「…クリフト。
…あんまり上手く言えないかもしれないんだけどさ、聞いてもらえないかな」
答えは返ってこなかった。けれど構わず背を向けたままのクリフトに言葉を投げた。
「…クリフトは僕に憧れてたって言ってくれたけど、僕もクリフトに憧れてたんだよ」
「…え…?」
振り返ったその瞳は驚きに見開かれている。まさか、と言いかけるのを遮って、僕は続けた。
「クリフトはいつもいつも、自分が傷つこうが何だろうが、いつも自分はボロボロになるまで頑張るだろ。
…痛いくせに、自分だって苦しいくせに、何でそこまでできるんだって、何度もそうやって思った」
自分の傷なんて見向きもせずに、他人を真っ先に癒す。それがクリフトの戦い方。
深い傷を負っても、自分のことは後回し。血の滴る腕を押さえて呪文を唱える。何度も見てきたこの人の姿だ。
「…ありがとうございます。…でも、いいんですよ。気を遣っていただかなくても…」
「優しくて、強い人だと思ったんだ。
誰かの為に、躊躇いなく自分を犠牲にできる。…自分の痛みも苦しみも、全部堪えて。
僕はそれがどれだけ勇気のいることか知ってる。…そうやって生かされたのが、自分だったから」
クリフトの表情が変わった。何を言っていいかわからないでいるらしい彼に、僕は続けた。
「クリフト。…クリフトの言う強さって何?
……確かに、腕力だけで言ったら僕のほうが上かもしれない。
…でも僕は、強さって、力のことだけを言うんじゃないと思う」
「…………」
「…今回だってそうだ。…自分があんなことされても、それでも、あんなヤツでも傷つけるのを拒んだんだ。
今だって一番辛いのは自分なのに。泣いてもいいくらいの状況のはずなのに…なのに僕に心配かけないようにって、そうやって笑顔作ってさ…」
自分で発した言葉に、胸が詰まりそうになる。クリフトはその言葉に俯いて、小さく首を横に降った。
「……私は、…本当に何も、できなかったんですよ? …泣く資格なんて、ありません。
…ねぇ、ユーリルさん。こんな大切な日なのに……あなたにも、迷惑しか、かけてなくて…」
いつもなら流れるように話すはずの声が、途切れがちに言葉を紡ぐ。
それでも視線を上げたその顔は、涙を浮かべるでもなく、歪むでもなく、やっぱり柔らかい表情で僕を見ていた。
ただ、それは今にも壊れそうで、あまりにも脆すぎる笑顔。
…何で。 ……何で、そんな。
「……こんなときにまで、何でそうやって人の心配するんだよ。
…そうやって人のことばっか考えて、だからいつも自分ばっか傷ついて……
何が弱いんだよ。…本当に弱い人間に、そんなことできるかよ」
声を喉の奥から絞り出して、それだけをやっと言った。
それから半分無意識に、僕はクリフトを抱き寄せて、その身体を抱きしめた。
もう限界だった。見ていられなかった。
今にも泣き出しそうな目をして、それでも必死に微笑もうとするのが痛々しくて。先に目を背けたのは、僕のほうだった。
「…よく頑張ったよ。辛くても、苦しくても、そうやってずっと我慢してたんだろ?
……だけど、もういいよ。そんなに無理して笑わなくたっていい。…もう、いいんだよ」
抱きしめる腕に力を込めると、身体が細かく震えているのがわかった。
顔を見なくてもわかる。…泣いてる。
それ以上は何も言えなかった。
言ったら、今度こそ自分が泣いてしまうと思ったから。だから何も言わずにいた。
音のない時間が流れる。そうやってしばらく経った後、無音の空間にすすり泣く声が響き始めた。
「……怖…かった…」
声を震わせて、やっと聞こえるくらいの声が呟いた。
背に回された手が、僕の服を掴んだまま震えている。
「…何度も抵抗したんです。……でも、何度も、…何度も、殴られて…
…殴られた痛みも、…中で蠢く……指の、感覚も、…本当は…全部、消えないんです。今も…」
「……うん」
「それに…あんなやり方で……殴られながらなのに…
……神官なのに、……なのに私は、あんな…あんなふうにっ…」
そこから先は、ほとんど消えかけた声で続けた。「あんなふうに感じて」、僕にはそう聞こえた。
「…ユーリル、さん……、ねぇ、…軽蔑…しますよね…?
……何もできなかった、だけじゃないんです。…私…っ…」
「……しないよ。するわけないだろ。
…ありがとうな、クリフト。辛いこといっぱい話してくれて」
しゃくり上げながら、クリフトは小さく首を横に振った。そして、僕の服を掴む手に力が篭った。
「……怖かった。…本当は怖かっ……、ッ…」
震えながら紡ぐ声は、やがて嗚咽に変わった。
初めて見た、クリフトの涙。…僕は今まで一度も、クリフトが泣いたところを見たことがなかった。
今までその顔に載せていたのは、あまりに穏やかな笑顔ばかりで、すごく大人に見えて
だけど今、その笑顔の下に押さえ込もうとしていた恐怖心は、痛みは、一体どれほどのものだったんだろう。
溢れて止まらなくなった涙。震えが止まらない体。
言葉すら続かなくなってしまったクリフトを抱きしめて、僕はその背中を何度も撫でていた。
そして泣きじゃくるクリフトの背を抱きながら、初めてこんなことを思った。
守るんだ、この人を。
二度とこんな思いさせたりなんかしない。…もう二度と。
その日、眠りについたクリフトは、何度もうなされて目を覚ました。
「…目を閉じると、思い出すんです」
そう言って、クリフトは眠ることを頑なに拒んだ。
だけど酷く消耗してるはずの身体を休ませないわけにもいかない。
隣で手を握ってるから言うと、ようやく目を閉じて眠ってくれた。
それでも、眠りに落ちる頃になると、クリフトのうなされる声に目が覚めた。
ミントスで倒れたあの時みたいな、呻くような声と荒い息遣い。
「…っ、……ぅう…」
――まただ。
さっき、やっと眠れたみたいだったのに。…また夢か。
「…い、…嫌だ…、…はっ…」
「…クリフト。クリフト、…大丈夫?」
起こそうと身体を揺すろうとしたとき、クリフトの頬をつうっと涙が伝った。
「……ユーリル、…さん…」
「…え…」
…僕の名前?
驚いていると、クリフトが目を覚まして飛び起きた。
多分暴れまくっているだろう心臓を押さえて、荒く息を継いでいる。
僕は我に返って、クリフトの背を撫でてやった。その背はやっぱり震えていた。
「…大丈夫?…また、夢、見た?」
口元を押さえながら、クリフトは真っ青な顔で頷いた。
「……すみません」
「…今水持ってくる。待ってて」
それだけ言うと、僕は水を汲みに外へ出た。
振り返ると、ベッドの上のクリフトはまだカタカタと小さく震えていた。
空はまだ夜明けを迎える前で、息を吐くとすぐに白く濁った。
水を汲み、中へ戻ろうとした時、僕はふとさっきのクリフトの言葉を思い出した。
確かに僕の名前だった。…よな?
何であそこで僕の名前が出てきたんだろう。訳が分からない。夢の中でも、あのときみたいに僕がクリフトを助けてたんだろうか。
…いや、そしたらあんなふうに飛び起きて震える必要はないだろう。
だったら、あの時のあれは、一体何だ?
「…訳わかんないな…」
零した言葉が、また白く濁って、まだ夜明けの遠い空に消えた。
…きっとこれから夜明けまで、まだ何度もうなされて目を覚ますんだろう。
顔を青くして震えるクリフトの姿を思い出し、僕は足早に部屋へと戻った。
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「In The Deep
Forest」から続きです。今度は勇者視点。
これまでクリフトはずっと「笑顔」を意識して書いてきたんですが、それが初めて崩れるという感じで。
実は「忘れられない痛みと、忘れかけていた温もりと」の一場面と、ちょっと対になっていたりもします。
2007/05/07