断らなかった理由を問われれば、ただなんとなくという外にない。
特にすることもなかったから、断らなかった。理由は、ただそれだけののことだった。
護るべきもの
「お茶でもご一緒しませんか?」
いつものように微笑みを浮かべながらそう持ちかけてきたのは、クリフトのほうだった。
「昼間からこんなにのんびりできるのも久しぶりですし。
三時くらいでどうでしょう?私は一度買い物に出ますけど、それまでには必ずここに戻ってきますから」
そう言い残して彼は一人、街へ出て行った。
クリフトは買い物に出るとは言ったが、そのことでピサロを誘おうとはしなかった。
ピサロは人間に良い感情を抱いていない。どちらかと言えば、彼の人間に対する感情は未だ憎しみに近いものがある。
買い物に誘わなかったのは、彼が人混みの予想される街中には出たがらないであろうことを知っていたからだろう。
何にせよ、約束の時間まではあと一時間。
ピサロは一人剣の手入れをしながら、緩やかに過ぎていく時を過ごしていた。
買い足すものはあれと、これと。
頭の中でいろいろと考えを巡らせながら、クリフトは街の大通りを歩いていた。
それにしても今日は人が多い。何度も肩をぶつからせては、人の中をすり抜けるようにして歩かなければならない。
広い道を通れば、人ごみにはまって動けないことすらある。
約束の時間まであと一時間だ。宿に戻るまでの時間を考えれば、そうのんびりしているわけにもいかない。
表通りを離れて、うまくこの人ごみを回避できるような道はないだろうか。そう考えながら、クリフトは辺りを見回した。
向かいに、細い道が一本あるのが見える。どうやら裏路地に入れるらしい。
抜け道だろうか。ひょっとしたら、宿へ戻る近道になるかもしれない。
だがその場所は、遠目に見てもかなり薄暗い。これだけの人間がいるにも関わらず、誰もそこに足を踏み入れようとしていないのも気に掛かる。
避けて通ったほうがいいかもしれないと、咄嗟にそう思った時だった。
薄暗い道の入り口あたりで、人を見た。目を凝らすと、蹲っているようにも見える。
具合が悪いのかもしれない。そう思ったのと同時に、クリフトは薄暗い路地裏へと足を進めていた。
「…あの、大丈夫ですか?」
声をかけると、蹲っていた男が顔を上げた。様子から察すると腹痛だろうか。
男は表情を歪め、途切れ途切れの声で訴えた。
「急に、具合が…悪くなりまして。…奥に、連れがいるんです。…すみませんが、手を…貸していただけませんか?」
「…わかりました。…立てますか?」
男の手を取り、肩につかまらせると、クリフトは細い道を歩き出した。やはりかなり薄暗い。
人通りもなく、先程の大通りと同じ街の中とは思えない程寂れている。
歩きながら周りの様子を見回していると、男の苦しげな声が聞こえた。
「大丈夫ですか?…あの、歩くのが苦痛でしたら言ってくださいね」
呻きながら頷く男を、クリフトは心配そうに覗き込んでは、ひっそりと静まり返った道を歩いた。
音がない。…本当に、この奥に、この人の連れだという人間がいるのだろうか。
疑問に思った矢先、突然男の手がクリフトの手首を掴んだ。
「…え…?」
「お人よしだね、お兄さん。疑いもせずこんなとこまでのこのこついてきちゃってさ」
先程まで苦しげに呻いていたとは思えない程滑らかに出てきた言葉に、クリフトは違和感と同時に寒気を覚えた。
どういうことかと聞こうとした刹那、背後から口を押さえられる。
反射的に身を捩ろうとした。しかし強い力で抑え込まれたことと、状況が把握できずに混乱してしまったこととで動けない。
咄嗟に悲鳴を上げようとしたはずだが、声も全く出ない。もがけばもがくほど、口元に強い力が加わる。
――苦しい。
口を塞ぐ手を引き剥がそうとすると、どこかから伸びてきた手に両手を戒められてしまった。
「…っ!んんッ…!!」
喉元から声を絞り出す。生理的な苦しさ、そして本能的な恐怖に涙が溢れた。
一体何が起こっているのか。今、一体何をされているのか。
歪んだ視界の先に、人が見える。自分を押さえつけている人間とは別の人物が、手招きしながら叫んだ。
「おい、早くこっち連れて来い!」
薄暗い路地裏の、更に奥。手招きしている人物のほうへと、強引に歩かされる。
出せうる限りの声を喉の奥で叫びながら抵抗したが、無論無駄な抵抗でしかなく
数人の人間に押さえつけられながら、クリフトは「こっち」と言われた場所へと引きずり込まれた。
連れ込まれたのは、昼間なのに薄暗い、日の光さえあまり届かないような場所だった。
さっきの場所以上に音がない。
口を塞がれたまま、顔を上に向かされた。自分を押さえつけている人間が二人、目の前にいるのが一人。…三人もいる。
「人がいいねぇ、あんた。動けなくなって困ってる奴がいたから助けた。いまどき珍しいぜ。たいしたもんだ」
目の前にいる男に顔を覗きこまれ、クリフトは身体を硬直させた。その様子が可笑しかったのか、男たちが顔を見合せて笑った。
「…でもな、そういうのが今の世の中命とりになるってことも覚えておいたほうがいいと思うぜ」
「おい、さっさとやっちまおうぜ。暗くなったらなったで視界も悪くなっちまうし」
「男だけど、若いしな。それになかなか顔も整ってるじゃねぇか」
血の気が引いていくのを感じ、クリフトは必死に身を捩った。
この場所、この会話、そして自由を奪われた今の状況。
彼らは凌辱を目論んでいるとしか思えない。
今すぐこの場所から逃げなくては。
手は拘束されていてもいい、口だ。口さえ自由になれば。
彼らに幻惑の呪文を投げかけてしまえばいい。成功すれば、幻を見ているうちに逃げ出すことができる。誰も傷つけることなく、事なきを得ることが。
自分を戒める腕から何とか抜け出そうと、クリフトはもがいた。
それを押さえようとした男が何かに気づいた様子で、クリフトの首筋に顔を寄せた。
首筋に息がかかり、おぞましさにびくりと身体が跳ねる。
「……薬草の匂い。身体に染み付く程薬草を扱ってるって言ったら、薬師か神官くらいのもんだ。格好からすると、…お前、神官だな」
クリフトは答えなかった。もちろん、声が出ないのだから答える術もないのだが。
「もしそうなら、声出されると厄介だ。その気になりゃ一撃で人殺すことだってできるって聞くからな」
男はそう言うと、どこからか杖を取り出した。
「…!」
どくんと、心臓が異様な大きさで鳴る。
魔法を心得る者なら誰もが知っている。これは呪文を封じ込め、魔法の発動を防ぐ杖。振られれば終わりだ。
恐怖に歪むクリフトの顔を楽しそうに眺めながら、男は手にした杖をゆっくりと振るった。
身体からするすると力が抜けていく、独特の倦怠感。恐れていたことは現実になってしまった。逃げ出すための手段を奪われたのだ。
「こいつがこんな所で役に立つなんてな。旅の僧から奪っといて正解だったぜ」
口元を覆っていた手が外される。呪文を使えなければ、声を上げようが上げまいが関係ない、そういうことだろうか。
「助けを呼びたけりゃ好きなだけ呼びな。ここからじゃ街中に声は届かねぇ。…誰も気づきやしないからな」
「…あ…」
逃げる術を失い、クリフトは唖然と目の前を見つめた。欲に塗れた、薄汚い人間の目。
ピサロが最も嫌っていると言っていたあの瞳が、いくつも自分に向けられている。
三人がかりだ。街中を歩いていただけだから武器もない。呪文も使えない。
…敵うはずがない。
「…放して…」
「やることやったら放してやるよ」
「…人と、会う約束をしているんです。行かなきゃいけないんです、…だからっ…!」
「そんなことより、自分の身を心配したほうがいいんじゃないか?」
「…ッ!…痛っ…!!」
三人がかりで地面に押さえつけられ、クリフトは声を上げた。必死に抵抗したが、頭を地面に押し付けられ、反対に腰を高く上げさせられる。
この体勢が何を意味しているのかわからない程、彼の持っている知識は乏しくない。
身体の震えと共に、奥歯がカチカチと小さく音を立てたが、押さえつける手の力は緩まない。むしろ強くなって、クリフトの動きを拘束する。
服の裾を腰あたりまで捲られ、ズボンを強引に下ろされる。剥き出しにされた下半身を、掌が好き勝手に撫でた。
「……やめて……」
――怖い。
他人に身体を開くのは初めてではないが、「彼」との行為とはまるで違う。
自分の意思とは無関係に事を進められる恐怖がクリフトを苛んだ。
「い、…嫌だっ…!」
ぐい、と思い切り双丘を開かれ、痛みに思わず目を閉じる。
怖い。…何が起こるかわかっているのに、何もできない。
舌で湿されたであろう指が、突然蕾に挿入される。
「…く…っ…」
無理やり指が押し込まれる。痛みに呻くクリフトに構いもせず、男は強引に指を奥へと突き進めた。
「あぁ、うッ、ううっ、…は、あぁ」
二本、三本と指が増やされ、中を蹂躙されながら開かれていく。
やがてそこがくちくちと音を立て始めると、入口を暴かれた。
「や、やめて、…お願い、だから…っ」
何かがそこに触れた瞬間に一際強く身体を押さえつけられ、クリフトは堅く目を閉じた。
カチリ。小さな音を立てて、時計の長針がまた一つ動いた。
時計を見たのは、もうこれで何度目になるか。
三時までには必ず戻ってくると言い残して出て行った神官は、未だ戻ってこない。
時計の針が三時を指し示してから、間もなく一時間が過ぎる。
約束の件に関しては別段こだわるつもりはない。だがあの生真面目な神官が、自分から持ちかけた約束を果たして破ったりするだろうか。
人に迷惑をかけることを、この上なく嫌うあの男が。
……おかしい。
ピサロは壁に掛けた剣を取り、足早に宿を出た。
妙な胸騒ぎがする。気のせいであればよいが、嫌な予感というものはこういうときに限って的中するものだ。
街はまだ人に溢れていた。行き交う人々が、人間とは違う外見を持った魔王を物珍しそうな目で見ているのがわかる。だが、今はそんなことを気にしている余裕はない。
買出しに行くと、クリフトはそう言い残して出かけた。もし何事もなければ、まだこの近くにいるはずだ。
そこらじゅうに溢れかえる人をかき分け、ピサロは辺りを見回した。けれども視界に入る場所に、彼の姿を認めることはやはりできない。
姿はなくとも、近い場所にいれば気配でわかる。それすらも感じ取れないということは、離れた場所へ行ってしまったということか。
こうなるといよいよ、事態の異常さを認めざるを得ない。
あの神官が、誰に断りもせず単独行動を取るなど、今までに一度もなかったことだ。
…とすると、考えられるのは。
ピサロは店の建ち並ぶ中心部から離れ、静かに目を閉じた。
もし何か厄介事に巻き込まれているとするなら、声を辿っていくしかない。
静寂の中で耳を澄ますと、程無くピサロの耳に、何かを叩くような乾いた音が飛び込んできた。
――おら、口開け!
――咥えろって言ってんだろ?
――言うこと聞いといたほうが身のためだぜ?…大人しく俺らに従えば、命は保証してやるからさ。
……なんだ、この声は。
――なんだ…見かけによらず強情な奴だな。
――まぁ、別にかまわないけどな。それなら下に突っ込むだけだ。
その直後に聞こえたのは、制止を請う悲痛な声。
普段滅多に変わることのない魔王の表情が歪む。
聞き違うはずもない。…信じたくもなかったが、紛れもなく、今のは。
「…クリフト」
呟いた次の瞬間にはもう、ピサロは駆け出していた。
人間の耳で聞き取れる範囲の声ではない。恐らくは、街のかなり外れまで連れ込まれているのだろう。
点として存在していた全ての疑問が、ようやく一本の線になる。
クリフトは約束を守らなかったわけではない。守れなかったのだ。
何故もっと早くにこうしなかったのか。そう思ったのは初めてではない。
…また繰り返すつもりなのか、あの時と同じことを。