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『015:ニューロン(精神機能を営む構造体)』- 1 ……………


「祐。お前は何に怒っているんだ?」
と、細川満がいい加減、音を上げたのは、原因の分からない冷戦に突入して、多分、一ヶ月ほど経過した時の事だった。
 最初は、いつもの悪ふざけだと細川もたかを括っていた。もともと、祐は人を困らせて喜ぶような困ったところのある性格であるし、さほど、珍しいことではない、とも。
 発端は体育祭だった。否。よくよく考えてみると、その前から、少しずつおかしな点があったような気がする。いずれにしても、祐が怒っているのだ、ということは、今や細川の目には明らかだった。

 泉谷祐という人間は、非常に難解である。その感情の表れ方が分かりにくい。内部で百八十度くらい回転してから表に出るため、彼が怒っているのを見分けるのは至難の業だった。しかも、極度にポーカーフェイスが上手い。そもそも、祐はその本性を、ごくごく限られた少数の人間にしか見せないのだ。その少数の筆頭に、今現在、自分が置かれていることが幸が不幸かはさておき、とにかく、こんな風に誰にも見せない顔を細川にだけ見せるのは確かだった。
「別に? 俺は怒ってなんていないけど?」
と、当たり障りのない笑顔を浮かべて祐は答える。普段、学校で見せているのと全く同じ作り笑いに、細川は大きなため息をついた。一筋縄ではいかない。これは、相当に拗れているのだと、細川はその時になってようやく悟った。
「じゃあ、何で、こんなことしてる?」
「こんなことって?」
 何のことか分からないと、首を傾げるその表情はあまりにも自然で、細川も騙されそうになる。
「……俺は別に良い。百歩譲って、恭司も良いだろう。でも、今回の事は他の人間を巻き込みすぎだ」
 もしかしたら、一番最初に筑紫比呂を巻き込んだ時に気が付くべきだったのかもしれない。あの時には、すでに、祐は機嫌を損ねていたのだ。
「何? 細川は女装したくないってこと? だったら、断れば良いだろ?」
 のらりくらりとかわされて、沸点の高い細川も段々とじれったくなってくる。
「ああ、そう言えば、俺、今日は家の用事があるから先に帰る」
 細川の焦りとは裏腹に、祐はあっさりと会話を断ち切り、踵を返した。物言わぬ、遠ざかる背に細川は大きなため息を零す。
「なんだって言うんだ」
 小さな独り言は、放課後の廊下の、リノリウムの床に空しく落ちた。



 細川達が通っている高校は、県下でも数本の指に入る進学校で、部活動の引退が割合に早い。夏の大会まで活動を続ける人間もいるにはいるが、大抵、三年の一学期には引退するのが慣習となっていた。細川も例外ではなく、春の大会を最後に、夏休み前には引退する予定だ。今も部活動に参加してはいるけれど、徐々に受験体制に入りつつある。予備校のある日は部活よりもそちらを優先していた。今日は予備校の講義のある日ではないけれど、部活に参加するような気分にはなれなかった。だから、生徒であれば自由に使うことが許されている予備校の自習室に向かう。だが、参考書を開き、苦手な科目の勉強を始めても、さして捗らなかった。
「ああ、細川。来てたのか」
と、後ろから声を掛けられて、細川は心なしかホッとした気持ちで振り返る。そこには、友人である倉持恭司が立っていた。恭司という男は、なぜだか細川を寛がせる天才で、多分、祐もそれを感じているのだろう、また、祐の親友でもある男だった。
「恭司は? これから自習か?」
「いや、腹減ったから、そろそろ帰ろうかと思って。細川は?」
 細川は、ふ、と机の上の参考書やノートに視線を落とす。今日は、これ以上やっても能率が上がらないだろうと判断して、首を横に振った。
「俺も帰る。どこか寄っていくか?」
「そうだな。軽く食ってくか」
 朗らかな笑顔を浮かべて言った恭司に、細川は肩の力を抜き、こっそりと安堵の息をついた。思ったよりも、自分が参っているのを自覚する。
 一番、堪えるのは『拒絶』だ。
 無理難題をふっかけられたとしても、多分、細川はここまで参ったりしない。そうではなく、自分にまで仮面の表情を見せつけられた、その事に細川が落ち込んでいるのだと、祐は気が付いているのだろうか。

 大概、祐はイイ性格をしているし、メチャクチャなことを言ったり、人を困らせたりして楽しんだりするが、実のところ、細川はさしてそれが不快だとは思っていない。時々、恭司や、なぜだか妙にツボにはまって気に入っている(どうやら向こうも先輩として慕ってくれているらしい)筑紫比呂などは、時々、細川が祐に振り回されて可哀想だというような憐憫の目を向けてくるが、本当に、心底、細川はそれが嫌だと思っていないのだ。だから、例えば、祐の悪だくみに巻き込まれ、体育祭で女装する羽目になったこと自体は、さして腹を立ててもいない。少々面倒だなとか、恥ずかしさはあれど、もともと、お祭り騒ぎが嫌いなわけではないから、まあ、良いかと思っているくらいだ。
 祐は、色々な意味で、細川には『特別』な人間だった。本人には言ったことは無いけれど、びっくり箱のような男だと思う。何が出てくるか分からなくて、それはそれで面白いじゃないかと言ったら、恭司は呻きながら、
「いや、お前らってやっぱり割れ鍋に綴じ蓋だ」
としきりに感心していた。
 そもそも、恭司を除いて、細川にここまで深く踏み込んでくれた人間は祐しかいない。なぜ、そうなのかは細川自身には分からないけれど、もうずっと小さな、それこそ小学生の頃から細川は、友人には一線を置かれ続けてきた。嫌われているのではない。むしろ、その逆で、本人が望んでいないにもかかわらず、尊敬に近い眼差しを向けられてしまうのだ。例えば、他愛ない悪戯や、少々羽目を外した悪ふざけに誘われるということが、一切無かった。
 無視されたり、仲間はずれにされたり、ということとは少々趣が違う。それ以外の事では、ごく普通に輪の中に入っていたからだ。
 子供時代の他愛ない悪事に加担できない、ということは、ある意味、少年同士の場合、友情を築く上で致命的だ。なぜ、自分が誘ってもらえないのか細川が、一度、尋ねた時、尋ねられた友人は心底困ったような顔で、
「細川を誘ったら、何か、軽蔑されそうで言えない」
と、全く腑に落ちない返事を返された。別に細川は自分の事を真面目だとも、清廉潔癖だとも思っていない。だのに、小さな悪さを軽蔑するような矮小な人間だと思われていたことがショックだった。だが、それを言うと、その友人は、
「細川が心の狭い奴だなんて思ったこと無いよ! そうじゃなくて……」
 上手く説明できないらしく、彼は、口ごもりながら、
「憧れてるスポーツ選手とかに、馬鹿な悪戯とか出来ないだろ? そういう感じ」
と、全く理解できないことを言われてしまった。
 それが中学へと進み、思春期に入ると更に根が深くなる。例えば、思春期特有の悩みだとか、挫折だとか、葛藤だとか、そういう話を細川はほとんどされなかった。一度友人に聞いたが、返ってきた答えは小学生の頃と同じ。
「そんなつまんないことで悩んでるなんて言ったら、細川に軽蔑されるんじゃないかと思った」
 またか。と細川は思った。
 もっと酷かったのはいわゆる、性的な悩みの事だった。それは、好奇心旺盛な中学生がする、下らない下ネタの話題も含まれている。そういう話に細川は入れてもらえない。時たま、そういう話題の時にその場に居合わせていて、ふんふん、そうなのかと内心では興味深く聞いていても、細川がそれを聞いていることに気が付いた誰かが、慌てたように、
「あ! ゴメン! 細川、こんな下品な話して」
と謝って一方的に話が切られてしまう。自分の何がそうさせてしまうのか、細川にはさっぱり分からなかった。けれども、嫌われていたり、無視されていたり、嫌がらせをされているわけではない、ということは分かるから文句も言えない。無理やりにそういう話に割って入るほど細川は無神経でもなかったから、結局、一抹の寂しさを感じつつ、細川は小中学校時代を過ごした。
 だから、正直に言ってしまえば、細川には『親友』と呼べる人間が高校に入学するまでは存在しなかったのだ。そんな細川に、平気で下品な下ネタを振ったり、人の弱点を言い当てたり、ズケズケと土足でその内面まで踏み込んできたのが祐だった。
 最初は、初めての経験に戸惑っていた細川だったが、それが次第に、面白いと思い始めた。泉谷祐という人間は、知れば知るほど不思議な男で、細川は退屈をするということが無い。そして、思いも寄らぬ場所に自分を引きずり込んだり、想像もしたことの無い経験をさせられたりする。それが、妙に心地よかった。自分の祐に向ける感情が、『恋愛』と呼ばれるそれなのかどうなのか、正直、細川は今でも判断が付かない。けれども、シンプルに祐が好きかと尋ねられれば好きだと答えられるし、特別かと聞かれれば間違いなく特別だ。そして、セックスにもさして嫌悪感は無いから、一応、『恋人』と呼ばれるような関係に落ち着いている。そのことに、異論は無い。
 ただ、時折、祐は思いもよらぬことで『拗ねる』のだ。怒るのではない。拗ねる。
 その本性を知るまで、細川は、泉谷祐は完璧な人間だと思っていた。成績は常にトップクラスだし、運動神経も優れている。手先も器用で、歌まで上手い。何をやらせても、それなりにそつなく上手くこなすし、人当たりもよく人望も厚い。家柄も中々のものだった。大人びていて、常に穏和で、子供じみた感情を決して表には出さない。けれども、その全てが計算され尽くされた『仮面』であることを細川はもう知っている。その仮面を祐が外すのは、細川が知る限り、恭司と、比呂と、そして細川の前だけだ。それは、すなわち、祐の信頼を意味する。恭司や比呂にさえ見せないであろう表情を、細川にだけは見せることから鑑みて、祐が細川に寄せる信頼は絶大なものであることは想像に難くない。そして、困ったことに、細川はそれを嬉しいと感じてしまうのだ。だから余計に、祐の、一見わがままとも思える態度を甘んじて受け入れてしまうし、許容してしまう。そして、それを大して不快だとも苦痛だとも感じていない。『自分に対してだけ』だと思うと、大抵の事が許せてしまうのだ。
 大概、馬鹿だなと自分の事ながら呆れてしまうが仕方が無い。周囲にどう見えようとも、多分、細川満という人間を一番理解してくれているのは泉谷祐であるし、また逆も然りなのだから。
 それでも、二人は別個の人間であるから、全てを理解しあうことなどできようはずもない。時折、こんな風に拗ねてしまう祐を、扱いかねてしまう事だってあるのだ。



「……恭司。最近、祐、機嫌悪くないか?」
 さりげなく、探るように尋ねると、恭司はトレーの上のポテトをつまみながら含みのある笑いを漏らした。
「悪いねぇ、最悪」
「……やっぱり」
「比呂まで巻き込んでくれたし」
 困ったようにため息を一つついて、恭司はぼやく。もともと、恭司は比呂を表に出すことを嫌がる。だが、それは独占欲だとか、そんな心の狭さが理由なのではない。
 筑紫比呂は、とかく派手な外見をしているから誤解されやすいが、本人は至って真面目な人間なのだ。そして、驚いたことに、自分が地味なつまらない人間だと思い込んでいる。だから、どちらかと言えば引っ込み思案で非社交的であるし、目立つことが苦手なのだ。恭司はそれを知っているから、比呂に負担が掛かるような目立つことをさせたがらない。それでも、今は、さほど真剣に祐に抗議していない所を見ると、何か思うところがあるのだろう。
「……すまない」
「なんで細川が謝る訳?」
「祐を怒らせているのは、多分、俺なんだろう?」
「……理由は?」
「分からん」
 正直に細川が答えると、恭司はくつくつと笑った。
「細川らしいな。自分が怒らせているのは分かっても、何が理由なのかは分かってないのか」
「……察しが悪くてすまない」
「いや、悪くないから。祐を理解するのは、俺にも至難の業」
「恭司も?」
「ん?」
「恭司にも、何が理由なのか分からないのか?」
 それを恭司に尋ねることにいささかの情けなさを感じつつも、細川は問う。恭司は、チラリと細川の顔を見て、しばらく何かを思案するように黙っていたが。
「俺にも、祐は何も言ってないよ」
「でも、何となくは分かってるんだろ?」
「……どうだろうなあ。細川が直接、祐に聞いたほうが良いと思うけど」
「聞いた。聞いたら、『なんでもない』と思い切り拒絶された」
「はあ、それで落ち込んでたのか」
 その恭司の言葉に、細川は驚く。決して表には出していないつもりだったし、もともと、細川自身、感情の起伏が激しくは無いから、祐ほどではないけれど分かりにくいはずなのだ。だが、恭司は、時折、こうして驚くような洞察力を見せる。表面上の虚飾に騙されない。思えば、最初に、筑紫比呂を見つけたときから、恭司が惹かれていたのはその派手な外見ではなく、すれていない内面にだった。
「……俺にも、恭司ほどの洞察力があれば良いんだがな」
 そうすれば、もう少し、祐の事が理解できるのに、と思う。
「うん? でも、別に細川は鈍くないだろ? まあ、自分に向けられる好意に関しては鈍いみたいだけど」
 苦笑いしながら、恭司が向けた言葉に細川は目を見開く。全く、今まで考えたことの無いことを指摘されたからだ。
「……俺は、そうなのか?」
「多分。鈍感って言うよりは無頓着に近いか。それが細川なんだろうけど。時々、その辺が祐の神経に触ってるかなーとは思う。ま、祐の慧眼の方が異常なんだけどな。今回の件も、細川に落ち度があるとは思わないよ。祐のわがままだ。でもなあ。あいつ、絶対、自分からは折れないからなあ」
 厄介だ、と小さなため息を漏らす恭司に、細川は自分もため息をつきたくなる。
「俺は、どうすれば良い?」
「どうにもこうにも。とりあえず、祐の本音を引きずり出すしかないだろ。じゃなきゃ、被害は拡大する一方だ」
 それだけは、勘弁してくれ、と恭司はおどけるように笑って、けれども、それ以上は何も言ってはくれなかった。恐らく、自分が踏み込んで良い範疇ではないと思っているのだろう。恭司は、その辺りの境界線の引き方が潔い。
 つまりは、自分で、どうにかしなくてはならないのだと悟り、細川は少しばかり憂鬱になった。





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