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 平等院を抜ける風は冬のはずなのにどこか生温かったと記憶しているのは、皆の士気があがっていたせいだったのだろうか。
 ついに火蓋を切った鎌倉殿の本格的な戦にその場の誰もが高揚していた。
 僕もその一員だった。
 ついに手柄を立てられるとか、ついに鎌倉殿が覇権をとる日が来たとか、残念ながら、僕はそんな熱心な御家人方とは違っていたけれど、それでも。
 僕は軍師だ。九郎の軍師。陣で皆が戻ってくるのを待っていた。待つのは苦手だ、焦れる。ここに残る事を決めたのは僕だった。けれど、『大人しく待っていたってつまらないだろ。俺と来い』という九郎の誘いを受けておけばよかったかなとも少しは思っていた。
 それでもやはり僕は軍師だ。この頃、ようやく僕も少しは大局を見据えるという事ができるようになった。それはあまりにも数多くの失敗を越えてきたからで、少しも誇れることではなかったけれど。
 逸る心を落ち着けようと、息を深く吸いながら空を見た。
(雲行きが怪しい。雨が降るかもしれない)
 そうすると有利なのは下流の平家か。水量が増えれば馬が流される。ならば一刻も早く決着をつけなければならなかった。
「朔殿は未だ戻られませんか」
「はい。探させてはいるんですが」
「そうですか。急がせてください。もうすぐ景時が戻ってきます。そうしたら一気に攻め上がりますよ」
「はっ」
 ここで僕らが相手にするはずだったのは、義仲軍だ。なのに実際に出てきたのは平家の直系平惟盛だった。もとは剣もろくに握れぬ武士だったと聞いていた。僕も何度か見たことがあったけれど、武士というよりは貴族といった人物だった。なのにいざ相まみえたら手ごわくて……、
あの人が考えたとは思えぬほどに攻撃的。
 それは怨霊を扱っているせいかもしれない。怨霊は既に死するもの。痛みも感じない、恐れもない。
 ……厳島で多少は相手にしたものの、惟盛は前面に出してきていて、改めて不利さを痛感していた。
(感情がなければ確かに無敵だ)
 それは僕自身が身を持って知っている。けれど人は極限まで修行しないと到達できないそこに、怨霊は容易に達する。
 だから朔殿が重要だったのに、彼女は少し前に陣を離れてしまって以来、見かけないのだ。
(報告では九郎を追って行ったと聞いたけど)
 でも彼女の足で九郎に同行できるはずはなかった。
 そう気をもんでいるうちに無数の馬の足音?嘶きが聞こえてきた。
「梶原殿です!」
 誰かが叫んだのと、僕の目にも騎馬が見えたのはほぼ同時だった。僕はひらりと舞台を飛び降り彼らに駆け寄った。
「ご苦労様です」
「ああ、弁慶、君もお疲れ〜」
 景時の口調が気楽なのはいつもの事だったけれど疲労もかなり混じっていた。
「どうですか」
「無理。厳しいね。とりあえず結界張ってきたけど、川を強硬に渡ってくる怨霊は脅威だよ。水の中じゃまずこちらに分は無いね。だってあいつら窒息とかしないし」
「そうでしたか。すみません、君を囮にしてしまって。ですが無事でよかった」
「いや、九郎に無理はさせられないし、これくらいなら、まあ、大丈夫、かな」
 へらりと笑う景時に彼らの部下が心配そうな顔で見上げていた。僕はその横で思案した。
「やはり陸づたいに行くしかないのかな」
「でも京に入るにはいつかは川を渡らなきゃいけないし」
「このまま北へ向かうと今度は背後をつかれる可能性もある」
「なんだよね〜。だからやっぱりここから行くしかないと思うよ。少し休んだら、また行くよ」
「いえ、君たちの隊だけでは無理でしょう」
「さらっと酷いこと言うね弁慶。でも、うん、そうなんだよね」
 がっくりと肩を落とした景時。僕は再び思案した。どうしてもここから突破しなければならないのは間違いない。だったらふたつにひとつだ。
「分かりました景時、君はここを守りがてら休んでいてください」
「君は?」
「北に行きます!」
 僕は僕の馬に駆け寄りながら言った。
「九郎に援護して、さっさと北の憂いを無くしてきます。だから君は」
 そして飛び乗った時、また馬の嘶きが聞こえた、と思ったら、すごい勢いで駆けてくる騎馬が数騎見えた。
「え、何、何かあったの?」
 僕は見据えた。はっきりとは見えなかった。でも分かった。
「九郎だ」
「えっ!?」
 近づくにつれて彼の長い髪が揺れるのがはっきりわかった。そして土煙上げてあっという間に九郎は僕の目の前までやってきた。
「状況は?」
 僕は間髪いれずに聞いた。
「北の部隊は倒してきた。率いていた将も捕えた。あとから連れてくる」
「お見事ですね」
「それで、こっちはどうだ?」
「景時が苦戦しています。川での戦いは怨霊が有利ですからね。今君が来るのを待っていたところで」
「では行こう」
 戦況を入れると九郎は手綱を引いた。
「え、もう行けるの?」
「急いだ方がいいだろう?」
「うん、それはそうだけど、でも九郎大丈夫?」
「大丈夫だ!」
 ひひんと九郎の愛馬が大きく嘶いた。気力も体力も十分満ちているように僕にも見えた。でも。
僕は鞍を小さく蹴り近づいた。
「九郎、さきがけは禁物です」
「だがのんびりしていれば怨霊どもがますます沸くのだろう?」
「……その通り」
(ああ、危惧だったかな)
「本当に、行けるんですね」
「大丈夫だ」
 しっかりと頷く九郎。
 九郎は功を焦っているのかと思っていたけれど、思いのほか冷静だ。それはじっと顔をみればわかった。
 僕は微笑まずにはいられなかった。
「ではお願いします。ですが今はとりあえずの様子見で。牽制程度で抑えておいてください。本気を出すのは羊の刻。今日は曇天ですが、その頃が一番怨霊は動きが鈍くなるはずですし、気温があがるので人に有利です。ですから」
「分かった」
「それともう一つ」
 睫毛が触れあいそうなほどまで近づいて僕はしっかり言った。
「大将は君だ」
 だから全ては君の判断で。
 そして君は何よりも自分を守って。
「……分かった!」
 宇治に入る前にも繰り返していた言葉はきっと九郎に伝わった。真剣に頷く九郎に、頷き返しながら僕も離れた。それを合図に九郎は片手をあげた。
「行くぞ、俺に続け!」
 轟の声があがった。それ以上の返事を待たずに、九郎は手綱を強く引き、また陣を出て行った。
「はは、九郎頑張りすぎだよ」
「それはそうです。鎌倉殿の覚えめでたく働き者の景時に負けていられませんからね」
「……わー、そんな事言ってー。君たちほんとにひとづかいが荒いよ〜」
 なんて言いながら、景時もまた自らの軍勢を率いて九郎に並び駆けだした。
 遠ざかる轟音を聞きながら僕は馬を降り、また元いた舞台に戻りつつ目を細めた。
(大将は君だ)
 九郎に告げた言葉を心のなかで復唱した。
(皆見惚れるがいい。これが九郎義経だ)

 源氏の御曹司として生きるべく京を出た。あれから10年。
 ついに九郎ははじめての戦場に立った。しかも源氏の御大将として、京へ帰るための戦で、だ。
 兄に存在すら知られてなかった末弟が、悲願をかなえるべく晴れやかに戦場に登場したその姿はそれまでの僕の見てきたどの九郎よりも凛々しく立派で頼もしく。
(あとは君に勝利を贈ろう)
(この将に誰より間近で仕えることのできる幸福にかえて)

サソ