刻限が来る少し前から雨が降り始めた。
今日はもう帰るようにと促され、鳥羽殿の長い長い渡廊を歩き始めたところで、いよいよ本格的になってきた。
「うわ〜、降ってきちゃったね〜」
「間が悪いな」
雨音は広い館に一律に広がった、雨粒は庭の色をあっという間に染め変えてしまった。
「一難去って、また一難、と言ったところか」
「今日はこういう宿命なのかもね。う〜ん、ついてないね、院には結局お目通り叶わなかったし」
「傘もない」
「そういえば」
何もかもうまくいかない日だった。それでも今は梅雨にあたる季節だ、雨が降るのは仕方ないのかもしれないが、朝までは晴れてたことを思えば、憂鬱になる。
がくり、と隣で肩降ろす景時に、九郎も倣いたい気分だった。
「雷も来そうだ」
「いや、多分これはそういう雨じゃないから、大丈夫だと……思うよ」
「断定してはくれないのか?」
「う〜ん、言い切りたいんだけどね、今日の流れ的に、なんとなくね」
「そんな気構えでは景時、お前が雷を呼びかねないじゃないか」
不甲斐ない。言えども景時は、力なく笑うばかり。けれど九郎も実際、いつもと違って声に気合いを込めることができてないので、人の事は言えん、と、思い、黙った。
重い沈黙に包まれつつ、上り口まで戻ってきても、雨はまだ降っていた。
「濡れて帰るしかなさそうだな……」
空を見上げる。雲は灰色、すぐに晴れそうな気配が全くない。
「仕方ないね。九郎、風邪ひかないでよ」
「それは大丈夫だ、うちには信頼できるくす……ん?」
けれど、そんな言葉をかわしつつ、かがみ、履物に足を通していた最中、遠くになんだか見覚えのある影が見えたような気がして、九郎は言葉を止めてしまった。
「どうしたの?」
「いや、今……」
景時への返事もおざなりに大急ぎで紐を結び、水たまりも敷地の広さも気にせず、一気に駆け抜け、門の方向へ近づくと、
「弁慶!」
「ああ、お務めご苦労様です、九郎」
気のせいじゃなかった。そこには今日は景時の館へ出向いていた筈の弁慶が、傘差しにこにこと佇んでいた。
「どうした、なにかあったのか!?」
「いいえ。望美さんたちは今日も元気ですよ。雨が降ったから、帰りがてら、様子を見に来てみただけです。九郎、傘持ってなかったでしょう?」
まだ息整わぬ九郎に、弁慶ははい、と、傘を手渡した。
「そうだったのか。すまない弁慶」
礼をいいながら、受け取る。そこで、
「ほんとに九郎のお抱えの薬師殿は優秀だね〜。ん、この場合、軍師殿、のがいいのかな?」
と、背後から追いついたらしい景時の声。九郎は振り返る。
「ああ、そうだろう」
「何の話ですか?」
「気にするな、大した話じゃない」
笑う二人に、弁慶は訝しげにしていた。もしかして、院に何か言われたのかと勘ぐっているのか? でも九郎が言う前に、結局弁慶は微笑んだので、九郎も微笑み返した。
「さあ、帰りましょうか。景時も、譲くんがなにか作って欲しいものがあるって言ってましたよ」
「譲くんが? 何だろう、オレに作れればいいけどね〜」
「二人で協力すればなんとかなるだろう」
「そうかな〜 うん、そうだといいな〜」
けれど、景時はなおも苦笑い。弁慶が不思議そうに見やった所で、彼はおずおずと、控えめにきりだした。
「えーっと、ところで弁慶、オレの分の傘って、あったりしないのかな〜?」
それに弁慶は、
「あ」
と、短い声をあげると、いきなり、先程九郎に手渡した傘を奪って、そのまま景時に手渡した。
「では、これを使ってください」
「え、いや、持ってないなら無いで、いいんだ、うん。気にしないで」
「いいえ。景時も一緒だと知っていたのに、持ってこなかったのは僕の落ち度ですから。それに、僕と九郎は帰り路が同じですからね、」
ぎょっとする景時と対称的に、弁慶が朗らかに言う。途端、すっ、と九郎の頭上が暗くなる。
「こうして一緒の傘に入っていきますから、大丈夫ですよ」
「弁慶?」
突然のことに、いくらか驚いた。でも実際、一理ある。九郎もすぐに同意した。
「ああ、それなら、俺は傘が不要だな。景時、使ってくれ」
「や〜、でも……」
「今度、君の家から帰る時に雨が降っていたら、きっと僕は遠慮なく傘を借りていくでしょうから」
それでも景時は躊躇っていたようだけど、弁慶を見てるうちに、口ごもり、結局、しばらくの後に、笑って頷いた。
「うん、分かったよ。じゃあお言葉に甘えて借りるね」
「ああ」
「そうしてください」
九郎も笑顔で頷いた。
そして、景時が傘を開いたところで、敷地を抜け、北へ向かって三人並んで歩きだした。
道すがら、明日の確認などを軽くしたあたりで、
「実は、ちょっと寄り道したいところがあるんだよね〜、今日はもう諦めてたんだけど、傘を借りたから、行ってくるよ」
と言うので、景時とは直ぐに別れることになった。
雨降る街へ消えてゆく景時を見送った後、九郎も弁慶は改めて帰り路を辿ることとした。
二人になってすぐ、九郎はそういえば言いはぐっていたことを口にした。
「傘は俺が持つ。迎えに来てくれた礼だ」
けれど弁慶はすぐに微笑みを九郎に返した。
「大丈夫ですよ。景時にも言いましたが、これは僕の失策なので」
「とはいっても、俺のが背も高い」
「大して変わりませんよ」
口調は穏やかなのに、全く譲る様子を見せない。
強引に、さっき弁慶が景時に傘を渡した時のように、奪い取ってしまおうかと、結構本気で考えた。けれど、そんなつまらない諍いを起こすのは、ひどく憂鬱に思えた。九郎は結局諦めた。
「では、頼む」
「ええ」
弁慶は幾分か、楽しそうに微笑んだ。のは、気のせいかもしれないが、そう見えた。
それきりしばらく、無言で歩いた。
道は既にすっかりと雨に濡れていた。水たまりも小さくない。鈍色の景色、人通りも既にまばらで、まだ夕刻ですらないはずなのに、冬の入りか、あるいは月無き晩の如くに物寂しい。
傘持つ弁慶の横顔はいつもと変わらなかった。まっすぐに前を見て、するすると歩みを進めている。やや深めにかぶった外套も、ちらりと見える髪も揺れる。かすかに傘も揺れる。その度に、すっかり濡れてしまった肩に雨粒落ちて、更に重くなってゆくのを感じて、嫌だなんて不満を抱いたわけではないけど、煩わしいな、と、ただ思った。
似たように、続く沈黙がなんとなく嫌で、家路の四半ほどを歩いたあたりで、九郎は問いかけた。
「今日はなにか、珍しいことはあったか?」
本当は、そう弁慶に聞かれたくなかったから、先手を打ったのかもしれなかった。
問われた弁慶は、ゆるりと九郎を見た。見るなり、まるでそう問われるのを待っていたかのように、笑みを零した。
「そうですね。今日は面白いことがあったんですよ」
くすくすと、空いた手を口元にあてて弁慶は笑う。随分上機嫌だ。
「なんだ?」
「待ってください、そうですね、どこから話せば」
「勿体つけるな」
「ふふっ、そんなに怒らないでください、九郎。結構長い話なんですよ。……ああ、そうでした、最初は、朔殿が望美さんに舞を教えてたそうですよ」
くるり、と、楽しそうに、瞳きらめかせながら弁慶は話はじめた。
「そこに、たまたま敦盛くんが通りかかったんです。敦盛くんは、しばらく二人を見ていたそうなんですが、途中で望美さんが笛を吹いてほしい、と請うたことで、ちょっとした楽がはじまったそうですよ」
「お前は見てなかったのか?」
「ええ。僕はその時、ちょっと遠くにいたもので。笛の音は聞こえていたんですが、まさかそんなことになっているとは思ってなかったですね。ですが、その敦盛くんの笛につられて、ヒノエと譲くんは見に行ったみたいなんですよ。それで……ふふっ」
「なんだ? 何も面白くないぞ」
「すみません。あの時のヒノエを思い出したら、おかしくて。そう、それで、やってきたヒノエが、敦盛くんに『オレも笛やっておけば、姫君の舞をより味わえたんだろうね』って言ったらしいんですが、それを聞いた望美さんが、だったらヒノエと譲くんも吹けばいいじゃない! って、言ったそうで」
「吹いたのか!?」
ここまでは焦れつつも大人しく聞いていた九郎だったが、それには驚いて、声をあげた。それに弁慶は悪戯に笑う。
「気になりますか?」
「……悪いか」
全く、分かってる癖に、性質の悪い。
「君は君でいいじゃないですか」
「それは分かってる、だが、他人の腕前も……気にならなくはない」
控えめにしか答えられない九郎に、弁慶はやっぱり楽しげに、続けた。
「安心してください。ヒノエの笛も酷かったですが、君には負けますよ」
「お前はそういううが、仕方ないだろう、あれは向かん」
「それにしたって、限度というものがあるでしょう。ああ、でも、ヒノエの酷さは君とは性質が違いましたね。ヒノエの笛は、音色が悪い。短絡的でとてもじゃないけど聞いてられません」
「人が懸命に何かをしているのを笑うな」
「それには僕も同意なんですけどね、ふふっ、だけど笑いたくもなりますよ。ああ、僕はヒノエが吹き始めたあたりで加わったんですけど、その後に笛を渡された、譲くんなんて、はじめてだというのにヒノエより余程筋が良くて、ヒノエが意地になっちゃって……何か、思い出しませんか?」
「思い出さん!」
「そうですか? 僕、すごく懐かしかったんですけど。ああでも、あの時は九郎一人じゃなくて、泰衡殿も一緒でしたね。指南してくれた方も匙を投げるほどの君たちの演奏、あれに勝るものを、僕は聞いたこと」
「いいからもう黙れ!」
「ふふっ、はいはい」
全く、少し自分が笛だけは出来るからって、そこまで言わなくてもいいだろうに。ヒノエにも同情しながら、九郎が言えば、弁慶はその通りに黙ったが、まだしばらく、にたにたと、全く悪趣味に何かを思い出しながら笑っていた。
可愛くない。思いつつ、九郎は再び空を仰いだ。
傘で半分以上隠れたそれは、未だ灰色だ。けれど、幾許か雨が弱くなったような気がする。腕にも未だ、雨落ちて憂鬱だが、それより余程、反対の肩をたまにふわりとかすめる、弁慶の気配や間合いの方が気にかかった。
「少し晴れたか」
九郎が口にすると、弁慶はようやく笑うのをやめ、九郎がしていたように空を見上げた。
かぶっていた外套が背に落ちる。ついでに、傘も傾けた。
途端、九郎の顔にぬるい雨粒がばらばらと落ちた。けれど、刹那だ。
「冷い」
言いながら弁慶がすぐに傘を戻した。
「変わってないような気もしますけどね。僕が九郎を迎えに歩いていたころに比べれば、むしろ降ってるかも」
「気のせいか」
「そう思いますよ」
ついでに、外套もかぶりなおしながら、弁慶は笑った。
「それに、もう着きますから。気に病むこともないでしょう」
「ん? ああ、そういえばそうだな」
言われて気付く。九郎が兄から賜った六条堀川の邸は、目の前だった。
「早かったな」
「そろそろ傘もたたみましょうか」
弁慶はさっきとは逆の方向へ傘を降ろし、閉じようと、軸の根元をぐいと掴んだ。
それを九郎の手は止めていた。
「九郎?」
「いや……もう少しある、このままでもいいんじゃないか?」
「ふふ、名残惜しいですか?」
悪戯に、弁慶は笑った。確かにそうとしかとれないし、実際きっと、その通り。九郎は顔を赤らめてしまった。
その間弁慶は、微笑みながら、手を止めていた。頬を伝う雨粒を拭うこともなく、言葉を待つように九郎も見ていた。
だから九郎もしばらくの後、たどたどしくも、弁慶の腕に手を添えながら、再び傘差し素直に言った。
「そうだな、名残惜しい」
だって、あんなに淀んでいた気持ちだったというのに、いつしか自然に笑ってた。
言うと、弁慶はますます微笑んだ。
「仕方ないですね、君が言うならもう少し、このまま傘差して歩きましょうか。折角ですから賀茂川でも見に行きましょうか?」
「いや、そこまでで十分だ」
発した声音は自分でも呆れるほどに柔らかい。それにはにこっそり苦笑してしまった。
九郎は再びゆっくりと、幾分か慣れてきた道を歩き始めた。
雨は相変わらずに傘を打つ。
勝手な印象ですが、
弁慶は九郎を馬鹿にできるほど笛上手くないと思う
ついでにヒノエを笑えるほど上手くもないと思う
本人が気付いてるかは別として
(16/04/2010)