その光景を見た瞬間、頭の中を白く染め抜かれたような気がした。
腕を縛られて、地面に倒されて。
僕の方に虚ろな目を向けるクリフトを見た瞬間、何かがプツンと音を立てて弾けた。あんなことは初めてかもしれない。
怒りに任せてあの男に斬りつけてやろうと思ったけれど、それはできなかった。
何故かって?…クリフトがあの男を殺さないようにするために、自分で自分の呪文を封じていたから。
だから僕があいつを斬ったら、クリフトのしたことは全部無駄になってしまうと思った。
…それだけはどうしてもできなかったんだ。
強さの意味
森を抜ける間、僕はクリフトに何も話しかけることができず、クリフトも何も話しかけてくることはなかった。
僕が前を歩いて、クリフトが少し後ろから歩く。距離は縮まることはなく、ずっとそのままで。
「…クリフト」
長く続いた沈黙を破って、先に話しかけたのは僕のほうだった。
振り返ると、裂かれた服の端を手繰り寄せる格好のまま、クリフトが顔を上げた。
「この先に小屋がある。さっき寄ったんだけど、家主が今夜から留守らしくてさ。使っていいって言われてたんだ。
だから今日はそこに泊まって、明日の朝戻ろう」
クリフトはまた少し俯いた。
「…ユーリルさん、…でも…」
「…この小屋が村から一番近い位置にあるんだ。今日はみんなの命日だから…少しでも近くにいたい」
半分は本当のこと。もう半分は嘘だ。
こんな状態で、クリフトをみんなのところには戻せない。
「…だから一晩だけ付き合ってくれないかな、クリフト」
「……わかりました。…そういうことなら」
僕が少し笑ってみせると、クリフトは頷き、いつもと同じように笑顔を返してくれた。
ただひとつ、違和感があったのはそのとき。
前に向き直ろうとしたほんの一瞬、暗闇の中で俯いたその顔が僅かに歪んだような気がした。
…気のせいだったのかもしれないけれど。
小屋に着くとすぐに、僕に促されるようにして、クリフトは手の甲にできた傷に手を翳した。
けれど何度呪文を唱えても、傷が塞がる気配はない。さっき自分自身にかけたマホトーンの効果がまだ切れてないんだろうか。
ダメですね、そう言うとクリフトは僕に向かい微笑む。
「すみません、まだ呪文は使えないみたいです。時間が経てば戻りますので、また後で…」
「ダメだよ、そんなことして化膿したりしたら。……いいよ、僕がやる。…服脱いで」
向かい合って座る形でそう言うと、クリフトは少しためらった後、上半身に身に付けていたものを外した。
僕は息を呑んだ。想像よりもずっと酷かった。
両腕に縛られた跡。背中にも傷。首筋や胸のあたりには鬱血の跡まであった。
頬はまだ腫れている。…殴られた、のか。
「…すみません。結構、手間でしょう。…見た目程、痛みはないんですが」
クリフトは苦く笑った。僕もそれに合わせて笑おうとしたけれど、とてもできなかった。
怒りで震えそうになる身体を抑えるのに精一杯だった。
煮えたぎるような怒りの合間に、胸の奥から何か込み上げてくるのを感じた。鼻や目の奥ががツンと痛む。
「……じっとしてて」
――泣くな。
そう自分に言い聞かせて、傷ができた部分にそっと手を翳す。
僕が泣いてもどうなるものでもない。何より、誰よりもショックを受けてるのはクリフトのはずだ。
奥歯を噛み締め、込み上げてくる感情を堪えながら、僕は傷を塞いでいった。
「ありがとうございます。…さすがですね、回復呪文も完璧じゃないですか」
全ての傷を癒し終わると、クリフトが僕に向かって微笑んだ。
「…や、でも…クリフトには敵わないよ」
「そんなことありませんよ。さすがユーリルさんです」
「…ありがとう」
服の袖を通し終わったクリフトに目を遣ると、普段通り柔らかい表情で僕に視線を返す。
僕の好きな声。大好きな笑顔。いつも無意識に目で追っている、見慣れた表情。いつもと変わらない会話。
だけど、何だろう。消えない違和感が、渦巻いて離れない。
「…ところで、ユーリルさん」
「…何?」
「お疲れでしょう?今お茶でも入れますから、ちょっと待っててくださいね」
「…は…?」
突然立ち上がったクリフトの言葉に、僕は反応することができなかった。
投げかけられた言葉を何度も頭の中で繰り返し、ようやく理解が追いついてくる。
「…ちょっ…何言ってるんだよ。いいよ、そんなの。…もう少し休んでないとダメだって」
慌てて座らせようとしても、クリフトはまるで僕を避けるように背を向けてしまった。
こっちを見ないまま、一人でさっさと戸棚を漁り始める。
…何やってるんだよ。あれからそう時間なんて経ってない。そんな気力が残ってるはずないのに。
「いいんですよ。あなただって、ブランカから故郷まで歩いて行かれたんでしょう?
あの距離、歩くと結構あるんですね。知りませんでした」
…そうだ、おかしい。
あんなことがあった直後なのに、どうして普段と何も変わらない?
見慣れた普段通りの表情。いつもと変わらない仕草、笑った顔。
…そんなのおかしい。こんな風にいつもと変わらないこと自体不自然なんだ。
あの森の中でクリフトを抱きしめたとき、傷を負った身体は異様なまでに震えていた。どんな目に遭わされたのか、それだけでも想像がつくのに。
「…そんなの僕がやるからいいってば。クリフトは座ってて」
「お気遣いありがとうございます。でも、私は別に平気です。大袈裟ですよ」
「大袈裟?…そんなわけないだろ。何されたかわかってるのか…?あんなところで、あんな…ことっ」
「先程も申しましたが、突然のことに驚いただけです。傷も癒して頂きましたし、痛みもありません。もう大丈夫ですよ」
「クリフト!」
無意識に叫んだ。何を言っても聞き入れようとしないクリフトに、思わず掴みかかってこっちを向かせる。
同じ位の高さにある目線が、見上げるでも見下ろすでもなく、ようやく真っ直ぐに僕を見た。そこで初めて、クリフトの顔から微笑みが消えた。
そしてびっくりする程静かな声と表情で、ゆっくりと言葉を並べ始めた。
「…はっきり仰ってくださっていいんですよ」
「…え…?」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
突然投げかけられた言葉に、返す言葉を見つけられない。
「…本当は、情けないと思ってるんじゃないですか…?」
「…な」
「…ここに泊まった理由も、半分本当で半分は嘘。…違いますか」
「!」
気付いてた。全部わかってたんだ。…あの時一瞬歪んで見えた表情は、そのせいか。
「…それは…」
「…いいんです。あなたを責めるわけじゃないんです。…あなたのそういう優しいところ、好きですから」
クリフトの表情が、またふっと緩んだ。けれど一瞬後、俯いたその顔は再び微笑みを消してしまった。
「だけど、…もしそれが同情から来るものなら、止めていただきたいんです」
「…同情…?…違う、そんなんじゃない。
…嘘ついたことは謝る。だけど情けないだなんて、そんなこと」
「――やめてくださいって言ってるじゃないですか!」
パシンと、乾いた音が響く。振り払われた手が痺れるように痛んだ。
同時に響いたクリフトの声は、今まで聞いたこともないような声だった。
まるで悲鳴のような…そうでなければ、泣き出す直前の子供のような、悲痛な声。
「…どうしてそんな嘘を…っ!
はっきり言えばいいじゃないですか、そんな惨めな姿で、仲間の元に戻すのは憚られたんだって。
そうですよね。…自分の仲間の一人が、レイプされそうになっても何もできずにいたなんて、みっともなくて言えるわけがっ…!」
「何言ってるんだよ、…落ち着けってばクリフト、どうしたんだよっ」
「…ッ、…すみません」
肩を掴むと、我に返ったのか、咄嗟に声を潜めた。泣きそうに歪めた顔を慌てて背け、すぐにそれを苦笑いに変える。
「…八つ当たりですよね、こんなの。…すみません、あなたは何も悪くないのに。
……情けないです。本当に」
「…クリフト」
「――私は」
何もかもを遮断するかのように、クリフトは強く目を瞑った。それからまた、ゆっくりと目を開く。
「……私は結局、一人じゃ何もできなかった。
あなたが来てくれなかったら、逃げ出すこともできないまま、きっと…」
そこまで言うと、俯いたまま背を向けた。声が、肩が、ほんの僅かに震えている。
感情を押し殺そうとしているのか、それとも恐怖からなのか。
握り締めた両手に力を込めて、クリフトは静かに続けた。
「……私はずっと、あなたの強さに憧れていました」
「…あこ…がれ…?」
思いもかけなかった言葉に動揺した。
ぼうっとした頭でそれだけ言うと、クリフトが小さく頷いた。
「……だけど同時に、自分の弱さが堪らなく惨めで…嫌で嫌でたまらなかった。
あなたを見るたびに、どうして自分はこんなに弱いんだろうと…いつも思っていました。
…今日だって、こんな有様で。…だから、情けないと思われたって仕方ないです」
「…そんなことない。…何で」
「もういい。…いいんです。…私は、あなたのように強くはなれない。それは、とっくにわかっていたことですから」
そう言うと、また僕の方を向いて微笑んだ。
「…すみませんでした、突然、こんなこと言って。…もう、この話はやめましょう。
あ、そうだ。もうこんな時間ですし、お腹空いているでしょう?私、何か作りますよ。ユーリルさん、座って待っててください」
何事もなかったかのように、またいつものクリフトが僕に笑いかける。
見慣れたはずの表情。それが今は、心に突き刺さるように痛い。
クリフトがそんなふうに僕を見ていたなんて気付かなかった。
自分自身に対して抱いていた、強い劣等感にも。
…全部隠してたのか、あの笑顔の下に。
誰にも気付かれないように、ずっと奥深くにしまいこんで。
そして今も。…そうやって今も、多分一人きりで、全部終わらせようとしてるんだ。
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