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『015:ニューロン(精神機能を営む構造体)』- 2 ……………



 結局、体育祭の前日まで、祐はのらりくらりと逃げ続け、細川に本当の事を告げることが無かった。別段、もともとが、ベッタリとした付き合い方をしていたわけではないけれど、特に、最後の週はあからさまに避けられて、細川もいい加減、煮詰まってくる。その悪影響で、受験勉強も最近は捗らない。自分で思っていたよりも、祐に執着しているのだと気が付くのは、こんな時だ。
 だが、細川はいつまでも待っているような従順な性格をしているわけではない。体育祭の前日に堪忍袋の緒が切れて、ようやく祐を捕まえると、祐はいつもの作った薄い笑みを浮かべ、だったら、俺の家に来いと言われた。
 祐の家に訪れるのは一ヶ月ぶりだった。家人は、仕事でいないという。思いの外、祐は普段と変わらぬ態度で細川に接する。だからこそ、細川は話を切り出しかねた。
 二人で、祐の家の家政婦が用意してくれたという食事を取り、風呂にでも入るか、という頃になって祐は、急に思い出したようにそれを言った。
「そういや、明日、本番だろ?」
 何のことか一瞬分からず、細川はしばらく考え込み、それが体育祭の仮装の事だとようやく思い当たった。
「……ああ」
 細川には有無を言わせず、祐が用意したチャイナドレスは試着も済んでいるので、サイズの問題はない。どうやら、恭司の兄にメイクも頼んでいるらしく、明日が本番だとは言え、細川が準備することは何も無いように思えた。だがしかし。
「お前。足は?」
「……足?」
「あのドレス、スリットが深いから足が見えるだろ?」
「そうだが……それが、どうした?」
「見えた足が毛むくじゃらだと興醒めだからな。脛毛の処理してやる」
「………は?」
「いや、だから、お前の脛毛を剃ってやるって言ってんの」
 ケロリとした表情で言われて、細川は一瞬、思考がストップした。けれども、意味が分かった途端に、何とも言えない嫌な予感にとらわれる。
「……明日一日の為に、そこまでする必要があるか?」
 なるべく、嫌そうな顔をしないように、困った表情にならないようにと努めて細川は尋ねる。そうでなければ、祐はますます嬉々としてそれをやらせようとするに違いないからだ。
「やるからには完璧を目指したほうが良いだろ。ほら、バスルーム行けよ」
 腕を掴まれ無理やり、椅子から立ち上がらせられて、細川は観念した。見つめた祐の顔は、明らかに面白がっているそれだった。こういう顔をしている時の祐は誰も止められないし、止めようとすると、尚更、酷い事態になると細川は知っている。だから。
「……分かった」
 天井を仰ぎ、唸るように、そう答えた。

 連れ込まれたバスルームで向かい合って座り、祐に足を差し出す。上はちゃんとシャツを着ているし、下だって、下着ははいたままだ。セックスしている時の方が余程、恥ずかしい目にあっているはずなのに、なぜだか、酷く屈辱的なことを強いられているような気がした。だのに、目の前の男は、とても楽しそうだ。
「……祐。楽しいか?」
 呆れ半分、責めるのが半分で細川は答えの分かりきった質問を投げかける。
「そりゃ、もう。お前が、嫌そうな顔してるから、すごく楽しい」
 返った言葉は予想通りの言葉だった。けれども、どこかに棘がある。それが、細川の心の奥の柔らかい場所をチクリとさした。睨みつけるように、じっと祐の顔を見つめる。真正面からその視線を受け止めた祐の顔は、酷く挑発的だった。敢えて、細川を怒らせようとしているようにも見える。ごくまれに、祐は、細川にだけこんな顔を見せることがあった。細川の許容範囲を探るように、わざと、人を怒らせようとするのだ。その度に、細川は、なぜ、と思う。なぜ、自分を心底信頼しようとしないのだろうか、自分の一体何が祐を不安にさせるのだろうか、と。
 不安、などという言葉は、泉谷祐という男には一番遠く、不似合いの言葉のようだけれども、こういう時の祐を表す言葉はそれ以外に見当たらない。
 足に剃刀を当てられ、嫌な感触とともに足を綺麗にされていく。さしたる抵抗もせず、じっとしたまま、細川は、
「祐。お前は、何に怒っているんだ?」
と、同じ質問を今一度向けた。祐は答えない。答えずに手だけを動かし続けている。息苦しい沈黙がしばらく続き、とうとう、最後まで細川の足をつるつるにしてしまった祐は、最後の最後に、
「自分で考えろよ」
とだけ答えた。二人きりのバスルームに、その声は奇妙に響く。それでも、細川は少しだけホッとした。怒っていない、と答えられるのに比べれば、ずっと前進したのだから。
 その夜、祐は挿入しないセックスを細川に強いた。入れなかったから、それほど体に負担は掛からなかったけれど。常に無く、やたらと細川の体にキスマークを祐は残したのだった。



 一度だけ、細川はこんな風に、祐の機嫌が拗れまくったのを経験したことがある。それは、二人が付き合うことになって初めての春休みの事だった。
 祐と細川がセックスしたのは、実は、極めて早い時期で、付き合うと決めてから一ヶ月も経たない頃の事だった。祐は、
「一年経って、お前の中で答えが出たり、その事に関して考えが変わるなら待つ。でも、きっとお前は変わらない。変わらないなら、待つだけ無駄だ」
と言って、半ば無理やり体を繋いだ。その時は、なんて強引な男だと細川は思ったけれど、今では、その祐の言葉は真理だったのだとぼんやり分かり始めている。それが証拠に、細川は未だに祐を恋愛感情で好きなのかどうなのか答えが出ていないのだ。
 だが、祐はそれ以外に関しては、案外、恋人としては淡白な付き合い方をしている。傍目には、友人にしか見えないだろうし、とりたてて、ベタベタとしたりもしない。それなりの頻度でするセックスも、『確認作業』だと言い張るくらいだ。祐にとって細川が特別であり、また細川にとっても祐が特別であると確認するための行為だと。そこに愛だの恋だのという言葉が介在することを、多分、二人ともがさして重要視はしていない。
 けれども、その春休みの時だけは、それを覆すような理由で祐は機嫌を損ねたのだ。
 細川には、田舎暮らしの叔父が一人いる。彼は田舎で空手道場を開いており、それなりに門下生の数も多いようだった。その叔父が肝臓をいためて倒れてしまった。それで、春休み中で、さして用事も無かった細川に白羽の矢が立ち、しばらく道場の方を手伝ってもらえないだろうかと頼まれたのだ。何分、急な話だったので、細川は誰にもそれを伝えることなく、田舎へ向かった。結局、叔父が無事に病院から退院するまで、一ヶ月近く細川はその田舎に滞在することになり、帰ってきてから、途方も無く祐が機嫌を損ねていることを知った。
 その時も、細川はメチャクチャな無理難題をふっかけられ続け、いたく、迷惑をしたのだが、今の状況は、それにかなり似ている。だとすれば、理由はなんだろう。

「はい。出来上がりよ」
 満足げに笑いながら、恭司の兄が鏡を差し出す。細川が彼に会うのは初めての事ではないが、会うたびに、インパクトの強烈な人だと思う。だが、なかなかどうして愉快な人物で、どうやら外見に反して腕も立つらしく、細川はその人が嫌いではない。だが、今回の件に関しては、少々、悪ノリが過ぎるのではないだろうか。
 手渡された鏡を仕方なしに、嫌々覗き込むと、自分ではないような顔が映っていた。当然、細川は化粧などするのは初めてだ。これほどまでに、化粧というのは人の顔を変えてしまうものなのかと鏡を見ながら細川は思ったけれど、
「案外、薄化粧なのよ? あちこち、ちょっといじっただけなんだけど、細川君ってそれだけで結構、印象変わっちゃうのね」
と、予想外の事を言われてしまった。
「割と、目元の辺りがキツイ印象だから、そっちのイメージが専攻しがちだけど、パーツの形は綺麗よね」
「……はあ」
 恐らく褒められているのだろうが、どう返事をしてみようも無く気の抜けた相槌を打つと、部屋のドアがノックされ、恭司と比呂が入ってきた。恭司は細川を見て、気の毒そうに苦笑いしていたけれど、なぜか比呂は嘗め回すように自分を見ている。もっとも、相手が比呂だから、さして不快だとも思わないがどうにも居心地が悪いことには代わりない。
「……筑紫?」
と声を掛けると、なぜだか比呂は顔を真っ赤にして、細川にはなぜそんな反応が返ってくるのかサッパリだった。少しだけ話をして、比呂も準備があるだろうと、生徒会室を後にする。
 廊下を歩いていると、色々な人にジロジロと見つめられ、細川だと分かるとその度に、飛び上がるほど驚かれた。空手部に割り当てられている待合のブースに行くと、これがまた、馬鹿みたいに騒がれて鬱陶しいことこの上ない。副部長など、何か悪い薬でも飲んだのではないかというような陶酔した表情で細川を見るので、本気で病院に連れて行こうかと思ったくらいだ。
 いちいち、それをいなすのも面倒で細川は椅子に座って待っていたが、いつもと同じように座っていたら、御輿を担ぐ予定の空手部の後輩が、顔を赤くしながら、
「……細川先輩、お願いなので、足を開いて座るのはやめてください」
とお願いしてきて、細川はますますげんなりした。
 別段、こういうお祭り騒ぎが嫌いなわけではないが、問題を抱えている時には、さすがに純粋に楽しむような余裕が持てない。仕方無しに足を組んで座り、周りでなにくれとなく声を掛けてくる部員たちには等閑な返事を返しつつ、細川はひたすら思い出そうとしていた。祐がおかしくなり始めた時期にあったこと。とりたてて、特別な事件があったとは記憶していない。けれども、ふ、と一つだけ思い当たることがあった。けれども、もし、それが原因だとしたら、あまりに馬鹿馬鹿しい、子供じみた我がままだとしか言えない。
(……でも、祐だからな)
 とりあえず、このイベントが終わったら問い詰めるしかないと、細川は小さなため息をついた。
 そうこうしているうちに、実行委員から声を掛けられて、出場の準備をする。いつの間にか準備を終わらせた生徒たちがあちこちをうろついていて、その光景は壮観だった。進学校とはいえ、遊ぶ時は徹底的に遊ぶ高校生なのだ。少し離れた場所に、比呂のメイド姿が見えて、細川は思わず苦笑いを零した。洒落にならないくらいはまっている。あれでは、さぞかし恭司は心配だろうと、自分の事は顧みず、細川は同情した。
 自分たちの順番が来るのを待ち、打ち合わせ通りの演出をこなしたあとには盛大な歓声が上がっていたけれど。細川の心は、すでにここにあらず。目では祐を探していた。けれど、探すまでもなく、祐は退場門の前で細川を待ち伏せていて、半ば連行されるように生徒会室に連れ込まれる。何だと思っているうちに、唐突に壁際に押さえつけられ、キスされた。それこそ、抵抗する暇もない。だが、手があちこちをまさぐり始めて、さすがに慌てて細川は止めに入った。
「……何のつもりだ?」
「何って。セックスさせろよ、昨日は我慢してやったんだ」
 ケロリとした顔で告げられて、細川は言葉を失う。体育祭の真っ最中の、生徒会室でコトに及ぶなどもってのほかだ。何を馬鹿な、と拒絶しようと祐の目を睨んで、今度は、別の意味で細川は言葉を失った。
 祐の目は、悪ふざけをしている時の目では、決してなかった。半分は腹を立てたような、残りの半分は、細川を試すような、そんな瞳。まただ、と細川は思う。どこまで細川が祐を許すことが出来るのか、それを測ろうとするかのような、ともすれば疑いのそれにも見える眼差し。唐突に、細川は腹を立てる。普段は、感情の起伏が少ない細川にしては珍しいほどの怒りだった。
「好きにしろよ」
と、投げ捨てるように返事をして、細川はその体を全て祐に委ねた。見くびるなと殴りつけてやりたかったが、それを我慢して目を閉じる。こんな格好のままセックスすることが、あまりに滑稽で、情けない気持ちになったけれど、所詮は些細なことなのだ。
 齢十八歳で、本物の愛だのなんだのが理解できているだなどとは言わない。それでも、細川は、きちんと祐を選んだのだ。選んだからには絶対に裏切らないし、ずっと並んで歩くことに努力は惜しまないとも思っている。多分、普通の恋人同士とは違うのだろう。手を繋いで歩いていくのとは違うのだから。それでも、細川は自分の背中を祐に預けたつもりだし、祐の背中も自分が預かったつもりでいたのだ。それを疑われるのは、男としてのプライドを著しく傷つけられた。けれども、それを責めるような性格を細川はしていない。それならば、幾らでも、祐が満足するまで試せば良いのだ。細川は、それほど言葉が上手ではないから、態度で表すしかない。どれだけ祐が自分を試そうとも、決して、自分は裏切ったりしないことを。
 けれども、さすがに、セックスしている最中に、第三者に踏み込まれるのは予想外の出来事だった。だが、祐には分かっていた事だったらしい。それさえも、計算のうちだったのだろうかと思うと、腹立たしさも倍増だったが、突っ込まれている最中には、まともに苦情が言えるはずも無く。
 結局、全てが終わって、ドロドロになってしまった衣装を何とも言えない気持ちで着替えた後に、ようやく祐は口を開いた。
「で? 分かったのか?」
「……一つだけ、思い当たることがあった」
「何だ?」
「…………まさかとは思ったんだが。もしかして、進路の件か?」
 生徒会室に置いてあるソファに、ぐったりと体を沈ませたまま細川は睨みつけるように祐を見上げる。祐は、声には出さず、口の端を上げることで細川の言葉を肯定した。
「………もしかして、別々の大学に進むのが気に入らないのか?」
 畳み掛けるように問い詰めると、祐はふざけるように肩を竦めて見せる。それで、細川は自分の推論が正しかったことを知った。
「祐………それは、俺がどうにかできることじゃないだろう?」
 細川と祐は目指す進路も違うし、そもそも、成績に大きな開きがあるのだ。祐は、高校に入学してからこのかた、一度たりとも主席から転落したことはないし、進路の第一志望はずっと最高学府で、模試の判定も常にAだった。対して、細川は、決して成績が悪いわけではないが、得手不得手の科目によって、あまりに差がありすぎる。正直に言ってしまえば、私立向けの性質で、オールラウンダーの祐と同じ大学に行くのは無理がありすぎた。だのに。
「何で? お前、数学は俺より得意だろ? あとは、ちょっと社会と国語伸ばせば、どうにかなるだろ?」
 あっさりと返された言葉に細川は、気が遠くなる。社会科関係と国語関係が、とにかく細川は苦手で、いつも総合成績の足を引っ張っていた。それを、後半年ほどで、偏差値を十以上上げて来いと、この目の前の男は言うのだ。
 細川は、改めて、祐とは人種が違うと思った。祐は、どちらかというと天才肌で、それほどしゃかりきになって勉強するタイプではない。一を聞いて十を知るよう人間で、要領よく短時間に勉強して、それで優秀な成績を上げているようだった。細川は、何事においても努力家タイプで、勉強に関しては、祐との間には越えられない大きな溝がある。だが、天賦の才を与えられている男には、そこら辺が想像しがたいらしい。
「ムリ。絶対ムリ。それに、俺は、最終的には家の跡継ぐつもりだし。仮に、死ぬ気で勉強して、お前と同じ大学に受かったとしても、将来的に、メリットがない」
 第一、小さな子供ではないのだから、お手々繋いで同じ大学という発想自体がまずおかしい。だが、細川に関しては子供も真っ青な程我がままになってしまう男は、不意に黙り込み、しばし、何かを考えていた。
「……ふーん」
 ようやく声に出した言葉は、怒っている声ではない。どちらかと言えば、どこか感心したような、そんな声だった。
「何だよ」
「いや、細川が『ムリ』って言うの、滅多に聞いたことが無いから。本当にムリなんだな、と思って」
 その言葉に、一瞬、侮られたのかと細川は顔を顰めたが。
「ああ、違う。お前は、基本的には努力家だろう? 俺は、お前のそういうところが気に入っているし、尊敬もしてる。何か問題にぶち当たると、弱音を吐かずに、解決しようと尽力する人間だってのも知ってる。でも、無謀なことに後先考えずに突っ込んでいくような馬鹿じゃない。俺は、細川は賢明な人間だと思うよ。そういうお前が、無理だって言うんなら、本当にムリなんだなって意味だ」
 祐は、細川の表情を読んで、そう補足すると、腕を組み、やはりしばらく何かを考えていたようだったが。
「決めた。じゃあ、俺が進路を変更する。お前と同じ大学に進学するワ」
 ケロリとした顔で言われて、さしもの細川も仰天する。きっと、校内の誰もが、祐は最高学府に進学するだろうと信じて疑っていないだろう。それを、たかだか、自分のために覆すと言うのだ。
「……祐、待て」
「いや、待たない。俺の事は俺が決める。何、心配すんな。将来的には、何の問題もないから」
「いや、だから……」
「決めたんだよ。俺としては、お前と離れることの方がデメリットが大きいからな」
 そう言って、一方的に話を終わらせた祐に細川は眩暈がした。言うなれば、両手を掴まれてグルグルと振り回された挙句、どこかに飛ばされてしまった、そんな気分だ。
 何をどう言って良いのか分からず絶句したまま、脱力する。体に全く力が入らない。なぜ、自分はこんな男と付き合っているのだろうかと、何度目になるか分からない質問を頭の中で繰り返すけれど。


 やはり、いつもと同じく、答えは出ないのであった。






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