『048:熱帯魚』@ …………………… |
ブクブクと音を立てて、空気と水が循環している。真っ黒な壁紙を背に色とりどりの熱帯魚が泳いでいるのを飽きることなく、筑紫比呂(つくしひろ)は眺め続けていた。本当はこの部屋に来るのは好きじゃない。けれども、熱帯魚を眺めているのは好きだった。綺麗な青い色をした瑠璃スズメダイが一番好きだと思う。ヒラヒラと様々な色の軌跡を描きながら自由に泳いでいる熱帯魚たちをじっと見詰めて、自分もこの魚になれないだろうかと詮無い馬鹿馬鹿しいことを考える。 「また熱帯魚見てンのか? 好きだな」 呆れるように笑いながらがっしりとした男の腕が伸びてくる。 「綺麗だから」 「フウン? 比呂の方が綺麗だと思うけど?」 からかう様な口調で耳元に囁かれると、反射的に比呂の背筋に甘ったるい痺れが走る。 嘘つき、詐欺師、タラシ、と心の中で思いつく限りの悪態をついてはみるが、それが実際に比呂の口から零れることはない。背中からギュッと抱きしめられて体が密着すると、シトラス系のシャンプーの匂いがした。多分、自分の髪の毛も同じにおいがしているのだろう。濡れたままの髪から落ちた雫が比呂の首筋の辺りに落ちる。そんな些細な刺激にさえ、比呂はヒクリと体を反応させた。 ブカブカの借り物のパジャマの裾から忍び込んでくる、ゴツゴツとした大きな男の手。迷うことなく乳首を探り当てられて、キュッと軽く摘み上げられると堪えきれずに、比呂の喉の奥は、ンッ、と甘い声を漏らした。仰け反るように、少し強引に顔を後ろに向けさせられ、ネットリしたキスを施される。もう、煽られることが当たり前のようになってしまった、簡単に火をつけられてしまう体。気持ちの良いことを散々教え込まれた体は、比呂の意思など簡単に裏切って反応を返す。いやらしいキスに気を取られていると下肢にも手が伸びてきて、下着の中にもぐりこんだ手がスルリとからかうように比呂のを撫でると、フッと鼻に息が抜けてしまった。 「こ…ここですんの?」 戸惑いがちに尋ねると、何がおかしいのか優しい顔で笑う。甘ったるいマスクがそんな風に笑うと本当に優しそうに見えてしまって、比呂は泣きたくなった。 「ダメ? ベッドがいい? 俺、移動する時間も惜しいんだけど?」 「で、でも、先輩の親帰ってきたら…」 「今日は残業だから遅くまで帰ってこないよ」 微かな反論はあっさりと封じ込められて、そのままリビングで始められてしまう。中途半端に火をつけられてしまった体が、素直になるまでの時間は短い。あっという間に、ソファの上で比呂は甘ったるい喘ぎ声をあげ始めてしまった。 「ウッ…ッゥ…ヤ…ヤダ、ダメ! アッ! アアッ!」 ベッドよりもずっと狭い場所で不安定な姿勢を取らされて、比呂はイヤイヤをするように首を振る。比呂の体を何度も抉っている目の前の男はそんな痴態を眺めながら目を細めた。 「ダメ、じゃないだろ? そういう時はイイって言えって教えたよな? 物覚えの悪いコだな」 そう言いながら、対面座位の格好で抱え上げた比呂の細い体を器用に持ち上げては落とす。 「ヒッ! アアッ! ダメ! ダメ!」 「イイ、だろ? ちゃんと言わないとイかせない」 そう言いながら、達する寸前のものをせき止められる。 「ヤダッ! ヤッ! 離してっ!」 意地悪な手を退かそうと試みるが全く効果が上がらず、比呂はポロポロと眦から涙を落とした。もう、意識は半分どこかに飛びかけているし、何が何だか分からない状態だ。 「じゃ、ちゃんとイイって言いな」 悪魔みたいな甘ったるい優しい低音で囁かれて、比呂はガクガクと馬鹿みたいに頭を振りながら、ふいごのように、 「イイッ! イイよっ!」 と喘ぐ。 「気持ちイイ?」 「ウンッ! イイッ! 気持ちイイッ!」 理性もプライドも手放して比呂が喚くと、ようやく満足したのか意地悪な手が離されて促すように扱かれる。ギュッと閉じた瞼の奥でチカチカと光りが点滅して、しまいには真っ白なスパークが弾ける。凄まじい失墜感。どこかに意識だけストーンと落とされたように頭の中が空っぽになって、気が付けばグチュっとした湿った感覚が下肢を這い登ってきた。意識は少しずつ戻っては来たが、全力疾走した後のように息も絶え絶えで、そんな比呂を満足そうな目が見下ろしてくる。 「大丈夫だった?」 気遣うような優しい声。でも騙されない。 腰はガタガタだし体中フニャフニャで力も入らない。ちっとも大丈夫なんかじゃない。それでも、 「ヘーキ」 と、口は可愛げのない言葉を吐き出す。 「ゴムしないでするから、ソファ汚れたけど。俺、知らないよ」 さらに、ツンとした表情で言ってやれば目の前の顔が苦笑いに変わった。 「冷めてンなあ。後でカバー洗えば大丈夫だって」 「あ、そう。俺、シャワー貸りるから」 「何だよ。ちょっとは余韻を楽しもうとか思わないワケ? 情緒の無いヤツだな」 面白くなさそうな顔で、文句を言っているのを背にそのままバスルームへと移動する。中に直接吐き出されたものを少しでも早く洗い流してしまいたかった。 中に踏み込まれないようにバスルームの鍵をきっちりと内側からかけて、ベタベタする体を洗い流す。湯気で曇った鏡にザッとシャワーのお湯をかければ、違和感を覚える自分の顔が写って見えた。 上気した頬。どこか虚ろな真っ黒な瞳。口紅でも塗ったような真っ赤に色づいた唇。もともと比呂の顔は男っぽい顔ではなかったが、今鏡に写った顔はまるで男に媚びる女のようだと思う。こんな顔、大嫌いだと思いながら鏡から視線を逸らす。その顔が好きだと言われれば言われるほど嫌いになっていった。 自分で指を突っ込みながら中のものを掻き出して、どうしようもなく虚しい気持ちに陥る。いつだってセックスの後は自己嫌悪の嵐だ。 『自業自得』という言葉が頭の中を駆け巡る。誰を恨んでみようもない。恨むならこんな馬鹿げた事を始めてしまった自分だった。 ■ ■ ■ 『清廉潔癖』 そんな言葉が馬鹿みたいに当てはまる人だと、初めて泉谷祐(いずみやたすく)を見た時に比呂は感じた。初めてまともに顔を見たのは、確か生徒会の顔合わせの時だったと思う。何をどう間違ったのか、比呂が会計に選ばれてしまった代の生徒会の会長だった人間が祐だった。 凛とした横顔に、常に冷静沈着な態度。それでいて、他者の意見にもきちんと耳を傾ける柔軟性と穏やかさも持ち合わせている。決して落ち着き無く騒いだりはしゃいだりはしないのに、盛り上がっている場にもすんなりと溶け込めてしまう社交性。 どちらかといえば内向的で、とかく人付き合いに関しては不器用だと自覚のある比呂が祐に傾倒するのに、そう時間は掛からなかった。他人に打ち解けるのも、年上の人間に甘えるのもヘタクソだった比呂にしては珍しく、同じ生徒会で活動するようになって三ヶ月もしない内に、比呂は祐に懐き始めた。どこかぎこちなく不自然で無理をしているように見受けられることも時々あったが、それでも、後輩に慕われるのは悪い気はしなかったのだろう。祐もそれなりに比呂を可愛がるようになった。あまり深く他人に関わったことの無い比呂にしては、祐はかなり『親しい人』になっていたといえる。だが、祐にとってはそうではなかったらしい。もともと、会長に選ばれるほどの人望もあり、高校の中でも有名人の部類に入る祐だ。比呂はあくまでも『後輩の一人』に過ぎず、特別ではなかった。比呂がそれに気が付いたのは、夏休みの始まる直前。期末考査の終わった校内で、祐とその親友と呼ばれている男の会話を盗み聞いてしまったからだった。 「比呂って、祐のことが好きなんじゃねーか?」 生徒会室のドア越しに聞こえた声に比呂はギクリと足を止め、思わず気配を殺そうと動きを止めた。そもそも、比呂は自分が酷く地味で目立たない存在だと思っているので、他人の会話に自分の名前が出てくるということに酷くうろたえてしまう。しかも、内容が内容だ。 「まさか。先輩として慕ってるだけだろ」 「そうか? あの素っ気無いネコが祐にだけ懐いてるってあちこちで噂ンなってるぜ?」 祐の話し相手は、どうやら副会長の倉持恭司(くらもちきょうじ)らしかった。聞きなれた、低音の甘ったるいバリトン。 正直、それまで、比呂は恭司が苦手だった。恭司は祐とは印象が正反対の男だった。少したれ目がちの、それでいて男らしさを損なわない切れ長の目をした恭司は、女受けのする甘ったるいマスクで祐と校内の女子生徒の人気を二分していた。バイタリティと行動力の塊のような男で、祐が頭脳なら恭司が手足、といったようにあうんの呼吸で二人は生徒会を絶妙に運営している。 だが、けじめのきちっとしているように見える祐と比べて、恭司は人の中にズカズカと無神経に入り込んでくるような馴れ馴れしさがあるようで、比呂はどうしても好きになれなかった。比呂のことをまるで子ども扱いするかのように、時として小馬鹿にしているようにさえ見える態度で接するのも気に入らなかった。 確かに、恭司は体格も見た目も比呂よりもずっと大人びていたし、精神的にも比呂に比べれば成熟しているのかもしれない。しかも、タラシだと誰もが認めるほど恋愛に対する経験値も高いようだった。だからといって、一つしか違わない比呂を子供のように扱うのは我慢がならなかった。 比呂は内向的な性格が祟ってか、高校1年になった今も誰かと付き合ったことがなかった。それを見抜かれて侮られているのかもしれない、と比呂は感じていた。 「何? 気になるワケ?」 答える祐の声にクスリと笑ったような気配を感じ取り、比呂はヒヤリとしてしまう。何となく自分が馬鹿にされて、笑われたような気がしたのだ。 「まあな」 恭司が答えると、今度は祐は声を上げて笑った。 「らしくないな。安心しろよ。比呂みたいなヤツはタイプじゃないし。俺が好きなのは恭司みたいなヤツだって。知ってるくせに」 「そりゃ知ってるけどな」 その言葉を聞いた途端、比呂は頭の中が真っ白になった。祐と恭司が二人で自分を嘲笑しているような錯覚に陥って、静かに体をドアから離す。そのままなるべく足音を殺すように気をつけて早足でその場を立ち去った。 どこをどう通って、裏庭の校舎の影まで逃げたのか比呂は今でも覚えていない。校舎の影に蹲った時には、比呂の頬はグッショリと涙で濡れていた。自分では親しいと思っていた先輩、しかも仄かな憧れを抱いていた相手に侮られたということがショックだった。しかも、自分のようなタイプは好きではないと言い切られたことにも酷く傷ついていた。だが、憧れていた人間に対して負の感情を抱くことは難しいらしい。比呂の否定的な感情は、祐ではなくすぐさま恭司に向かった。そもそも、恭司があんな話を祐に振らなければ自分が否定されることもなかったはずだ。 人と関わることが苦手だった自分が、珍しく抱いた純粋な憧れのような気持ちを汚したのは恭司だと比呂は思った。しかも、祐が恭司を好きだと言っていたことも比呂の負の感情に拍車を掛ける。その日から、恭司は『苦手だった先輩』から『大嫌いな先輩』に変わってしまった。だが、比呂の逆恨みにも似た感情はそれだけに留まらなかった。一体全体どうしてそんな発想になってしまったのか、自分の事ながら比呂は今でも理解できない。 だが、混乱して興奮したままの頭でその時比呂が思いついたのは『祐と恭司の仲を壊してやる』ということだった。どうやって壊してやればいいのか必死で考えて、思いついた方法は『恭司を誘惑する』という実に陳腐なものだったが、その時の比呂にはそれしかないと思えた。祐に好きではないと言い切られてしまった以上、祐にちょっかいを掛けることなどできない。そもそも、馬鹿なことをしでかして祐に嫌われることが比呂は何よりも怖かった。だが、恭司にならどう思われても構わなかった。嫌われようが馬鹿にされようが痛くも痒くもない。幸いなことに、恭司が恋愛の相手に選ぶ相手は男女問わないという噂を比呂は聞いたことがあった。ならば、何とかなるのではないかとその時の比呂は浅慮にも考えたのだった。 自覚もなく、興奮した状態のまま比呂は学校を出てくる恭司を待ち伏せた。そして、その勢いのまま恭司に好きだと告げたのだ。 正直、比呂は勝算など一割もないと思っていた。軽くあしらわれるか、馬鹿にされるか。そんなところだろうと踏んでいた。だが、その後もしつこく迫れば何とかなるのではないかと無謀にも考えていたのだ。セックスをちらつかせて落とすのも厭わないとさえ考えていた。未だに、キスしたことすらない恋愛の初心者であるのにも関わらず、だ。 しかし、恭司の反応は比呂の想像したものとは全く違った。 比呂の告白を聞き、恭司は酷く驚いたような顔をした。それから真剣な表情でそれは本当かと聞き返してきたのだ。 恭司は、普段、ふざけてばかりで笑っていることが多い。あまり、真面目な顔や真剣な顔を見せないのでともすれば軽薄にも見られがちだ。実際、軽薄だと比呂は思っている。だから、そんな風に見慣れない表情を見せられて、比呂は微かに動揺した。だが、後には引けない。本当だ、と至極真面目な顔で比呂が頷けば、恭司は怒ったような顔で比呂を自分の家まで引きずって行った。そして、そこでそのまま比呂は恭司に犯されたのだ。 合意のセックスなどではない。あれは強姦だったと比呂は今でも思っている。 |