空を見上げる。
梅雨の合間の青空は久しぶりで、まっすぐ射す光を手でさえぎってもいつもよりやけに眩しく見えた。普段のうっそうとした淀みを浄化してゆくかのようだ。気持ちがよくて、目を閉じる。それでもなお空の明るさが目蓋の裏にまで届いたけれど、それを越える気持ちよさに、少しうとうととしてきた頃、
「……本当にいたのか」
と、声がしたので、瞳を開けた。
先に飛び込んできたのは眩すぎる程の青に目がくらみ、それこそ清められそうな心地がしたけれど、やってきた彼がひょっこりと顔をのぞかせ影を作ってくれたので、ちかちかした太陽の焦げ跡越しではありながら弁慶は眼を開き彼を見ることができた。
「よくここが分かりましたね」
「譲が偶然登っていくのを見たと言っていた。正直、半信半疑だったが……いつから屋根になど登る趣味になったんだ?」
「今日からですよ。先日、敦盛くんがこの場所は気持ちがいいと言っていたのを話していたので、機会があったら試してみたいと思っていたんですよ」
「高いところが苦手なのに?」
「失礼ですね。僕は人並み、九郎が高いところが平気すぎるだけです」
「……」
九郎は腰に手を当て、少し面白くなさそうな顔でしばらく弁慶を見下ろしていた。だけどそれも束の間だ、ばたばたと羽ばたく音に顔を上げた彼のほんの目の前を鳥が横切っていく。
「!」
それに驚いた九郎は少し身を引いたが、彼の瞳は、そんな彼に構わず飛んでいってしまう鳥を追ってゆく。その先には北の山々。再び彼の視線は止まる。感嘆した顔。緑に見とれているのだろう。
「九郎もちょっと寝転がっていきませんか?」
誘っても、多少躊躇っていたようだったけれど、
「ん、そうだな。別に急ぎの用もないし、構わないか」
結局は隣に腰を降ろそうとしたので、邪魔にならぬよう弁慶は今まで無造作に広げていた手を胸の上へ折りたたんだ。
けれど九郎は寝転がらずに、座ったまま上から気持ち良さそうに景色をくるりと見渡した後、こちらを見下ろして言った。
「今日はやけに機嫌がいいな」
そうだろうか? と、弁慶は思ったけれど、言われてみれば確かに、今はとても気持ちがいい。
「そうですね、嬉しいですね」
「なにかあったのか?」
「空の青が綺麗ですからね。こうしていると吸い込まれてゆくようで……とても澄みきった気持ちになります」
手をめいいっぱい伸ばしながら笑うと、九郎もなおも嬉しそうに
「そうだな」
と笑った。つられるように、更に弁慶の心が軽くなるけれど、
「それに、先日九郎がまた戦で勝ちましたからね。それからずっと、実はご機嫌だったんです」
先日の三草山の戦の事を口にした途端に、九郎の方は一気に落ち込んでしまった。
「あれは勝利とは言わないだろう」
「確かにこちらの被害は甚大でした。けれど平家だってしばらくは京へ踏み込むことはできないでしょう。だったら、立派に君は役割を果たした。大将としての地位も確固たるものになってゆく。いいことですよ、僕にとっては」
「それはそうだが…」
九郎はなおも難しい顔をしていた。悔しいというなら分からなくはないが、鎌倉殿の事を考え焦っているのだろう。
「九郎は真面目ですね」
ごろりと、空から彼へと向き直り、弁慶は屋根に広がる九郎の髪をひとつまみ手に取る。
「それより、一番嬉しいのは京に帰ってこれたことかもしれないですね。これは立派に君の功績ですよ」
「京がか?」
「ええ、君と最初に出会った場所だからかな」
言うと、九郎は顔をほんのり赤らめた。
「恥ずかしいことを言う奴だな」
「そうですか? 君を見習って、たまには本音を口にしてみただけですよ」
それがおかしくて弁慶はくすくすと笑う。
けれど本当のところ……それは本音ではあったけど、全てではなかった。
それよりもっと、九郎が来たことで、京の人たちが嬉しそうにしていることに胸が詰まった。どんどん力を取り戻してゆく街に、弁慶はほころばずにいられない。
九郎と神子がこの地を塗り替えてゆく。自分の目の前で、彼らの手によって、きっと彼らのように…この青空のように穢れ無き色に染まってゆく。それがなにより嬉しかった。
弁慶は髪先を掴んだまま、もう一度くるりと体を起こして空を見た。直視すればくらくらと眩暈のする眩しい陽の光。視界に影ができるし、気も遠くなってゆくようだ。けれど今はそれが心地よくて、
「平和になったら、こうやってごろごろ過ごしたいですね」
つい、そんなことを口にしてしまった。さすがにしまったと思い、恐る恐る九郎の方を向き直る。真面目な九郎のことだ、また怒られると思ったのだ。
けれど光ゆえに少し落ちた視力でちらりと彼を盗み見れば、意外にも笑っていた。
「……?」
しかも、楽しそうに、声を漏らして。
「九郎?」
「あははははっ、いや、すまん、そんなに怒るな。ただ、お前がこんなにゆっくりできる筈などないだろう。時間ができればどうせ新しい薬草作りだの、本をまた部屋に積んだりするにきまっている」
「ああ……確かに」
あまりにも的を得ていて、驚いた。とはいえ、今まで調べ事に没頭していたのは、龍脈の事を調べていたからで……なんて、彼に言えぬことも思ったけれど、
「昔から、僕はそうでした。そして君は」
「剣ばかり振るっていたな」
それこそ九郎と出会った頃から自分も彼もそうだったではないか。
「ほら」
感心していたら、九郎は得意げに笑った。いつものように向き合っているならともかく、今は互いに寝ころんで空など見ているものだから、妙に幼く見えて、
「そうですね、ふふっ」
弁慶も声を零して笑ってしまった。九郎の声も重なって、高く遠い空に吸い込まれていく。沈んでゆく。
やっぱり今日はいい日に違いなかった。
(25/09/2009)