弁慶が九郎を最初に見たのは夜の京だった。
その時、弁慶は比叡の僧兵たちと行動を共にしていたから、なにか話をしたわけでもなく、近づけたわけですらない。向こうも徒党を組んで似たようなことをしていたようだけど、だからといって、互いに別の目的があったのだろう、刃を交えることもしなかったので、本当にただ、すれ違っただけだった。
それでも弁慶は彼に気がついた。……それを、運命という言葉で捉える事ができればよかったのかもしれないけれど、残念ながら、ただ九郎が本質として目を引く存在であったといういうだけだった。
その日は、望を明日に控えた小望月の夜、天頂へさしかかった白い光は、夜闇のなかでも彼を明瞭に映し出していた。小柄で、整った顔をしていた。表情は終始、眠いのか退屈なのか、不愉快そうであったけれど、不思議とその瞳は美しく見えた。一目で育ちのいい子供だと分かる何かがあった。
なにより、結いあげた癖のある橙の髪が弁慶の印象に妙に残った。月光の下、揺れるそれはきらきらと、まるで松明かなにかのように輝き、彼の歩みを線として描いていた。
次に彼に会ったのもやはり夜の京で、やはり似たような状況で、ただ、月はない三日月の夜だった。相変わらずに垣間見ただけ、と言っても過言ではない邂逅だった。
それでもはっきりと、あああの時の子供がいる、と、弁慶は目で追ってしまった。それほどまでに鮮明な、橙の残光。
「なにがおかしい」
声に顔をあげると、九郎が眉をつり上げ、縁側に腰下ろす弁慶を見ていた。両手で太刀を握ったままの姿勢で、不愉快だと言いたいのか、それとも不審だと言いたいのか、両方か。
そんな彼にくすりと笑って弁慶は素直に返した。
「君と出会った頃を思い出していました」
「そんなに笑うようなことがあったか?」
「可笑しい事があったわけじゃないです、ただ懐かしいな、と思って」
九郎は変わらないな、と、つい笑みをこぼしてしまった、というのが本当のところだったけれど、そう言ったら九郎はきっと、馬鹿にしてるのか!と怒り出しそうだな、と思って、弁慶は言葉を選んだのだけれど、
「……思い出し笑いは気持ち悪いぞ」
どっちにしろ、九郎の好む回答ではなかったようだった。
それでも彼の瞳には、たしなめながらも微かに好奇心が垣間見える。
「気になりますか?」
「それは、俺の話と言われれば」
言葉を濁しながらもはっきりと言う、その様子が愛らしくて、と言えば、九郎はますます怒るだろうけれど、彼に免じて弁慶は白状することにした。
「他愛もない話ですよ。ただ、君が好きだな、と思って」
告げれば途端、これは予想通りに九郎は絶句して、顔を真っ赤にして声を荒げた。
「なっ、なっ、なんで、いきなりそういう話になるんだ!?」
「君と僕が出会った時の話といったら、そうなるでしょう?」
「意味がわからん!」
髪を大きく揺らしながら九郎はそう言うけれど、弁慶からしたら、きちんと筋は通っているのだ、九郎と共に平泉に行くと言ったのは弁慶なのだから。
確かに、九郎が平家に追いかけまわされていたところに偶然出会い、成り行きで匿い京の外に脱出までを共にした、という事情はあったものの、そのあとに九郎に同行する、したい、と半ば勝手について行ったのは弁慶の意思だ。
どうしてそうしたのか、なんていう理由、当時は深く考えていなかったけれど、今からすれば明白だった。
心を満たす思い出は、更に弁慶の笑みを深くさせる。けれど裏腹に、九郎はなおも、慌てふためいたまま、何を言ったらいいのか分からない風にせわしなく目を泳がせていた。
大将として京に攻め入った時はあんなにも堂々としていたのに、弁慶の言葉ひとつでこんなにも落ち着きをなくすなんて。
「九郎、今日中に花を百断つのでしょう? このままでは日が暮れますよ」
「ん? ああ、そうだった!」
助け船を出せば、やはり九郎はそれだけで武士の顔を取り戻し、静かに太刀を構えた。
風にはらりと花弁が落ちる。九郎の橙が、衣の白がたなびく。言葉もなく、音もかすかに九郎の線が花と空を裂いてゆく。そのたびに彼の周りは小さく揺れる、落ちる花が動きを変える。
けれど九郎はそれさえも見抜いていた、と言わんばかりに断ってゆく。一度動き出した彼はなかなかとまらない。くるりくるりと円を描きながら……ただ、望美のそれとは違い、けして舞と呼べるほどに美しいものではなかったけれど、弁慶は魅入る。無駄のない太刀の動きに、なにより九郎と共に弧を描く、長い髪に。それはまるで、時代を切り開きたいと願い、もがきながらも駆ける九郎の、彼自身の軌跡にも似て。
「綺麗だな」
変わらないのは彼じゃなくて、弁慶の方だ、と、こんな時に強く思う。
そう、昔からそれが好きだった。停止するということを知らぬそれに、きっと出会った時から目を奪われていた。鮮やかに弁慶の視界を染めてゆく橙。記憶を占める色。あの日から消えない残光。
九郎が断ち続けている色とりどりの花のように、弁慶の心に色があるとするならば、きっとあの橙に違いなかった。
残光って言ってみたかっただけ!
(09/FEB/2011)(29/JUL/2011)