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『033:白鷺』A ………………………………


 それからひと月の月日が流れた。
 尭頼は昼間は今迄と変らぬ暮らしを続け、夜は毎夜と言って良い程頻繁に葦時との逢瀬を重ねていた。とは言え尭頼の方から葦時を訪ねることは出来ない。いつもいつも葦時が尭頼のいる奥院まで訪ねて来るのだ。
 尭頼は葦時がなるべく動き易いようにと、女官に分からぬよう呪符を片端から探して剥がした。葦時は
「もともと『鬼』など気まぐれな性分。毎夜来るとは限りません。けれども君が贄にされておらぬかどうか、時折確かめに参りましょう」
 と言っておきながら、余程のことが無ければ毎晩奥院まで訪ねて来る。けれども毎晩情を交わすと言う訳ではなく、ただ尭頼の顔を見に来るだけの夜もあれば、黙って尭頼のつま弾く琵琶の音を聞いているだけの夜もあった。
「私は人を誑かし、情を交わして生気を吸い取るような輩とは違います。ですから別段毎晩肌を重ねたいと言う訳ではない」
 葦時は苦笑を滲ませた声色でそう言ってはいたが、情事に耽る夜もしばしばだった。
 尭頼は何も隠し隔てする必要の無い俗世の柵から隔離された場所にいる葦時に酷く懐き、決して誰にも見せたことのない無防備な態度を葦時にだけは見せた。尭頼を宮内から追い出して失脚させようとした者とも、何とかして尭頼を元の地位に引き戻そうとする女官達とも、葦時は全く違った。ただ尭頼は思った事をそのまま口にすれば良いし、警戒心を抱く必要も無かった。葦時の腕の中は酷く安心して、心穏やかでいられる場所であると、束の間の平穏に身を委ねていたのだ。
「この様に長々しい夜をどうして今迄一人で過ごせたのか私には不思議でなりません」
 葦時の腕に抱かれ、庭先で月の光を浴びながら尭頼は陶然とした表情で葦時に呟いた。
「その様に私を惑わすようなうつくしい事を申して困った方だ」
 尭頼の髪に顔を埋め葦時は苦笑いした。
「そもそも人に現を抜かすなど『鬼』に在るまじきことであるのに。その内、他の『鬼』に侮られましょう」
「私は何時食まれても構わぬと申しているではないですか。それを貴方が嫌だとおっしゃっているのにおかしな方だ」
 くつくつと鈴が鳴るように笑う尭頼の顔を葦時は目を細めながら眺めた。
「今宵は月が美しい。その瞳にこの景色を映せないとは実に腹立たしいことだ」
「私は構わないのですよ。目が見えない代りにもっと多くの事をを知る事も出来るのです。けれども一度だけで良い、貴方の姿を拝見したかった」
「然程見る価値のあるものとは思えませんが」
 葦時が苦笑いしながら応えた言葉に尭頼は悪戯な顔をする。それからすっと手を伸ばし、その指で葦時の頬に触れ、鼻筋をなぞり、最後に唇に辿り着いた。
「そうでしょうか? こうして触れてみますと大変雅な整った姿をしておられるようですが」
「やれやれその様な戯ればかりお覚えになっていよいよ困った方だ」
 葦時は笑って尭頼の指を取るとそれに口付ける。それからやんわりと尭頼の髪を梳いた。尭頼はそっと目を閉じ、その表情を微かに曇らせて小さなため息を一つ吐いた。
「どうかなさいましたか? その様な憂えた顔をなさって」
「東の国の疫病が更に広がって深刻なことになっているらしいのです」
 尭頼の沈んだ声を聞き、葦時は何も言わずに尭頼の髪に口付け、その頬を優しく撫でさすった。
「このようにしていられるのもあと幾晩なのでしょう」
 更に憂えた声で繋ぐ尭頼の言葉を、葦時は無表情のまま聞く。それから尭頼の顎を軽く上げさせてその唇を塞いだ。
「その様な暗い顔をなさるものではない。所詮人の命など儚いもの。それがひと瞬き分程長くなったからと言って、誰がそれを幸いなどと呼ぶ事が出来るのでしょう。ならば、せめて私といる時は、俗世の柵など忘れて流されておしまいなさい」
 そう言って何度も口付ける葦時に、尭頼は身を竦め、結局最後には流されてしまう。なるほど、これが『鬼』の仕業なのかとも思ったが、尭頼には何ら不服など無かった。
「嗚呼。たった一つだけ私の願いを聞いてもらえないでしょうか」
 情事に耽けっている合間に尭頼は甘えた声音で問い掛ける。
「何をお望みか」
「死ぬ前に一度で良いのです。貴方の姿が見たい」
 葦時の体に自分の身を摺り寄せるようにして、何時の間にか覚えた媚態で哀願する尭頼に、葦時は心底参ったような苦笑を浮かべる。
「良ろしいでしょう。まことに君は私の勝手を狂わす困った人だ。君の願いならば宮内の人間を一人残らず始末する事さえ厭わなくなりそうで困ってしまう」
「その様なことは望みません。ただ貴方の姿が見たいだけなのです」
「またその様なうつくしいことを申されて」
 葦時は人がそうするのと寸分違わぬ仕種で尭頼を愛しげに抱き寄せた。


 その様にして蜜月のような毎夜を過ごし、更にひと月が過ぎようとした頃にとうとう都から使者が訪れた。東の国で流行っている疫病が更に広がり、都にまで達しようとしているという知らせを持ってきたのだ。そして疫病を収めるために祈祷が必要だと。
 その日から尭頼は厳しい監禁状態に置かれることになった。それまでは閉じ込められているとは言え軟禁されている程度であったので、比較的自由が効いたが、それもままならなくなった。常に監視されている状態では幾ら妖しの力を持っている葦時と言えど、奥院に忍び込んで来ることは出来ず、挙げ句、疫病がこれ程流行ったのは尭頼が呪われているからだと皇后が申し立てたため、おびただしい数の呪符が奥院に張り巡らされたのだ。
 それは尭頼を忌まわしい存在として奥院から逃げれぬように施された処置であったが、皮肉にも、葦時を奥院に近づけぬようにしてしまった。
 皇后はなるべく事を早く進めて有耶無耶のままに尭頼を始末しようとしているらしく、強引に祈祷の儀式の日取りを決め、使者が訪れてから僅か一週間の内に尭頼は祈祷の際の供物として祭壇に捧げられることとなってしまった。
 突然訪れた不遇に何の準備もしていなかった尭頼は、毎夜葦時の姿を求め、必死にその名を呼んだが、結局葦時が尭頼の前に現れることはなく、いよいよ次の日には祈祷が行われるという夜が訪れた。
 相も変わらず奥院には厳重な警備が張り巡らしてあり、到底尭頼が抜け出すことも、葦時が忍び込んで来ることも出来ないように思われた。
 嗚呼、こんなことであればさっさと自分を食んでもらえば良かったのだと尭頼は後悔したが、どうあってもこの状況から逃れる術は思い付かず、絶望に打ちひしがれ、ただただその身を伏せて嘆くばかりであった。
 奥院の中で小さく身を丸めて転がりいっそ舌でも噛んでしまおうかとも考えたがそれはそれで躊躇われた。
 突き詰めると、尭頼は最後に一目葦時に会いたかっただけで、もはや死に場所は何処でも構わないと思っていたのだった。
 尭頼がはらはらと零した涙が奥院の床を濡らす。そのまま尭頼は泣き濡れ、何時の間にか眠り込んでしまった。それからふと目を覚ましてしまったのは、何事か物音がしたからであった。
 始め、尭頼は空耳かと思い、そのままもう一度寝入ってしまおうとしたが、激しい人の声や何かが倒れる音が更に聞こえ、ただ事ではないことを悟り、訝しげに身を起こす。
 どさりどさりと地面に何かが落ちていく鈍い音が奥院の外から幾つも聞こえた。
 一体何の音なのかと尭頼が身を固くしていると、不意に静寂が訪れて辺りは静まり返る。それから暫く何の物音も聞こえなくなったので、尭頼は夢でも見ていたのかと小首を傾げた。そのまま何事も無かったかのようにもう一度床に身を伏せようとした瞬間、不意に大きな音がして尭頼はびくりと身を震わせた。
 それは勢い良く開け放たれた扉が壁にぶつかった音で、その部屋に誰かが訪れたことを尭頼に告げる音であった。
 葦時が初めて奥院に訪れたときと全く同じ状況であったが、今夜は人の気配がした。それは、何時の間にか尭頼がすっかり慣れ親しんでしまった人の気配で、尭頼は驚いたような表情を見せる。
「良い晩ですね」
 と聞きなれた声がして尭頼は更に驚きを深くした。呆けた表情のまま、訳も分からずただじっと葦時の気配のする方向を見つめる。
「何故」
 尭頼が無意識に漏らした疑問に、葦時は口元を綻ばせ鮮やかな笑みを浮かべた。その時、葦時は確かに人の姿を取っていたのだが、その鮮やかさは到底人のものとは思えぬようであった。
 葦時は奥院の扉の所に立ち止まり、その妖艶な笑みを浮かべたまま、けれども、その瞳には穏やかな光を湛えて尭頼をじっと見詰めた。それは、明らかに人が愛しい人間を見つめる瞳と同じそれであったが、尭頼にはそれを知ることは出来なかった。
 葦時は扉の所に立ち止まったままゆっくりと口を開いた。
「約束の時が来たからです。私は嘘は申しません」
 明らかに、以前尭頼が葦時をからかって言った言葉の意趣返しではあったが、尭頼は驚きの余り巧い言葉を返すことは出来なかった。奥院の床に座り込み、ぼんやりとした頭でゆっくりと口を開き、浮かんだ疑問を口にした。
「…けれども呪符が」
「嗚呼。人の形を取っている時は多少堪えることが出来るのです。それよりも、人の形を取ったままでこれだけの人数を相手にする方が難儀でしたが」
 尭頼には見えなかったが、奥院の扉の外には何人もの人間がごろごろと転がっている。もし、尭頼の目が見えていたならば眉を顰めてしまうような光景であったが、今はその心配も無用であった。
 葦時は奥院の中に歩を進め、尭頼の体を抱え上げる。
「この様に泣き濡れてさぞかし心細いことだったでしょう」
 葦時はまるで幼子をあやす時のように優しく手を伸ばし、尭頼の濡れた頬を拭った。
「もうお会いすることが出来ないと思っておりました」
 尭頼が感極まったように口にした言葉に葦時は微かに苦笑する。それからやんわりと尭頼の体を引き寄せると、その腕の中に尭頼を閉じ込めて、もう一歩も逃さないとでも言うように、以前よりも大分痩せ細ってしまった体を抱きしめた。
「その様に信用が無いとは情けの無いことだ」
「けれども警備が厳重で扉のあちこちには呪符が張り巡らされていたのです。到底訪れる事など出来ないと思っておりました」
 尭頼ははらはらと涙を零しながら葦時の背に腕を回し、その胸に頬を摺り寄せながら訴えるように呟いた。葦時は優しくその頭を抱き寄せると、尭頼の髪を梳き、その涙に濡れた頬に口付ける。
「その様に泣くものではない。本当に君は最後まで困った人だ。そもそも『鬼』というものは人とは違い嘘など付かない生物なのです。君はただ私を信じて待っていれば良かっただけの事」
 葦時はそう言ながら尭頼の髪を梳いていた手を今度は頬に移し更に優しく撫でさする。けれども尭頼はいつもとは違うその感触に訝しげな表情を見せた。それから慌てて葦時の手を取る。
「この手はどうなさったのですか?」
「嗚呼。人の形をとっていてもあれ程の呪符を剥すのは難儀だったのです。この様に手が焼け爛れてしまった」
 尭頼はそれを聞くと、はっと息を呑み込み、一度は止まりかけた涙をまたはらはらと流し、葦時の手のひらに口付け、更にその手に自分の頬を擦り付けた。
「何故この様な酷い仕打ちが出来るのでしょうか。お可哀想に。このような惨い人間ばかりの世など何の未練もありません。もう私は貴方に食まれて消えてしまいたい」
 尭頼がそう言うのを葦時は目を細めて聞き、暫く黙って尭頼の体を抱きしめていたが、漸くその腕を離し尭頼の顔をじっと覗き込んだ。
「ならばここで君との約束を果たしましょう」
 何の感情も窺わせぬ淡々とした口調で葦時は告げた。尭頼は葦時が今は人の形を取っているということを思い出し訝しげに眉を寄せた。
「出来るのですか?」
「元の姿に戻らなければなりませんが。もしかすると社を少しばかり損なってしまうやもしれません」
「何故?」
「少々無理をしたせいで力の加減が出来なくなっているのです。けれども、まあ、知ったことではない」
 そう言うと葦時は尭頼の体を覆い隠して守るようにもう一度尭頼の体を抱きしめ、それから何事が呪いを唱え始める。葦時が呪いを唱え始めて暫くすると、建物の柱ががたがたと揺れ始め、屋根の瓦が衝撃でがらがらと落ちる音がした。
 尭頼は何事かと思い、恐れをなして葦時にひしと強くしがみつく。暫くそのような物々しい音が聞こえていたが、漸く収まったようで、辺りがしんと静まり返った頃には葦時の気配は全く消えており、葦時が本来の姿に戻ったのだと言うことを尭頼に告げていた。
「やはり社を損なってしまいましたね。まあ良い」
 葦時は事も無げに言い放つと、すっと尭頼の体を引き剥がした。それからじっと尭頼の顔を見詰め、微かに表情を曇らせ尭頼の頬に軽く手を当てた。
「恐ろしいですか?」
「いいえ少しも恐ろしくはありません」
 間髪置かずに、何の躊躇いも無く、尭頼は答えた。
「これから私に食まれるとしても?」
「それが私の望みだと、何度も申しておりましたが覚えてはおりませんか」
 尭頼は穏やかな笑みを浮かべて答えた。尭頼の言葉に一切の嘘や偽りはなく、例えこの場で体を引き裂かれようと、葦時が自分に為す事であったら何の恐怖も感じないと尭頼は確信していた。葦時はそれを聞くと満足そうに笑い、尭頼の体を自分の方に引き寄せ、その手を尭頼の首の後ろの当たりにひたりと当てた。
 やはり本来の姿のときは酷くその手は冷たく屍のようだと尭頼は思ったが、けれども恐怖が襲って来ることはなかった。
 葦時に触れられている所から力が流出していき、次第に自分の体の中から力が抜けていくのが分かる。なるほど、『鬼』に食まれるとはこういう事なのかと尭頼は冷めた頭で考えた。段々と自分の足で立っていることがままならなくなって来たのに、逆に意識は妙に冴え始め、目の前が次第に明るくなり始める。光を失ったはずのその瞳には、明らかに世界が写っているようだった。すぐ目の前に暗闇に白く浮かび上がった白い顔が見える。それから月光を反射するかのような見事な銀髪と、見たものを誰でも魅了してしまうような赤い瞳が目に入った。その顔には穏やかな尭頼を慈しむような笑みが浮かんでおり、その表情が尭頼から一切の苦痛と恐怖と悲しみを拭い去る。
「嗚呼。この様なお姿をしておられたのですか」
 尭頼は力の入らぬ体を素直に預け、ただひたすら葦時の顔を見詰め続けた。葦時の容貌は、確かに人為らざる姿であったが、決して尭頼には恐ろしいものにも醜いものにも移らなかった。それを素直に美しいと感じ、純粋な歓喜の中で目を閉じる。口の端を微かに上げ、満足げな笑みを浮かべて尭頼はことりとその腕を落とした。
 それから一切の身動きを止め、生を失った。
 葦時はすっかり抜け殻となってしまった体を、丁寧にゆっくりと床に横たえた。
「ただの抜け殻ではありますが、どのような陵辱を受けるやも分かりません。それならば、風に溶かして流してしまいましょう」
 葦時がそう言って尭頼の死骸の額に手を当てると、その死骸はさらさらと音を立てて指先から砂になっていき、風に紛れて宙に消えてしまった。そして、あたかも最初からそこには何も存在しなかったように、ただ静寂だけが奥院の空間を支配していた。
 葦時は尭頼の体が砂となり、その最後の一粒が風に乗って消え去るのを見届けると、満足そうに笑って天井の方を仰いだ。そして奥院の天井の梁の上に目を移す。
 一体何時からいたのか、そこには一羽の美しい純白の白鷺が羽を休めており、暗闇の中にぼんやりとその姿を浮かび上がらせていた。
 葦時はその鳥をじっと見詰め
「おいでなさい」
 と声を掛ける。するとその白い鳥は、優雅にその真っ白な羽を広げ、あたかも生まれたときから葦時に寄り添っていたかのように葦時の差し出した腕にすんなりと舞い下りた。葦時はその白い鳥を一撫ですると微かに頷き
「それでは参りましょうか」
 と声を掛ける。そしてそのまま白い鳥と共に闇に溶け、二度とその姿をその社に現すことはなかった。





 ただ丸い大きな月だけが全てを見ていたが、決して真実を語ることはなく、ただひたすらに静寂を守り続けているのであった。



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