前に、花壇の横を通り過ぎるが、そこには大きな向日葵がいくつも並んでいて、元気良く太陽に向かって黄色い花を咲かせている。けれども、和巳の心中はそんな花の姿とは正反対で、憂鬱な気持ちのまま内履に靴を履き替えた。 演奏会には様々な準備が必要となる。選曲に始まり、練習スケジュールの作成、練習場所の確保、パート符の手配、場合によっては写符、曲目によっては足りない楽器の用意、それが出来ない場合の編曲。 細かいことは、部員に役割を割り振ってやらせるにしても、必要な作業を洗い出して、それを適切な係りに割り当てるだけでも結構な作業となる。おまけに選曲が一番厄介で、何百曲もある中から部員の希望楽器とバランスと曲の難易度を全て考慮して、適切な曲を選択しなくてはならない。 和巳は室内管弦楽やホルンの独奏の曲に対しては比較的造詣が深かったが、フルオーケストラの曲となるとそうたくさんの曲を知っている訳ではなかった。逆に俊哉はたくさんの曲を知っているため、必然的に選曲は俊哉に頼ってしまう形になる。副部長とは名ばかりで、全く自分が役に立っていないというのも和巳を憂鬱にさせている一因であった。 (俺なんていなくても、彼一人で十分じゃないか。) そんな風に、不貞腐れた気持ちになることもしょっちゅうだったが、だからと言って、無責任に俊哉一人に全てを任せてしまうことは和巳の性格上できなかった。 いつものように和巳が音楽室の扉を開くと、俊哉はバイオリンを弾いている手を止め和巳の方に振り返り、和やかに笑いながら「おはよう」と挨拶する。もう、一週間以上も続けられている光景だった。 和巳は、内心、憂鬱な気分でため息を一つ吐いたが、なるべく表には出さぬよう愛想笑いで「おはよう」と返す。そして、二人で机を向かい合わせ、昨日の続きを検討していく。もう、八割がた曲は決まっており、あとは、どういう順番で曲を演奏するのか、と、足りない楽器をどうするのかということに焦点は絞られていた。しかし、それもほとんど俊哉が解決策を考えてきており、大概が和巳は頷くだけで話は進んでいく。やはり、自分など必要ないのではないかと思いながら和巳は空返事を繰り返した。 「何か、気に入らないことがあるのか?」 不意にキツさを含んだ口調で咎められ、和巳はふと顔を上げる。しかし、俊哉の薄茶の瞳を真正面から受け止めてしまい、慌てて目を逸らした。クラスの女子などは、この薄茶の瞳が宝石のようできれいだと騒いでいるが、和巳は、どうにも光が鋭すぎるような気がして苦手だった。 「気に入らないことがあるなら言ってくれないと困る」 俊哉らしからぬ、不機嫌な口調で責められて和巳は黙り込む。ここ2、3日こういうことがとても多くなった。最初の1、2日は俊哉の当たりも穏やかで、非常に愛想のいい受け答えだったのに、最近はこうして急に態度が硬化してしまうことが多々ある。それも、和巳のまったく理由の分からない所で機嫌が悪くなるのだ。 「別に、気に入らないことなんて無い。それで良い」 なぜ、自分がそんな風に責められるのかわからないから、自然と和巳の口調も反抗的な口調になってしまう。どうして、もっと、上手くやれないのか、それが相性というものなのか、と和巳は浅くため息を一つ吐いた。 「気分が乗らないみたいだな。少し休憩しよう」 俊哉はぶっきらぼうに言うと一人席を立ちあがり、教室から出ていく。その後ろ姿を見つめながら、和巳は、八つ当たりするように机の足をゴンと蹴った。まるで、和巳が悪いかのような言い方をして出て行くのが勝手だと思った。別に俊哉の言っていることに対して異論などないし、それで構わないと思って聞いているだけなのに、なぜ自分が責められなくてはならないのか。ただでさえ、苦手だと思っている相手なのに、相手が自分を嫌っていると思えば尚更気が滅入ってしまう。和巳は、もう一度机の足を蹴ると、盛大なため息を一つ吐いて窓の外に目を移した。 もう、大分日が高くなっているので教室の中は熱くなり始めている。空調は、夏休みの間は図書室以外は使用禁止になっているので、多少暑くとも我慢しなくてはならなかったが、和巳は夏の暑さは嫌いではなかった。逆に、人工的な涼しさがあまり得意ではないので空調が使えたとしても、恐らく使用しなかっただろう。 「夏」という季節そのものが和巳は好きだったので、少しくらい暑い方が夏らしくて良いと思った。 窓の外には、真っ青な夏の空と入道雲が見え、中庭の方からセミの声が忙しなく聞こえる。今更ながら (ああ、夏なんだな。) と、実感しながら和巳は椅子の背もたれに背を預けた。窓から、夏の風がふわりと吹き込んで来て、和巳に何ともいえぬ心地よさを与える。 (風が気持ち良い。) 和巳は背もたれに身体を預けたまま、心持ち風を受けるために顔を上げて目を閉じた。 適度な夏の暑さと、天気の良い青い空と入道雲と、がらんとした静まり返った校舎と、心地よい夏の風。 もし、今、自分が一人ぼっちで、この音楽室を独占することが出来て、オーケストラ部の副部長になどなっていなければ、最高の気分なのにな、と、心の中で不満を漏らす。そのまま、目を閉じて風を受けていると、不意に至近距離に人の熱を感じてはっと目を開いた。 目を開くと、すぐそこに薄茶の目が見えて和巳は心臓が止まってしまうかと思うくらい驚いた。 すぐ目の前に俊哉が立っていて、和巳の真上から和巳を見下ろしている。その表情は険しくて、どこか怒っているようだった。まだ機嫌が直っていないのか、と憂鬱な気持ちで俊哉の目を見かえすと、俊哉はさらに気を悪くしたように和巳の顔を睨み付けて来る。それから、体を屈めて和巳の顔に自分の顔を近づけると 「それはわざとなのか? 俺のことを駄目にしようとしてる?」 と、静かだが責めるような口調で尋ねた。和巳は、言われたことの意味が全く分からず訝しげに眉を寄せる。 「何を言ってるの?」 和巳が、怪訝そうに問い返すと俊哉は、はぁっと吐き捨てるように息を吐き出し、体を起こした。 「別に。独り言だ。さっきの続きを話し合おう」 一方的に自己完結すると、俊哉は、和巳の向かいの席に腰を下ろす。けれどもやはりどこか不機嫌で、和巳は自分に対する刺のようなものを感じて、ますます気を滅入らせる。和巳は、普段は人を嫌ったりすることが滅多にないが、どうしても、この須崎俊哉だけは好きになれないと、心の中でもう何度目になるかわからないため息を吐いた。 自分の体だというのに、ままならない。自分の意志通りに動いてくれない体に本能的な恐怖を感じて必死にもがくが、やはり、自分の手はまるで他の生き物にでもなってしまったかのように勝手に動き回っている。 違う、これは自分の意志ではないと叫びたい衝動に駆られたが口すらうまく動かせない。どうやら自分の額に架せられた呪縛が原因のようだった。 額の丁度真ん中辺りが燃えるように熱い。手も似たような呪縛が架せられているらしく、ふと、自分の手に目をやってぎょっとした。到底、肌の色とは思えないような緑青に自分の手が染まっていたからだ。 ああ、もう、こんなにも腐蝕が進んでいるのかと、背筋を恐怖が駆け抜ける。あまりの恐怖に叫び出したくなって咄嗟に手を伸ばし、今度はそこで目が覚めた。 やはりぐっしょりと汗をかいて、天井に向かって手を伸ばしてしまっていた。和巳は、自分の指の色が気になり、その伸ばしていた手を慌てて目の前まで引き寄せる。すぐ目の前で、じっと自分の指を見つめたが、その指はいつもの自分の指で、きちんと人間の肌の色をしていた。そして、安堵のため息をもらす。そんな当たり前のことに安心している自分がなぜだか滑稽で、和巳は自嘲的な笑みを浮かべた。 (ばかばかしい。ただの夢なのに。) 窓の外は白んで来ているが、まだ起きるには早すぎる時間だった。 とても恐ろしい夢を見ていたのだと言う自覚はあったが、やはり、どんな夢だったのかという輪郭はかなりぼやけていて、はっきりとは思い出せない。ただ、やはり、白い指と、水というイメージが頭にこびりついていた。それから、緑青にそまった自分の指。 最近見ている夢はまるで連続したドラマのように同じ物語を徐々に先へ読み進めているようなそんな印象を受けた。 (一体、何なんだろう。) 和巳はベッドから上体を起こし、汗で額に張り付いた前髪を右手で無造作に掻き上げた。こうも毎晩、夢見が悪いと寝不足になってしまって体がだるい。いっそ、医者にでも行って睡眠薬でももらった方がいいのかもしれないと、本気で考えて、ふと、急に俊哉の顔が思い浮かんだ。さっきの夢に、俊哉が出てきていたような気がしたのだ。そう思うと、この夢を見始めてからずっと、俊哉が出てきていたような気がしてくる。 確かに演奏会の草案を練るのは億劫なことであるし、苦手な俊哉と毎日顔を合わせなくてはいけないのは憂鬱なことではあったが、それ程気に病んで毎日夢に見るほどの問題なのだろうかと、和巳は首を傾げる。 例えば、父親との確執でごちゃごちゃともめていた時期や、叔父に預けられていて従兄弟たちと折り合いが悪かった時期など、今より余程深刻でストレスを溜めていた時にすら、こんな風に毎晩同じ夢に悩まされることは無かった。どうして、今回だけ、こんな風になってしまうのか自分でも分からずイライラした。本格的に絡まり始めた感情の糸をどうしても解くことが出来ず、もどかしく胸元のシャツを握りしめる。 (何だか、よく分からなくて気持ちが悪い。) 和巳は、絞り出すようにため息を一つ吐くと、もう一度眠り直すために目を閉じた。 休日の校舎内は、ひどく静まり返っていてまるで別世界にでもなったかのような錯覚を和巳に起こさせる。いつもは生徒たちの喧噪で賑わっている廊下もしんと静まり返っていて、ただ夏の日差だけしが窓から差し込んできている。窓の外では騒がしくセミが鳴いているのが聞こえて、その対照的な静寂と音に不思議な安堵感を覚えながら和巳は、廊下を歩き続けた。 寝不足でふらつく足を叱咤しながら、いつものように音楽室へ向かう。寝不足に加えて暑さも手伝い、体調は芳しくなかったので本当はゆっくり休みたいと思っていたが、連絡も取らずに休むことは躊躇われて、結局、こうして学校に来ていた。 俊哉の家の電話番号は知っていたが、到底、電話をかける気になどならなかった。正直に言えば、何となく電話をするのが怖かった。顔が見えていてさえ話しにくい相手であるのに、顔が見えない状態で話すなど、考えるだけでも憂鬱だったのだ。だからといって、二人きりでまたあの気まずい空気に耐える方がましかというとそう言うわけでもなく、日に日に心は重たくなって行くばかりだった。 もともと自分はそう好き嫌いが激しく別れる方ではなく、どちらかというと起伏の少ない平坦な性格であると思っていただけに、ここまで誰かを苦手だと思う自分に、和巳はいささか戸惑っていた。 自分でも何が原因なのかわからない。俊哉は、別段、和巳に対して意地が悪いわけでもなければ、性格が悪いと言うことも無い。それどころか、逆に、人間が出来ていると思うことの方が往々にしてあり、尊敬できる人物だと、理性では和巳も認めていた。けれども、いつもいつも何かしらの言動で引っかかってしまうのだ。 決して、俊哉の言動は独裁的などではなかったし、和巳の意見を尊重してくれているものだったが、なぜだか、和巳には無理矢理、力でもって従わせようとしているようなイメージが必ずつきまとっていた。 同じ年頃の少年であるのに、何もかも優れていて、大人びている部分に単に嫉妬しているだけなのかもしれない、と思うこともあったが、やはり「何か」が常に和巳の癪に触ってしまうのだ。 だから、自然と反発的な言動を取ってしまう。それを抑え込んで、表層上だけを取り繕うことは、和巳の幼さが許さなかった。 恐らく、自分と俊哉がどうもしっくり行かないのはそれが原因なのだろう。結局、突き詰めれば、自分の幼さと未熟さと僭越な嫉妬が原因なのだと思い当たったが、だからといって和巳にはどうすることも出来なかった。 けれども、そのことを差し引いてもやはり、和巳は俊哉には何か隠し持った刺のような剣呑な空気を感じ取ってしまう。俊哉に対して、どこかぶつかるような態度を取ってしまうのは、それに呑み込まれまいと必死に堪えようと身構えてしまうせいもあった。 それはあくまで理屈ではなく、感覚の問題で、言ってみれば一種のインスピレーションのようなものだった。だから、思い込みだと言われてしまえばそれまでだが、やはり、和巳には「俊哉が和巳を支配しようと企んでいる」ように思えて仕方が無かった。 そして、なぜかと疑問を抱く。俊哉に対して崇拝の念を抱いているような生徒は山ほどいるし、その気になれば、大抵の人間なら幾らでも自由に言うことを聞かせることができるだろう。 事実、過剰なほど俊哉に傾倒し、まるで飼い犬のように尻尾を振らんばかりに従っている生徒は、一人や二人ではない。もっとも、それを当の本人である俊哉が歓迎しているかどうかと言えば別問題であるが。 それなのに、なぜ、和巳までをその支配下に置こうとするのか。 和巳は決して気が強い方ではなかったし、自己中心的な性格ではなかったが、思春期の少年特有の自尊心と潔癖さはそれなりに持ち合わせていたので、そんな俊哉の態度は我慢ならない部分があった。 和巳は、誰にも従属する気など無かった。それは、和巳の無知と幼さを象徴する自尊心ではあったが、同時に、和巳のまだ汚れを知らない純粋さをも象徴していた。 和巳は、いつものように階段を上り、音楽室の前に辿り着く。音楽室の扉に手をかけ、そういえば、今日はなぜか俊哉のバイオリンの音が聞こえてこないことに、ふと気が付いた。珍しく、まだ、学校に来ていないのかもしれないと和巳は思い込み、ノックをすることも忘れてそのままガラリと扉を開けた。 そして、飛び込んできた光景に硬直してしまう。 そこには俊哉と和巳の知らない女生徒がいて、まるでドラマのワンシーンか何かのように女生徒が俊哉に身を寄せ、確かに唇を合せていたのだ。 和巳に気が付き、振り返ったその女生徒は少し大人びていて、おそらく上級生なのだろうということが伺える。顔は割と美人だったが、少し気だるい雰囲気と退廃的な印象を与えるのが和巳の神経に障った。 女生徒の手は未だに俊哉の肩にかけられたままで、たった今、和巳に「それ」を目撃されたにもかかわらず、さして動揺した様子もみえなかった。どちらかといえば、鬱陶しそうに和巳を見つめ、早く去れと無言で訴えているようだった。 本当は異邦人は彼女の方で、去るべきなのは彼女であり、和巳にはそこにいる権利があったが、ずけずけとその場に入り込むような太い神経を和巳は持ち合わせていなかった。 だから、一瞬、八つ当たりするようにきっと俊哉の顔を睨み付け、そのまま回れ右で音楽室に背を向ける。一秒も、その場にいたくない一心で方向も確認せずに走り出した。 後ろの方から同じように走って来る足音が聞こえ、もしかしたら俊哉かもしれないと思ったが振り返らずに走り続けた。もし、俊哉だったなら顔も見たくないし、捕まるのもまっぴらごめんだと思っていたからだ。 けれども、階段を駆け登り、屋上へ続く扉へ手をかけた瞬間に、あっさりとその腕を捕らえられる。振り払うように、腕をやみくもに引いたが予測しないほどの強い力で踊り場の壁に叩き付けられた。 「離せよっ!」 渾身の力を込めて発した声に、腕を掴まえた主は微かに眉を寄せたが決して和巳を離したりはしなかった。 「なぜ、逃げるんだ?」 本当に分からないというような、ともすれば馬鹿にしているようにもとれる口調で、俊哉は言った。…もっとも、俊哉本人には、和巳を馬鹿にするつもりなど毛頭も無かったのだが。 和巳は俊哉のその態度になおさら激昂し、壁に押さえつけられている腕を振り払おうとしたが、思いのほか俊哉の力が強いのかそれはできなかった。和巳は悔しそうに唇をかみ締め、それからもう一度俊哉の顔をきっと睨み付けた。 「別に逃げたんじゃない。邪魔だと思って、いなくなってやっただけだろっ! …いいから離せよっ!」 「どうして、椿が邪魔だなんて思うんだよ?」 どうして、と尋ねるその神経が和巳には理解できなかった。そもそも、和巳はやりたくもない草案の仕事のために仕方なく学校に来ているのであり、音楽室は本来自分が好き勝手に使っていいと教師に言われている場所なのである。そんな場所に女を連れ込んで、挙げ句「どうして」と尋ねられるとは和巳には全く持ってその思考回路がわからなかった。 「どうしてだって? 須崎は、一体、何を考えてるんだよ?」 呆気にとられて和巳が尋ねると、俊哉は形の良い眉を、器用に少しだけ上げた。 「さっきのは、彼女が勝手にしてきただけのことだ」 いつもの俊哉らしからぬ、少し困ったような口調の弁明するような言葉であったが、動揺と憤りに駆られていた和巳はその意外性には気が付かなかった。 『彼女が勝手にしてきた』と言う言葉に「慣れ」のようなものを感じて、相手の成熟度に劣等感を刺激され、溢れ出した感情を止めることが出来なくなっていたのだ。 「別に、そんな事どっちでも良いよ。俺には関係が無いことだ。ただ、音楽室はもともと俺が借りてる場所だから、やるなら別の場所でやって欲しいだけだ」 なるべく動揺していることや怒っていることを悟られないように、和巳は細心の注意を払って乾いた無感情の冷たい言い方を装って言った。瞬間に、俊哉の顔が不快に歪む。そんな俊哉の表情の変化に、ザマアミロ、と少しだけ和巳は胸がすっとしたが、依然として抑え込まれていた腕は解放してはもらえなかった。俊哉は、その不快な表情のまま和巳の顔に自分の顔を近づける。 「なぜ椿は、俺に対してだけそんなに反抗的なんだよ?」 『反抗的』という言葉の中に見え隠れする支配欲のようなものを感じて、更に和巳は激昂した。自分は誰にも従属するつもりもなければ、支配されるつもりもない。あくまでも、自分の王様は自分だという少年らしい自尊心に、その俊哉の言葉は著しく触れてしまったのだった。 「そんなの、俺が、須崎を嫌いだからに決まっているだろ?」 嘲笑うように「意地悪な口調」を自分で演出して、少し芝居がかった口調で和巳は答えた。それを聞いた途端に、俊哉の眼が見開かれ、次の瞬間に酷く傷ついたような表情になる。自分が俊哉に与えた影響がそれほどまでに大きかったことが意外で、和巳は驚き、それから自分でも理解の出来ない喜びのようなものを感じた。 けれども、それがなぜなのか考える暇は和巳には与えられなかった。俊哉は、乱暴に和巳の腕を突き放すと 「そう。俺も、椿を見ているとイライラする。とても、イライラするよ」 と、吐き捨てるように言った。それから、くるりと背を向けると和巳を振り返ることなく階段を降りていく。和巳は自分が発した言葉は棚に上げ、俊哉のその言葉にひどく衝撃を受けて立ちすくんだ。何か俊哉に声をかけなければいけないと、どこか頭の隅で考えたが、結局何か言葉を発することはできずに、じっと俊哉の背中を見つめ続けただけだった。俊哉の姿が、消えて、見えなくなってしまうまで。 はっと、目が覚めた。やはり、ぐっしょりと汗をかいてはいたが、見ていた夢は今度ははっきりと鮮明に覚えていた。けれども、その内容が暗示していることまでは理解できない。ただ、自分が見ていた夢の最初から最後までがしっかりと記憶に残っていた。けれども、やはり、その中でも白い指と水と緑青に染まった自分の指が鮮烈に頭の中にこびりついていた。白い指の持ち主は、現在、和巳が最も苦手としている人物で、夢の最後の方では、和巳を水の中に沈めて溺れさせてしまった。だから、あんなにも恐ろしいという印象だけが残ったのだろう。 夢の中の俊哉は実際の俊哉と全く違う人物のようでもあったし、その人本人であるようにも思えた。あるいは、昨日までなら、同じ姿をした別の人間と思えたのかもしれない。けれども、既に俊哉の一面を見てしまっている今日は、全くの同一人物で、1ミリの狂いもないイメージのようにも思えた。 あまりに子供じみた決裂を迎えてしまった手前、本当は学校には行きたくなかったし、到底俊哉の顔など見たいとは思わないはずだった。けれども、その夢が和巳に奇妙な誘惑をかける。それは、ちらりと垣間見た俊哉の一面を更に掘り下げてみたいという、実に俗っぽい好奇心ではあったが、意外なほどの強さで和巳を誘うので抗うことは出来なかった。 一緒にいるとイライラする、などとはっきり言われて、正直に言えば俊哉と顔を合わせることさえ怖かった。和巳は、人に嫌われることを最も恐れる人間だったので、人に厭われるような事をするのを極端に嫌がる。けれども、その時ばかりはその誘惑に勝てなかったのだ。 急かされるように学校までの道のりを歩き、いつものように静まり返った校舎に忍び込む。校舎の中は、昨日と全く同じはずだったが和巳には静寂がより強調されているように思えた。外のセミの声が、まるでテレビのブラウン管の中から聞こえるかのように、まるで遠い世界から聞こえているような錯覚を起こす。自分の靴の底が微かな足音を立て、昨日までは意識もしていなかったのに、今日は自分の気配にひどく慎重になりながら、階段を静かに登った。 今日も、昨日と同じくバイオリンの音は聞こえてこない。 また、あんな光景に出くわしてしまうのかと少し怯えてはいたが、今日は、音楽室の扉は開け放たれていた。そのせいで、音楽室の中が丸見えになっている。昨日のように、見知らぬ女生徒がいるわけではなさそうだった。けれども、俊哉の姿も見えない。音楽室の窓が全て全開になっているので、恐らく一度音楽室に来たのだろうが、今はどこにいるか分からなかった。 和巳は、音楽室の中をぐるりと見渡して、そして「それ」に気がついた。机の隙間からのぞいた、投げ出された足。和巳は訝しげに眉を寄せ、その足の方に近づいていく。ほんのすぐ側まで近づいて、俊哉が無造作に手足を投げ出して、床に転がって眠っているのだということに気がついた。 和巳は俊哉と顔をあわせたなら一体何を言おうかと身構えていたので、少しばかり気抜けしたが逆に、安心もした。眠っていれば、自分が傷つくようなことを言われることもない。和巳は俊哉のすぐ脇に身をかがめ、その寝顔を覗き込む。 (すごく肌が白いんだよな。睫も長いし。…あ。睫も栗色なんだ。当たり前か。) 和巳は珍しいものでも見るかのようにじっと俊哉の顔を見つめ、こんな風にまじまじと顔を観察することが初めてだと気がついた。その容姿がきれいだと、周りが騒いでいたときは対して興味もわかなかったが、こうして改めてよく見ると確かに騒がれるだけの事はあるなと、妙に冷めた頭で納得する。まるで、作り物のようなその姿は見るもの全てを魅了するだけの力が確かにある、と和巳は思った。 最も、それとは別の種類の力を自分も持っていて、知らず知らずのうちに誰かしらを惹きつけていると言うことには、全く気がついてはいなかったが。 決して自分はこの顔が嫌いではない、と思いながら、俊哉が起きないように気を付けてその栗色の前髪を掻き上げる。触れるか触れないかの微妙なところで鼻筋をたどり、その唇にたどり着いたときに、途端に昨日の光景を思い出した。この唇に触れた人間がいるのだと思うと、何とも言いようのない甘い痛みのようなものが和巳の胸にこみ上げてくる。それは早熟な俊哉に対する羨望と嫉妬であったが、俊哉に比べ、未だ幼い和巳はその感情をはき違えた。瞬間的な衝動にさらわれて、更に身をかがめその唇に自分の唇を近づける。 和巳には、決して他意は無かった。触れたならばどんな感じがするのだろうか、という酷く子供じみた好奇心のみに突き動かされていたに過ぎない。あるいは、自分とは遠いことのように思っていた行為に対する憧れと、「それくらいできる」という危うい自尊心がそうさせたのかもしれなかった。 あまり触れている感じがしない。というのが正直な感想だった。それから、意外に乾燥しているんだ、とも。自分が予想していたより、大した感銘も受けず、いささか拍子抜けして和巳はその唇を離した。まるで、相手が目を覚ますなどと言うことは、カケラも考えずに。そして、その瞬間に硬直した。心臓が止まってしまったかのような錯覚を起こし頭の中は真っ白になった。 薄茶の瞳が、はっきりと見開かれ、明らかに自分をまっすぐ見つめている。その顔には、引きずり込まれずにはいられないほどの鮮やかな笑みが浮かんでいて、和巳は目を逸らすことが出来なかった。目を逸らさなければ駄目だと言うことは頭の片隅で分かっていたが出来なかった。 世の中には、稀にそういう人間がいる。例えば、人を惑わして、狂わせて、駄目にしてしまうような類の人間だ。上手に羊の皮を被っていただけで、俊哉の本質はそう言ったタチの悪い人間であるということを瞬時に悟り、和巳は慌てて身を引こうとしたが腕を強く引かれて叶わなかった。 俊哉は、その鮮やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりとその形の良い唇を動かした。 「椿は酷い人間だ。俺を誘惑して駄目にした」 まるで、芝居の台詞でも言うかのようなゆったりとした口調でそう言うと、俊哉は器用に自分の位置と和巳の位置を入れ替える。上から抑え込まれ、楽しそうに笑いかけられ、その時になってようやく和巳は俊哉が巧妙に張り巡らしていた罠に自分がはまってしまったのだと気がついた。気がついたが、気がついたときには、もう、既に遅かった。 本来、罠というものはそういう性質を持つものだ。それと分かったときには、もう、すっかりはまっていて抜け出すことが出来ない。 つい先ほどとは、全く逆の立場で唇が近づき触れた。触れた瞬間は、先ほどと同じようにさして衝撃も受けなかったが他人の舌が自分の口腔内を犯しにかかったときは、さすがに和巳もぎょっとした。キス、というものに対して、少年らしい清潔で淡いイメージを抱いていた和巳にとって、そのあまりの生々しさは驚異だった。生理的な嫌悪感を覚え、必死に逃れようともがいたが、上から抑え込まれた場合、力がほぼ互角でも、抑え込まれた方が圧倒的に不利であることをその時に知った。 自分の意志ではままならない体に、今朝の夢がだぶる。自分を抑え込んで、水の中に沈めて溺れさせた白い手が、まさに今、現実でも同じ事をしようとしているようだった。 必死に水面を求めるように、闇雲に暴れている和巳とは対照的に、俊哉の手や指は酷く穏やかで、まるで壊れ物でも撫でさすっているかのように優美に動き回る。その落ち着き払ったようにすら見える態度が、和巳の癇に障る。 頭では、突き飛ばして罵声を浴びせてやりたいと思っているのに体は言うことを聞かなかった。まるで、自分の体では無くなってしまったようなもどかしさに、和巳は焦りを覚える。和巳の唇を解放したその後に、次第に下の方へと移動する俊哉の舌や唇に、これ以上はいけないと思いながら、和巳の腕は決して和巳の言うことを聞いてはくれず、逆に、俊哉の背をやんわりと抱きしめているのだった。 いつのまにか開襟シャツのボタンは全てはずされており、何気なく視線を移すと自分の白い胸を真っ赤な舌が舐っているのが見えて、そのあまりのいやらしさに、和巳は神経が焼き切れてしまうかと思った。 こんなことまでされてなぜ突き飛ばさないのか。なぜ自分の腕は、体は、自分の言うことを聞いてくれないのか。視覚的な刺激と体に与えられている刺激に意識を四散させられながら、それでも必死に抗う。 まるで磁石でもついているかのように、俊哉の背に張り付いて離れない自分の手を何とか引き剥がし、自分の見える位置まで移動して、ぎょっとした。夢の中と同じに、自分の手が緑青に染まっているように見えたからだ。 嗚呼、もう駄目だと目を閉じる。こんな風になってしまえば、もう自分ではどうにもならないと悟って一切の抵抗を止めた。もう、こうなってしまえば抗うだけ無駄で、和巳に出来ることと言ったら、素直に完全に支配されるのを待つことだけだった。 手が降りてくる。熱を持ちかけている下肢を酷く丁寧に愛撫され、もう戻ることは出来ず、熱を吐き出すしかない状態まで追いつめられた。いくら抵抗するのを諦めたとはいえ、完全に理性をかなぐり捨てることは出来ず、他人の手に良いようにされているということに激しい羞恥心と屈辱感のようなものを感じる。 当の俊哉はといえば、終始、余裕のある微笑みを浮かべて、和巳の乱れ様を楽しんでいるかのようだった。その笑いはとても綺麗だったが、質としては最悪で、和巳はこれから恐らく自分が駄目にされるのだということに何とも言えない喪失感を感じた。あれほど本能的に警戒していたにもかかわらず、結局は、まんまと策にはまって「支配されて」しまうのだと思ったら、途方もない悔しさがこみ上げてきた。自分では制御できない快感と、悔しさが相まって、生理的な涙と悔し涙が同時にこみ上げてくる。けれども、俊哉の目の前で泣くことはどうしても憚られて、必死に涙が零れるのを我慢する。子供っぽい意地を張っているだけだと自分でも分かってはいたが、これ以上俊哉に「負けてしまう」のがどうしても嫌だった。 そうやって、達するのも涙を流すのもギリギリの所で堪えていたが、そう長くは保たずに促されるまま熱を吐き出した。その瞬間、涙が一筋目尻を伝って床に落ちたが、それ以上、涙を零すことは堪えた。 目をきつく閉じ、肩で荒い息を繰り返していると、なま暖かい感触が眦にあった。涙を舌で拭われていると思ったら、決して嫌悪感からではない震えが走り、それを誤魔化すために、尚一層目を堅く閉じた。 「たったそれだけ?」 耳元で声がして、はっと目を開くと真上から薄茶の瞳が見つめていた。それから、本当に自然にそう言う表情をしたのか、それとも自分に見せるためにわざとそういう表情をしたのか、判断のつかない艶やかな笑いを浮かべる。こんな表情を見せられたなら、どんな人間も駄目にされると分かっていながら従ってしまうのだろう。 和巳は、自分は何とタチの悪い人間に立ち入ってしまったのだろうかと後悔したが、相変わらず体は意志を裏切り続け、手は緑青に染まったまま、喜んで迎入れているように俊哉の背を抱き、頭を引き寄せている。 「つまらないな。もっと泣いて見せろよ。もっと、俺に縋って見せて」 俊哉は笑いながら、するりと手を動かし和巳の中に中指を捻じり込む。無理にそうされたせいで鋭い痛みが走り、短い喘ぎ声を反射的に発しても、和巳が俊哉に抵抗する事はなかった。一応浅いなりではあったが知識もあったし、このまま流されてしまえばどうなるのか容易に予測もできたが、やはり、緑青の腕は俊哉の背を抱いたままだった。自分がこのまま、女のような扱いを受けることも重々承知で和巳は抵抗しなかったのだ。このまま抵抗しなければ、自分の自尊心は打ち砕かれて、ひどく陵辱されたような気持ちになるのはわかっていたのに、そのまま余す所無く「支配される」のを無意識のうちに選択していた。 もっとも、その時は、和巳にはその自覚は無かったが。 肉付きの薄い、白い腹を無防備に晒して何度も何度も慣らされて、終いには俊哉を受け入れさせられた。 グチグチと淫猥な音が聞こえ、それが自分の体から漏れ聞こえている音かと思ったら、あまりの羞恥に気を失うかと思った。痛みというよりは異物感と圧迫感があって、内臓が破裂するのではないかという恐怖感があったが、なぜだか、別にこのまま死んでしまっても構わないなと、妙にあっけらかんとした気持ちになった。 正直に言えばそう気持ちの良い行為ではなかったが、自分の上でうっすらと額に汗をかき、陶然とした表情を浮かべている俊哉を見たら、もう何をされても構わないとすてばちな気持ちになってしまったのだ。 俊哉にこんな表情をさせているのは自分だと思ったら、何とも言えない優越感のようなものが和巳を満たし、体だけでなく、結局、気持ちの方まで引きずり込まれてしまっていた。引きずり込まれて、駄目にされて、最初から本当はそれを望んでいたのだと、無理矢理自覚させられる。 どうしようもない、本当にどうしようもないと自嘲的な気持ちになりながら俊哉にしがみつくように、その背中を強く抱いた。次第に、気持ちが悪いのか気持ちが良いのか分からなくなり始め、額の辺りがじりじりと痺れ始めるのがわかった。そこからじわじわと何かが広がり始め、やがて和巳はその感覚を快楽と捉え始める。夢の中で感じていたもどかしさはこれだったのかと、ようやく和巳は納得した。 一旦認めてしまうと、もう、何もかもストンと落ちてしまったかのようにこだわりがなくなる。何の事はない。自分は最初からこれを望んでいたのだ。和巳は何のためらいも無く、自ら体も精神も開けっぴろげに開いて俊哉を受け入れる。 何度も何度も。 遠くでセミの声が聞こえている。先ほどの嵐のような時間が嘘のような静けさだった。呼吸もすっかり整っていて、音楽室はセミの声以外、ほとんど何の音も聞こえなかった。時折吹き込む風がカーテンを揺らし、さらさらと音を立てるのを和巳はのんびりとした気分で聞いていた。もう、指一本動かすのも億劫でこのまま眠ってしまいたいとも思ったが、それはそれでもったいないような気がした。 和巳が転がっている床の、すぐ隣には俊哉が無造作に足を投げ出して座っていた。和巳も、俊哉も、もうきちんと制服を着直していて、端から見たなら、ただ二人で涼んでいるようにしか見えない。 和巳の服は、俊哉が着せた。最初、和巳は丁重に断ったのだが、和巳が到底体を動かすことなどできない状態になっていたので、結局そういう事になった。さすがに、俊哉が和巳の中で出したものを処理された時は、情けなくて泣きたくなったが、それを除けば丁寧に体を清められるのは心地が良かった。 バイオリンを奏でる時と言い、この奇麗な指がいけない、と体を拭かれながら和巳は考えたが、疲労と痛みもあいまって抗うことは出来なかった。 俊哉に服を着せてもらって、それからずっと二人で黙って音楽室の床に転がっている。何の言葉も無かったが、決して重苦しい空気や気まずさは存在せず、和巳は不思議な居心地の良さを感じながら天井を見つめ、窓から吹き込む風を受けていた。隣に俊哉がいても、以前のような苛立ちや、憂鬱な気分は襲ってこない。むしろ、安心感のようなものを感じて和巳は無防備な表情を晒して目を伏せていた。 どれくらいそうしていた頃か、クスリと隣で微かに笑う気配がして和巳は目を開き俊哉の方を見やる。俊哉は、穏やかな瞳で和巳を見つめながら薄く笑みを浮かべていた。この表情も良くない、と思いながら和巳はついその表情に見惚れてしまう。 「まさか、こんな風に道を踏み外すとは思わなかった。椿のせいだ」 俊哉は笑いを浮かべたままそう漏らした。けれども、その言った内容とは裏腹に、その口調は決して和巳を責めるようなものではなく、どちらかというとからかうような色の方が強い。 和巳は、道を無理矢理踏み外されたのは自分の方だと、少しむっとした表情で俊哉を見つめる。 「それは、俺の台詞だ。大体、俺が一体何をしたって言うんだ」 「俺のことをあんなに誘惑しただろ?」 「俺が? いつ?」 「ずっとだよ。俺は、もともと他人には執着しないタチのはずなんだよ。なのに、椿を見てるとムズムズして、イライラして、泣かせたくなって仕方無かった」 表情は穏やかな笑みを浮かべたまま、酷く物騒なことを言う俊哉に、和巳は呆れたような表情をする。そもそも、誘惑していたと言うなら余程俊哉の方が自分を誘惑していたように見える。和巳は、ふぅとため息を一つ吐くと肩を竦めた。 「須崎って、いじめっ子なの?」 「そんな子供じみたことはしないよ。普段はね。でも、椿が相手だと勝手が違って困る」 本当に心底困っているように苦笑いしながら俊哉が言うのを、和巳は不思議な気持ちで眺める。あんなに大人びて見え、自分とは違う世界の人間だと思っていた俊哉が、急に年相応に見えて和巳はパチパチと瞬きを繰り返した。 ここにいる俊哉は、夢の中の俊哉とも違ったし、以前自分が描いていた「できた人間」の俊哉とも違った。明らかに現実味のある、自分よりたった一つだけ年上の少年だった。…もちろん、タチが悪いと言う点においては、何ら変りはなかったが。 和巳は、新しい生き物でも見るように不思議そうな表情のまま俊哉を見上げた。その表情を見て、俊哉はますます苦笑の色を濃くする。 「そんな顔をしてると、椿はまるで小さな子供みたいだね」 俊哉は和巳の額に手を伸ばし、和巳の前髪を優しくかきあげると和巳の上から覆い被さるように身を屈める。 「また抱いても良い?」 らしくもなく、子供があめ玉をねだるような甘えた表情と口調で言われて和巳は思わず吹き出してしまう。恐らく、俊哉がこんな表情を見せるのは自分だけなのだろうと思ったら、何とも言えない優越感が襲ってくる。そして、それがたまらない快感だとその時知った。自分だけがこの表情を見ることが出来るのなら「支配されること」など安いものだと思えた。そもそも、最初から自分はこうされることを望んでいたのではないか。あの夢はそれを暗示していて、ただ自分だけがひたすらそれを意識的に否定してきただけに過ぎない。 人間の深層心理と表層の意識は常に反対のものを指し示すため、時々、人間はバランスを崩してしまうが、一度認知してしまえば、あっさりと受け入れる強靱な柔軟性を持ち合わせている。そのしたたかさに呆れはしたが、今まで抱えてきた苛立ちがきれいさっぱり消え失せていたので、とりあえず、和巳はそれで良しとした。 和巳は、悪戯っぽい笑いを浮かべると俊哉の薄茶の瞳を覗き込む。 「体が痛くなるから、もう床の上では嫌だ」 言った言葉は酷く間接的な肯定だったが、俊哉には十分伝わったらしい。俊哉は楽しそうに笑うと、その白い指で和巳の左腕の内側の辺りをつ、となぞった。 「それじゃあ、次は柔らかいベッドの上で」 からかい口調で告げ、降りてきた唇を和巳はすんなりと受け入れた。手は自然に俊哉の背を抱いていたが、決して緑青になど染まってはいなかった。つまりは、それは和巳自身の意志だと言うことを示す。もっとも始めから、和巳の指は緑青になど染まっていなかったのだが。 ゆったりと、相手の思うがままに口づけされて、完全に「支配された」と和巳は感じたが、不思議と以前のような悔しさはこみ上げてこなかった。所詮「支配されること」と「支配すること」は表裏一体で、ある意味、和巳は支配されることにより俊哉を支配することにもなるのだろうと言うことが漠然と分かっていたせいもある。 依然として目の前の人間は質の悪い相手だという認識はあったが、所詮深みにはまってしまった方の負けなのだと和巳は苦笑混じりに諦める。そもそも初めて言葉を交わし、その魅惑的なバイオリンの音を聞いてしまった時点で負けは決まっていたようなもので、ただ自分だけが意地を張って反抗していただけのような気もしてくる。 人間の認識など曖昧なものだと肩をすくめて和巳は目を閉じた。その耳元に、俊哉の口が寄せられる。 「椿は本当に酷い人間だな。俺はもう海の底まで沈められてしまった気分だ。すっかり溺れてしまって浮き上がることすらできない」 歌うような、誘うような、艶を含んだ声で言われて和巳は思わず首を竦める。目を開くと、目を細めてまるで自分を取り込もうとでもしているような俊哉の表情が目に入った。その形の良い白い指は、酷く優しく和巳の頬をなぞっている。この声が、この顔が、この指が、自分を駄目にするのだと分かっていながら、和巳はその心地よさには逆らえなかった。余程相手の方が酷い人間で、溺れさせられたのは自分の方だと思ったが、敢えて口にはしない。ただでさえ、かなり自分の方が不利であるのに、これ以上弱味をさらしてやる義理など無いと少しだけ意地悪な気持ちになったからだ。だから、何も言わず、ただ黙って俊哉の背を抱く。セミの声を遠くに聞きながら、和巳は満足そうにもう一度目を閉じた。 これから、まだ十分ある夏休みをこの目の前の人間とどう過ごそうかと思いを馳せる。 セミの鳴き声が不意にはっきりと聞こえ、視界は鮮やかさを増したようだった。 今年の夏休みは、決して「時間を持て余す楽しくない期間」などにはならないだろう。 和巳は目を閉じたまま、俊哉の背を強く抱き寄せた。 それ以来、和巳は例の夢を見ていない。 |