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『073:煙』 ………………………………

 藍屋京平と江戸川晃は犬猿の仲。と言うのは高校の中では結構有名な周知の事実だった。
 とにかく顔をあわせれば、喧々囂々と激しい言い争いをするか、聞いているほうが震え上がるような嫌味の応酬を繰り広げるか。
 でなければ、お互いに存在しないかのように不自然なくらい無視しあうか。
 それでも、この二人の遭遇確率が低ければ、周りはそう迷惑しなかっただろう。だがしかし、悲しいかな、何の因果かこの二人は同じ部活の、事もあろうか部長と副部長だったのである(ちなみに、その不幸な部活とは弓道部である)。しかも、同じクラスと来ているので、ほぼ毎日と言って良いほど周りにはた迷惑を振りまいているのだった。

 なぜ、そこまで仲が悪いのかと言うと二人が生まれた時まで時間をさかのぼる。
 二人は、隣接した弓道場の息子同士だった。
 とかく、同じ業種の会社が隣接したりすれば仲が悪くなりがちだ。それが、はっきりと勝敗の出る上に、優劣を競い合う『武道』だったりしたので尚更だった。京平と晃、両者の親は強制的に我が子に弓道を習わせ、ひたすら張り合い続けた。
 『他の誰に負けても良い。とにかく、隣の子供にだけは負けるな。』
 という刷り込みをしっかりとした上で。
 そんな環境に育った二人が仲良くなるはずが無い。お互いをライバル視し、何事に対しても張り合うようになってしまった二人を、誰が責められるだろうか。
 弓道のみならず、勉強、スポーツ、果てはバレンタインのチョコレートの数まで張り合う二人は外野からすれば面白い存在で、小中高通じてとかく注目を集める存在であった。
 互いにライバル視して切磋琢磨したせいか、それとも、元々優秀な素質を持っていたせいか、京平も晃も何事においてもそこそこの所まで到達した。成績も悪くない。走らせれば平均より速いし、球技もソツなくこなす。顔もタイプこそ違えど、それなりに整っていたので、二人とも程ほどに女の子にもモテた。
 実際、弓道部の中では、藍屋派と江戸川派の二つに分かれて、どちらかに憧れている女子部員も少なくは無い。そんな風にはっきりと派閥が別れてしまうのにはそれなりの理由があった。成績や、スポーツや、弓道の腕前は拮抗していても、二人の性質は全くの正反対だったのだ。
 『静と動』『柔と剛』と評されるように、京平は騒がしい事を厭い、落ち着いた雰囲気で穏やかに笑っているような少年で、晃は対照的に活発で喜怒哀楽がはっきりとしていて、仲間とワイワイ騒ぐのを好むような少年だった。
 正反対の性質の二人だったが故に、仲の悪さをさらに増長させて、あれほどまでの犬猿の仲になってしまったのだろうと、周りは面白おかしく分析していたが、人を好きになるのに理由が無いように、嫌いになるのにも理由は無い。結局は、互いの何処が嫌いなのかは、当の本人達にしか分からない問題なのだ。


 そんな二人に、とんでもない噂が立ったのは二人が2年から3年に進級する春休みの事だった。
「え? 嘘! ? 藍屋先輩と江戸川先輩が?」
「まっさかー!」
 事の発端は、春休み中の練習を行っていた弓道部の女子更衣室。
 夜の公園で、京平と晃に似た二人がキスをしていたのを見た、と部員の一人が言い出したことだった。『京平と晃に似た二人』という所が重要で、それを目撃した部員本人も決して「藍屋先輩と江戸川先輩だった」とは断定していなかったのだが、何しろ噂とは非常に無責任なものである。
 『京平と晃に似た二人』が『京平と晃の二人』に摩り替わり、あれよあれよという間に尾ひれ背びれが付いて、新学期が始まる頃には
「京平と晃が夜の部室でエッチしてた」
 と言う最初の事実から掛け離れた話になって学校内を駆け巡ってしまったのである。
 しかも、噂と言うものの常で、それが当の本人二人の耳に入ったのは一番最後と言う始末だった。






「え?」
 普段はあまり動揺する事の無い京平が、さすがに驚いたような顔をして、その場にいた全員の顔を見回した。
 春季新人戦の打ち上げの場だった。居合わせたのは部長である京平と、副部長である晃、それから、各学年のリーダー、サブリーダーの6人だった。
 本来、未成年の飲酒は禁じられているが、少しくらいなら無礼講、と言う事で皆でチューハイを何杯か開けた。全員、多少酔いが回っていたせいでハイテンションのノリになっていたのは確かだった。この雰囲気なら、少しくらい羽目を外した事を言っても大丈夫だろう、という空気は確かにあった。
 だがしかし、一年のサブリーダー西村由紀子が、本気で噂の真相を確かめようと、はっきりと事実を確認した時には、他の面子はさすがに顔を青くした。
「部長と、副部長が実は隠れてつきあっていて、しかも、神聖な部室でエッチしてたってのは本当なんですか?」
 どう聞いたとしても誤魔化しようの無い質問を由紀子は、事もあろうか京平に投げつけた。
 これが、晃だったのなら、多少過激な質問でもタチの悪い冗談として受け流せたのかもしれない。だが、京平は晃に比べてどちらかと言えば真面目で、ノリも決して軽くはないタイプの人間だったのだ。
 案の定、京平は由紀子の質問の内容を今一度頭の中でじっくりと考え、徐々に顔色を青くし、それから赤くした。
「何なの、西村さん。その笑えない冗談は」
 絶対零度の冷たい声で、京平は答えた。京平は、普段喜怒哀楽が表に出ないが決して無表情でもなければ冷たい印象も受けない。どちらかと言えば、物静かで穏やかで晃以外には決してキツイ態度を取らない人間だったが、この時ばかりは違った。
 普段からは想像できない冷たい物言いに、さすがに由紀子もまずい事を聞いたと思ったのだろうが、残念ながら由紀子は決して気の弱い人間ではなかった。言い出したからには、真相を聞かなければ引っ込みが付かないと思ったのかどうなのか。
「冗談じゃないです。部活のみんなが知ってる噂ですよ? で、どうなんですか? 嘘なんですか? 本当なんですか?」
 さらに、京平の逆鱗に触れるような質問を繰り返し、その場にいた他の人間を震え上がらせた。当の本人である京平は、一瞬だけ呆気に取られたようにポカンと口をあけ、それから、再び顔を真っ赤にする。
「…そんな根も葉もない噂信じるほうがどうかしてる! 不愉快だ! 俺は帰る」
 そうして勢い良く席を立つと、アワアワと慌てている他のメンバーに構うことなく店をさっさと出て行ってしまった。


「あ〜あ。怒らせちゃって」
 慌てている他のメンバーを尻目に、晃が呆れた様につぶやく。
「だって! 本当にみんなが知ってる噂なんですよ? 江戸川先輩、実際、どうなんですか?」
「どうってさ〜。俺らの普段の様子を見てれば本当か嘘かなんて分かるっしょ? つーか、西村ちゃん、そんなアホみたいな噂で藍屋怒らせてどうするんだよ? 俺は知らねーよ?」
「でも!」
「ついでに言っとくけど、俺もそんな話聞かされたら不愉快。悪いけど、俺も帰るわ」
 そう言って、晃も席を立ち上がり店を出て行ってしまう。



「…そうだよなあ。ちょっと考えれば、そんなのガセだって分かるよなあ」
「そうだよ。なんで、そんな馬鹿みたいな噂信じちゃったんだろう」
「部長も副部長も、あんな本気で怒ること滅多に無いのに。よっぽど頭来たんだろうな」
「明日から、そんな馬鹿な噂流すんじゃないってみんなに注意しておこうか」
「うん。その方が良いかも。西村も、ちゃんと二人に謝っとけよ」
「…ごめんなさい」
 酔いの冷めた頭で、冷静に反省してしまった面々だった。







 怒りも露にズンズンと歩いて行く背中を追いかける。ありゃあ、相当な怒り具合だなあ、面倒くさいなあと思いながらも少し小走りに、距離を縮めた。
「藍屋!」
 大きめの声で呼びかけても決して振り返らない。
「ちょっと! 藍屋って!」
 更に大きい声で呼んでも、やはり京平は振り返ることはなかった。小さな溜息を吐き、晃は軽く肩を竦める。それから、
「京平!」
 と、普段は外で決して呼ばない名前で呼びかけた。その途端、前を歩く京平の背中がピタリと止まる。その反応に少しだけ安心して晃は更に距離を詰め、トンと、その背中を軽く叩いた。
「ったく。あんなに怒ること無いだろー? 西村、泣きそうだったぞ?」
 軽い口調で言ってやれば、京平は少しだけ困ったような表情でチラリと晃の方を見た。
「…悪い。頭真っ白になって」
 小さな声で、そうポツリと京平が謝ると、晃は屈託の無い笑顔を浮かべた。
「ま、良いけど。明日謝っておけよ」
「ああ」
 腕が触れるか触れないかの微妙な距離を保ち、二人並んで静かな住宅街を歩き始める。比較的遅い時間帯だったせいか、辺りに人影は見えなかった。
「…ゴメン」
 歩きながら京平がポツリと呟いた言葉に、晃は首を傾げる。
「何が?」
「俺が迂闊だった」
「ああ。公園でちゅーした事? 別に良いんじゃないの? 俺はバレても構わないけど」
「馬鹿言え! 親にバレたら駆け落ち騒ぎだぞ! ?」
 真剣な表情でそんな事を言う京平に、晃は思わず噴出してしまう。駆け落ちって、一体いつの時代の人間だよ、と思いつつも、この真面目さと不器用さが好きなんだよなあ、としみじみ感じてしまう晃だった。
 公園でキスした時も、京平が衝動的に、と言う感じでしてしまったのであって決して晃に非は無かったが、別段責めるつもりも無い。そもそも、初めてエッチしてから何年も経つのに、未だに戸惑いがちだったり初々しかったりする京平が、晃としては気に入っているのだ。
「しっかしまあ、面倒くさいよな。親同士が仲悪いってのも」
 京平を慰めるように、あっけらかんとした明るい声で晃が言えば、京平はようやく少しだけ気を取り直したのか、その端整な顔に苦笑いを浮かべた。
「ああ。それに、仲悪い振りするのも、時々疲れる」
「まあねえ。でも、今のトコ仕方ないんじゃないの?」
「ああ、仕方ない。俺は絶対に別れるつもりは無いから。次から気をつける」
 神妙な面持ちで京平が言うので、今度は晃が苦笑いを浮かべてしまった。

 気をつけると幾ら言っても。

「火の無いところに煙は立たないって言葉もあるしなあ」
 小さな声で漏らした言葉は京平には聞こえなかったらしい。
 まあ良いか、と持ち前の楽観的思考回路で晃は気持ちを切り替える。

 とりあえず。

「とりあえず、明日になったらいっちょ、みんなの前で派手に大喧嘩でもかましとくか」
 晃が明るい声で言えば、京平は苦笑いを浮かべて、小さく頷いた。



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