novelsトップへ 影法師Bへ

『076:影法師』C ……………


 校門を出たところで三人に別れを告げ、僕は帰り道とは違う方向へ向かう。
 もちろん、行く場所なんて決まっていた。
 すっかり薄暗くなってしまった石段。大きな赤い鳥居。たった数日間の間に、何度、この石段を登っただろう。
 僕の身体はすっかり慣れてしまったのかどうなのか。
 この長い石段を登ってもさほど息も切れなくなっていた。けれども、この石段も暫く登ることは無いのだろう。今日で、僕がこの石段を登らなくてはならない理由は消えるはずなのだから。
 最後の一番大きな鳥居を潜り、境内に向かう。
 今日も、神社の中の公園には誰もいなかった。
 夕暮れを過ぎた、しんと静まり返った公園。迎えに来るはずのない母親。迎えに来る人間がいないと青くなる、と『石塚紅葉』は言った。それは、痛いほど良く分かる感覚。
 僕の中に苦い記憶が蘇る。
 鈴置は、僕を『外面愛想がいいけど実は他人に無関心なタイプ』と評したらしいが、言い得て妙だった。僕がこんな風に他人に、引いては人間に無関心になったのには理由(わけ)がある。
 僕の特異な病を気に病んで、神経質になっていった母。そんな母に耐えられず去っていった父。
 何もかもが負の方向に進んでいくのを、弱くなった母は僕のせいにした。浴びせかけられた罵声。
 すがりついた手を振りほどかれて、拒絶を示され幼い僕は傷ついた。子供は傷つかずに済む方法を拙いながら考える。傷つかずに済むにはどうすれば良いか。簡単だ。何も期待しなければ良い。期待せず、関心を抱かなければいい。
 同じ事を幼い『石塚紅葉』が考えたとは思わない。なぜなら、彼には僕がうらやましがるような仲間がいたのだから。
 けれども、彼は『失う痛み』を知っている。同じ事を知っていることは共感でき理解できる可能性を示唆する。
 なるほど、と、僕は不意に納得した。
 納得した途端に、強烈な関心が僕の中に沸き上がってきた。彼を知りたい、理解したい、という関心だ。
 僕は、いつもと同じように境内の脇の石段に腰掛けて公園の街灯をぼんやりと眺めた。
 もしかしたら、彼が望んでいた事は父親の説得などではなく、もっと単純な事なのかもしれない、と思った。
 そう、至極単純な。
「全部、分かったんだな」
 いつものように、不意に隣で幼い声がした。カラン、と下駄を鳴らす音。
 僕は何気なく横に目をやり、小さな黒い頭を見下ろす。どこか拗ねたような表情で僕の方をみようとしないのが何だか可愛かった。
「君、意外とドジだね? 階段踏み外して頭を打ったんだって?」
 からかうように言ってやると、彼はぷう、と頬を膨らませた。けれども、何も言おうとはしない。
「鈴置とアカネが呆れてたよ」
「…だから、嫌なんだよな…」
「だからって、このままって訳には行かないだろ? いい加減、戻っておいでよ。みんな待ってるんだからさ」
 僕は、核心に触れずに穏やかな口調で促した。彼は相変わらずふくれっ面で返事もしない。生意気なその態度が、なぜだか、無性にカワイイと思った。僕はくつくつと笑って彼から視線を逸らす。薄暗い公園の砂場の辺りをぼんやりと眺めながら、ぽつりと言葉を漏らした。
「僕は、母親に捨てられた子供なんだ」
 ふっと息をのむ音が聞こえて、横顔に視線を感じたけれど、僕は彼の方を向きはしなかった。僕の方が先に開示した方が切り出しやすいだろうと踏んで話を続けた。
「見て分かるだろうけど、僕は特殊な病気なんだ。遺伝子欠損が原因なんだけど、色々生活上の制約も多いし、あんまり長生きできないだろうって医者には言われている。対処療法で大分マシになってきたから、今は生活している分にはそんなに不自由は感じないんだけど、小さな頃はもっと症状が酷かった。
 一週間に一遍は病院に運び込まれてた位。母親は、凄く負担だったんだろうね。一生、治らない病気だって言われていたし」
 淡々とした口調でそこまで言って、つと、視線を彼に移すと彼は眉間に皺を寄せ、痛いのを我慢しているような表情で僕の顔を真っ直ぐに見つめていた。
「母親は、だんだんノイローゼみたいになってしまってね。仕舞いには入院しなくてはならないくらい酷くなった。最後には、僕なんかいらない、産まなきゃ良かったとまで言われた。
 結局、僕が側にいる限り彼女の病状は改善しないってことで、僕は親戚に預けられたんだ。
 皮肉なことにね、親戚に預けられて対処療法をしているうちにだんだんと症状は良くなって、一人でも何とか生活していけそうだったから、僕は転地療養を理由にこの町に来たんだよ」
 そこまで言って、僕は肩を竦め、わざと戯けたように笑って見せた。今まで、誰にも話したことのない僕の事。思い出すことさえ放棄しようとしていた、忘れようとしていた胸の鈍い痛み。
「とりあえず、僕の話は終わり。君の話は?」
 彼は、僕の瞳をじっと見つめたまま口を開きかけては閉じる、と言うことを数回繰り返したが、やがて小さな声で語り始めた。
「父さんは、僕のせいで母さんが死んだと思ってる」
「君のせい? 事故だったんじゃないのかい?」
 彼は小さな肩を竦めて苦笑した。
「凄いね、そんなトコまで調べたんだ?」
「調べたんじゃなくて、君の『オトモダチ』が教えてくれたんだけどね?」
「…余計なことばっかり言うんだよ、あいつら。まあ、良いけど。…確かに事故だったんだけど。酔っぱらい運転の車が僕に向かって突っ込んできたのを母さんが庇ってくれたんだ。それで、母さんは死んでしまった」
「でも、それは君が悪いわけでも何でもないじゃないか」
「うん。でも、父さんが僕のせいにしたい気持ちも分からなくも無いんだ。僕だって、時々、僕がいなけりゃ母さんは死ななかったって泣きたくなることあるから」
「……公園に誰も迎えに来てくれなかった時とか?」
 僕が尋ねると、彼はふっと大人びた笑いを薄く浮かべて軽く目を伏せた。
「父さんは、母さんの思い出が詰まっている家にいるのが辛くて、家を空けがちになった。仕事にかこつけて殆ど帰ってこなくなったんだ」
「…君をたった一人残して?」
「ん。…でも、僕にはみんながいたから平気だった」
 それは嘘ではないだろう。嘘ではないだろうが、完全に真実であるとも思えなかった。仲の良い友人がいたからと言って、彼の欠けているものを埋められるかどうかは、また別の問題だ。
「でも、とうとう、父さんはあの家を処分すると言い出した。僕の言い分なんてこれっぽっちも聞かないで。母さんが死んだ時から、父さんは僕のことを見ていない。視界に入っていない。僕はいないのと同じ存在なんだ」
 吐き出すように言った彼の横顔には青い影。いけない、と思って僕はそれをパン、と払った。
「ダメだよ。引っ張られては。君達は、何度やらせれば気が済むんだい? 人使いの荒い連中だな」
 僕が空気を変えようとからかうように笑って言うと、彼は僕の意図を察したのか肩を竦めて軽く笑った。
「それで? それが悲しくて自殺した?」
「自殺なんてしてないって。知ってる癖に」
「睡眠薬飲んだって聞いたけど?」
「まあ、それは本当だけど。あんまり考えすぎて眠れなくなったから通常量を飲んだだけだよ? ただ、失敗したのは、頭がぼうっとした状態で水を飲みに行こうとして階段を踏み外した事だけど…」
 と、彼はバツが悪そうに言葉尻を濁した。僕は、悪い悪いと思いつつも思わず吹き出してしまう。
「やっぱり、本当だったんだ。君、案外ドジなんだね?」
「う…五月蠅いな! 放っとけよ!」
 頬を赤く染めて生意気な口調で言い返してきたけれど、僕はもう、それがカワイイとしか思わなかった。
「僕は、最初、仲間と離れるのが嫌だから、それをどうにかして欲しいんだと思っていた」
 笑いながら僕が言うと、彼は頬を染めたまま苦笑した。
「まあ、それもあったけど」
「そうだね。でも、ホントはもっと簡単なことだったんだ」
 僕は、笑うのをやめて彼の大きな黒い瞳をじっと見つめた。暗闇の中でその目を見つめていると何だか吸い込まれそうな気分になる。
 色々な意味で、こんな風に誰かに関心や好意を抱くのは初めて何じゃないかという自覚が頭の隅を掠めた。
 少し生意気な口調や態度も、意地っ張りな所も、不器用だけれども真っ直ぐな視線も、自分の弱さにきちんと向かい合う真摯な姿勢も。
「君が僕にして欲しいこと」
 僕は、彼の目を見つめたまま、彼の小さな手を取った。夜気にひんやりと冷えた、小さな頼りない手。
 彼は、僕に手を握られたまま、不安げな表情で僕を見上げている。その揺れる瞳が何かを欲しているのが分かった。なぜなら、僕も同じものを欲していたから。
「僕たちは、友達になれると思わないかい? 僕には君の痛みが分かる。理解できる。君には僕の痛みが分かるだろう?」
 彼は、僕の言葉を聞くと大きなその目を更に大きく見開いて、僕の顔を穴が開くほどじっと見つめ続けた。
「僕は、もっと色んな話を君としたい。だから戻ってきて欲しい」
 なんの虚飾も衒いもない正直な気持ちを彼に告げると、彼は戸惑った表情のまま微かに頬を染めこくりと頷いた。
「…な…何か、君、タラシっぽいよ? く…口説いてるみたい」
 ぼそぼそと、独り言のように零した言葉に僕は思いきり吹き出して笑ってしまう。
「いや、まあ、それはまたの機会にするよ。その格好だと子供に悪さする犯罪者っぽいからさ」
 僕がゲラゲラ笑いながら言うと、彼は怒ったようにぶんっと僕の手を振り払って勢い良く石段の上から飛び降りた。
 カラン、と小気味の良い下駄の音。
 振り返りざま、彼はべえっと舌を出してすぐに踵を返して僕に背を向けた。
 ふと、藍色の小さな背中が夕闇に揺れる。
 僕の目がおかしくなったのかと、無意識に目を擦っている間に、藍色の背中は白い背中にすり替わった。
 少年の、制服の白いシャツと黒いズボン。
 もう、小さな子供なんかじゃない。
 僕と同い年の少年の後ろ姿。
 けれども、彼は振り返らなかった。
「それじゃ、僕は、帰るよ。今度は教室でね」
 明るい声音、悪戯っぽい口調。
 彼が振り返らないのは、彼のおっちょこちょいを笑った僕に対する仕返しなのか、それとも単なる照れなのか。
 いずれにしても、彼の背中はピンと真っ直ぐで、潔くて、気持ちが良かった。
 ふと、僕は、『今の彼』の写真は一度も見せてもらっていなかったと言うことに気が付いた。
 けれども、焦ることはない。明日になれば『本当の彼』に会えるに違いないのだから。
「ああ。また明日」
 友人同士が別れ際にかける、ありきたりの挨拶を僕は投げかけた。
 『コレ』は特別な事じゃない。明日からは『日常』になる。
 なぜなら、僕らは『友達』になるのだから。
 僕は、奇妙に浮かれた気分で彼の白い背中を見送る。
 明日になったら、鈴置と飛田とアカネに礼を言おうと思った。それから、葦原レナにも。
 そして、夏休みになったらみんなでどこかに遊びに行こうと思った。今度は『石塚紅葉』を加えた本来の面子で。
 彼の白い背中が夏の夕闇に完全に溶けたのを確認してから、僕はゆっくりと立ち上がる。
 鳥居を潜り、家路を辿る僕の真上には、いつのまにか満月が明るく光っていた。











 僕はいつもと変わり無く、朝の教室に入り自分の席に座って一限目の英語の教科書を開いていた。
 胸のうちには奇妙な期待と確信を抱きながら。
 いつもと同じ朝の教室。
 いつもの朝のざわめき。
 けれども、今日は、いつもと違った事が起きるはず。

 教室の後ろで、不意に明るい声が上がった。
 それから、人が集まる気配と、笑い声。

「なんや! ようやっと戻ってきたんか!」
「ったく、心配させんなよ、センセ!」
 鈴置と飛田の嬉しそうな声が聞こえた。
 ひたすら、「良かったね、良かったね」と涙声になっているのは洞木さん。
「今頃戻ってきたワケ? トロくさいんだから!」
 と、憎まれ口を叩いているアカネの声は、押し隠していても嬉しさが滲み出てきるみたいだった。
 葦原レナは興味が無さそうに窓の外を眺めていたけれど、心なしか、表情が明るいような気がした。
 暫くの間、クラスの皆にもみくちゃにされている気配がしていたが、人だかりをかき分けるようにして、彼は僕の席に視線を投げた。
「心配かけてゴメン。ちょっといいかな」
 少し高目の通る声が聞こえた。
 初めて聞く、本当の、彼の声。
 僕の方に近づいて来る軽やかな足音に、僕は、らしくも無く胸を躍らせたが、あくまで態度には出さずに、ただ、ひたすら教科書に視線を落とす。
「そうや、お前が入院しとった間に転校生がきたんや」
 後ろから鈴置が声をかけると、彼は、
「知ってる」
 と、笑いを含んだ声で答え、そのまま、僕の席の前に立った。



 僕は、ゆっくりと顔を上げる。
 初めて見る、彼の顔。
 想像していたより、少しだけ大人びていて、想像したより少しだけ大きな目をしていた。
 けれども、彼は『彼』に違い無かった。
 少し戸惑った表情で、頬を微かに赤く染め僕の顔を見下ろした彼は、首を傾げて不器用に笑った。
 僕は、じわりと滲み出てきた嬉しさを不思議に思いながら彼の黒い瞳に見入ってしまう。
「ええと…はじめまして? 名波和君?」
「どうも。はじめまして、石塚紅葉君」
 僕はちらりと教科書から目線を上げ、澄ました顔で挨拶した。
 もっとも、内心は、妙に浮き足立ってはいたのだけれど。
 彼は、僕と目が合うと、今度は、はにかんだように笑いかける。




 目の前の彼と白い狐のお面の少年との面影が重なる。
 それは、不思議な感覚。
 懐かしさと、未来への予感。
 僕は、きっと、彼と特別な関係になるだろう。
 僕と、君は、分かり合える。分かち合える。そんな確信。

 そしてそれは現実のことになり、僕はアカネと、また別の理由でいがみあうことになるのだけれど、それは、もう少し先の話になる。

 その時は、ただ、僕は彼の笑顔に心地よく浸りながら、愛想笑いではない心からの笑みを返していた。
 それを周りの人間が不思議そうに眺めていたけれど、僕たちは、もう、「友達」だった。
 僕と彼だけが知っている秘密。



















 朝の教室は既に、暑さがじわじわと染み入りはじめている。
 どこかから蝉の声が聞こえて来るこの場所には、夏休みが、すぐそこまで来ていた。







novelsトップへ 影法師Bへ