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 行き交う車の音に混ざりながら微かに、『ありがとうございましたー』なんて声が、楽しそうな曲と一緒に聞こえてくる。
 見れば、温度差に驚いたのだろうか、九郎が身をすくめつつコンビニから出てきたところだった。
 白い息を吐きながら、弁慶は彼に声をかける。
「買えましたか?」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「しつこいぞ……多分、大丈夫だ」
「それはよかった」
 近づく彼はごぞごぞと手にしていた袋を探っていた。将臣に頼まれていた雑誌をちゃんと買ったと突きつける為にそうしていたのかと思っていたが、取り出したのは片手で持てる小さな包み。
「あ、また、ご飯前に買い食いして。望美さんにお叱りをうけますよ」
 こちらに来てまだ2週間、けれど弁慶はそれを何度も見ている。ゆえに窘めたけれど九郎は聞かず、包装をといてそれ……あたたかそうに湯気をたてるにくまんを二つに割ると、笑顔で片方を弁慶の口の中に突っ込んだ。
「むぐ」
「これでお前も共犯だ」
「……酷いな、これじゃあ被害者じゃないですか」
 にくまんを掴みながら弁慶は渋い顔を向けるけれど、手にした温かさが嬉しくて、結局ぺろりと食べてしまった。
「なにが被害者だ」
「ふふっ、もう反論できませんね」
 九郎はもっと早かった。弁慶が食べ終わるより少し早く包み紙をゴミ箱に捨てて、手袋をはめながら戻ってきた。
「証拠も隠滅したし、帰りましょうか」
「ああ」
 頷くと、九郎は軽やかに自転車をまたいだ。弁慶も彼の肩に手をかけ、車軸に取り付けられたステップにに足を乗せる。
 ぎしりと自転車が軋んだところで、後ろを確認することなく九郎はゆっくりと走りだした。
 夕方の道、だが既に日は落ちている。4時を過ぎると暗くなる、5時をすぎると車が増える、という譲の忠告を聞かずについ遠くまで散策に行ってしまったせいだ。けれど幸か不幸か、実際彼が言っていた通り、海沿いの大きな道に詰め込まれたような車の列ができているお陰で、弁慶でさえ視界に困ることはなさそうだ。
 家路を急ぐ人を縫うように、九郎は広い歩道を駆け抜けてゆく。風をきって、何故か少し短くなった髪を揺らしながら進む速度は随分と目まぐるしい。どんどん景色は流れてゆくし、車も人も追い越してゆく。
「九郎、飛ばしすぎですよ」
「大丈夫だ、きちんと将臣に言われた通り、前を見ながら歩道を走っているだろう」
「そうじゃなくて、あんまり早いから寒くて耳が痛くてかなわない」
「それは…鍛え方が足りないぞ」
 それでも九郎は速度を落とさなかったし、振り返ることもしなかった。だから車と波と、風の音が煩わしい中、前向きに放たれた言葉はよく聞き取れない。
「聞こえないです」
「嘘つけ」
「本当ですって」
「聞こえてるじゃないか」
「あ」
「まだまだな」
 掴まれた肩を揺らして九郎は笑うと、更に回転を速めた。
「……寒いのに」
 仕方がない、と弁慶はフードを被りささやかな抵抗を試みるけれど……風にあおられ一瞬で落ちてしまう。
 するといよいよ九郎が恨めしくなって、つい溜息混じりで、
「九郎は動いているから暖かいんですよ」
などと口にしてしまうけれど、深く吐いた息の白さにますます寒くなるような気がしたから、やめた。代わりに九郎の肩を掴みなおす。……実は指先も寒いから、少し必死だ。
 対して、揺れる髪の向こうに見える九郎のうなじや顎は暖かそうだな、と思った。触れたいけれど、多分それをやったら驚いて九郎は怒るだろう。少なくとも自分だったら怒る。
「望美さんの勧めてくれたとおり、手袋も買えばよかった」
 やはり仕方ないから、視線を道の向こう側の海に移して独り言のように呟いた。
「平泉で馬に乗っても、なんということなかったんですけどね」
「ここには便利なものがたくさんあるからな」
「そうなんですよね。そういうものがあるならばつい、利用したくなってしまう」
 話しているうちに、大きな交差点に差し掛かった。進行方向は青だったが、九郎は止まった。
「どうかしましたか?」
「どうもこっちは走りにくいから海沿いに行こうと思って」
「ああ、それはいいかもしれないですね」
 信号はまだまだ変わる気配がない。九郎は右から左から来る車をきょろきょろとみている。それがおかしくて、弁慶は笑いそうになってしまうけれど、はた、と彼も九郎と似たように辺りを見回す。
 視線を感じたのだ。見ると、通り過ぎてゆく人や、同じく信号待ちをしている人たちが、結構こちらを見ていることに気がついた。
「?」
 そういえば、いい年した男が自転車で二人乗りなんてするもんじゃない、とこの前将臣が呆れながら喋っていたが、そういう事なのだろうか?
 けれどそれにしては、誰も弁慶と目が合う人がいないのだ。
 もしかして。弁慶は、なおもせわしなく辺りを観察、否、注意している九郎の後頭部を見下ろした後、もう一度ゆっくりと、密かに視線を巡らせる。
 ああ、やはり。彼らは九郎を見ているのだ。
 向こうでもそうだった。彼が源氏の御曹司ということを知っている者は当然だったが、知らぬものも、皆九郎が通り過ぎると彼を見ていた。独特の立ち振る舞いに目が奪われると誰もが讃えた。
 ここへきても同じなのだろう。それは弁慶にとっては興味深く、誇らしく、嬉しいことでもあった。だけれど、……そう、正直なところちょっと妬ける。
 だから。小さな信号の青色の点滅を目の端に映しながら弁慶は少し身を乗り出して、悪戯に、
「九郎、帰ったら口づけてくれませんか?」
と、耳元で囁いた。途端、
「ばっ、馬鹿、何をいきなり言い出すんだ!!」
振りむいて怒った。寒さと、自転車をこぎつづけていたせいで赤らんでいた顔が一層赤い。
「ふふっ、冗談ですよ」
 可愛いなあ、なんて思いながら、先程同様こっそりと周囲を見る。するとやはり、皆九郎の事を気にしたままで……なのに九郎が見るのは自分だけ。そんな事実はささやかに弁慶を満たす。これくらいなら許されるだろう。
 遠慮も無しに、顔を離しながら弁慶は微笑んだ。九郎の方は彼を見上げながらなおも何か言いたそうにしていたが、結局無言のまま、ぷいっ、と元通り顔をそむけてしまった。彼らしい仕草だ、ますます弁慶はほころんだ。
 だというのに、信号が変わる直前……皆がそれに目を奪われた隙に、九郎は唐突に振り返ったかと思うと、
「……帰ったら皆の目があるだろう」
ぐいと、弁慶のフードを掴んで引き寄せる。
 柔らかな息と共に、ふわりと頬を唇がかすめた。
「え」
 今度は弁慶が驚く番だった。
「お前が言ったんだろう?」
 とかなんとか、九郎は向き直りハンドル握りながら言ったような気がしたけれど、喧騒にまぎれて、なにより動揺していて聞こえない。
 弁慶は慌てて周りを見た。けれど信号が変わった今、さっきとは裏腹にもう誰も彼らの事を気に留めてはいなかった。
 九郎も彼ら同様、ペダルに足をかけ進む。ゆっくりと道を横切り、海沿いへ出た。
 さっきよりも大きくなった波の音に拍子をあわせるように、さっきよりも快調に九郎は自転車を飛ばしてゆく。けれど最早寒さどころではない弁慶はぼんやりと、頬に片手を当て呟いた。
「……こんなところで、九郎が」
「こんなところも何もないだろう、誰も気にも留めていない」
「そうですけど」
 確かに、九郎が弁慶を引き寄せた時には誰も彼らを見ていなかった。が、その直前まではあんなに注目を集めていたし、
そもそも、京でヒノエが女性を口説いていた時には「往来でそういうことをするもんじゃない」って顔をしかめていたし、熊野の宿で将臣と望美が親密な言葉を交わしているのを偶然聞いた時も「もっと人がいないところでやってくれ」と顔を真っ赤にしていた九郎が、そんなことを言うとは思っていなかったのだ。
 それきり九郎は黙ってしまった。弁慶も口を閉ざし、ただ九郎の揺れる髪を見た。垣間見える表情は楽しそうで、ますます言うべきを失ってしまう。
 その間にも二人は進んでゆく。海沿いを走る西風が波を荒立て彼らの背も押す。加速する、少しずつ見慣れた風景が現れはじめる。家まであと10分くらいだろうか。
 どうしよう。弁慶は辺りを見回した。あることを思いついてしまったからだ。
 相変わらず車は光の線を描き、人々は寒そうに家路を急ぐ。誰もが自身で懸命に見えた。……そう、九郎が言うとおり。
 だというのなら、それはとても勿体ない事のような気がしたのだ。
 弁慶は視線を九郎に落とした。どうしたものか。多分、それをやったら九郎は怒る、間違いなく危ないと怒るし、自分が逆の立場でもそうするだろう。
 そういえばついさっき、似たような事を弁慶は思った気がした。……あの時、九郎はなんて言っていた?
 ああもう、考えるだけ面倒だ。
「……いいですよね」
「何が…うわああああ!」
 九郎の間の抜けた叫び声と共に、がしゃんと派手な音が飛んだ。
 ついでに二人の体もぐらりと傾き、更には落ちた。
 唐突な騒ぎだ、通行人が何人か、何事かとこちらを見たけれど、
「ふふっ……はははっ」
と、弁慶が楽しそうに笑っているので、ああなんでもないのだなと、今までそうしていたようにあっという間に去ってゆく。
 残ったのはすっかり砂まみれの九郎ただ一人きりだった。
「べっ……お前!!いきなり何を」
「すみません。困ってしまったので、つい」
「何の話だ! 第一これがばらんすを崩したら危ないと、お前は散々知っているだろう!」
「ええ」
 傍らに落下した自転車をばしばしと叩きながら九郎は激昂している。ああ、やっぱり九郎は怒った。弁慶は呑気にゆったりと微笑んだ。
「大丈夫です、ちゃんとここに落ちるように見計らってやりましたから」
 そう、いくらこっちの世界に疎い弁慶だって、自転車にのって転んだら痛いことも、あの車に轢かれたら命を落とす危険があるのもとうに知っている。
 だから、後ろから九郎に抱きつきながら、勢いつけて右へと体を傾けた。結果、二人は見事に自転車ごと縁石を乗り越え、道路の3尺ほど下にある砂浜へと落下できたではないか。
 けれど九郎はそれくらいでは納得しない。
「そういう問題じゃない! ほら、自転車だって砂まみれだ……」
「ですが、他に方法がなかったんですから」
「ん……? そうだ、そもそもお前は一体何が目的でこんなことを……っ!?」
 このままではいつまで続くか分からない。弁慶は彼が言い終わるより先に、襲いかかるかのように飛びついた。
「だって、どうしても君を抱きしめたくなって仕方なくて」
「……は? なにをいきな……」
 すると途端、眼前の九郎は一転してぽかん、と驚いたように口にしたが、いつも弁慶に振り回されてきた結果だろうか、いきなり、という言葉は飲みこみ代わりに、
「だからといって」
問うが、それこそ弁慶の望み通りの台詞だ、
「こんなところ、で、ですか? 誰も気にとめてない、といったのは九郎、君の方でしょう?」
九郎の胸に頭を預け、上目づかいに見上げながら図々しくも言い放つ。
「今のうちですからね」
 頭上には車の音、隣には波の音。海の遠くにも江の島や、もっと他の街や船の灯りが見えて、困惑した九郎をぼんやりと照らす。
「……京にいた頃は、どこで君を知る人と、仇なす輩とすれ違うか分からなかった。だからあまり気が抜けなかったでしょう? でも……こちらでも君は随分人目をひくみたいだけど、それでも所詮、しがない通行人でしかない。誰も僕らを知らないし、それ以上に気にも留めない。今だって、浜辺にも何人か人はいるけれど、誰も詮索したりしないでしょう? ……もっとも、僕はもっと九郎をみせびらかしてもいいかなって思ったんですけど。たとえば僕らの頭上とかで」
「それはやりすぎだ」
「ですよね、まだ機会はありますよね」
「……」
 九郎は呆れたように弁慶を見た後、上を見た。話声がした。だけどそれらのすべてはこちらに無関心に通り過ぎてゆく。次に九郎は浜をみた。街よりいっそう寒いというのにそこそこ人はいる。が、やはり遠巻きにこちらを見る程度で、近づいてこようともしない。そもそも多分、互いの顔も見えていない。
 結局九郎は一度弁慶を押しやって、ずるずると体を起こし頷いた。
「……だが、さっきはそこまで考えてなかったが、京ではありえないこと、というのは確かだな」
「でしょう?」
「ああ……源氏もなく、平家もない。争いも肩書もない。だったら少しくらい、こんな時間も許される、ということか。全くつくづく便利な世界だな」
「そういうことです」
「それこそ、便利なものがあったら利用しない手はない、ということか」
 と、さっき弁慶が言った言葉を繰り返しながら、九郎は楽しそうに笑う。
「なら折角だから、この自転車と雑誌の砂を落とすような便利なものがあればいいのにな」
「君と僕も砂だらけですね、全部落とすまで家に入れないかもしれない」
「さっきにくまんを買って正解だっただろう」
「結果論は好きじゃないですよ」
「そもそも誰のせいだ、誰の」
「ふふっ、どうでしょう」
 向かい合って笑う声さえ、あっけなくかき消される。あまりに簡単に霧散してしまうものだから、二人ははたと、笑う事も喋ることも止めてしまった。
 かわりに、弁慶は改めて九郎に近づいて、肩に頭をことりと乗せる。するとゆっくりと抱き寄せら れて、九郎の頬が弁慶のそれに触れた。
「あったかい」
 彼がくすりと笑う気配を感じながら、弁慶も九郎の背に手を回し、幾許かの猶予に瞳を閉じた。






良い子は真似しないでください
抱きつきたいけど我慢して帰るバージョンと二つ考えたんですが、
こっちの方が可愛いから!って採用したのまではよかったんだけど困ってないですね、むしろ九郎が困ってる。
二人乗り大好きです。

弁慶さんを困らせてみた企画(3):不意打ち食らって困った挙句調子に乗りたくて困る弁慶
(07/01/2010)

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サソ