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『008:パチンコ』 ………………………………

 『ゲーム』を開始するので全員強制参加、と寮内放送が入ったのは七月の最後の週末のことだった。このおかしな放送に疑問を抱く寮生は一人もいない。時々、こんな風に暇つぶしのゲームが突発的に行われるのはそう珍しくはないからだ。一応、金と学力とが伴ったお坊ちゃま高校ってことになっているけど、ここの連中は妙にノリが良くて軽い。しかも今は夏休み。様々な事情で寮に残っている連中が、いい加減、飽き飽きしてくる時期。実にタイミングも良い。
 生徒の非行防止だかなんだかの理由で、この全寮制の男子高校と付属の寮はこんな山奥に建てられたらしいが、下界に降りるのにバスで三十分、しかもそのバスも一日に三本しか出ていないというのは遊びたい盛りの高校生にははっきり言って地獄だ。外部に娯楽を求められないなら内部で生産するしかない。しかも粋なことをサラリとしてくれると評判の良い寮幹部がそろって寮に残っているのだ。そろそろ何かをしでかす頃だろうと寮生は誰もが期待していたに違いない。


 ゲーム内容の説明をするから、一人ずつ、順に301号室、つまり寮長の部屋に来るように、と連絡が入って、同室の藤代(ふじしろ)は首を傾げる。
「何で一人ずつなんだろう? 全員食堂に集めてまとめて説明すれば良いのに?」
「さあ?」
 と相槌を打って、俺も首を傾げる。
「弓(ゆみ)さんから何か聞いてないワケ?」
 と、呆れたように藤代に尋ねられたけれど知らないものは知らない。素直に首を横に振ったら、
「ふうん。『恋人』の崎谷(さきや)にも極秘って事は何か企んでるって事か」
 と、藤代は神経質そうに見える銀縁の眼鏡をくいっと押し上げた。藤代に他意はない。寮生ならば誰でも知っている『事実』をサラリと口にしただけだ。それでも、俺は苦笑が零れるのを禁じ得なかった。
「何でも話してくれるってワケじゃないよ」
「そうなのか? でも、弓さんって崎谷のこと、スッゲー甘やかしてるじゃん?」
 それは事実なので曖昧に笑ってみせる。
 山の上の閉鎖的な空間。三年間と期限の切られた特殊な時間。下界に下りるのに酷く手間が掛かる上に、近隣に女子高はおろか、共学の高校さえありはしない。そんな状況で、遊び半分に男同士で擬似恋愛をしている連中は少なくない。最初はそれに引いてみても、寮生活二年目ともなるとすっかり慣れて感化されてしまう。
 だから、藤代も例に漏れずそんな風に俺の付き合っている人間のことをごく自然に話題に出す。そのメリットとデメリット。どっちが多いのか考えて、やっぱりいつものように答えは出なかった。
 トントン、と不意に部屋のドアがノックされる。
「はいよ」
 と藤代が返事をしたなら、少し乱暴にドアが開いて、長身の不機嫌そうな男が現れた。なまじ顔が整っている分、機嫌が悪いと威圧感を感じる。でも、それは俺が後ろめたさを感じているからなのかもしれない。それが証拠に藤代は飄々としている。
「藤代、301に来いって」
「何? 葛掛(くずかけ)伝言係?」
「ああ、たまたま寮長に捕まった。どうせ例の『ゲーム』の件だろ。早く行って来いよ」
 葛掛に顎で促されて藤代は面倒くさそうに立ち上がる。部屋を出て行きしな、チラリと意味深な視線を俺に送ってきたけど。どこまで藤代が知っているのか俺は知らない。余計なことは絶対に言わない奴だけど、藤代の洞察力は侮れない。
 藤代が部屋を出て行ってもなぜか葛掛は部屋に残ったままで、けれども、俺に何を言うでもなく、ただ黙って突っ立っている。彼の顔を見ることが出来なくて俺は机に向かい、課題を片付けている振りをした。けれども、目は参考書の上を滑ってばかり。内容なんて頭に入ってきやしない。緊張して、空気がびりびりと張り詰めているような気がした。
「寮長に『ゲーム』のこと何か聞いてるか?」
 不意に沈黙を破って葛掛が話しかけてくる。ふっと顔を上げ、俺は後ろを振り返った。いつものように、どこか嘲るような表情で俺を見つめてくる鋭い瞳。でも、けっして葛掛はキツイ奴じゃない。俺に対してだけ。いつだって、そんな風に蔑むように見つめてくる。
「……聞いてない。大体、『ゲーム』の内容はいつだって幹部の間の極秘事項だろ?」
 その真直ぐな強い視線に負けないよう、ただ、虚勢を張って見つめ返して俺は答える。声はぶれていなかった。椅子を掴んだ手が震えていることに、気がつかれていなければ良い。
 俺の答えに葛掛はフンと鼻で笑った。
「どうだか? ベッドの中じゃ何でも筒抜けって噂だぜ?」
 葛掛と対峙する時には常に傷つけられることを予測して、自分なりに覚悟をしているつもりだけど、やっぱりいつもと同じ、簡単に俺の胸はザックリと切り裂かれた。けれども痛みを顔に出したりはしない。プライドを保つように顔をしっかりと上げたまま、
「下世話な奴だな。馬に蹴られて死ねば?」
 と言い返す。葛掛は鼻白んだような顔をして、プイと顔を他所に向けた。
「お前が死ねよ。発情期のサルみたいに盛りやがって」
 そして、見事にとどめを刺すと、一瞬たりとも俺を見ずに部屋を出て行った。
「…っつ。イッテー…」
 痛むはずなど無い。外傷など全く無いのだから。それでもズキズキと心臓の奥が痛むような気がして、そこを押さえると俺はベッドに倒れこんだ。


 弓寮長が、所構わずキスを仕掛けてくるのは何も今に始まったことじゃない。基本的に唯我独尊で、人目など気にしない人だし、気分屋だから。したいと思えば、したいことをしたい場所ですぐにする。それに、俺自身、弓先輩とキスするのは好きだった。他の人とキスしたことが無いから分からないけど、弓先輩のキスは上手いと思う。されていると気持ちよくて、フワフワとしてしまう。けれども、それをよりによって一番見られたくない人間に見られてしまったのが半年ほど前のことだった。
 部屋のドアが半開きになっていたことに気がついていたけれど、それを注意する前に腰を抱き寄せられて異論を唱える間もなく唇を塞がれた。いつものように舌を絡め取られてしまえば、気持ち良さの方が先に立つ。目を閉じて、知らない間に、
「ンッ……フッ…」
 と甘ったるい声を漏らしてしまったのと、ドアを乱暴に叩く音が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
 驚いて部屋の入り口を見れば葛掛が怒ったような顔をして立っていた。
「寮長。篝(かがり)副寮長が呼んでますけど」
 ぶっきらぼうな口調で葛掛が言って、弓先輩は面白がるようにフフンと笑った。
「無粋な奴だな。もう少し待てよ」
「待って、それ以上進まれると困るんで」
「そりゃそうだ、俺も唯(ゆい)のエロい姿を他の男には見せたくないしな」
 そう言って弓先輩は余裕の笑いを浮かべていたけれど、葛掛は嫌悪感も露に俺を睨みつけていた。それ以来だと思う。顔を見れば葛掛が俺に憎まれ口を叩くようになったのは。
 弓先輩と並んで歩いているだけで、『盛りのついたメス猿』と俺を罵る。
 自分だって。
 自分だって、篝先輩と付き合っているってのに。



 結局、俺が弓先輩のところに呼ばれたのは一番最後だった。意外なことに、なぜか301号室には篝先輩も一緒にいた。篝先輩は副寮長だから、ゲームの説明を一緒にしてもおかしくはないはずだけど、普段、この二人は凄く仲が悪いから、なんだか妙な感じだった。
「崎谷、聞くだけ無駄って気もするけど、俺と弓とどっちが良い?」
 冴えた美貌で、酷く素っ気無く篝先輩が唐突に聞いてくる。篝先輩は特別に俺を嫌ってるとか、そういうことはない。誰に対しても、こんな風に、冷めた態度で接している。別名『氷の女王様』とか呼ばれてるけど、でも、葛掛と一緒にいるときだけは少しだけ表情が柔らかい気がする。そう思ったら、胸の奥がやっぱりズキリと痛んだ。
「それは、ゲームに関係する質問なんですか?」
「そうだ。ま、ホント聞くだけ無駄なんだけどな。人数的にも片方しか残ってないし」
 手に何枚かの紙切れを持って、それをヒラヒラさせながら弓先輩が今度は答える。見ようによってはふざけた態度かもしれないけど、弓先輩がやると何でも絵になるのだった。
「対戦型のゲームですか?」
「その通り。2チームに分けて対戦する。寮生は全員駒。俺と篝が対決すんの」
「で? 俺は弓先輩のチームに入れば良いんですね?」
「つれない言葉だねぇ。自分の意思で俺のチームを選ぶって言えよ。仮にも『恋人』だろ?」
 仮にも恋人。
 全くだ、と俺は茶化すような弓先輩の言葉に苦笑いを零した。
「弓先輩のチームが良いです」
 俺が改めてそう言うと微かに篝先輩の眉が動いたような気がしたけど。多分気のせいだろう。
「じゃ、これ。篝には絶対見せるなよ」
 そう言って弓先輩は一枚のカードを俺に渡した。スペードのエース。その意味するところが分からない。それでも、それを篝先輩に見られないように、俺はそっとポケットにしまいこんだ。
「で、こっちが競技種目」
 そう言って、弓先輩は今度は一枚のコピー用紙を差し出した。
 ズラリとリストアップされている種目は様々で、遠投、5キロマラソン、円周率暗記勝負、英単語しりとり、25メートル潜水、因数分解100題早解き、フリースロー10本勝負etc…。
「自分で種目を選べるんですか?」
 リストの中には得意なものも、苦手なものも混じっている。だから、それが気になって聞いたら、篝先輩は静かに首を横に振った。
「まず最初に種目をくじ引きで決める。で、その種目の対戦相手を俺たちが数字で指定する。自分のチームから誰を出すかは俺達には選択できないってルール」
 つまり、篝先輩に『1』と指定された時に俺は戦わなくてはならないらしい。
「で、勝った方がこのビンゴカードの数字をつぶせる。先に一列並んだほうが勝ち。で、景品と罰ゲームは、負けたほうが勝ったほうの一日奴隷。俺を奴隷にすんなよ」
 今度は、ビンゴのときに使うシートをヒラヒラさせながら弓先輩は楽しそうに教えてくれた。随分と凝ったゲームを考えるものだ。だからこそ、今年の寮幹部は粋だと言われてるんだろうケド。
「駒への景品は無いんですか?」
 ふと疑問に思って尋ねたら、弓先輩は器用に片方の眉だけを上げて見せ、おどけた表情を作った。
「俺たちと同じ条件。対戦して負けたほうが勝ったほうの一日奴隷」
 そりゃ大変だ、と思いながら俺は思わず天井を仰いだ。苦手な種目に当たらないことを祈るばかりだ。
「…篝先輩、俺の得意な種目に指名してくださいね」
 俺が笑いながらそう言うと、篝先輩はそのポーカーフェイスを少しだけ崩し、口元をふっと緩めて柔らかい表情になった。
「俺に頼むより、弓に頼めよ。弱い対戦相手を指名してくださいって」
「それもそうですね。弓先輩お願いします」
 俺がふざけて肩をすくめると弓先輩は口元だけで気障ッたらしく笑った。他の男がやったなら失笑ものだろうケド弓先輩がやると、イチイチさまになる。
「了解しました。可愛い唯が他のオトコの奴隷になんかなったら困るしな」
 おどけた口調。でも、そこに滲む本気の心配が俺には分かった。王様だとか、唯我独尊だとか、独裁者だとか色々言われているけど、この人は基本的に面倒見が良いんだと思う。だから、俺なんかを拾ってしまったんだろう。
「じゃ、俺は戻るから。崎谷は泊まるんだろう?」
 嫌味でなく、ごく自然に篝先輩に尋ねられ俺は思わず苦笑してしまった。そりゃ、俺と弓先輩は寮内では公認の仲かも知れないけど。副寮長に寮則違反を促されるってどうなんだろう。そう思っているとトントンと301号室のドアがノックされた。
「どうぞ」
 と弓先輩が返事をするとドアが開いて、葛掛が顔を覗かせた。
「篝先輩、終わった?」
 俺と弓先輩には見向きもせずに、葛掛はただ篝先輩だけを見て尋ねた。
「ああ。終わった」
 ごく自然な態度で篝先輩は葛掛のほうに行き、後ろを振り返りもせずに二人並んで出て行ってしまった。その背中を無意識にじっと見つめていたのだろう。
「…切ない目で見つめるね」
 と弓先輩が苦笑混じりに零す。でも、弓先輩だって似たような表情をしてると思う。
「泣きそうな顔してる。慰めてやろう」
 そう言いながら弓先輩は俺の顎にそっと手を当てた。いつものように落ちてくる唇。入り込んでくる舌はどこか優しい。弓先輩のキスは好きだ。気持ちが良くて、嫌なことを忘れられるから。薄く目を開いて弓先輩の表情を盗み見たら、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
 慰められているんだか慰めているんだか。
 最近じゃ良く分からない。
 でも、多分。
 こういうのは『傷の舐めあい』って言うんだろう。






 ゲームは順当に進んでいるらしかった。一度篝先輩が先にリーチを掛けて弓先輩に阻止され、その後に弓先輩がリーチを掛けてそれを篝先輩が潰した。
 ワッと食堂の一角で歓声が上がる。どうやら勝負が決まったらしい。今の競技は『腕相撲』。別に図ったわけでもないだろうケド、柔道部の副部長と野球部の捕手の対決になってしまって、かなり盛り上がっているみたいだった。
「……あー後藤先輩勝ったみたいだな。篝先輩、再リーチじゃね?」
 隣で夕飯を食べていた藤代がポツリと零す。藤代は俺と同じく弓先輩のチームだから、表情がどこか苦々しい。
「おい、高鳥下(たかとりげ)。お茶もってこい。それが終わったら肩を揉め」
 横柄な態度で藤代は一年の高鳥下に命令した。藤代が円周率暗記勝負で高鳥下に大勝したのは昨日のことだ。だから、本日、高鳥下はめでたく藤代の下僕と相成った。ここ数日間、あちらこちらでこんな光景が目に入る。
 俺は未だに勝負には駆り出されていないので、まだ、その犠牲にはなっていない。
 でも、ゲームもそろそろ終盤で、残りの面子もあと数人程度のはずだ。明日辺り呼び出されるかも。残っている種目は、その内容がはっきりしない怪しげな種目ばかりで少し不安だった。
 ふと視線を上げれば、篝先輩と並んで食堂を出て行く葛掛の姿が眼に入った。確か、葛掛もまだ勝負をしていない。もし葛掛と対戦するようなことになったら。
 俺は死に物狂いで戦うだろう。そして必ず勝ちたい。勝って葛掛を奴隷にしたい。奴隷にして、俺を抱け、と命令するのだ。



 俺は、ずっと葛掛が好きだった。











「パチンコ?」
 寮内放送でとうとう『1』が呼び出され、301号室に行ったら競技種目が発表された。渡された小さな紙切れに書いてあるのは『パチンコ』。
「でも、パチンコ屋って18歳未満は入れませんよね?」
 俺が首を傾げて尋ねると、篝先輩がおかしそうにクスクスと笑った。
「違うよ。そのパチンコじゃない。『シューティング』」
 そう言って弓先輩が箱の中から取り出したのはプラスチックの柄にゴムがついた、所謂、レトロな玩具の『パチンコ』だった。その脇にはいくつもの赤い弾。
「とりあえず、二人でジャンケンしろ」
 促されて、戸惑いながらも隣に立つ葛掛とジャンケンした。まるで謀ったように俺の対戦相手は葛掛になった。しかも、篝先輩も弓先輩も両者リーチで、この勝敗がそのまま二人の勝敗も決してしまうのだ。だから、二重の意味で絶対に負けられない。
 ジャンケンは俺が負けて、葛掛が勝った。
「じゃあ葛掛が『狙撃手』で唯が『獲物』な」
 弓先輩がパチンコと弾を葛掛に渡す。
「この弾、中に赤インキが仕込んであって当たると割れて色がつくから。制限時間は三十分。唯が少しでも赤く汚れたら唯の負け。逃げ切れたら葛掛の負け。逃げて良い範囲は寮の棟内のみ。ただし、寮監以外立ち入り禁止の場所は厳禁。それ以外はどこに逃げても隠れても良い。理解したか?」
 実に単純だけど、緊張感溢れるゲームだと思った。俺はコクリと頷く。足のすばしっこさと反射神経は自信があるから何とかいけそうだけど、持久力と集中力で言ったら葛掛の方が上だ。後半が勝負だろう。
「じゃあ、唯がここから出て三十秒後に葛掛がスタート。唯。準備良いか?」
 頷いて、ふっと弓先輩の顔を見上げたら、らしくもなく優しげな、それでいてどこか寂しそうな表情が目に入った。何だろう、と思って首を傾げると、クシャリと柔らかく髪をかき混ぜられた。
「怪我には気をつけろよ?」
 まるで保護者のように弓先輩は言うと、トンと俺の背中を押す。
「用意………………スタート!」
 篝先輩の声に、俺は弾かれたように301号室を飛び出した。




 とりあえず、とにかく葛掛から離れなくては、と一番遠い場所にある西階段に向かって走る。一直線の場所は的を狙いやすいから避けなくては、と思って北寮に方向を定めた。北寮は一番古い棟で、造りが妙にごちゃごちゃしている。物置代わりの部屋や廊下も多くて、隠れるには一番良い場所だ。
 俺が全力疾走で走ってると、
「葛掛! ! 崎谷、北寮に向かったぞ!」
 と、野次馬が叫ぶ声が後ろから聞こえた。援護射撃かよ。きったねえと、思った直後に、
「騙されんな! 崎谷は南寮に行ったぞ!」
 と別の声が聞こえた。ノリの良い寮生の連中は、外から撹乱してこの勝負を楽しむつもりらしかった。逃げながら、思わず苦笑が零れる。葛掛は、どっちの情報を信じるかな。
 とにかく俺は北寮に向かうしかないけど。
 西階段を一気に一階まで駆け下り、渡り廊下を通って北寮に向かう。渡り廊下を走れば葛掛からは丸見えだろうケド、とにかく立地条件の良い場所に行くのが先決だった。狙撃する方は障害物があったほうが絶対にやりにくいはず。
 フッと今駆け下りた階段を見上げると、二階の窓から俺を睨みつけている葛掛と視線が合った。鋭い、射殺しそうな真直ぐな瞳。あの視線に囚われてしまったのは、一体、いつの頃からだっただろう。囚われて、雁字搦めにされて、気がつけば甘さなど微塵も無い、ただ苦くてつらいだけの恋に落ちていた。
 二階の窓から葛掛がパチンコを構える。
「おいおい、あの距離で狙う気かよ」
 と、正気を疑ったが、ふと気がついた。
「ヤベ。アイツ、よく考えたら弓道部だ」
 案の定、放物線を描いて飛んできた赤い弾は、俺の建っている場所の二メートルほど右に落ちてパシャリと割れた。あんなチンケな玩具でここまで正確に射るとは恐れ入る。広がる赤は、どこか血痕のようにも見えた。その赤に、頭のどこかが興奮し始めた。

 ただの遊びのはずだ。
 別に命を掛けてるわけでもなんでもない。
 それなのに。

 俺は完全に、どこかトランスしていた。多分、葛掛も。
 まるで、戦場で本物の銃に狙われているかのような緊張感と、本能的な生存願望から来る奇妙な興奮。絶対に撃たれるものかと俺は北寮の棟内に走りこんだ。一気に階段を最上階まで駆け上る。普段なら息が切れていてもおかしくないのに、その時の俺は逃げることで頭が一杯だった。静かな棟内に微かな足音が響いてくる。もう葛掛が北寮に辿り着いたのだろう。

 葛掛が俺を追いかけてくる。

 その事実は、俺に奇妙な精神的快感を与えてくれた。こんな機会はもう二度とあり得ない。葛掛が、俺を追いかけるなんて。負けるのが分かっていながら捕まりに行きたい。そんな狂ったことを考えてしまうほど。
 でも負けるわけには行かないのだ。俺は葛掛を奴隷にしたい。そして一度でいいからセックスしたい。
 セックスがどんなものかも知りはしないのに。
 そう思ったら、ふと笑いが零れた。きっと葛掛は俺がバックバージンだなんて想像すらしていないだろう。そもそも、弓先輩と俺が付き合ってるって噂自体、真っ赤な嘘なんだから。





 きっかけは、俺が入学したばかりの頃、複数の上級生にレイプされかかったことだった。自分じゃ全く分からないけど、どうやら俺は『そういう顔と体』をしているらしく、男から告白されたり、襲われかかったり、と災難続きだったのだ。けれども、その上級生たちは格段に性質が悪かった。本当にヤバかったけど、尻に突っ込まれる直前に弓先輩に助けられた。このままじゃ似たようなことが何度も起こるから、といってそれを提案されたのだ。その時から既に弓先輩は『王様』扱いされていて、誰からも一目置かれていた。そんな先輩の恋人ってことにしておけば、本気でちょっかい掛けてくる奴はいないだろうと。
 その時、俺はまだ葛掛のことを知らなかったし、誰かを好きになるってことがどういうことかも分かっていなかったから、一も二も無くその提案に飛びついた。『フリ』だけで身を守れるなら安いもんだと思った。
 その代償としてキスくらいはさせろと弓先輩は笑いながら言って、俺はそれを承諾した。でも、いくら情熱的なキスをされても、弓先輩が俺に後輩以上の好意を抱くことは一度もなかった。そういうのは空気で薄々と分かるものだ。
 多分、弓先輩は篝先輩が好きなんだと思う。犬猿の仲だと言われて、表向きは酷く仲が悪いと言われているけれど。
 弓先輩が篝先輩を見ているときの目は、多分、俺が葛掛を見つめている時の目とよく似ているに違いない。
 もし俺が葛掛に勝てば、自動的に弓先輩も勝ちになる。そうしたら、弓先輩が篝先輩に何を要求するのか何となく分かるような気がした。




 ふと腕時計に視線を落とす。ゲーム開始からセットしていたタイマーは、残りあと十分を示していた。北寮の中を緩急つけて逃げ回り、階段を上り下りしていたせいでかなり息が上がっている。足も限界に近いようだった。でもあと十分、逃げ切らなくてはならない。
 体力を振り絞って北寮の一番西の階段を駆け上っていると、すぐ後から足音が聞こえた。かなり追い詰められている。その差、階段一階半と言ったところだ。最上階まで上ることは諦めて、途中の階で今度は東階段めがけて廊下をひた走る。
 ヒュンと右耳のすぐ横を何かが掠めて、すぐ近くの壁がパシャンと赤く染まった。振り向けば、葛掛がすぐそこまで追いついてきている。距離は二十メートル弱。背を向けて走ったら絶対に狙撃される。すぐそこの階段の手すりに手を掛けると、おれは迷わずそれを乗り越えて飛び降りた。3メートル弱なら、飛び降りれると踏んでのことだったが、疲労が溜まった足には負荷が大きすぎたらしい。着地の際、グキリと嫌な音がして、俺は思い切り体勢を崩した。肩を強打したけれど、それよりも足首の痛みが酷い。骨は大丈夫そうだったが、足首が完全にイったみたいだった。
 立ち上がることも出来ないほど派手に捻って、俺は諦めたようにすぐ近くにあった壁に背を預けた。キュッキュとリノリウムの床を靴底が滑る音がする。目の前に見えるスニーカーとジーンズ。ノロノロと顔を上げると、パチンコを構えた葛掛と目が合った。
 静まり返った寮内に、ピピピと間抜けな電子音が響き渡る。制限時間五分前にセットしてあったタイマーがなった音だった。あと五分だったのに。ついてない。
「もう逃げないのか?」
 嘲るような笑いを浮かべて葛掛が俺を見下ろす。その視線は、やっぱり俺を射殺そうとしているみたいに鋭く強かった。
「逃げたくても足が動かねーよ」
 吐き捨てるように憎々しげに口答えすれば、良い気味だと言わんばかりに葛掛はフンと鼻で笑った。それが悔しくて俺は俯き、じっと床をにらみ付ける。
「俺が勝ったらお前、俺の奴隷だぜ?」
「…別に良いよ。二十四時間我慢するだけだ」
「どうだかな? 俺がお前に何させるつもりか知っても同じこと言えるか?」
 葛掛が俺に何をさせるつもりだというのか。
 身の回りの雑用とか? 高鳥下がやらされていたみたいに肩揉みとか? そんな暢気なことを考えていたのに。
「まず、お前の服を全部ひん剥く」
 何か不穏当なことをいわれたような気がして、俺はポカンとして顔を上げた。
「それからお前の体中嘗め回して、散々じらして『お願い、イかせて』って言わせる」
「…………………………くず……かけ?」
「で、お前に突っ込んで、足腰立たなくなるほど犯しまくる」
 俺は何を言われているのか理解できずに、ただ呆然と葛掛の顔を見上げていた。葛掛は酷く楽しそうにくっくっくと喉の奥で笑って見せた。
「丸一日、お前は俺の性奴隷ってワケだ」
 そこまで言うと、葛掛は改めてパチンコを構え、躊躇なくその弾を撃った。
 心臓の真上に軽い衝撃。
 本当に撃たれて血を流しているみたいに、赤く染まるシャツを俺はどこか上の空でぼんやりと見つめていた。
「ゲームオーバー。足もやられてるみたいだし、丁度良いな。ここで犯してやろうか?」
 からかうようにそう言われたけれど。俺は葛掛の強い視線から目を逸らすことが出来なかった。
 囚われる。雁字搦めにされて、もう、どうにでもしてくれと心の中で両手を挙げた。
 でも、一矢報いなければ気がすまない。
「ヤりたきゃヤれば? でも、言っておくけど俺、バックバージンだし、こんな場所でやったら絶対血を見るし、楽しいとも思わないけど?」
 あっけらかんと事実をぶつけてやったら。










 葛掛はひどく間抜けな顔をして、それがおかしくて俺は声を立てて笑った。


 



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