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 黒い影がぐんぐんと遠ざかってゆく。草を枝を踏みしめかきわけながら追いかけているけど、距離は思ったほど縮まらない。こっちは熊野……しかもこんな、本宮の裏山なんて遊び場だし、そもそも相手よりも脚が早い自信だってあったのに。近づいてはいるけど、届かない。ひらりと揺れる黒衣は嘲るように抜けてゆく。
 あんなん着てよく走る、とヒノエは思う。そもそもこんなに体力ある風に見えなかった。荒法師ってそういうものなのか。そもそも、あの叔父が荒法師だったとか言われてもいまいち想像できなかったけど、ここへきて少し昔の彼が垣間見えてきた気がした。
 それもいくらか魅惑的だったけど、今は論外。
 空は快晴、初夏の日差しが森を焦がす。滲む汗が鬱陶しくなってきた。
「待てよ!」
 なりふり構わず、枝で顔や腕に細かい傷が付いても気にせずヒノエは加速する。捕まえてごらんなさいふふふなんて声が聞こえてくるような気がした。でもこっちは遊びじゃない。捕まえたら一発殴ってやる。遊びでこんなことしてた訳じゃなかったら蹴り飛ばしてやる。一歩、二歩、着実に近づいていって、ちょうど下り坂に差し掛かったところで、
 ヒノエは地面を思いっきり蹴飛ばした。滞空時間は長い。そのまま手を伸ばしてぐい、と。
「っし!」
「っ」
 衣を掴みそのまま飛びかかる。ずる、と弁慶は足を滑らせ、ヒノエも一旦は膝をつく。そのまま二人転がり落ちそうにもなったけど、すかさず弁慶にのしかかり、止めた。

 見渡せば完全に藪の中である。なんでこの年になって叔父とこんなことしなきゃいけないんだ、と、そんな軽口も出てこないほどうんざりしながら、上に乗ったままヒノエは睨む。
「……どういうつもり」
「なんのことですか?」
「分かってるんだよ、あんたが、オレが来たのを見て、あれを盗んで逃げたのは」
「『あれ』?」
「まだとぼけるわけ? 何、荒法師、薬師、軍師ときてついには盗人にまで成り下がったわけ?」
 弁慶の行動は、遊びと言うには大分性質が悪いものだった。いくらこの一癖も二癖もある叔父とはいえ……むしろ彼だからこそ洒落にならない事態。
「盗人、とは酷い言いようだな。僕は少しの間だけ、これを君の手元から離してみたかっただけですよ。そのまま持ち去ろうとなんて少しも思ってませんから」
「あんたが言っても全然説得力ないんだけど」
 弁慶が何故か盗んだのは、熊野別当の使う印判なのだから。略式のものだったとはいえ、重要なものであるには変わりない。
 なのにヒノエの下、悪びれもせずに弁慶は言う。
「そもそも、そんなに大事なものを扱っていたにしては、随分と隙があったように見えましたが?」
 それには言葉を詰まらせた。丁度宮司に呼ばれたからって机に置いたまま席を外したのは確か。一理ある。
 けどだからといって、盗まれていい理由になんかならない。改めてヒノエは問いただす。
「とにかく返せよ」
「返そうにも持っていないものは返せない。なんなら調べてみますか?」
「……」
 全く悪びれずに言う叔父。これでヒノエの気のせいだったら貸しになるのだろう。でも見たものは見た。目には自信も確信もあったヒノエは、馬乗りになったままの恰好で弁慶の体を探ろうと、ばさりと黒い衣を剥ぐ。
「こんなところで人の体をまさぐるなんて不躾な子ですね」
「誘ったのはあんただろ」
 でも、いざ調べようと懐に手を入れた途端、過去がよぎった。

 以前もこんなことがあった。何かを盗まれたとか、こんな懐に手を突っ込む自体にはなってなかったけど、こんな風に、同じ姿勢で『どうして』と詰め寄っていた。そんなヒノエに弁慶は顔色も変えずに、ヒノエにはたったの一言を与えただけで。そして。

「ふふっ、あれだけ言っておいて、緊張でもしてるんですか?」
「!」
 回想は、叔父の言葉でかきけされる。我に返ると、性悪に笑む眼下の叔父と目があった。過去の記憶も相俟って、一瞬、顔が熱くなる。でもすぐに切り返す。
「あんたこそ、覚悟はできてるんだろうね?」
 そして今度こそごそごそと遠慮もなく探る。弁慶の言葉じゃないけど、こんなことをするのは久方ぶりで……それこそ子供の頃に無邪気に抱きついていた時以来だから些か緊張もする。走り続けていた熱はまだ抜けず、まとわりつく暑さにうんざりしているというのに、指先に感じる暖かさは心地よく、らしくなく怯む。
 けど途端、指がすぐに小さく硬いものにぶつかった。知る感触。取り出すと、やはりそれは熊野別当の印だった。
「あったけど?」
「すみません、君と少し、昔のように熊野の山で戯れたくて持ち出し」
「いい加減うっせえよ」
 速攻嘘吐いた弁慶の脇腹を殴りつつ、立ち上がり離れた。
 それでも弁慶はまだ寝転んだままにヒノエを見上げにっこりと微笑んでいた。幼い頃は見惚れた程に綺麗なそれがヒノエは好きじゃなかった。
「……で」
 腹を踏みつぶしてやりたい衝動を抑え、ヒノエは冷静を装い叔父を見下ろした。
「何がしたかったんだよ」
「……以外だな、君はそこまで分かっているのかと思ってました」
 相も変わらずに悠然と、余裕さえにじませ弁慶は言う。窃盗未遂だ、やっぱり蹴り飛ばしてもいいんじゃないか。でも結局ヒノエは思いとどまった。毎度自分が折れてばかりいる気がして癪だけど、話が進まないよりはいくらかマシだ。
 そして思考する。源氏の軍師である彼が、熊野別当の約束を偽造できる印を盗んだ理由。普通に考えれば、勝手に水軍と約束を取り付けた、と、書を偽造する事、だと思うけど、
「確かに九郎の為じゃない、でもオレは条件さえ整えば神子姫のために水軍を」
動かしてやると、この前熊野別当として八葉の前で宣言して、現に今もその為の念書を書いていたところだった。その最中のこの行動。
 ……もしかして、使いたかったんじゃなくて、遮った? つまり。
「……あんた、源氏の軍師、やめたの」
「まさか。僕は今も変わらず源氏に属する軍師ですよ」
 推測はあっさり否定された。けれど眼下の叔父の目がすっと細くなって、ぱたぱたと外套についた葉や枝やらを払いながら起きあがり、続けた。
「君こそ何がしたいんですか?」
「何って」
「九郎が熊野の協力を取り付けるためにここに来る、と知った時から君は困っていた筈だった。戦が嫌だったんですよね、ずっと浮かない顔していたじゃないですか。去年もそう、負けて帰ってきた僕に随分と色々な事を言ってくれましたよね」
「それは」
 煩い蝉の声などお構いなしに届く言葉に、再び過去が、一年前が過る。

 厳島へ攻め込んだ水軍。けれど大敗して帰ってきた。父も皆も怪我を負い、命を落とした者もいた。なのに軍師として同行していた叔父は言い訳も何も言わず、ただ『悪い事をしました』と、ちっともそんなことを思っていないような冷徹な表情で一言だけ残してヒノエを、熊野を置き去りに去っていった。

 あの戦のことは今でも納得などできていない。でもあの時……弁慶が、彼と父親が組んで、負けるなんて思ってなかった、そんな、憧れのようなものを砕かれたのが悔しくて、
「君の言うことはもっともだったので、それについて今更何かを言うつもりも、弁解するつもりもありませんが」
と同時に拒絶された、その事で、気付いてしまった事もある。
 たとえば、思いのほか自分は叔父に憧れていたのだとか、拒絶が身にしみたとか、
それほどにこの叔父の事が好きだったのだとか。それらを含めて、感傷にいちいちひっかかる出来事だった。
「その君がどうして、今更、戦に加わろうというんでしょうか」
 けれどそれはそれ、で、今は今、だ。
「……それは」
 弁慶はゆったりと微笑んでいる。いつものような柔らかな口調。けれど深く被った外套に覆われそうな目は息苦しいほどに鋭利だった。
 じり、と足元の土を踏みにじる音。知らずに後ずさろうとしていたようだ。
 そして気付く。ああ、これは今までの叔父と甥の会話ではないのか。あたりの音も遠くなってゆくようだった。
 多分はじめて、熊野別当として、源氏の軍師である彼と対峙している。その状況に、さすがに唾を飲む。気圧される。でも……同時にぞくりとする。垣間見る外での顔。本気を向けられている。
 だったらここで引き下がるなんて当然できない。
「他人事って言ってられないな、と思ったからだよ」
 全力で応じてみせようと、勢いつけるように強気に笑ってみせながらヒノエは続けた。
「前にも言ったけど、白龍の神子姫様の力に惚れたから賭けてもいいなって思ったのも、怪異を解決してくれたことにちょっとした恩を感じてるってのも本当。でも、なによりこの目で見たからね。熊野川に怨霊一人住みついただけであの混乱。源氏と平家の武士同士の勝手な戦には関わりなくないって思ってたけど、怨霊がいる限り、この状況が続くんだろ? だったら大元を止めないと」
「でしたら、八葉として戦えばいいだけでしょう。それだけで穢れは収まってゆく」
「もう一回聞くけど、あんた本当に源氏の軍師なの? 平家を倒す気があるの? オレがあんたの立場だったら、なんとしても熊野の協力を取り付けるよ、そして一気に片をつける。今は……今は確かに、紀伊水道が抑えられてるからね、うちの水軍の力は発揮できないけど、でもだからって、このままちんたら陸上で戦ってたら無駄に戦が長引いていいことなんてないじゃん? こういうのは速さが物を言うんだよ。長引けば誰もが疲弊するだけ。戦なんて犠牲最小限で短期決戦であるべきなんだよ。だから、オレは勝手に加わって、悪いけど勝手に手柄を横取りさせてもらうと決めたんだよ」
 そう、誰のためでもない、熊野のために戦うのだと、胸を張ってヒノエは言い切る。
 弁慶は目を丸くして聞いていた。
「何、なんかそんなに感動するような事言った?」
「僕のために、とは言ってくれないんですね」
「当たり前だろ」
 そりゃ、言えれば良かった。どれだけ言いたかったか、弁慶は分かって言っているのだろうか。でもその為に熊野を巻き込めない。ヒノエはまだ、別当として未熟すぎた。それを自覚していたから尚の事悔しい。
「何、そんなにオレに好意を向けて欲しかったの叔父上は」
 だというのに、瞬きしながら期待させる間も無く彼は続ける。
「ええ、もちろんですよ。そうだったら僕は何をしてでも熊野の水軍を舞台に上げることを阻止したでしょうからね……正直、驚きました。まさか君がそういう理由で決めたなんて、ね」
「そういう?」
「いえ、似たような事を考えるものだな、と」
「……どこが?」
 そしてさっきとは打って変わって自然な笑みではぐらかす。察しろ、とでも言うのか。そんなこと言われてもヒノエに分かるはず無い。そもそも、彼がどうしてこんなにも熊野を加わらせないことにこだわるのかが分からない。
 去年の事を悔いている? まさか。
 けれどその問いを発することはできなかった。ゆらりと、まるで陽炎のようななめらかさで叔父が近づいてきたからだ。目を奪われた。柔らかな髪の色と、まっすぐこちらを見る瞳に吸い込まれた。いつも綺麗に笑顔を作ってばかりの彼だけど、目は存外に正直だとヒノエは思う。少なくともヒノエの前ではそうだった。でも今は感情が読めない。
「負けず嫌いとしては、受けてたたずにはいられない、かな」
「べんけ…」
 そうしているうちにいきなり距離が縮まる。いつもの彼の癖かと思っていたけれど唇が重なっていた。何が起きたのか分からなくて、無様にも戸惑っているうちにぬるりと舌が入りこんで、ヒノエは再び惑うた。何を考えているのか分からないままに意識が絡め取られてゆく。口づけは浅い。かすかにしか触れあってないのに熱い。その熱で平衡が失われるようだった。けれど息を吸おうと喘ぐついでに目を薄く開いたところで弁慶と目が合い我に返り、すばやく離れた。
 何してるんだ。口元をぬぐいながら睨み返す。弁慶はただ静かにこちらを見ていた。外套だけが風に揺れる。それが唐突な出来事から少しずつ、ヒノエに正常をもたらしてくれる。
 だからひとつ気がついた。
「……ああ、もしかして、あんたはただオレが好きで心配で仕方なかっただけなの?」
 だから水軍を、ヒノエを熊野に押さえつけておこうとした。と、考えればつじつまがきっちりとあった。でも、さすがにそんなに分かりやすく話が進むか?
 そもそも、仮にそうだとしたらそれこそ私情だ。ヒノエの事を責められるか。……ヒノエだって素直に喜べるはしないのに。
 冷静な軍師の叔父が好きだ。去年の大敗でもヒノエに何一つ見せなかったあの姿が……許せないし、悔しかったけど好きだった。だから目先の感情でこんな、印を盗むような真似なんてしてほしくなんかない。
 なのに弁慶は言った。
「ええ、君が言った通り、僕は君が好きですよ、ヒノエ」
 まるで無感情な言葉だった。けれど正面からまっすぐに『好き』と言われたのははじめてで、あっさりと心が跳ねる、それでも。
「あんたの言うことなんていちいち真に受けてられるかっての」
「酷い言いようですね。それが叔父に対する言葉ですか」
「叔父としての今までの実績がそうさせてるんだけど」
「うーん、どうしてこんなに疑り深い子になってしまったんでしょうね」
 対峙するヒノエに、弁慶は答えの分かり切った問いかけをして。
「だったらもっと、徹底的にやってくれればいいのに」
「何を」
「さあ」
 またも意味深な事を言ってはぐらかした。意識するより先にヒノエは睨む。逃がすか、と思った。けれどどういう気まぐれか、思いのほかあっさりと軍師は語り出して。
「たとえば、兵というのはなんだかんだ、温存しておくべきだ、とかいうこととか、でしょうか」
 ヒノエは何も返せない。
 温存。
 その言葉に血の気が引く思いをした。もしかして、この先にまだ戦が続くと彼は言いたいのだろうか。その時のために、今この戦に出てはいけなくて、更にその為に去年水軍を率いて厳島に攻め込んだ?
 まさか、と思いつつも問い詰めようと仰ぎ見る、けど同時に、ぽん、とヒノエの頭に手が載せられる。
「とはいえ、今更君は君の選んだ選択を変えるつもりはないんでしょう?」
「……ああ」
 たとえ彼がいうように戦が続くのだろうと、今の状況を見過ごすなど、もうヒノエにはできはしなかった。
「だったら、この話は終わりです。安心してください。君が活躍するより先に、僕がきっちりと戦を終わらせてみせますから。君を守る為にね」
 それでも軍師は雄弁に語る。
「負け惜しみ?」
「さあ、どうでしょうね。結果は君自身が見ればいい」
「へえ」
 外套を襟元でつまみながら彼はにこやかに、憎々しいほどに楽しそうに笑っていた。
 ……もしかしたらこれすらも全て彼の手の内だったのかもしれない、ヒノエはとんでもない所に向かっているのかもしれない、と、この姿を見れば少し恐ろしくなる、けど、決断したのは自分だし……この叔父がろくでもないことばかり考えるなんて、そんなの最初から承知だ。何年の付き合いだと思ってるんだ?
 そしてきっと、向こうもこちらの性格などお見通し。
 だったら、受けて立ってやるだけだ。
「こっちこそ、あんたの目の間で、きっちりと、片をつけてやるよ」
「それはそれは、楽しみですね」
 そんな彼の姿は綺麗で、やはりああ好きだな、と思い知らされる。八葉だと、源氏の軍師である叔父の連れに言われた時は皮肉さを呪った。けれど今は八葉でよかった、と思った。

 のも、束の間だった。
「ところで」
 そう言いながら、突然弁慶が手のひらを、ヒノエの前にひらりと出したのだ。
「先程の印は返してください」
「先程の、って」
 意味が分からず問い返す。するとしれっと弁慶は微笑み、
「君が僕から無理やり奪っていったあれですよ。あれ、僕のですから」
「はあ?」
とんでもない事を言いだした。
「何馬鹿な事を」
 言いつつも、改めてまじまじと見れば……確かに、ヒノエのものではなかった。形は同じだ、けれど掘られた文字が違っていた。
「……なんで」
「君の父親に頼んで僕も印をこしらえてもらったら、こうなったんですよ。僕も先程驚いたところです。どうしてこうなったのかは向こうに聞いてください」
「……」
 その話の真偽は定かではなかった。でもあの親父ならあり得る。し、なによりヒノエのものではないのた確かなので、ヒノエは無言で弁慶に返すしかなかった。最低だ最悪だ。あの親父戻ったらただじゃすまねえ、と、怒りを向けるも、
だとしたら。
「じゃあ、オレの印は」
「あれは机の下に忍ばせておきましたからよ。いくら僕でもさすがにあんな大層なものを盗むなんてしませんよ。もっとも、君にはそういう人に思われていたようですけれどね」
「…………」
 一言も言い返せない。憎々しくも、にっこりと微笑んでから去ってゆく叔父を、ヒノエは歯ぎしりしながら見送るしかなかった。
 わざわざ手の込んだ事をして、ヒノエを騙してからかって。
 性格の悪い叔父が好きだ、と、確かに思う。でも。
「これはあんまりだろ……」
 呟きは風に乗る。遠ざかる叔父がくすりと笑ったような気がしたのは気のせいであればと思った。
 でも……そうまでして、ヒノエを連れ出して彼は。
『だったら、この話は終わりです。安心してください。君が活躍するより先に、僕がきっちり戦を終わらせてみせますから。君を守る為にね』
 先程言われた言葉が蘇る。ただの負け惜しみだと捉えていたけど……、
もしかしたら、あながちそういう訳でもないって事?
 空を仰ぐ。ぐるりと木々に覆われ青はいくらも見えないのに、眩しくて手をかざす。分からなすぎて溜息が零れそうだった。でもなんとなくそれを飲み込んで、遠ざかる黒い後姿を追いかけて走り出した。


弁慶ルートとヒノエルート、両方フラグ立ってる状態みたいなイメージで
(17/FEB/2012)



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