有川家の庭は、こちらの世界では並より広いという。最初は冗談かと思っていたが、望美たちに連れられ街を一通り歩いたら、なるほどこちらは九郎の知る鎌倉よりも全てが小さくまとまっているようだ、と分かった。
山の形や海への道は似ているのに異なる景色。最初は新鮮、というよりは奇怪で、鍛錬するにも譲が手入れしている庭木の枝を傷つけてしまうのではと気を使ったものだが、不思議と今はすっかりその狭さの中で剣を振るう事に不自由を感じなくなっていた。
今のように、他に誰も庭にいないときは特に。
中央を陣どり、九郎は向こうでしていたように風を斬る。ただし愛刀は使えない。譲はともかく将臣にまで真剣な顔で止められてしまったから、かわりに彼らが用意してくれた木刀を振るう。
真剣はもとより、木刀を振るう習慣さえもあまりこの世界にはないそうだ。確かに武器を手にした者はいないが……不思議なものだ、ならば望美たち三人はどこで鍛錬を積んだのだろう。改めて彼らが凄い人物に思えた。
その望美たちは今日は皆で出払っている。八葉たちの好きそうなものを色々買いに行くと言っていた。
九郎は留守番だ。「九郎さんがいると不安なんです!」と気迫のこもった顔で言われてしまったからだ。不服だったが……昨日『自動車』に轢かれかけた九郎なので反論はできない。留守番も兼ねて今日は庭で鍛錬を積むことにした。
規定回数を終えたところで、ふう、と一度、手の甲で額をぬぐう。
冬だから当然だが、今日は特に寒い気がする。陽射しはこんなにも温かなのにな、と、見上げたら眩しくて、そむけた。
そむけた先には弁慶がいた。
とはいっても庭にではない、部屋の中の『こたつ』のところで、にこにことこちらを眺めては手招きをしている。
なんだろう、もしかして彼も来る気になったのだろうか? 思いながら九郎が窓を開けると、彼は、
「九郎、みかん食べませんか?」
と、予想と真逆の事を言うものだから、
「いらない!」
九郎は窓をぴしゃりと閉め、ぷいと横向きまた素振りを始めた。
本当は弁慶も望美たちと共に買い物に行くつもりだったらしいが、九郎が残ると聞いたらとりやめてくれたようで、今は共に張り番だ。そんな彼を最初は嬉しく思ったものだったが……最初だけ。鍛錬に誘っても「寒いから嫌です」の一言で蹴られたし、なにより、
ちらり、と見る。
弁慶はあのこたつというものを大層気に入ったようなのだ。
確かにあれは温かい。が、九郎は好きじゃない。つい長居したくなってしまうのだ。こたつには魔が住んでいる、と最初に言ったのは譲だったか、望美だったか、最早覚えてもいないけれど実際その通りで、あれは人を堕落させる。
とはいえこたつに悪気はないのだから、こたつが嫌い、と言うのはこたつに無礼なのかもしれないが、九郎はこたつを避けたかったし、なにより、こたつと弁慶の組み合わせが嫌いだった。
皆こたつを好いてやまなかったが、特に弁慶と景時の振る舞いは目に余るものがあったからだ。
あの二人は一度こたつに入ると、まるで根が生えてしまったかのように動かない。挙句そのままうたた寝まではじめる始末。確かに気持ちいいのは九郎だって知っているけれど……だらしない。
だが、九郎が言ってもヒノエが馬鹿にしても、敦盛が困ったように見ていても、二人は動かない。唯一の例外は朔だったが、朔の言葉が効くのは景時だけなので、弁慶は、隙さえあれば終始こたつで暖を取りっぱなしなのだった。現に今日だって、皆を見送ってから一瞬たりともあそこから動かないではないか。これでは九郎を気遣って残ったという言葉も怪しくなってくる。
こたつなど。九郎は膨れながら、突きの動作を繰り返していたが、ふいに、弁慶が立ち上がってこちらに近づいてきたのが見えたから、一度動きを止めた。
「どうした?」
声をかけると、今度は弁慶が窓をからからと、五寸ほど開く。が、そのまま何も言わずにまた、こたつに戻って、
「ほら、望美さんが昨日たくさんみかんを買ってきてくださったんですよ?」
と、山盛りのみかんを笑顔で見せつけただけだったので、
「……いらんと言っただろう」
九郎はますますそれに怒り、再び素振りを始めた。
「九郎、みかん好きでしょう?」
「ああ……だが今は鍛錬の途中だ、後回しにしてくれないか」
「京にいた頃は、途中でも一緒に団子を食べたりしたじゃないですか。何をそんなに意地になってるんですか」
「いい加減しつこいぞ!」
意地も張りたくなる。
こうも九郎を誘惑するこたつに負けてはならないと、その一心だというのに……そもそも日頃から九郎はこたつは好かないと散々言っているというのに、よりにもよってみかんまでつけてくるとは。弁慶の姑息さに九郎は実際、やけになっていた。
大人げないのかもしない。だが譲れないものもあるし、そもそも今日はまだいつもの工程の半分も終わっていない。冗談じゃない。
なのに九郎がこれだけ怒りを露わにしたところで、弁慶は引き下がらなかった。
「早くしないと、皆が帰ってきてしまいますね。そうしたら、これもなくなってしまうんじゃないかな?」
「だから……」
顔をしかめつつ彼を見やると、弁慶はいつのまにかしっかりと卓の上にみかんを山盛りにしていた。
そのひとつをおもむろに手にして、むきはじめる。白い指にみかん色はよく映えて、随分とみずみずしく見える。遠慮なしに球を半分に、さらに半分に割ったところで弁慶は豪快に頬張った。
「!」
「少し大きかったかな」
白い繊維質を爪で丁寧にのぞいてゆくと、みかんの色の濃さが遠目に分かる程に濃さを増す。そして今度はひと房だけとって、行儀よく口に運ぶ。しばらく咀嚼して、ごくりと飲み込む。喉を通って落ちてゆく。
「おいしいみかんです」
にこりと、みかんをみたまま彼は言った。つい手を止め見つめていたことに気付き、九郎は慌てて素振りを続けようと思ったが、
「ふう、すっかり九郎に嫌われてしまいましたね」
皮をむきながらなおも弁慶は言うから、九郎の腕は下がり、心はうろたえてしまった。憂いを帯びた声で……それは、みかんの事を口にしたのだと分かっているのに、何故かひどい罪悪感に……まるで自分が弁慶をないがしろにしたような気にさせられる。
「弁慶、お前は…」
「こんなに綺麗な色をして美味しそう、いや、実際に美味しいのに、九郎は何が気に入らないんでしょう」
「だから、そういう話ではなくて」
「じゃあどういう問題ですか?」
困惑する九郎をどこか忌々しげにじろりと見上げた後、弁慶はみかんを贅沢に、かなり大きめに取り分けて、ゆっくりと、見せつけるかの如くに口に運ぶ。
「……うっ」
綺麗な橙が、紅色の口内へ消えてゆく。しかも唇を指で拭いながらうっとりと、幸せそうな顔で弁慶は手の中のみかんを見つめる。
「仕方ないから君の分をむいてあげますよ」
「いや、だが、」
反論の途中で、ごくり、と、九郎の喉がなって、口ごもった。
そんな九郎を北風が撫でる。ひゅるりと髪が揺れさらされたうなじが冷たくて、反射的に身をすくめる。
まずい。これでは弁慶の思惑通りではないか。九郎は思い、せめてもの抵抗で柄をしっかりと握りしめるが、
「ほら、九郎」
もうひとつ、するすると綺麗にむいたみかんを手にした弁慶に微笑まれてしまえば、
「……仕方ないから騙されてやる」
最早負けを認めるしかなかった。
「素直にみかんが食べたいって言ってもいいんですよ、九郎?」
「……否定はできないが、気乗りしない鍛錬は怪我の元だからだ」
俺も情けないな。口の中で呟き、木刀はとりあえず縁側に置いて、九郎は直に窓から部屋に上がり、ぴしゃりとガラスを閉めた。
だけど、けして彼の言葉に丸めこまれたわけでも、みかんの誘惑に負けた訳でもない。
見苦しい言い訳だ、それでも九郎が負けたのは、あくまで弁慶本人に対してだ。彼がどれだけ分かっているのか知らないが、こんな風に、無邪気に、もとい無防備に笑う彼に……九郎はとても弱い。
「おかえりなさい」
「……」
だから、相変わらずにこにこと笑う彼から目が離せない上に言葉も返せなくて、無言のまま九郎は弁慶の斜めに座り、こたつに足を入れた。
部屋の中は思っていたより暖かではなく、その上動くのをやめていたせいか妙に寒さを感じる九郎の体に、しみ込むように熱が広がる。
……やはり、こたつは反則だ。あたたかい。癒えてゆく。……こたつなんて、という敵対心さえも消えてゆくような気がしたが、
「まさかこんなことで九郎がつれるとは」
「頼むからこんなこと、なんて言わないでくれ……」
言われれば、ぺたりと卓の上に頭を乗せつつ、心の底からぼやいてしまった。
「? ああ、知りませんでした。九郎はそんなにもみかんが好きになっていたなんて」
「いや、みかんじゃなくて……まあ、なんでもない」
なのに間近から見上げる弁慶はなんでもない風で、九郎はますます、本心なんて言えないような気がした。
九郎からすれば、こたつの最も性質の悪い所は、この距離感だ。
この世界の家は小さい、部屋も小さく、卓も小さい。故に、自然に人との距離が近くなる。庭での鍛錬同様今では大分慣れたとはいえ、たまに、このように当たり前な至近距離で微笑まれると、見惚れて、本当に困る。同時に、他の連中が見たらどうなるか気が気じゃない。
一体九郎のどこまでお見通しなのだろう、弁慶は微笑むと、更に身を寄せてきて、中から掌を握った。どうにも強張る手のひらに押しつけられる親指。思ったよりもひんやりとした彼の手は、だけど温かい。
「……全く、お前がこうしたかっただけじゃないのか?」
呆れながら言うも、今の九郎がそんなことを言ってもただの負け惜しみ。観念してほころびながら、繋がれた手を握り返す。
「そうですね、実はそれもあるんですが、でも九郎、少し脈が早い」
なおも九郎を見透かすような言葉に、ますます鼓動が早まる思いがしたが、それよりも、
急に体の重さを感じた。どっと襲いくる疲労。
それだけじゃない、身を起こそうとすると、眩暈までするものだから、
「……あれ?」
九郎は空いている手で額を抑えてしまった。
まさか。隣の弁慶を見ると、彼はいつの間に用意していたのか、こたつの中から肩かけを取り出して、
「本当は布団に寝ているべきなのかもしれないですが、この世界は色々便利ですから、ここにいても平気かな」
と、ふわりと十分に暖められたそれを九郎の肩にかけた。
「弁慶」
「熱がありますよ」
自分では全く気付いていなかったが、どうやら九郎は体調を少し崩していたようだ。
「君は随分と望美さんたちにあちこちに連れていってもらったようですから、疲れがたまってしまったんでしょう」
「まさか、最初からそのつもりで?」
「半々、かな?」
「……それなのに、俺はお前の言葉を聞こうともしなかったんだな」
「大袈裟ですよ。半々、と言ったでしょう? 僕はただここで君とみかんを食べたかっただけですから」
「………すまない」
彼の気遣いに、九郎は謝罪しか口にできず、ますます不甲斐ない思いがしたが、
「ふふっ、九郎が僕のことを信用しないなんて、今にはじまったことではないでしょう?」
「そっ、それはだな!」
突如言われれば、声を荒げてしまう。
途端、ぽい、と、口の中に突然放りこまれた、甘酸っぱい香り。
「…っ」
「そもそも、最初から言わなかった僕も悪いですしね」
九郎の唇をその指先で押さえつつ、くすくすと弁慶は悪戯っぽく笑っていた。
「九郎、果物は健康にいいそうですよ、譲くんが言っていました。だから、」
そして改めて、先程むいていたみかんから、食べやすい大きさに房を割り取り、
「今日は僕とゆっくり、ここでみかんを食べましょう」
なんて言葉で九郎に差し出した。甘い笑顔。甘い口実。後ろめたい九郎は少しだけ躊躇したが……弁慶が九郎を気遣ってくれたのならば、今すべきはそれに応えることだけだろう。思い、結局頷いた。
「……ああ」
やっぱり彼にはかなわない。目を伏せながら、眼前の橙を頬張った。
そういえば手狭な有川家でこんな風に二人きりで過ごすのは、随分久しぶりだった。
こたつでみかんを九郎に餌付け
が書きたかったのまではよかったんだけど2連続で病気ネタでちょっと恥ずかしい
弁慶はそんなにこたつの住人ではないと思います、ただ庭好き(っぽい)九郎からみたらそう見えるだけで
(19.10.2009-23.10.2009)
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