それはゆるやかに暑さの増してゆく夏のある日の昼下がり。
熊野別当であるヒノエが勝浦に用意してくれた宿は広く、通り抜ける風は涼やかで、また、今の彼らにとって本題である熊野の怪異を解決する手立てが見えてきたからか、いつもはどこかへ出かけてゆき、情報を仕入れながらも街の賑やかさや熊野の景色を心に満たし、土産話として持ち帰る神子と八葉も、今日は宿の中で思い思いにのんびりと過ごしているようだった。
ついさっき庭の見える一番大きな間を通りかかった時には、望美と白龍と景時は仲良く昼寝、朔はその隣で縫物をしていたし、譲と敦盛は先生と猫と戯れていただろうか。
弁慶もできることならばそれに加わりたかったのだけれど、軍師と薬師の二つの顔を持つ彼なので、ゆるりと過ごす訳にもいかず、一人、遠いところで筆を取り、京にいる源氏の将への書状を書いていた。
静かな午後だった。あまり暑さも感じない過ごしやすい日だった。昨日はもっとうんざりするほど暑かった、その反動だろうか。でもこれなら皆も、特に譲もゆっくり眠れるだろう。
鳥のさえずりも心地よく、筆もさらさらと進む。
大方書きあげて、ふう、と息を吐き筆を置いたとき、馬がいななく声がした。
誰かがでかけるのだろうか? 馬に乗って出るなど、ヒノエか…けれどヒノエは確か朝から居ないから、景時か。折角の休みなのに同情するところだけれど、それを遮るように、突然もっと慌ただしい音が外から聞こえてきたので、弁慶は顔をあげてそちらを見た。
視界に突如躍り出る白い影。息を切らした九郎がひらりと部屋に飛び込んできた。
「弁慶髪を梳いてやろう!」
「……はあ?」
その剣幕だけでも目を見張るものがあるというのに、挙句あまりにも唐突な事を言うものだから、弁慶はきょとんと彼を見上げてしまった。
「髪ですか?」
「そうだ!!」
一体どんな風の吹きまわしなのだろう、九郎の、既にしっかりと櫛を握りやる気十分、なのに緊張で袖の先まで硬直しているような様はまるで苦手な将に会いに行く前の面持ちだ。
断るのは難しいのかもしれない、
「今じゃなければ駄目ですか? 僕、少し忙しいんですけど」
「今が好機なんだ!!」
そんな予想通り、九郎はやはり聞く耳持たずで勝手に弁慶の背後へ周って腰を降ろし、本当に、言葉通りに結った髪の下の方からゆっくりと櫛を通し始めた。
「……景時がいないからですか?」
「景時? 景時なら望美たちと洗濯物に埋まって眠っているぞ。それにどうして景時が出てくる?」
その手つきはひどく丁寧だ。それでも時々引っぱられるような痛みを感じるのは不慣れなだけか、それとも緊張しているからなのか。
とはいえなにより気になるのは彼のこの唐突な行動だ。
弁慶は動けないなりに背後に気を向けながら、
「馬の声がしたから、景時が出たのかと思ったんですよ。そしたら九郎が飛び込んできて今髪をとかせろなんて言い出すから、よほど景時には知られたくないことでもあるのかと」
問うと、動揺したのだろう、途端髪が強く引っ張られた。
「痛」
「か、景時は関係ない! それになんでもないんだ、なんでも!!」
「……なんでもない、ねえ」
弁慶は筆を硯に浸しながら、ふと白んだ空を見る。
昔からの知り合いで友人である九郎がいきなり弁慶に対して大げさになったのは、今年の春あたりからだった。
戦場では至って真面目、今までと全く変わらない、それどころか責任の重さに堅苦しさだけが増しているような九郎だったが、そこから離れた時、特に景時の家あたりで顔を合わせた時にはどうしてか一人で勝手に赤くなったり青くなったりするようになった。
一体何を経てそんなことになったのかは知らないが、他でそういう九郎の姿を見ない以上、弁慶が関係しているのは当然と言えるし、その意味するところは当事者である弁慶からしたって明らかだ。
人はきっと、それを恋と呼ぶ。
想いを寄せる相手の髪に触れたい、という感情は当然だと思う。
とはいえ、だ。九郎は九郎、彼の事を弁慶はとてもとても知っているが、彼にたとえ春が訪れたとしても、こんな、髪を梳くなんて随分と艶やかさを含んだ事をこんな昼間から積極的にやるはずなどない。
ただの思いつき、という線も考えたが、この反応を見る限り、彼自身だってただの友人同士でやることではないという意味を分かっている。
「君がなんでもなくこんな事するとは思えませんけど?」
「いや……するかもしれないぞ?」
「しません」
「うっ」
きっぱりと断言すると、九郎は言葉を詰まらせ、ついでに手の動きも止めた。どうやら自覚はあったらしい。
「九郎?」
追い打ちをかけるように名を呼ぶと、彼はしぶしぶと話し始めた。
「なんというか……これは多分、願掛けのようなものだ」
「願掛け、ですか?」
「ああ。全ては兄上の為だ、耐えてくれ、弁慶」
と、なんだか随分と苦しい言い訳をしたあと、ごほん、と咳払いをひとつして九郎は再び黙々と髪を梳き始めてる。
それにしても願掛けとはまた、随分可愛らしい。
「だったら仕方ないですね」
「そうだろう!」
成程、九郎の様子と彼の説明で、事の真相が随分と見えてきた。
きっとさっき馬で出て行ったのが、九郎にそんなことを言った人間。それが誰かなど、軍師でなくたって簡単にわかるだろう。
「成程、馬で出たのは景時じゃなかったんですね」
「だから、どうして景時が」
「独り言ですよ」
そう、景時が九郎にそんなことを言うわけがない。犯人はもっと単純で、明白だ。
ということで、次の日、熊野川へ向かう途中、速玉大社で少し休憩をとっている時に、怨霊から攻撃を受け傷を負った将臣に薬を塗りこみながら、弁慶は問いかけた。
「で、何を吹き込んだんですか?」
二人きり、逃げられぬ状況。それは九郎によからぬ事を言った犯人に問い詰めるには絶好な時間。
利用する手はないと、それまでは戦い方がどうのとか望美がどうのとか、他愛もない話をしていたというのに、何の前置きもなく世間話からいきなり切りこんだ。
すると将臣も、
「……おいおい」
などと言いながらも表情を変えた。それまではただ傷の痛みで顔をしかめてばかりだったというのに消え去って、普段の余裕気なものに変わった。
「一体何のことだ? 心当たりが多すぎて分からねえな」
言葉とは裏腹に、全く隠すつもりもない見え見えの口調。
「とぼけるつもりなど最初からないのに、そういう態度はどうかと思いますよ」
治療の手は休めることなく更に言うと、将臣も、まるで悪戯が見つかった子供さながらな顔であっさりと認めた。
「さすが、ってところか?」
「褒めても何も出ません」
「そりゃ残念だ」
言葉に将臣は肩をすくめてからからと笑う。それでも目はどこか鋭くて、
「だけど、誰に言われたでもなく、ただ九郎がそうしたかっただけだった、なんて、思ってはやらないんだな、あんたは」
「思いません」
「……おいおい、言いきるのかよ」
弁慶は笑みを返す。
とはいえそれは確かなことだ。
弁慶のやることは、実際深い意味や裏を持ってる場合も多い。こういう性格はちょっとどうかと自分でも思うところだが、
九郎が戦場以外で、目に見えておかしなことをするときには、やはり必ず裏があるのだ。
笑顔を向けながらじっと言葉を待てば、将臣は、
「分かった分かった。でも、たぶんお前が思ってるようなことじゃないと思うぜ? 普通だよ、普通。『大切な人の髪を10日続けて梳かすと願いが叶う』って教えておいた。俺の世界のまじないだっていう名目でな。ま、望美や譲に聞けば一発で嘘だってばれるけど」
と、本当に悪びれた様子もなく、ごく自然に、天気の話でもするかのような気軽さでそう言った。
「将臣くんが言う割には随分と可愛らしい願掛けですね」
「あんまりきっついこと言っても九郎が可哀想だろ、俺は別にあいつをいじめたいわけじゃねえし」
「詭弁ですね」
とはいえ、正直なところこんな将臣の反応は弁慶にとっては意外だった。
それは相手も同じだったのか、
「しかし驚いたな、あんたはもっと睨みを効かせてくるかと思ってた。少しひやひやしてたんだぜ、殺されたらどうしようってな。なのに、まさかこんな、医者の顔そのままで聞かれるとは思わなかった。これじゃあ本当に悪いことしでかした気分だ」
なんて言われてしまえば、なんだか複雑だ。
「僕もですよ。君はもっと、僕が話を振った時に、食らいついたみたいな、してやったりみたいな顔をしてくれるのかと思ってましたから。九郎をからかいたいのでしょう? 僕が釣れたら、成功の証じゃないですか」
「いや、ヒノエは知らないが、俺は単純にあんたのリアクションに期待してただけだって。九郎は天然すぎて、かついでもこっちの良心が痛むばかりだからな。……とはいえ、こんなにしれっと突っ込まれるとは思わなかった。こりゃこっちの負けだな」
低い声、将臣らしい潔い謝罪だった。九郎は好みそうだが、弁慶にはそれはどこか探っている風な印象を与える。望美と譲の幼馴染、けれど今はどこかに属しているという彼。それが気になっている。相手もまた然り、と言ったところなのだろうか?
無意識に目が細くなっていたのを感じて、弁慶は改めて微笑んだ後、包帯を取りだす。
すると将臣もすっぱりと笑った。
「ま、でも願掛けの必要もないみたいだけどな」
「そうですね、怪異がどうにかなるめどはつきましたし」
ぐいぐいときつく巻きながら返すと、将臣が少し呆れたように言う。
「おいおい、九郎の願いがなんだか、分かってない訳じゃねえだろ?」
「鎌倉殿の為に熊野へ一刻も早く赴いて協力を取り付ける事、でしょう?」
「……わざととぼける、ってか。意外だな」
「そうですか?」
将臣の言いたいことは分かる、でも九郎が兄の事を主に考えているのは確かだと思う。
彼は九郎のそんな面を知らないのだろう、それに。
きゅっと結び仕上げたついでに、きっちりと巻いた包帯の上から傷口を叩く。再び顔をしかめて将臣が叫んだ。
「いてっ、分かった分かった、九郎はお前のものだ、もう余計な口は挟まねえよ」
「全く、いつまでそんなこと言ってるんですか。僕は別に九郎に何もするつもりはないですよ」
「はあ?」
「今がいいんです」
微笑みを返しても将臣はまだ訝しげに弁慶を見上げていた。
「今が永遠じゃない、ってお前なら言うと思ってたんだがな」
「君らしい言葉ですね」
痛みのせいなのか疑問なのか、それは知らない。
けれど将臣は顔をしかめたまま、それきり弁慶にその話題を振りはしなかった。
だから弁慶もそれきりなにも口にすることはなかった。
とはいえ、だ。
数刻後、将臣から聞いたのか、ご丁寧に主犯のもう片方であるヒノエがやってきて、
『相手の出方を待つなんてダサい』
とか、
『自分の手を汚したくないんだろう? 相変わらず姑息だね』
とか散々言っていった時には流石に頭にきて、ついつい、『まだまだ子供ですねヒノエ』などと鼻で笑いつつ、『ヒノエは戦闘で深追いしすぎだ大して強くない癖に踏みこんでゆくなんてよほど僕に傷の手当てでもしてほしいんですか?』とついでに前から思っていた事を指摘したらさすがに分が悪いと感じたのか、
『腹黒変態軍師!』
とかいう捨て台詞とともにそのまま逃げ帰って行って彼もその話題は口にしなくなった。
「僕ってそんなにひどい印象なんですかね」
「なんだ、いきなり?」
「いえ、なんでも」
九郎は最初の日以来、せっせと髪を梳きに来つづけていた。今日で7日目。
最初は人に見られるのを嫌がっていたものだけれど、将臣たちがもう隠しておく必要もないだろう、と判断したのか、望美や白龍経由で『願掛け』の話はあっという間に広がってしまい、九郎も開き直って最早あまり気にはしなくなった。
同様に、二人の間に不似合いに漂っていた緊張感もなくなっていった。今ではすっかり髪を引かれて痛い、と思うこともなく、九郎の仕草はただただなめらかだ。
元々彼は手先が器用だからこうなるのは時間の問題だっただろう。でも、それは少しばかり寂しいような気がしたし、なにより……回を重ねてゆくにつれ、弁慶も複雑になってくる。
痛みを伴わないからあまりにも心地いいのだ。
『僕は何もするつもりはないですよ』と将臣に言った言葉は確かだけれど、弁慶だって九郎が嫌いなわけではない。嫌いだったらこんなことさせてはおかない。故に邪な気持ちが芽生えたりもしなくもない。
今だってそう、彼に背を向けているからまだいい。なにかの拍子に目でも合ってしまったら……振り切ると言い切ることはできない。 こうなってくると九郎の分まで弁慶が緊張しているのではないだろうか、とさえ思えた。
九郎は九郎で、今は一心不乱に髪を梳くことに集中しているからいいが、昨日も一昨日も、髪梳きが終わった後は庭の隅で必死に剣など振っていたりするのだから……全く源氏の大将と軍師が揃いも揃って情けない、と、弁慶自身も傍から思うに違いない。
が、九郎のそんな様は彼らしい。ついくすりと笑ってしまう。
「本当、真面目なんだから」
「だからなんだ!?」
「いえ、こっちの話です」
今日もきっとこのあと望美と剣の稽古でもするだろう、それを将臣たちも目にするだろう。
九郎が彼らの見世物になるのは宜しくないが、弁慶だって彼らの思い通りにするつもりは全くないのだ、仕方ない。
九郎に何もしようとは思わない、その理由はとてもささやかだった。
将臣もヒノエも恋愛は成就させてしかるべき、と思っているようだけれど……今のこの時を、なんでもない関係を楽しめないなんて。
「だから即物的で子供なんだ」
「俺のことか!?」
独り言だったのに、背後で九郎が青ざめたような声を出し、あろうことか櫛をごとりと落とした。
「九郎?」
振り返ろうとした矢先、肩をぐいと引かれた。目があった彼は青いどころかまるで柿のように顔を赤らめて、息の吸い方を忘れてしまったかのような形相で弁慶を見下ろしていた。
「た、確かに、俺はお前より年下だだけど」
そんな顔をされたら、それこそ弁慶だって言葉に詰まる。が、それも一瞬。
「……ヒノエのことですよ」
「そ、そうか……」
弁慶がそう訂正すると、途端に彼はわたわたと離れ、都合悪そうにくるりと目をそむけた後、櫛を拾ってまた髪を梳きはじめた。
再び繰り返される、心惹かれる感覚。弁慶は微笑んでしまう。瞳を閉じて、観念してしまいたくなる気持ちを幾絵にも包む。
そう、ただ髪に触れているだけでこんなにも思いつめてしまう九郎を陥落させるなど、弁慶にとっては至って簡単、それこそさっきあのまま見つめあっていればよかったし、今からであろうとただ、彼から櫛をとりあげて「僕もかわってあげましょう」とでもいえば、九郎のことだから都合のいい方向へ勘違いしてくれるに違いないのだ。
ならば何を今更焦ることがあるのだろう?
戦乱の世、明日があるかも分からぬ命、そうは言うけれど、待ちわびていたい時もある。
そう、ただ弁慶は彼に負けてみたいだけなのだ。
弁慶は九郎の事は大抵把握しているつもりだけれど、時折彼は予想もしないような事をする。五条の橋での出会いからしてそうだったし、平泉でも、鎌倉でも、そして今この戦場でもだ。源氏の軍を率い、こちらが思っていた以上の策で敵を蹴散らし、大将だというのに剣客相手にも躊躇なく踏みこんでゆくその姿。
だからこそだからそう、たまにはこちらが思いもしないほど鮮やかに、九郎に驚かされてみたいのだ。
随分と過剰に自分を気にかけてくれている彼は、きっといつか弁慶では太刀打ちできないほど真剣にこちらを口説いてくれるのだろう。それが楽しみで仕方がない。それに比べれば、簡単に想いを通わせてしまうことなどあまりに些細だと思えてしまうのだ。
……とはいえ、こうしてこちらの言葉ひとつにも動揺する九郎を見ていれば、それは、随分と性格の悪いことのように思えてしまうのだから困りもの。ヒノエの言うことも一理ある。
「確かに、僕はひどいのかもしれませんね」
「……さっきからお前の言うことはよく解らん」
それでも今は九郎に甘えよう。
尚も不愉快そうな九郎の声に、弁慶は胸一杯に熊野の清浄な空気を吸い込みながら、目を閉じ願いを重ねる。
「九郎の願い、叶うといいですねってことですよ」
「そうなのか? それは……ああ、そうだな!」
何よりこんな心地いい時間を手放すなど、それこそ勿体ない。弁慶はくすくすと笑ってゆったりと過ぎゆく夏風に身を委ねた。
どうしても九郎の髪をいじる弁慶が書きたかったんですが、
どうしてもシチュエーションが思いつかなかったので逆にしてみたのがきっかけ
(なまぬるさに対する言い訳)(12/06/2009)