漆黒の闇。空には目の痛くなるほどの星。聞こえてくるのは木々のざわめきだけ。
時折吹いてくる風が、そこに佇む男の銀色の髪を揺らす。
その男――ピサロは星空を見上げていた。
何という理由もなく。ただ、一人きりで。
消えない、傷
ふと、背後から足音が聞こえてくる。彼は目を閉じてその音に耳を澄ませた。
「…何の用だ」
振り返ることなく彼は言った。近づいてきた足音が止む。
「すみません、宿からあなたが外に出て行くのが見えたので…」
やはり、と思いながらピサロはその男のほうに少しだけ目をやると、その場に座り込んだ。
「今夜は寒いですし、こんなところにいると風邪をひいてしまいますよ」
「……余計なお世話だ」
自分にこんなお節介をやくのは一人しかいない。 そう、神官クリフトである。
彼は手にしていた明かりを地面に置くと、ピサロの横に腰を下ろした。
そして少し目を細め、微笑む。
「こんな時間にこんな所で、一体何をしていたんですか?」
「お前には関係のないことだ」
普段から微笑みを絶やすことのない神官と、滅多なことではその冷たい表情を崩すことのない、魔族の王。
数多くいるパーティーメンバーの中でもこの二人が最も対極に位置しているということは仲間たち全員の認めるところだろう。
「お前こそこんな所に何をしに来た」
「言ったでしょう。あなたが出て行くのが見えたから後を追ってきたんです」
そう言って、空を見上げる。一面の星空。
「今夜は、星が綺麗ですね。ここは街の明かりが届きにくいせいでしょうか。
…そういえばピサロさんは、今夜のように星の綺麗な夜にはよく外に出て行かれますよね」
…こいつ、知っていたのか。思ったが、敢えて口には出さない。
「早く宿に戻れ。お優しいお仲間達が心配するぞ」
「私がここにいると、お邪魔ですか?」
返事は、ない。
突き放すような態度はいつものこと。否定しないのは、彼なりの「邪魔ではない」という返事。
それくらい彼にはわかっていた。だからもう一度、ピサロのほうを向き微笑んでみせた。
「あっ、ピサロさん!!」
唐突に響く、慌てたような声。突然のその声にピサロが顔を向ける。
「…何だ、急に」
「足…血が出てますよ!きっとこの森に入るときに傷つけたんですね…。
待ってください。今、治します!」
そう言うと慌てて傷口に手を翳そうとする。だが、ピサロはそれを振り払った。
「余計なことをするな。傷の手当てくらい自分でできる」
その声にクリフトは少し戸惑ったような表情を浮かべて、翳そうとした手をひっこめた。
「は、はぁ……。すみません」
ピサロは傷口にてを翳した。柔らかな光が闇を照らす。手を離すと傷は跡形もなく消え去っていた。
そして何事もなかったかのように、また空を見上げる。
「あなたは…本当にロザリーさんのことを……愛していらっしゃったんですね…」
その声に、空に向けられていた視線を落とす。隣にいる神官が少し悲しそうな表情で自分を見つめている。
「……どういう、事だ」
「その魔法は、ロザリーさんの為のものだったのではないですか?」
「何…?」
普段滅多に崩れることのない表情が歪む。神官はそのまま言葉を続けた。
「あなたは魔族の王です。魔物に襲われる心配なんてないはず…いえ、今回はもちろん例外ですが…
それにあなた程の力を持った方なら、彼女を襲う人間達を追い払うのに傷なんて作ることはないでしょう?
だったら、自分の為に回復魔法…それも高位のべホマなんて、覚える必要なんかないじゃないですか」
「……………」
「どんな時でも、どんな事があっても。…自分の手で彼女を守りたかったんじゃないんですか?」
二人の間に沈黙が流れる。吹いてきた風が木々をざわめかす。 沈黙を破ったのは、意外にもピサロの方だった。
「……何故、そう思う」
クリフトは少し驚いたような表情をした。それから少し照れくさそうに笑って言った。
「あ、いえ……私が、そうだからです。
どんな時にもお側にいて、守って差し上げたかったから……だから」
足元に置かれた明かりが彼の顔を照らしている。少しだけ顔が赤いのは、気のせいではないようだ。
「私達、意外と似たもの同士なのかもしれませんね」
「あの乱暴者の姫君か」
そう言った後、微かに笑い声が聞こえてきた。
クリフトはむっとしたような顔でピサロを見た。彼がこんな表情をするのは、愛する姫を悪く言われた時くらいのものだ。
「姫様は、アリーナ様は乱暴者なんかじゃありません!」
いつもと違う、凛とした声。だがピサロは物怖じすることなく言う。
「まぁ、あの暴れぶりでは生傷も絶えぬだろう。現にあれは、お前のことを頼っているようだしな」
「え!?ひ、姫様が私を…!?そ、そんなことは決して…っ!
あ、いえ、あの…でも……」
そう言ったきりクリフトは下を向いて黙り込んでしまった。 この神官の唯一の(?)弱点がアリーナであることを、彼は知っていたのだ。
再び、沈黙。
今度はさっきよりも少し長かった。
そして。またしても沈黙を破ったのはピサロの方だった。
「………そうだ」
「……え?」
下を向いていたクリフトが顔を上げる。何のことかわからず、きょとんとした表情で。
「…ロザリーの…為だった。全て……あいつを護るために」
いつもの彼とは全く違う、まるで何かを押し殺すかのような表情。
自分の感情を表に出すまいと少し、俯いて言葉を紡ぐ。
それはまるで…自分の故郷を、大切な人たちを護ることができなかった
そのときのことを語る勇者――ユーリルの表情に似ている、とクリフトは思った。
「私は確かに魔族の王だ。数え切れぬ程の部下もいる。
私の命とあらば例え命を失おうとも、それに従わぬ者はいない。
だが、奴らが必要としているのは『ピサロ』ではない。魔族の王の、力だけだ」
「……………」
「だが、ロザリーは…あいつだけは私を必要としてくれた。
王として、ではなく、私自身を。
あいつは私が私であることを認めてくれた。私がここにいる意味を与えてくれた」
普段の彼からは想像もできない言葉。想像できないその表情。
「―――だが、私は。
私はロザリーになにもしてやれなかった。
何よりも護るべきものを護ってやることさえできなかった」
そして、クリフトの方を向き、言った。
「……可笑しいか」
予想もしていなかった事態に言葉を失いぽかんとしていたクリフトは、はっとして首を横にぶんぶんと振った。
「…魔族の王たる者がこのザマだ。構わん、笑え。
だが、今のことは……忘れろ」
そう言うとゆっくりと立ち上がり、背を向ける。 少し間があって、クリフトの声が返ってきた。
「そろそろ、宿に戻りましょう。ブライ様、朝はお早いんですよ。
私たちがいないことがばれたりしたら、またお説教されてしまいますから」
そして顔を上げる。ピサロは無言で歩き出した。
「―――…ピサロさん」
ピサロは構わず歩き続けた。そして、クリフトもそれに構わず、言葉を続ける。
「他の皆さんがあなたのことをどう思っているかなんて、私にはわかりません。でも…
……私は、あなたがいてくださってよかったと思っています」
足音が、止む。
「敵だった頃は、あなたが…あなたのことが恐ろしくて仕方なかった。だけど今は…
私は、あなたがいてくださってよかったと思っています。
いつもあなたの強さには驚きっぱなしで。戦闘中なんて助けられてばかりですし…。
それに……今、あなたがこういう風に自分のことを話してくださって、本当に、その…嬉しいんです」
無言で振り返ってみると、真っ直ぐに彼を見つめているクリフト。
嘘ではない。何故だかそう思えた。彼の言葉にはそう思わせる、何かがあった。
まるで、彼女のように。
ピサロが一番護りたかった、あの人のように。
……彼に居場所を与えてくれた、ロザリーのように。
―――こんな気持ちは、とっくになくしたはずだった。
こんな気持ちは、とっくに捨て去ったはずだった。
ロザリーを失った、あの時に。
人間を滅ぼそうと、そう誓ったあの瞬間に…―――
私は魔族の王だ。そんな感情など必要ない。
あいつ以外に心を許そうだなんて思わない。
私は独りなのだ。あいつを失った瞬間から。…それで、いい。
それで……よかった…―――
足元にあるランプを持ち上げよう身をかがめた瞬間、腕を引っ張られる。
次の瞬間、彼の身体はピサロの腕の中にあった。
「…ピサロさん?」
驚きはあったが、嫌悪感はなかった。彼は神官だ。
悩み苦しんでいる人々の話を聴き、そのうちに抱きつかれたことなど数え切れないほどある。
けれど、言葉が出なかった。何を言えばいいのかわからなかった。
「………………」
彼の背に手を回そうとした。いつも彼が人々にそうするように。
その瞬間、肩を掴まれ、身体を引き離された。
そして。
風が、吹く。冷たい風だった。
今までよりも大きな音を立てて、あたり一面の木が、揺れた。
「…………っ!!」
その音に、はっと我に返る。目の前にある端正な顔。
自分よりも幾分か背の高い彼の顔が、覆い被さるようにして。
自分の唇に、彼のそれが、重なっていた。
「……んッ…、んん………!!」
必死に抵抗しようとする。が、頭と背に腕を回され、それはかなわなかった。
強引に押し入ってくる舌から逃れようとすると、その腕に力がこもった。
逃げられない。
初めて恐怖を感じた。理屈じゃない、本能で。
「……や…っ!ピサロ……さ…、はなし……んんっ!」
だが、ピサロはやめなかった。深く、深くその唇を貪る。
そして、力の入らなくなった彼の身体を地面に押し付ける。
背中に土の感触。それはひんやりと冷たく、彼の恐怖心を一層煽った。
唇が離れて、目の前にあるのは彼の紅い瞳。
怖い。ただそれだけしか考えられなかった。
覆い被さってくるその身体を押し戻そうと必死でもがく。
「……っ、どうして……!何で、あなたが…こんな………うわっ!」
いきなり両腕を掴まれ、頭の上で拘束される。
空いている方の手が緑色の法衣のボタンを外していく。
はだけさせた胸元に手を滑らせ、鎖骨に舌を這わせ、その線をなぞっていった。
「や……嫌だ………はぁっ…、やめ…………」
蒼い瞳には恐怖の色がはっきり現れ、その身体は小刻みに震えている。
「……ピサロさん……やめて、下さい………
…ど、どうして……あっ………こん、な…………ん…っ………」
再び唇を塞がれる。今度はもう、入り込んでくる舌を拒むことさえできなかった。
湿った音をたて、舌を絡め取られる。
頭がぼうっと痺れてきて、何も考えられなくなる。
それでも、言うことを聞かない身体を叱咤して、両腕を拘束している手を振りほどこうと懸命にその腕に力をこめた。
だけど。
その手を振りほどくことはしなかった。
何かが頬を濡らすのを感じて、恐る恐る目を開けた。
さっきと同じ、銀色の髪と紅い瞳が目の中に飛び込んでくる。
ただ、さっきと違うことが、ひとつ。
―――涙。
誇り高い魔王の、涙。
たった一粒だったけれど、けれどその一滴から、彼の心の痛みが伝わってくるようで。
彼の心の中の叫びが、聞こえてくるような気がして。
だから。その手を振りほどかなかった。振りほどけなかった。
……振りほどくことなんて、できなかった。
両腕の力を抜く。
それに気がついたのか、ピサロはその腕の拘束を解いた。
そして今度は彼の腰のベルトに手をかけそれを外していき、少しずつ衣服を脱がせていく。
「……なぜ、抵抗しない」
見下ろしてくる、その顔。銀の髪に、紅い瞳。
だが、さっきまでの恐怖心は嘘のように消え去っていた。
「………………」
「自分が何をされているか、わかっているのか」
「……はい」
「お前の目の前にいるのが何者か、わからぬわけではあるまい。
このまま…このまま何もせずにいれば、私に」
「かまいません。……それであなたの苦しみが、少しでも消えるなら」
かっとその紅い瞳が見開かれる。
「同情などいらん!!」
「同情なんかじゃありません!!」
自分でも信じられないほどに大声を張り上げる。そしてはぁっと息をつき、続けた。
「あなたのことを、あなたがやったことを全て、許すわけではありません。
ユーリルさんの……彼が自分の故郷のことを、大切な人の話をする時の顔を……見たことがありますか…?
傷は、消えることなんて……ないんです。今のあなたなら、わかるはずです」
「……………」
「でも私は。あなたのことを尊敬しています。
たったひとりのために全てを犠牲にできる、その強さに憧れているんです。
だからあなたには…そんな顔、してほしくない………」
偽善者だと思われるかもしれない。とんでもないお人好しだと、そう思われるかもしれない。
だけど今は素直にそう思うから。
それであなたの苦しみが少しでも消えるなら、あなたの心の傷が少しでも癒えるなら。
あなたの心が少しでも救われるのなら、それなら私は―――
静寂があたりを支配する。
つい先程まであった恐怖の色の消えた蒼い瞳が、自分を真っ直ぐに見上げている。
――私は独りだ。誰も必要ない。
誰の助けも、いらない。
誰も信じる必要などない。そう、そんな必要など…ない。
そう信じて、そう自分に言い聞かせてきたではないか。
だが、今は……今だけは。
ほんの少しでいい。
今だけで。ほんの―――一瞬だけで、いい。
「――……ん、っ…」
再び視界に銀糸が舞い、上から覆いかぶさるように唇が重ねられる。
何度も角度を変えながら深く口付けられ、舌に舌が絡められる。
「…ん、…ふっ……ん……」
温もりを確かめるかのように絡む舌の動きに応えようと、クリフトもまた自ら口を開き、彼のそれを受け止めた。
慣れないせいか息苦しささえ感じる口付け。それでも彼を受け止めたかった。
同情なんかじゃない。ただ、辛かった。
今にも溢れてしまいそうな感情を、どんな時だって自分ひとりで抱えこんで、ひとりで耐えて。
自分で自分を責める彼を見るのが――どうしようもなく、辛かった。
だから、こうすることで…誰かのぬくもりを感じることであなたが楽になれるなら。
それなら身体を重ねることを、躊躇する理由なんて何もない。
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