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『011:柔らかい殻』 ………………………………

 実は、自分の中が空っぽなのではないかと香村誉(こうむらほまれ)が気がついたのは、17歳の誕生日を数ヶ月先に控えた早春のことだった。
 立派な人になるようにとつけられた名前のとおり、誉は確かに立派な子供だった。小さな頃から決して羽目を外さない。大人の言うことはきちんと聞いて、勉強やスポーツに対しても努力を惜しまない。良い子と言えば香村誉、優等生と言えば香村誉、と言うほど誉は絵に描いたような立派な子供だったのだ。
 都内でも有数の進学校に進学し、一流の大学に進学すべく勉学に勤しんだらあっというまに学年で一番の地位に君臨してしまった。優秀な生徒にありがちなガリ勉タイプでもなく、どんなスポーツでもそつなくこなし、運動部から勧誘を受けたりもした。案外自我が薄い性格が幸いしてか、成績優秀なのを決して鼻にかけない、穏やかで温和な性格だと他の生徒からも慕われた。だが、それだけなのだ。2年生への進級を間近に控え、誉はふとそれに気がついてしまった。
 気がついてしまうと、それがどうしても気になって仕方が無くなった。自分は一体何がしたいのか。何が欲しいのか。自分の内側へと問いかけてみたが、その答えは『何も無い』だった。
 別段、明晰な頭脳だとか、万能な運動神経だとか、人から慕われる人徳だとか、あるいは裕福な家庭だとか、そんなものは誉が欲しいと思っていたものではなかったのだ。ほんの少し努力すれば手に入る、あるいは生まれたときから授かっていたものでしかなく、あえてそれらを捨てなかったのは、それらを持っていたほうが煩わしさから開放されると知っていたからに過ぎない。
 それ以来、誉は退屈を感じるようになった。退屈で退屈で仕方が無い。死んでしまうかと思うほど退屈。
 そんな現状を打破しようと誉は色々なことに手を出し始めた。若者にありがちな非行に走れば何か刺激があるかと思い、犯罪まがいのことまでした。まず手始めに万引きをしてみた。何度かやってみたが、本屋でも、CDショップでも見つからなかった。誉は別に物が欲しかったわけではないので、あまりに簡単すぎるそれにはすぐに飽きてしまった。
 次に手を出したのが薬だったが、大麻系の薬だったせいか、実に面白くないと誉は一度で懲りてしまった。ただ、ぼうっとするだけで、退屈に拍車がかかっているようにしか思えない。はっきりとしない、曖昧な誉の世界がなおさらぼんやりとしてしまうようで、少しも楽しいとは思えなかった。


 誉の周りには見えない殻がある。だが、それは、きっといつかは割れるはずの殻なのだ。ひよこが卵の殻を割るように、いつか誉もその殻を割って外に飛び出せるはずなのだ。そして、その外の世界は曖昧さなどない、はっきりとした、そして退屈とは無縁の刺激的な世界のはずなのだ。
 その殻を割るために誉は何をすべきなのか。それはまだ分からない。ただ、少なくとも万引きや薬ではなかったらしい。
 次に誉が手を出したのは売春だった。男でも売春できるなど誉はそれまで知らなかったが、その手の場所に行けば良いのだという事を知り、早速行ってみた。初めての男は中年に差し掛かったサラリーマンだったが、悪くは無い相手だったらしく、覚悟していたほど痛かったり苦しかったりはしなかった。
 どうやら、誉はその手の客には好まれる容姿をしていたらしく、引手数多で客には困らなかった。
 別に金が欲しかったわけではない。セックスも、確かに快感があったが、だからといって中毒になるほど欲しいと思ったわけでもなかった。だが、今まで試してきたことのなかで、コレが一番刺激的だと誉は思った。
 何より、人が介する行為だ。しかも何だか、自分が汚れていくような、その変化が刺激的だった。自虐的な快感に近い刺激だった。
 腹の出っ張った中年親父の上で腰を振りながらアンアン喘ぐ。その姿を鏡で見れば、ああ、俺ってこんなに汚れてしまったんだな、随分と俺は変わったなと妙な感慨があった。
 だがしかし、そんな生活をしていたにも関わらず、だれも誉の変化には気がつかなかった。2年に進級して最初の実力テストでも、誉はやっぱり1位だった。そこで、誉はやはり、はた、と気がついた。実は自分は何も変わってはいないのではないだろうかと。
 そう思うと、不快感がじわじわと腹のそこから湧き上がってくる。誉を取り囲んでいるのは、もしや、固い卵の殻などでは無いのではないかと誉は思い始めた。ゼラチン質のブヨブヨとした柔らかい殻。それは柔らかいが故に、内側からの刺激を吸収して決して割れることが無いのだ。
 誉がいくらその殻を割ろうと内側から必死になったとしても、もしかしたら外に出ることは出来ないのかもしれない。
 そんな不安にとらわれてしまい、誉はがむしゃらに馬鹿なことをくりかえした。行為はエスカレートするばかりで、SMまがいの事を強いてきた客にも従順に従った。複数相手のセックスだってした。だが、しかし、やはり誉の変化に気がつく人間はいなかった。


 誉は疲れてしまった。抵抗することに疲弊して、そもそも、自分は何に抵抗していたのかも分からなくなってしまった。それでも諦め悪く、売春を続けたが、やはり何も変わらない。最初の刺激がまやかしだったかのように、誉の世界はやはり曖昧で、退屈でしかないものだった。
 もう、こんな意味の無いことはやめようと、最後の客を相手にした後で誉は決心した。何の冗談かと思ったが、最後の客は、偶然にも誉が最初に相手をした中年に差し掛かったサラリーマンだった。
 セックスが終わり、やっぱり退屈な気持ちで男とホテルから出て別れた誉だったが、そこで、唐突に後ろから腕をつかまれた。一体、何かと誉が驚いて振り返ると、どこかで見たことがあるような同じ年頃の少年が立っていた。
「学年一の優等生が、こんなことしてるなんてな」
 少年は、皮肉な笑みを浮かべながらそんな事を言う。もしや、同じ高校の生徒だろうかと誉は思ったが、別に焦りも、悲壮感も無かった。
「こんなこと皆にばらしたらどうなるだろうな?」
 相変わらず皮肉な笑みを浮かべたまま、どこか苛々したような口調で少年は続けた。
 こんなことが皆にばれてしまったら。どうなるんだろう。そう思ったら、誉の胸はドキドキと脈打った。だが、それは不安よりも期待の割合のほうが大きかったのかもしれない。皆にばれて軽蔑のまなざしで見られたりしたら。或いは、両親に知られて見捨てられてしまったら。それは酷く刺激的なことだ。だがしかし、両親は泣くだろう。それは、確かに刺激的ではあるが、楽しいことではない。
 誉は、そこで、やはりがっかりとしてしまった。刺激的であることはすなわち楽しいことであるとは限らないのだ。
「ばらされたくなかったら…そうだな。俺の言うこと聞けよ」
 少年は、何か躊躇しているような不慣れな口調でそう言った。何だか、その台詞が板についていない。不自然さを感じさせて、誉は不思議そうな顔で少年をじっと見上げた。すると、なぜか少年は微かに頬を赤くする。
「言うことを聞かないと、どうなるの?」
「このことを皆にばらす」
 少年はやはり、不自然な口調で誉を脅した。
 このことをばらされてしまうことと、この目の前の少年の言うことを聞くことと。どちらが刺激的で楽しそうかと天秤に掛けたら、あっさりと後者に傾いた。一体、どんな無体なことを要求されるのだろうかと思ったら、誉の動悸は早まった。
「分かった。良いよ。お前の言うことを聞く」
 誉がそう言ったら、少年は逆に驚いたように目を見開いて誉を凝視した。自分が言い出したことなのに、どうして驚くんだと誉は訝しげに眉を寄せる。だいたい、こいつは誰なんだとじっとその顔を見つめ、ふと思い出した。
 学校一の変人。
 確かそう呼ばれている同じ学年の男のはずだ。名前は確か、長岡栄(ながおかえい)とか言った。アウトローとは少しばかり違う、奇妙な少年だった。学校を一週間続けて休んだり、そうかと思えば全国模試で一科目だけ全国一位を取ったりする。だが、他の科目はボロボロで、誉は総合では決して負けたことは無かったが、一科目だけを取り上げれば、何度か負けたことがある相手だった。
「お前……何言われてるか分かってんのか?」
「分かってるよ? 俺は、お前の言うことを何でも聞けば良いんだろ? 何すれば良いの? とりあえず、セックスでもする? 俺、結構、上手で評判良いみたいだし」
 誉があっけらかんとした口調で言うと、栄はぺチンと軽く誉の頬を叩いた。
「お前…そういう事言うなよ…傷つく…」
 何で、それで栄が傷つくのだろうかと不思議に思いながら誉は首をかしげた。
「あ、そっか。長岡はホモじゃないんだな。ゴメン。気持ち悪かった?」
 思い当たった理由をそのまま口にすると栄は眉を顰めて複雑そうな表情になる。そして、
「いや、別に気持ち悪くなんかねーけど…そういう意味で言ったわけじゃ……」
 と語尾を濁らせた。
「それより、何で、お前、あんなことしてたんだよ」
「何でって。退屈だから」
 やはり、あっけらかんとした口調で誉が答えると、栄は絶句したようで口をパクリと噤んでしまった。しばしの沈黙が落ちる。
「…退屈だと、お前はああいう事をするのか…」
「うん? 退屈じゃなくなるかと思って試したんだけど、やっぱり退屈だったから、もうやめるつもりだったけど」
 誉が答えると栄ははあああと大きなため息をついて大げさに肩を落として見せた。
「とりあえず、ああいう事はもうやめろ」
 命令されたので誉は素直に頷く。
「それでだな。今後は俺の助手をしろ」
 栄の言った言葉の意味が分からずに誉は
「助手?」
 と聞き返す。
「そうだ。俺様のすばらしい研究の助手をするんだ」
「…すばらしい研究って何?」
 訝しげに眉を寄せて誉は尋ねる。
「タイムマシンの研究だ」
 返ってきた答えは変人の何ふさわしい奇天烈な答えだった。
「あ! お前! 今、こいつ変だって思っただろ! ? ちゃんとアインシュタインの相対性理論読んだこと無いんだろ! ? 光速を超えると時間ってのは進みが遅くなるんだ! その理論からすると、過去へいくことはできなくとも未来へは行けるんだぞ!」
 誉の表情に反論するかのように栄は熱弁を振るう。そういや、そんな話どこかで聞いたことがあるなと誉は眉間の皺を消してみる。それに、栄が妙に成績の良い科目は物理と数学に偏っていたなと思い出した。
「この研究が成功すれば、絶対ノーベル賞が取れるはずなんだ!」
 確かに取れるだろう。そんな馬鹿みたいな研究が成功すれば。
「…あのさ? ひとつ聞いていい?」
「何だよ」
「それ、本気なんだよね?」
「本気に決まってるだろ! 何だよ! 信じてないのか? 夢も希望も無いヤツだな!」
 憤慨したように栄は拳を握り締めた。いやいや、そもそも夢や希望があったら売春なんてしてないってという言葉を誉は胸のうちに留めておく。
 その時になって、ふと誉は気がついた。いつも誉にまとわりついていた退屈の虫が綺麗さっぱり消えてなくなっていることに。アレ? どうしてだろう? と思ったが、ブヨブヨの柔らかい殻もなぜだかその気配を感じない。
「…その助手になるっての断ると、やっぱりさっきのばらされんの?」
 誉が尋ねると、栄はさっと視線を逸らして、
「そうだ」
 とぶっきらぼうに答えた。
「ふうん。じゃあ、助手するよ」
 誉がそう言うと、栄は今度は手のひらを返したように嬉しそうな、無邪気な笑顔を浮かべた。
「ノーベル賞を取れたら、賞金は山分けだからな」
 そして、そんな子供みたいなことを言う。誉はおかしくて、笑いたくて仕方が無かった。実際、堪え切れずに噴出して笑ってしまっていた。そんな誉の笑顔を見て、栄はなぜだか頬を少し赤くしていたが、誉はそれには気がつかない。
「何か…俺、長岡と一緒にいると退屈しないみたい」
 笑いながら誉が言うと、栄は耳を赤くして、
「じゃあ、ずっと俺と一緒にいろ」
 と言った。
 



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