六月二十三日
弁慶がいきなり髪をばっさりと切った。驚いた。でも「行きたい場所があるんです、連れてってくれませんか」と唐突に言われていっそう驚いた。あいつが世話以外のことで要望を口にしたのはおそらくはじめてだった。「平泉へ」言われていやな予感しかしなかった。でもオレは頷いた。
六月二十四日
船を用意して出港する。平泉。これが最後の心残りってやつなんじゃないだろうか、と思う部分もある。でも信じてる。あの日……壇ノ浦で景時に裏切られ追われる身となっても、大丈夫です、僕たちは負けないと言ったあの力強い言葉を覚えてる。あれは九郎に向けて言ったもので、九郎亡き今は無効なのかもしれないとしても、でもきっとあいつは生き延びる。あの叔父はオレが知る誰よりも強く、そして、優しい。そう、ただ優しいだけなんだ。
六月二十五日
船旅は不気味なほどに順調だ。これは予定より早く平泉に着くだろう。
六月三十日
北上川の河口で小さい船を借りて今度はそれで進む。北上をし、平泉が近づいても源氏の軍はほとんど見当たらなかった。たまに農民がちらりほらりと田畑を耕してるのを見るくらいで住人すら少ない。「この辺に住む人は元々少ないですから」とのどかに言う弁慶の言葉を聞きながら更に上流へ進む。やがて景色は渓谷に移る。流れは険しく船の進みも遅くなる。雨も降りそうにないから途中で一泊。
七月一日
昨日に引き続き、船で山間を泳ぐ。数刻したところでいきなり景色が開いた。
都の跡が広がっていた。平泉。来たのははじめはじめではなかった、冬の終わりに弁慶を迎えに来た時はここまでは来なかったが、もっと昔に親父と一緒にも来ている。でもその時とは道が違うし、なにより、視界が「広いな」その横顔に感傷はなく「ああ、はじめて来た時よりも広く見える。広くて……途方に暮れる」焼け落ちた街。
源氏の兵はほとんどいなかった。いても、気にとめられもしなかった。
おそらく都の中心だったあたりまできた頃「少し歩きたい」と弁慶が言ったから、船は水軍衆に任せて付き合う。薙刀を杖代わりに小高い丘に登って、弁慶はしばらく街を見下ろしていた。オレも倣った。改めて京や熊野とは似ても似つかぬ地形だ、と思う。四方を山に切り取られた中に平野が広がる。熊野は梅雨に入って曇り空だった、でも北の地にはまだ雲は届かず、空は高く晴れ、色とりどりの花が咲く。一面だ。「綺麗だな」戦で燃えた筈なのに、冬だったからだろうか、何もなかったかのように、風に吹かれ波を打つ。「なにもないですね。なにも。この辺りは家も多かったはずなのに、全て燃えてしまったんでしょうか」黄金の都。それが滅びても尚、この景色の美しさは悠久に続いてゆきそうに思えた。ふいに、弁慶がくるりと景色に背を向け、丘の上の焼け焦げた……家、だったのだろうか、残骸の前に佇んだ。おもむろに、ここまで杖代わりにしていた薙刀を地面に突き立てる。強く、全身で、柄を掴み何度も体重をかけて突き刺したかと思えば、跪きその先を見つめていた。風がさらさらと短くなった弁慶の髪を撫でる。木々がざわめく。鳥の声もする。それでも幽玄に似た静寂がここにあるようにオレには見えた。「君に内緒で熊野の烏に調べてもらいました。九郎は最期まで戦い抜いていたそうです。囲まれても、追いつめられても、剣先を留めること無く、それは、立派なものだったと」しばらくの後に立ちあがりながら弁慶が呟いた。「……今からもう10年も前になるんですね、初めてここへ来た時、なんて広い街だろう、と思いました。山の中に平野が悠然と広がり、それを彩る川も広く穏やかで、それらを壮麗な伽羅御所が統べる。まるで絵物語に出てくる場所のように思えた。あんなに窮屈な京の街に今までいたのが無駄だったとも思えた。ここだったら変われる。願いさえすればなんだってできるし、どこへでも行けるような気がした。僕と九郎なら、なんでも。それが、あんな形で潰えるとは思ってなかったな」オレに背を向け話す言葉は風に乗って飛んで行ってしまう。まるで本人も飛んで行ってしまうように見えた。「だったらまた何だって」つい踏み込んだ。「いえ」でも遮られた。「終わってしまったんですよ、ヒノエ。全ては九郎と二人で見た夢だ」まるできっぱりと「九郎がいなければ意味がない」言う背に今までの不安が一気に募った。それを一気にぶちまけるように叫んだ。「でもあんたは生きてるんだ!」そしたら弁慶は振り返った。「そうです。僕は生きながらえた」廃墟からオレに視線を移して。「だから生きる」それはすっかりオレの知る弁慶の顔だった。微笑みは淀んでいるのに透明で、双眸はしっかり瞬いた。そして一拍の後、膝を払い衣の裾を整え言った。「ということでヒノエ、いや、熊野別当藤原堪増殿」そして頭をさげた。「これまでありがとうございました」「出ていくの?」「ええ」笑顔で頷く彼に矢継ぎ早に聞いた。「出てって……どうするんだよ」「薬師でもやりますよ」「……」「って言っても、君は誤魔化されてくれないですね。ふふ、困ったな」言葉とは裏腹に晴れやかな顔をしていた。「正直、あてはなにもありません。ですから旅でもしようかなと」「旅」言葉に言葉がざわめいて理性より先に再び叫んでいた。「待てよ」「ただ、熊野にだけはいられない」と釘をさされた。負けじと笑った。「どっちかといえば、今更出ていかれて源氏に見つかる方が迷惑なんだけど?」「僕一人、市井にまぎれてしまえばそうそう見つかりませんよ。今だってこの調子ですしね。それに、熊野にはいられないんです」「だから」でも次に紡がれた言葉にオレは言い返せなかった。「君は、僕が好きでしょう?」それはつまり、「これ以上、君に辛い思いをさせたくないと思う程度には、僕も恩を感じているんですよ、ヒノエ」オレを特別にすることはない、という宣告。ずっと前からなんどもほのめかされてきた。でも口に出して告げられたのははじめてだった。「短気なオレでも少しは待つよ?」弁慶も、そしてオレも。そんなオレに弁慶は寂しげに笑んだ。「もし、君が今、僕とここに来ていなかったら……いや、熊野に僕が言ってしまったことが、そもそもいけなかったんでしょうね」オレが欲しがってた顔で言う。弁慶の背後のまるで標のような薙刀が視界にちらつく。「君には少し、甘えすぎてしまったかな」つまり、弁慶の傷をオレは知りすぎた、って事だろ? いつかの未来に、仮にオレたちが互いを想いあう日が来るとしても、今日この日のことを思い出してオレが不安になる、ってことだろ? そんなのほんとに、今更だ。「オレはそんなに器の小さい男じゃねえよ」でもそう言っても今の弁慶には通じない、多分。だったら。「忘れてやるよ、あんたへの想いなんて全部、捨ててやるよ。オレを誰だと思ってんの?本気の相手しか匿えないとか、あんたの顔見てると傷つくとか、」「そういう優しい子でしょう、君は」「買被りすぎだね。オレはオレが愛でるものしか相手にしない。それに、オレを傷つけたくないっていうなら」一気に言ってやる。「出てかれる方がよほど嫌だ。いないところであんたがのたれ死んでないか不安になるほうがよっぽどオレは傷つくよ」半年前、弁慶たちが平泉に向かった時がそうであったように。あの時と違って、今は手を差し出すだけで簡単に弁慶を連れていける。「だから今度は熊野に来てもらう。反論は許さない」弁慶は一度目を伏せて惑った。「僕はもう、きっと君の叔父にすら…………ああ、でも、それこそ今更、か」でも結局、微笑んで言った。「ではいい機会だからもう少し甘えようかな」多分この時の彼を、風景を、オレは一生忘れない。
七月二十日
弁慶は熊野に帰ってきて暫くおとなしく療養していた。すっかりただの親父の茶飲み友達だ。でもいつのまにか、部屋の前の庭に薬草の種をまいていたらしく、それを薬師のじーさんに見つかって彼の仕事を手伝わされるようになっていた。薬師だけはやりたくなかったのに、と後日弁慶はぼやいていた。でもなんだかんだ、やっぱりあいつは何かしている方が似合うと思う。
九月三日
にしても、今更思う。「忘れてやるよ」は言いすぎた。あの時は、ああでもしないと弁慶を引き留められなかったから……恋情じゃなくて血縁じゃなきゃだめだと思ったから、言った。でもそのおかげで今じゃすっかりおあずけ状態だ、これは辛い。正直、忘れる気なんてさらさらない。それを、あいつだって分かってて頷いてる筈だ。つまりただの不可侵協定。昔、八葉だったころがそうだったような関係。だけどあの頃と違うのは、あいつが「家族」としてのオレには随分と素を晒してくれるようになった、ってことだ。だからますます辛い。あの時ああ言わなきゃ今のこの関係もないわけだけど、この展開の遅さはオレにはじれったい。もっとオレだけを見ろよ。親父にも同じ風に接してるんじゃねえよバーカ。あんたなら恋の酸いも甘いも知ってんだろ? こうなったら一日も早くあいつをオレの虜にしてあいつから好きだって言わせてやる。
セコいんだろうけど、とりあえず明日から京に長旅だ。その間に寂しいとか思ってくれれば丁度いいんだけどね。
九月十二日
京から帰ってきたオレを出迎えた弁慶は、何故か親父と共に水軍幹部の間にいた。弁慶の薬師手伝いもすっかり板についてきた、と思ってた矢先だった。そして何食わぬ顔で「おかえりなさい」とオレに言った。そこは普段なら親父だってもう足を踏み入れないところだ。どういうことだ、と副頭領に聞けば、どうやらオレがいない間に水軍衆の間でどうにも厄介な揉め事が起こって、でもオレに指示を仰ぐだけの時間もなく、かといって自分一人で判断するには手に余る、ということで、親父と弁慶に相談したらしい。そういうことは前にもあって、何度か親父の手を借りてる(ただし貸しも高くつくけど、そういうときはたいてい親父の手を借りなきゃやばくなってた場合しかなかったから、仕方ねえ)から別にあいつらが口を出したこと自体に文句はない、けど、だからってどういう風の吹きまわしだって話だ。しかも、オレが帰ってきてからも一向に部屋を出ていく風を見せなかった。「何?隠居はやめたの?」と単刀直入にオレは聞いた。「ええ。薬師殿が病み上がりの僕を容赦なくこき使うので、こちらの方が楽そうかな、と、逃げてきました」冗談交じりで快活に返した。「それに、僕は戦場しか知りませんからね。こういう方がやはり、性にあっているでしょう?」「あんたの性格の悪さだったら薬師もいいと思うけど? それこそ、うちのお抱えの薬師みたいに、仮病を見抜いて働かせるだろうからね」「この年にもなって仮病なんてみっともないですよ、ヒノエ」「あんたのことだよ」いまいち納得しきれないオレだったけど、弁慶は立ち上がり、オレの下手まで移動して、再びきちんと座りなおした。「ということで別当殿、僕を雇ってはいただけないでしょうか」正直、この時はまだ頭が回ってなかった。「……へえ、あんたに何ができるの?」「昔、軍師をしていたことがあります。結局……負け戦で主を、なにもかも失いましたが、それでもあなたのために情報を纏めることくらいでしたら、まだできると思いますよ」笑みを浮かべてはいたけど、真剣そのものだった。嫌な意味じゃなくぞくりとした。それでも奴の目的はオレには分からなかった。でも、頭領の席についてから頷いた。「分かった。その代わり、オレもじーさんに負けず劣らず人使いは荒いから覚悟しときな」「肝に銘じておきます」高みからかしこまる叔父を見るのは初めてで、不思議な気分だった。それにしても、一体何なんだろうね。何かしていたいだけかのかもしれないし、熊野をぶっ潰すつもりかもしれない。それでも端から疑ってかかるのも無粋だね、と思う程度にはオレもあいつが分かってきたような気がしてる。横で親父がにやにやと笑っていたから、そんなに心配することもなさそうだし。あの隠居の顔色を参考にしなきゃいけないなんて、オレもまだまだで情けなくなる、けど、こいつらみたいに狸になるのも御免だとも思った。
以前平泉で弁慶は言っていた。僕には夢があった、それはもう失われた、と。それが何だったのか、オレは知らない。聞いてみたい気もするけど、わざわざ昔の想い人事を思い出させるなんて、オレはそんなに優しくはない。けど、あいつのように全ては過去だと切り捨てるのは腑に落ちない、と思う程度には、オレだって九郎に感傷を抱いてる。夢。あの九郎が関わってるってことは、平家を倒すとか、源氏の世を作るとか、そういうことなんだろう。皮肉にも、あいつらが討たれて頼朝の世はほぼ完成した。だから、今となってはもはや意味を成さない願いなのかもしれない。でも、それでもあいつの本質は先読みで、何かを変えたいと願うことだとオレは思う。だから熊野がそれを生かしてやれるなら、きっとまたあいつは何かを探してくれるだろう、って、そう思えた。
十一月二十三日
冬が来る。晦と新年の準備で社は慌ただしくなる季節だ。猫の手、ならぬ叔父の手も借りたい、ってとこか? その叔父は、政に顔を出すようになって二月ほど、まるで以前、八葉として、源氏の軍師としてあった時のように、人のいい笑顔で悪だくみをし続けている。昔はそんな顔が当たり前だったのに、なんだか懐かしい。本人には絶対言いたくないけど嫌いじゃない。
でも最近、ふと手を止めて外を眺めることが多くなったような気がする。オレも別にずっとあいつにひっついてる訳じゃないけど、あいつを見つける時はいつでもそうだった。「ああ、じきに冬ですね」と、ぽつりとつぶやいた時、言いたいことは分かったような気はしたけど。
忘れろよ、って思う。あいつが言ってたみたいに切り捨てろ、ってのとは違うけど……多分あいつはあの薙刀と一緒に、何かあいつの大事な心を置いてきて、それをオレにくれることはもうなくて、っていう事実はやっぱり悔しくて、ああ、あいつが熊野を出ていこうとした意味も分かる。でもだからって、あいつがオレを二度と見ることなくても報われなくてもそれが苦しくともやっぱりあいつを熊野から追い出す理由なんかにはなりやしない。ならねえよ。せっかく黄泉比良坂から連れ帰ってきたんだ、振り返りもしないし、手を離したりもしない。だからさ。
十二月十日
「平泉に行きたい」と、いつかと同じように唐突に弁慶が言った。穏やかな顔だった。かつて、オレがはじめて弁慶に会った幾年を思い出す顔だった。オレは二つ返事で頷いた。師走の、呑気に茶をすする親父に皮肉も言えないほど忙しい時期、オレが一緒に行くわけにもいかないのは分かっている弁慶は、馬を借りて一人で去って行った。
あいつは平泉で何を思うんだろうか。あいつが帰って来た時、オレはそれを問うのだろうか。聞きたい。妬ける。でも、きっとあいつが最近口にするように「ただいまヒノエ」って、その言葉を聞けたなら、それだけで十分だって思うんだろうな、って推測できた。……まさかこのオレがこんなに献身的になるなんてね。柄じゃない。投げ出して次の恋に行きたいよ。行かせろよ。恋の炎が身を焦がす。焼かれて清められて生まれ変わる心地だ。死地を垣間見たのは弁慶じゃなかったか? ああ、だったらそれこそあいつが地獄から炎をもたらしたのかもしれないね、オレと同じ、朱雀の加護を受けた八葉でもあるし。なんにせよ、大人しく待つとする。いつものように。
こういうことになる可能性があるルートってのは少なくとも望美たちと一緒に平泉に向かっていないルート、
ってことになるのだと思うけれど、
そうなると十六夜弁慶ルート含めて、2月だか3月だかの時点で壇ノ浦にいる模様、
であるにも関わらず、十六夜弁慶の例のあのスチルは雪の中ってことで……いやあれは
望美たちの去った一年後の冬なのかもしれないけど、
そこまで待つ話にするのも面倒だなっていうか、鎌倉殿だったら冬まで待たずに秋のうちに決戦するよね
(リアル鎌倉殿も実際秋とかに攻めてたみたい?)
(弁慶が頑張って冬まで平泉対鎌倉の戦を引き伸ばした、って設定でもそれはそれでいいけど!)
っていうか、細かいこと考えるの面倒になったってのが本音なので、
全部まるっと無視して例のあのスチルの印象優先で日付は捏造して書きました。
その他も含め日程に関しては全部適当。ご了承ください。
(16/DEC/2011)