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『033:白鷺』@ ………………………………

 酷く静まり返った夜だった。空には完全に満ちた大きな月が煌々と光っており、地上の何もかもを暴き出さんばかりに辺りを明るく照らしていたが、それでも光の届かぬ奥院には何やら物々しい空気が漂っていた。
 余りに静かすぎるので耳が痛くなる様だと、無意識に尭頼(たかより)は耳に手を当てしきりにさする。
 琵琶の弦を張り替えに出していて、丁度今日はする事も無く、時間を持て余していた矢先であるのに何かあまり好ましくない物騒な事が起きるような悪い予感がしていた。
 こんな事ならば、少し位摩耗した弦を我慢して音でも掻き鳴らしていた方が多少気も紛れただろうにと、小さなため息を吐く。
 最近東の国で流行病が横行しているのだと、昼間女官に聞いた。恐らくそれも手伝って、酷く憂鬱な気持ちになっているのだろう。
 少しでも気を落ち着かせようと、部屋の真ん中で正座して何とか懊悩を取り払おうと試みたが、静寂が尚一層精神を苛んで、逆に心許ない胸騒ぎを増長させてしまう。
 (何なのだろうか。とても嫌な予感がする。)
 それでも暫くそうしていれば気も落ち着くかと座禅を続けていたが、遠くに微かに聞こえた物音にふっと気をとぎれさせる。その音は聞こえるか聞こえないかという位のあまりに小さな音であったので、尭頼は最初空耳かと疑った。けれどもその音はまるでだんだんと近づいて来るかのように、次第に大きさを増していく。
 慌ただしく何人もの人が駆け回るような足音とわめき声や怒鳴り声。更には悲鳴のような声まで混じり始め、尭頼は眉根にしわを寄せ訝しげな表情で目を開く。

 もっとも、開いたその瞳に光が射し込むことはあり得なかったが。

 普段はこの奥院には滅多なことでは人が訪れてくることはない。
 尭頼を世話する幾人かの女官と、あるいは相当な高官しかここまで足を踏み入れることは許されていなかった。
 けれども、今、騒ぎの音は明らかにこちらに近づいて来る。ばたばたと走り回る幾つもの足跡に、ますます怪訝な表情を深め尭頼は首を傾げた。いよいよただならぬ空気を感じて、尭頼が立ち上がろうとしたその瞬間だった。
 木に木を激しく打ち付ける大きな音がして、突然のその音に尭頼は驚きに身を竦めた。それは勢い良く開け放たれた扉が壁にぶつかった音で、その部屋に誰かが訪れたことを尭頼に告げる音であった。
 女官がこんな夜更けに、しかもこんな風に不躾に奥院に訪れるとは考えられない。賊でも侵入してきたのかと尭頼は身を固くした。
 暫しの間があった。
 開け放たれた扉から心地の良い風が吹き込んできて、確かに扉が開け放たれていると言うことを告げている。しかし人の気配は全く無かった。扉だけが開け放たれて誰も入ってこないのもおかしな話だと、尭頼は幾らか身体の強ばりを解き、微かに首を傾げた。突風でも吹いて偶然扉が開いただけなのかとも思ったが、相変わらず騒々しい物音があちらの方で聞こえており、もうすぐそこまで近づいてきているようだった。
 やはり何事かがあったのだろうと思い、尭頼が辺りを確かめようと腰を浮かしかけた時だった。
「動いてはなりません」
 突然に耳元になんとも表現しようのない不思議な声が聞こえて来て、尭頼は飛び上がらんばかりに驚いた。不思議な、耳と言うより脳髄に直接響くような低く朗々とした男の声。
 尭頼は反射的に声を上げようとしたが、酷く冷たい柔らかい感触の手が尭頼の口を塞ぐのが先だった。その手のあまりの冷たさに、初め尭頼はそれを人の手だとは認識できなかった。
 暫くして、ようやく自分の置かれている状況を理解したが、すると今度は恐ろしさに身を竦めた。尭頼の口を塞ぎ、言葉をかけたその何者かは、全く一切の気配がなかったからだ。尭頼は通常の健常者に比べて人の気配に敏感だ。五感の一つを封じられている故に、必然的に感覚が鋭くなってしまったのだが、その尭頼にも全く気配を感じることが出来なかった。
 嗚呼、恐らく『これ』は人ではなく、物の怪か何かの類なのだろうと身の毛がよだったが、あまりに近づいてきた喧騒の音に、もうすぐそこまで幾人もの人間が押し寄せて来ているのがわかった。
「命が惜しければ何も知らないと申しなさい」
 やはりどこか現(うつつ)離れしたような声音が聞こえ、すっと手が退いた。手が離れた瞬間に幾人もの足音が部屋に侵入してくる。
「申し訳ござりませぬ。賊がこちらに侵入しては来ませんでしたか」
 酷く慌てふためいたような男の叫び声と、そちらだあちらだと落ち着きもなく騒ぎ回っている男達の声が聞こえたが、先ほどの恐怖が嘘のように尭頼は落ち着きはらっていた。
 何とはなしに大げさに騒ぎ立てているのが滑稽に思え、尭頼は我知らず口の端を僅かに上げた。
「先ほどから誰も来てはおりませぬ」
 騒々しく動き回っている者達とは裏腹に、穏やかな表情と声で尭頼が答えると、突然押し入り闇雲のわあわあと騒ぎ立てていたのを恥じらったのか、ようやくその場にいた人間は我に返った。それでも中には多少鋭い者もいて
「けれども扉が開け放たれておりましたが?」
 と詰問してくる。尭頼は声のする方に向かいゆったりと笑いかけ
「夜風を招き入れていたのです。こんな良い晩に無粋な者ばかりとは嘆かわしいことですね」
 と答えた。更に
「満ちたる月を眺めて歌でも詠もうという情緒を持ち合わせてはおりませぬか?」
 と幾らか棘を含ませて続ける。
 尭頼を詰問した男はそれで少し毒気を抜かれたようで、小さくため息を一つ吐くと肩を竦めた。それから周りの者に目で合図を送ると
「大変失礼を申しました。お許しください」
 と謝罪を述べて他の者達と部屋を出ていった。
 いくら軟禁されている身であるとは言え、所詮この場で尭頼に逆らえるものなどいなかった。完全に人の気配が遠ざかるのを確かめると、尭頼はほっとしたように大きなため息を一つ吐いた。すると、やはり人のものとは思えぬ酷く冷たい手が尭頼の首にひたりと当てられた。
「匿って頂いたお礼に、一晩命を長らえて差し上げましょう」
 これもまた人のものとは思えない、不思議な声音の言葉が楽しそうに耳元で囁かれる。どこか、人をからかっているようなその口調に尭頼は軽く肩を竦めた。
「それは私の命が明晩までと言う事ですか?」
「そいう事になりますね」
「匿った挙げ句命を奪われるとは理不尽ではないでしょうか」
「けれども、本来ならば私の本当の姿を見た者はその場で食(は)まれる定めなのですよ」
 酷く朗らかに物騒なことを告げられ、本来恐怖に怯えるべき所で尭頼は思わず笑みを漏らした。
「ならば仕方がありません。それが私の運命(さだめ)であるのでしょう」
 こちらもまた酷く朗らかに返すと、返された本人は意外そうな表情を作る。
「君は不思議な人ですね。大概の人は私の姿を見ただけで恐怖に戦き、念仏でも唱えるというのに」
「それは私が少しばかり知恵が足りないからかもしれませんね」
 戯けたように答えると尭頼は声を上げ屈託無く笑った。そのあどけない笑顔を見て『それ』は目を微かに細める。明らかに自分を侮っている態度であるはずなのに、不思議と腹は立たず、逆にその笑顔の奥に潜む陰のようなものを見て取って、不思議なものでも眺めるかのように尭頼を見つめた。
「いいえ。余程器が大きいのか、そうでなければ世捨人か何かなのでしょう」
 『それ』にそう告げられ尭頼は俄かに苦笑し、肩を竦めた。
「それは大仰な。…まあそんなことは良いのです。ときに貴方は人にあらず、物の怪の類か何かなのでしょうか」
「さて。人は様々に呼ぶようです。悪霊だの物の怪だの妖怪だのと人とは言葉遊びの好きな生き物で、全く退屈しない。最近は『鬼』だとあちこちで騒がれている様子ですが」
「それで私を食むなどと申している次第ですね」
「左様です。さて長居をしすぎました。ここはあまり居心地の良い場所ではない」
「なぜでしょう?」
「呪符があまりに多くておちおち歩き回れない」
「それでは何故に忍び込んで来たのですか?」
「どうしても欲しいものがあったのです」
「なるほど。してそれは手に入ったのですか?」
「ええ…。嗚呼、どうしてしまったのでしょうね。こんな風に話しすぎてしまうなど、到底私らしくもない。君があまりに不思議な人だからかもしれませんね」
 そういって『それ』は微かに口元を綻ばせたが、その表情を尭頼が知り得ることは無かった。
「それでは明晩もう一度尋ねてまいりましょう」
「ならばせめて名を聞かせてはもらえませんか」
「…君は本当に不思議な人だ。物の怪の名を尋ねる人など初めて出会いました」
「聞かせてはもらえないのでしょうか?」
 尭頼が悲しげに小首を傾げると『それ』は困ったように笑い、それから暫く何かを考えていたが、何か面白いことを思い付いたような表情をした。
「それでは代償として貴方の名を聞かせてもらえるのであればお教え致しましょう」
 『それ』がそう答えると尭頼は曇った表情を瞬時に変え、何処かあどけなさの残る子供のような顔で笑った。
「尭頼。私の名は尭頼と言うのです」
「そうですか。元々私たちは名など持たぬのですが、人には葦時(よしとき)と呼ばれております。それでは」
 そういうと葦時は尭頼の目の前からふっと消え去る。けれども、やはり、全く気配というものを持っていなかったため、尭頼には来た時同様にその去り際を知ることは出来なかった。ただ、微かに残った麝香の香りが確かに葦時がそこにいたことを告げている。
 尭頼はなぜ自分がこれほど落ち着き払っているのか不思議に思う。明晩、自分の命を奪いに来ると宣告されたにも関わらず尭頼の心には一抹の恐怖も無かった。こんな奥院に閉じ込められ、ただひたすらいつ与えられるかもわからぬ死を待つよりは、いっそのこと物の怪に食まれるほうが意趣返しとしては面白かろうと自嘲的な笑みを浮かべる。
 ふと顔を上げ空を仰いだら、尭頼には見えないはずの満ちた月が瞳の奥に浮かんだような気がした。


 ***


「昨晩は賊が忍び込んできたとお聞きしましたが、ご無事で何よりです」
 一番付きの女官に着物を着せられながら話し掛けられ、尭頼はふと顔を傾げる。
「賊であったか? 物の怪の類が紛れ込んだと思っていたが」
「そうであったかもしれません。とうとう捉えることができませんでしたから。とにかく警備使たちは大騒ぎをしておりました」
「何か盗まれたのか?」
「ええ。宝物殿に奉納されていた真澄鏡が」
「…それはそれは」
「この次の奉納の政の際に使用される予定であったものですから、皆血眼になって探しておりますが、出て来るかどうか…」
「それは難儀なことだ。もっとも似たような鏡を用意してやれば宮内の傀儡たちは気が付かぬだろうが」
「またその様なことを申されて。ご自分の立場を弁(わきま)えてくださいまし」
「まさかこんな所まで密偵を忍び込ませたりはしないだろうに」
「そういうことを申しているのではありません。尭頼様は行く行くは宮中に戻られて政を為さる人なのですから」
「その様な世迷言は二度と口にしてはいけない。私の命など次の流行病か飢饉のときにでも終わってしまうのだから」
「何をおっしゃるのですか! 今はこのような不遇に貶められたとしても…」
「もういい!」
 女官が更に言い募ろうとした言葉を厳しく遮ると尭頼は激しく首を横に振った。それから短く「下がれ」と女官に声を掛ける。女官は暫く何か言いたそうな顔をしていたが、それ以上逆らうことは出来ずにその場を立ち去ろうとした。立ち去ろうとしたその瞬間にふと顔をあげ、尭頼の首筋に何気なく目を遣りはっと息を呑んだ。
「尭頼様! 昨晩何を為さったのです! ?」
 急に取り乱したように自分に問い掛けてくる女官に尭頼は訝しげな表情を見せる。
「何のことか」
「その首筋に付いているのは呪詞(のろいことば)ではありませんか!」
「呪詞?」
「最近都に出没している鬼が食んだ人間の体のどこかに残して行く物の怪にしか意味の分からぬ文字のことです! 放っておけばどこにいようとも見つけ出され食まれてしまうのです! 嗚呼! 何ということでしょう! 一体こんなものをいつ……神官を呼んで呪符を部屋中に張り巡らさなくては…」
 そう言って慌てて部屋を出て行こうとした女官を尭頼は慌てて呼び止めた。
「その様なことをしてはいけない!」
「何故ですか! ? 鬼に食まれてもよろしいとおっしゃるのですか! ?」
「…馬鹿馬鹿しい。そもそも呪詞などくだらない噂話ではないのか?」
「…正直におっしゃいませ。昨夜、物の怪に触れたのではありませんか?」
 必死の形相が伺える声音で問い詰められ尭頼は言葉に詰まる。確かに冷たい手に首筋を撫でられた記憶があり、おそらくその時に付けられてしまったのだろうと思ったが、自分の身を案じている女官のことを思うと正直には言えなかった。
 そもそも呪符など張り巡らされて葦時が尋ねて来れなくなったら、自分の意趣返しが叶わなくなるではないかと尭頼は不用意に考えていた。
「とにかくただでさえ警備使達は騒がしいというのにこれ以上気を煩わせる様なことはしたくない。決して滅多なことを触れ回ってはならない」
 尭頼はきつくそう言い含めると女官を下がらせた。
 (何もかもが煩わしい。いっそこんな柵(しがらみ)からは解放されたいと思っているのに。)
 人知れず尭頼は深くため息を吐き出した。
 けれどもそれも今晩で終わるのだろう。魑魅魍魎の類に食まれて息絶えるなど、自分には過ぎるくらいふさわしいと自虐的な愉悦に浸り、尭頼はらしからぬ艶を含んだ笑みを浮かべた。


 ***


 張り替えたばかりの弦をつま弾くと張りのある強い音がする。少しばかりきつく張りすぎているような気もするが、やはり弦を張り替えて良かったと尭頼は満足気な笑みを浮かべた。
 昨晩とは違い奥院の扉は開け放たれたままになっているので、程良い夜風と月の光が奥院の中まで入り込んでくる。その心地よさに気を良くして、尭頼は珍しく奔放に琵琶を掻き鳴らしていた。扉が開け放してある為、社(やしろ)じゅうにその音が響き渡っており、それぞれの閨で女官達はその音を楽しんでいるようだった。
 そして月が南中する頃であろうか。
 不意に吹き付けてきた生暖かい風に尭頼は琵琶を引く手を止めた。嗚呼、来たのだなと顔を静かに上げる。今まさに自分の命を奪われようと言う時であるのに、尭頼は微塵の恐怖も感じておらず、逆に昂揚していく感情を抑えることができなかった。
「良い晩ですね」
 昨日と同じ何とも表現しようのない不思議な声が目の前でした。尭頼はその声を聞き、無意識のうちに笑みを浮かべる。尭頼の目の前に現れた葦時は、人外の存在らしからぬ反応を示し、目を細めてその笑顔を眺め、半ば見とれているかのように暫く沈黙を守る。けれども漸く本来の目的を思い出したらしく、音も気配も立てずにすっと一歩前に歩み出た。
「呪符をはずし、何の警備もおかず、このように無防備に扉を開け放つとはいよいよ本当に自分の命が惜しくないと見える」
「昨晩も申し上げたではありませんか。私は嘘は申しません」
「あまりに無防備であるので罠かとも思いましたが」
「疑り深い。まるで『鬼』とは思えぬような用心深さですね」
「嗚呼。今はこのような姿ですが、普段は形(すがた)を偽り人として俗世に紛れこんでいるのです」
 このような、と言われても尭頼には理解することは出来なかったので、仕方なしに曖昧に頷き、困ったように笑った。
「ときに宝物殿の真澄鏡を返しては頂けませんか」
「それは出来ないのです」
「何故でしょうか」
「真澄鏡は真実を映す鏡。幾ら形を偽ろうとも鏡を覗けば本当の姿が暴き出されてしまう。それでは非常に都合が悪いのです」
「けれども、ここの宝物殿に置かれている限り、貴方の姿を映すことなどあり得ないではありませんか」
「残念ながらそう言うわけには行かないのです。次の新月の日に行われる奉納の政の時にあの鏡が使われる予定なのです」
 尭頼は、おや、と意外そうな表情を作る。
「驚きました。普段は余程位の高い人物を偽っているとお見受け致しますが」
「察しが良ろしい」
「奉納の政には、余程の高官か、あるいは貴族しか携われないではありませんか。それともよもや皇族であるなどとは申しますまい」
「それもまた一興ではありますがね」
 声に笑いを含ませて、暫く葦時はくつくつと笑っていたが、不意に改まったように笑うのをやめた。
「さて長々と話をしてしまいました。まことに君と話していると勝手が狂ってしまうようです。体からは酷く甘い匂いが漂っておられるし。高貴な血筋のなせる業(わざ)なのでしょうか」
 尭頼はその言葉に眉を上げ、意外そうな表情を見せ、それから戯けたような笑顔を浮かべた。
「おや? ご存じだとは。そのように世俗に通じているさまは、本当に人であるかのようですね」
「それでなくとも宮内では噂が飛び交っている。君が身分不相応にこの様な奥院に閉じこめられていることは宮内に通じている者ならば皆知っております」
「戯れ言を」
「宮内に戻りたいとは思いませんか?」
「ご冗談を。望んで与えられた身分ではない。それに、いずれにしても私はここで食まれて息絶える定めなのですから」
「私の感情のみについて述べさせて頂けるならば、不思議と君の命を奪いたいとは思わないのですよ」
「けれども貴方の姿を見てしまった輩は食まれる定めにあるのでしょう」
「ええ。人には人の道理があるように、私たちには私たちの掟があるのです」
 そう言うと葦時は静かに尭頼の首に手を当てた。ぐ、と手に力が込められ、力ずくで顎を上げさせられても、やはり尭頼の中に恐怖はなかった。ただひたすら納得したように手の主をじっと見つめる。その衒いのない真っ直ぐな瞳を覗き込み、葦時ははっとしたように手の力を抜いた。
「君も人が悪い。そのように澱みのない瞳であるので見落としてしまいました」
「何故手を止めるのですか?」
「この期に及んで白を切りますか。私には君を食(ほ)ふる理由がありません。君のその漆黒の瞳には何も映ってはいないのだから」
「けれども私の首に呪詞を付けたではありませんか」
「呪詞そのものには何の力も無いのですよ。あれは他の輩が決して手を出さぬよう申し置きしておくための単なる所有印でしかないのです」
 困ったように苦笑いしながら葦時は答えたが、尭頼にはその表情を伺い知ることは出来なかったので、悲しそうに表情を曇らせた。
「君は本当におかしな人ですね。命を長らえたというのにそのような悲しい顔をするなどと」
「私の義母は私を厭っているのです」
「存じております。それ故にこの様な奥院に閉じこめられたことも」
「昨年の奉納の政の時です。宴の席で義母に酒を勧められました」
「ええ」
「義母がそれに毒を盛っていたのを私は知っていたのですがそのような場で断ることは出来ませんでした」
「そうでしょう。断れば断ったで難癖をつけるような人だと聞き及んでおります」
「ですから私は仕方無しにそれを口にしたのです。元々私は帝位などには全く興味など無かったのです。義母が弟に譲れと申すなら喜んで譲り渡したでしょう。本当に心の底からそう思っていたのです」
「君の心の中はそうかもしれませんが、恐らく皇后は帝の寵愛を一身に受けていたことが我慢ならなかったのでしょう」
「貴方は本当に何もかも存じていらっしゃるのですね。もしや何度か顔を合わせたことがある公達なのでしょうか?」
「それは言うことは出来ないのです。言えば君を食らわねばならなくなる」
「私はそれでも構わないのですが」
 投げやりな口調で尭頼が言ったので、葦時は更に苦笑を深めた。それを気配で察したのか、尭頼は幾らか冷静さを取り戻し自分を恥じるように苦笑いを漏らす。
「兎に角、私は義母が殺してしまいたいほど私を憎いと思っていたと言うことが悲しくて、もうそれならば死んでしまっても構わないと思ったのです。毒を盛られて最初の一晩はのたうち回りながら苦しみました。それから三日三晩は高熱に苦しみ、生死の境を彷徨いました。そのまま命を落とせば良かったものを、けれども私は四日目に目を覚ましてしまったのです。そして命を失わなかった代わりに光を失いました」
「可哀想に。この様に澄み切った美しい瞳が何も映さないなど無粋な事この上ない」
「いいえ光を失う事など別段どうでも良い事だったのです。けれども義母は私の目からを光を失っただけでは飽きたらず、巷で疫病や飢饉が数多く起こっているのは私が呪われているからだと言って私をこの様な山奥の社の奥院に閉じこめてしまったのです」
「皇后が君を快く思っていないことは知っておりましたが、それ程とは存じませんでした。さぞや辛かったことでしょう」
「いいえ。それも私に与えられた艱難辛苦だと思えば耐えられたのです。けれども義母はこんな所に私を閉じこめておきながら、それでも尚、恨みが晴らしきれないらしく、今後疫病や飢饉が収まらなかったら私を社の祭壇に供物として捧げなくてはならないと申したのです」
 嗚咽を漏らすように喉から言葉を絞り出す尭頼を葦時は黙って見つめた。尭頼は訴えるように更に言葉を繋ぐ。
「東の国で、更に流行病が広がっていると噂で聞きました。けれども私には何もできないのです。祭壇で心の臓を抉り出される日をただ黙って待つことしか。流行病の人たちを看取って病が伝染して死ぬのならばまだ耐えられます。けれども、このように何も施すことが出来ずにただ何時与えられるやも分からぬ死を待つだけなど耐えられない。とても耐えられないのです」
「それならばいっそ『鬼』にでも食まれた方がましだと?」
「ええ」
「なるほど。それで君は全く私を恐れてはいなかったという次第ですね」
「ええ。ですから目が見えていようと無かろうと私は食まれて一向に構わないのです」
 その挑戦的な口調に葦時はふっと口元を綻ばせた。
「けれども君はあまり美味しそうではありませんが」
「人の臓物に美味い不味いなどあるのですか」
 驚いて尋ねた尭頼を葦時は楽しそうに眺め、
「さあどうでしょうか。食んだことがないのでわかりませんが」
 と答えた。尭頼は訝しげに眉を寄せ首を傾げる。
「先程貴方は人を食むと申したではありませんか。都に出没する物の怪は、人の腑(はらわた)を好んで食らうと聞いたことがあります」
「人の腑など食むのは下賤な魑魅魍魎の類です。穢れに穢れた人の肉など到底食す気にはなりません」
「それでは貴方の言う『人を食む』とは何を食らうのですか?」
「人の吐き出す気とでも申しましょうか。或いは大概の人は魂などとも呼ぶようですね。まあ、もっとも、気を食んだと同時に肉体も朽ち果ててはしまいますが」
「それでは私が不味そうだなどとおっしゃる所以(ゆえん)は何なのですか」
「時折それに外れた変わり者もいるようですが、大概の魑魅魍魎は怨の念だとか恐怖だとかそう言った気を好むのです。それ故に世が安定せず乱れれば乱るるほど、不安に怯え、怨の念を抱く人の気を好んで魑魅魍魎が横行するのです。けれども初めてお会いしたときから君は私に全くと言って良い程恐怖心というものを持っておりませんでしたね。だから君は美味しそうではないと申したのです」
「それでは私が貴方に恐怖心を抱けば食む気になるのでしょうか」
 尭頼が真剣な表情で問いかけると、葦時は一瞬だけ目を大きく見開きそれから声を上げて楽しそうに笑った。
「そう言うことになりますね。けれども無理でしょう。それが証拠に君はこれほどまでに私の気に慣れ親しんでしまっている。大概の人間は、まず私の容貌を見た途端に怯え、さらに私の纏う気を感じてまた恐れる。あまりの恐怖に気を失う者も少なくは無い。けれど今の君はどうです。私の側にこれ程近寄り触れていてさえ尚そのように平常を保っているではありませんか」
 からかうように言われ幾らか尭頼は気を悪くしたように口を噤む。その子供じみた態度に葦時は微笑を浮かべ、それからすっと尭頼から体を離した。
「そう言った次第で私は君を食む気には到底なれないのです」
「それでは私にただ黙って死を待てとおっしゃるのですか」
「その様な悲しげな顔をなさるのは卑怯な事だとは思いませんか」
「例え卑怯な事だとしても今の私には貴方しか縋るものが無いのです」
「君はとことん不思議な方だ。助けてくれと縋るのではなく、命を奪ってくれと哀願するのだから。だがしかし何故か逆らえぬ力を持っておりますね。良ろしい。それでは流行病が広がって君が贄にされる時が来たならば、その呪詞の通り君を食む事に致しましょう。それまではせめてその甘い匂いのする体に肌でも重ねておりましょうか」
 そう言うと葦時は、つ、と尭頼の襟元に白い手を差し入れた。そのひんやりとした感触に、尭頼は思わず身を竦める。余りに冷えた手はやはり人のものとは思えず、まるで屍(しかばね)のようだと尭頼は今更ながら葦時が人では無い事に感心した。
「その様に冷たい手をなさっているとまるで屍にでも触れられているようです」
「お気に召しませんか?」
「空恐ろしい感じが致します」
「それはよろしくありませんね。仕方がない。人肌を真似ることに致しましょう」
 葦時はそう言うと尭頼の襟元から手を引くと、目を閉じて尭頼には聞き取ることの出来ない何事かの呪(まじな)いを呟いた。すると途端に空気の様子が変る。
「……驚きました。気配が現れてまるで本当の人であるかのように思われます」
「いつもはこの姿で俗世に紛れているのです。と申しましても君には見えないでしょうが」
「ええ残念でなりませんが」
「それはどうでしょう」
 葦時は穏やかに笑うと尭頼をそっと床に横たえもう一度襟元から手を差し入れた。差し込まれた手はやはり冷たかったが、先程のような尋常ではない冷たさではなく、きちんとそれが人肌である程度の暖かさは保っていたので、尭頼は安堵し、体の力を抜いた。柔らかく自分の体の表面を撫でさする手を感じ、時折、こそばゆさに思わず笑いを漏らしたり、身を竦めたりしたが、決して抵抗するようなことは無かった。葦時は尭頼のことを不思議だと評したが、それを言うならば、余程葦時の方が不思議な存在であると尭頼は思った。何しろ人に在らざる存在であるのに、初めから尭頼に恐怖心を抱かせず、それどころかこの様な安堵感を与えるのである。或いは、人に在らざるからこそ自分を取り巻く柵とは一切の関係が無く、逆に嘘も偽りも皆無であるが故に安心するのかもしれなかった。
「何故にこの様な事を為さるのでしょう」
「君の体が酷く甘い香りを放っているからですよ。気まぐれな戯れだとでもお思いなさい。何、難しいことなどありません。君はただ黙って横たわっていれば良いだけの事。そもそも人など情と欲の塊のようなもの。いっそ快楽にでも流されていた方がその身も馴染むに違いありません」
 更に奥へと入り込む冷たい手の感触に、尭頼は、はと吐息を漏らした。けれども一切の恐怖はなく、触れて来る手は尭頼に不思議な心地良さのみをもたらす。
「貴方はとても不思議な方ですね」
「君程ではありませんよ」
 そう言い乍ら降りてきた唇は冷たくはなかった。酷く暖かいそれは、到底物の怪の類のものとは思えず、尭頼は何故か笑いが込み上げて来るのを止められなかった。
「本当の姿の時はその体のどこかしこも冷たく冷え切っているのでしょうか」
「ええ。けれども君が屍の様だなどと言うので仕方が無い。この様に人肌を偽っているのです」
「まるで人と抱擁しているようです」
「どちらでも良ろしいでしょう。所詮は一夜の夢のようなもの。君はただ己の感ずるままに流されて溺れておれば良いのです」
 その声音には、人では持ち得ぬ甘さと不思議な力が備わっており、尭頼は一切の抗う術を封鎖される。ただ魔力でも掛けられたようにその言葉通りに流され、ひたすら溺れた。
 どうせそう長くはない命なのだからこのように快楽に流されること位、許されても良いだろうと思いながら。





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