京へやってきて二月あまりが経った。
九郎が兄である鎌倉殿の名代として慌ただしくしているうちに雪積る白の頃はとうに過ぎ、大地は小さな花や緑で色とりどりに重ねられてゆく。春が来る。
京で春を過ごすのは九郎にとって相当久しぶりだったが、今でも覚えているその美しさ。平泉でも鎌倉でも春が来るとなんとなくほっとしたものだったが、帝の住まう京の美しさは格別で、いつか鎌倉もそんな風に美しい都にできればと春を迎えるたびに思っていたものだ。
そんなことを考えながら、いつものように景時が借り受けている六条櫛笥公司の館へ向かう。
門を通り屋敷にあがると、皆いつものように庭の見える間に集まっていて、九郎が顔を出すなり真っ先に望美が
「おはようございます」
と笑顔を向け、九郎や他の八葉もそれに習った。
二日ぶりに出向いた景時の庭の梅はついに終わりを迎えはじめている。六条通りに咲いている桜のつぼみも赤みを増して、いよいよこらえ切れずに白い花をほころばせていた。本格的な春の装いだ。
そんな、鮮やかになってゆく庭で一日を過ごすのが望美の最近のお気に入りらしい。
今日も皆と円を作って……たしか、ばれーぼーるとか言ったか、蹴鞠を布でくるくるとくるんだものを、足ではなく腕で受け止めながら飛ばして遊んでいる。
「九郎さんもどうですか?」
「いや、俺は見ている」
「九郎さん、こういうの好きかなって思ったのに」
譲の問いに九郎が首を振ると、望美が残念そうにするから、少しだけ心が揺らぐが、結局九郎は縁側の白龍の隣に腰を降ろした。
「九郎、神子と遊ばないの?」
「そんなに長居するつもりもないし、景時に話さなければならないこともあるからな」
「でも、景時は今日は遅くなるみたいですよ」
「そうか……だが俺の事は気にするな」
「そうですか。では、九郎が悔しがるくらい楽しく遊びましょうか」
「あんた、ほんっとに性格悪いの変わってないんだな」
「ヒノエに褒められるとは思ってなかったですよ」
「それ多分褒めてないですよ弁慶さん」
「ふふ」
結局、そうまとめた弁慶が、一度九郎にゆったりと微笑んだあと、彼らはまた球遊びをはじめた。
兄の名代として、源氏の御大将として京へやってきて以来、九郎のやる事は後を絶たないが、それでも京へ来た冬よりは随分と穏やかな時間で、それを象徴するようなこの光景は好ましい。つい無意識に目を細めて彼らを眺めてしまう。
けれど、望美、譲、朔にヒノエ、白龍も混じったり混じらなかったりで、彼らがこうして遊んでいるのは日常茶飯事だったが、そこに弁慶まで混じっているのは珍しい。
彼は随分と、望美たちの隣で楽しそうにしていた。はしゃいでいると言っても過言ではなく、どこか新鮮。そんな様子はいつ以来だか分らぬ程で、なんだか別人のような気がさえした。
挙句、昔からの知り合いだというヒノエと競うように望美に声をかけている姿など、子供と変わらぬ様だ。木曽や平家との戦は一段落したとはいえ、源氏の軍師がこれでいいのか、思って九郎は、
「弁慶」
「なんですか?」
と彼を呼ぶが、途端、さっきまでヒノエに向けていた勝ち気な顔が一転、穏やかにゆるりと微笑むものだから、なんだか九郎は調子を崩してしまい、
「や…なんでもない」
と、口ごもってしまって、今度こそ彼らを眺めることに徹することにした。
九郎が弁慶のことを思い出すとき、彼はいつだってそんな風に穏やかで柔らかに微笑んでいる。
それを見ると、九郎はいつも平泉の春を思い出す。長い季節の先に来る暖かで柔らかい季節。
思いを馳せつつ、しばらくそうして落ちる梅の淡紅の花びらの向こうに弁慶を見つめていたけれど、こちらが気になったのだろうか、彼は輪に新たに飛び込んだ白龍と交代するようにそこから抜けて、九郎の隣に腰をおろした。
「何か問題でも起こりましたか? 九郎が何もしないでいるなんて珍しい」
「いや、ただなんとなく、お前たちが遊んでいるのを眺めていたかっただけだ」
「そうですか」
素直に返すと、弁慶は黒衣からぱさりと薄紅を払いながら、さっき見せた春のような微笑みを向ける。
やはりこれが彼にとっての弁慶だ……無論、他の表情だって九郎は見てきた。先程みたいに子供のように笑いもするし、悪だくみの時は真剣な顔もするし、怒りもする、今だって彼が荒法師として随分暴れていた事は覚えている、
けれど、知っているけれど、まるで出会った頃の剣を向け合った時でさえ、姿形は昔でも表情はこの穏やかなもので浮かぶほど、九郎にとってこの彼は当たり前になっていた。
が、今更ながらに、それは不自然なのではないか、と、唐突に思う。
なんで九郎にとって、それほどまでにこの表情が印象的なのだろう、というより、どうして他の弁慶が虚ろなのだろう……?
それは何故かとても気まずいことのような気がして、……気付いてはいけなかったことに触れてしまったような気がして、九郎は慌てて顔をそむけると、不思議そうな声がかかる。
「……九郎、何拗ねてるんですか」
「なんで俺が拗ねるんだ!」
言葉に振り返ったら、やはりにこにことしていて……はっきり思う。
以前だったらそれを人を食ったような顔と評して眉をひそめていた。なのにどうしてか、今この時は随分と穏やかな印象で……、振り返りざまに半端に挙げた腕が指先が空を切り、
「九郎?」
挙句、ついじっと彼を、柔らかな睫毛の下のこちらを見上げる瞳を見つめてしまった。
それはざわりと風のように九郎を揺らす。不安めいた妙な気持が何故かふわりと九郎を包む。
「だから……なんでもない!!」
つい口にした声はつい高くなってしまった。望美たちまでが何事かとこちらを見たが、九郎に返す言葉はない、一切無い。何故なら自分で訳が分かっていないからだ。
なのに窒息しそうな思いがした。そんな九郎を、なおも皆は不思議そうに見ていて、けれどどうすることもできなくて……結局、
「なんでもないと言っている!!」
立ち上がり、視線を避けるように陽の当たらない屋敷の奥の方へとくるりと踵を返した。
九郎はあまり記憶力のいい方ではない。悪いわけではないと他人には言われるが、今身近な存在である弁慶も景時も、昔馴染みの泰衡も、とにかくそういうことには長けていたので、あまりいいという実感はなかった。
だから、九郎は弁慶と最初に出会った時の事を、良く覚えていない。互いに徒党を組んで京の街を歩いていたことは勿論覚えているけれど、剣を合わせたいきさつかはすっぱりと抜け落ちていて、気付けば比叡の荒法師を剣で打ち負かしていた。で、何故か彼は面白そうだと平泉にまでついてきた。それが弁慶との因縁の経緯だ。
出会ってからもう十年近くたつのだろうか、その間弁慶は常に九郎の隣にいたような気がしている。が、どうして彼が九郎と一緒に来たのか、実は今でも知らない。そして、どうして自分が弁慶の隣にいるのかも、そういえば知らない。そんなことどうでもいいほどに共にいるのが当たり前になっていたからだ。
それでも、九郎の記憶の中の弁慶がいつも同じ表情で微笑んでいる、なんてことを思うようになったのは京に来てからのことだった。
大将としての任を全うしなければならないという想いからなのか、京という懐かしい土地柄のせいかのか、それとも八葉となったからか? きっかけは分からない、だが突然、弁慶の笑顔が焼き付いて離れなくなっていた。しかもそれはどこか可憐なようにさえ見えて……彼とはずっと一緒にいた、ふてぶてしいと思ったことはあれど、可憐だなんて思った事は全くたったの一度もなかった。それどころか誰に対してもそういう印象を持ったことが九郎はなかった。
でも、これまで九郎は、その事実を不思議なものだな、程度にしか考えていなかった。もっというと、どうでもよかった。そういう風に笑う奴なのだろうと高を括っていた。
なのに今、こんなにも動揺してしまっているのは……気付いてしまったからだ。
彼はくるくると表情を変えている。
気づいたきっかけは、さっきヒノエと口論のあとにこちらを振り返った時だ。それまでヒノエに向けていた、負けず嫌いの意地の悪い顔が、振り返った途端にさらりと微笑んだからだ。
あれ、と思った。そのまま見ていれば、望美には華やかに笑うし、同じ神子でも朔にはどこかよそよそしい。譲には兄のように落ち着いてふるまっていた。
ばれーぼーる、をしていないときだってそうだ。景時にはどこか呑気な笑みを向けるし、白龍にはにっこりと笑う。きっと九郎が気づかなかっただけで、泰衡や御館にもそれぞれに顔を向けていたのだろう。
彼らしいといえば彼らしい、けれどなにより器用だと思った。九郎にはそんなこと一切できるような気がしなかったが、他の皆はそうしているのだろうか? 光の届かない土間の入口まできたところで、九郎は壁と見つめ合いながら記憶を辿る。
とりあえず景時がどうであったかを探ろうとしたものの、彼はいつも気の抜けたような笑いを浮かべて呑気にしている風しか記憶にない。
だったら、望美はどうだっただろうか? が、望美は会ったばかりでよく分からない。対して譲や白龍や朔が望美に対して特別な顔をしていることだけは九郎にだってわかったが、他はなんとも言えなかった。
すると、いよいよ弁慶だけが特別に見えてくる、それが彼の癖だとして、どうしてよりにもよって九郎にあんなにゆるりと微笑んでみせる……!?
それに九郎はどうしようもなく戸惑った。というのに、
「九郎、どうしたんですか?」
そんな声とともに、突然腕を掴まれて、九郎は、
「なっっ」
と声を荒げて驚いて大げさに振り返ってしまうと、そこには当然といえば当然……なのだろう、今最も会ってはいけないであろう相手、弁慶がいた。
大きな屋敷の片隅、光差しこむ窓はあれど小さく、さっきまでは暖かく感じた春の風も冷たく九郎を冷やしてゆく、そんなところでも弁慶は、……少なくとも今の九郎には鮮やかで。
心底不思議そうな表情もたおやかに見えて、彼が首を傾げればさらりと黒から零れる明るい色の髪は、まるで細い絹糸かのようにはっきりと、どこか繊細に映る。
「……九郎?」
それどころか、紡いだ言葉の息の強弱さえ気になるほどで、自然に少し血色の足りない唇に目がいってしまう上に、
「い、いや…」
などと口ごもってしまうほどで、
掴まれた腕を九郎は振り払う。
一体どうしたというのだろう? 九郎にだけそうして微笑んでいるのだと気付いたら、突然彼が恐ろしいもののように見えてきた、彼を見ていると、その少し大きな瞳さえ、すっかり見慣れた筈のものだというのに、吸いこまれてしまいそうで、それがどうして恐ろしいのかよく分からないけれど、分からないからこそここにいてはいけないと勘が言う。
それでも辛うじて、掴まれていた腕を所在なく掲げたまま、足は踏み出すことなく九郎が必死に踏みとどまったのは、ただ単に逃げたくないからだ。
だから九郎は、再び弁慶をしっかりと、半ば睨みながら見下ろした。
彼は薄く唇を開いたまま、本当に困ったように九郎を見ていた。重い前髪の向こうの瞳がゆっくりと瞬く。
彼が戸惑うのは無理ないと思う、でもむしろ困っているのは九郎の方だ。次第にまた息が詰まる、瞬きさえできずにそれに見入る、弁慶はじっと動かない、なのに衣擦れの音がする、それは誰のもの……? 疑問に思った矢先、
「弁慶さーん! 九郎さーん!」」
丁度、庭から高い声が聞こえてきて、はたと我に返った。
「!」
同時に、無意識に弁慶の頬の方へ手を伸ばしていた自分に気がついて、一気に青ざめる、今度こそ後ずさり、九郎は踵を返す。
「九郎!?」
呼ばれたけれど、そちらを直視など出来る筈はない、ただ、ちらりとだけ見てあとは一心不乱に土間の隅で草履を履きながら、九郎は叫ぶ。
「兄上の用事を思い出した!」
「僕、知りませんけど」
「俺も忘れていたんだ!!」
そして鋭く追及する弁慶は無視して、そのまま景時の屋敷を飛び出した。
通りに出たところで彼の舎人にぶつかりそうになったけれど、悪いと謝ることもできずに九郎はひたすら通い慣れた道を走ることに集中した。まだ走り出したばかりだというのに息が上がって、どうしようもなくなっていた。
どうやら今の九郎は冷静じゃない。何故なら、今……望美の声がしなかったら、自分は何をしようとしていた!?
それはもう負けたくないとか意地を張っている場合ではなかった。尋常ではなかった。
九郎は全力で走った。けれど頬にあたる春風はすっかり優しさを帯びてしまって、少しも彼の頭を冷やさない。
むしろ鼓動は早くなるばかりで、九郎は六条堀川の屋敷にまさに逃げ帰ると、まだ日が高いにもかかわらず適当に上着だけ脱ぎ捨てて頭から布団を被ってもぐりこんだ。
いつもは景時の家で暮らす皆を少し羨んでいたけれど、今この時ばかりは一人になれて良かったと心から感じた。あのままあそこにいたら、弁慶はともかく望美や譲に合わせる顔がないではないか!
とはいえ、そうして潜り込んでみても胸が未だにざわついている。体中の血が今にも溢れ弾けてしまいそうだった。
闇の中でなおも彼の姿が浮かぶ。散々共に時間を過ごしてきたのだ、当然だといえたけれど、昔は薙刀を振り回してた彼が、今は風に揺られ穏やかな姿ばかりが勝手に浮かぶ、10年の間にこんなことはなかったのに……けれど、もうすぐ京を埋め尽くすばかりに咲くのであろう桜の下に置いてみたら綺麗だろうな、見てみたいな、黒の衣に花びらを乗せて白い指で摘む姿が目に浮かんだ。九郎はその横で、彼を、
思った途端、唐突に世界が白くなった。布団がはぎ取られた。
「何やってるんですか」
「べっ…べべべべべ」
「なんですか、人を怨霊か何かのように」
腕の隙間から見上げれば、弁慶が呆れたとでも言いたげな顔で、布団を掴んで立ちはだかっていた。
またしても、彼が近づいてきていることに九郎は全く気付かなかった。なんという失態、戦場だったら死んでいた!
そう反省する間も与えずに弁慶は、眉を寄せつつ正座をして九郎の顔を覗き込む。
「来るな!」
掛け布団を抱え盾にしたかったがそれはすでに奪われている、なすすべもなく、九郎はただ心もとないままに後ずさるけれど、弁慶の手が先に伸びてきて、
「体調が悪いんですか?」
ひやりとした指先が額に触れた。少しざらりとした指が心地よいけれど、びくりと身をすくめる。
「熱いですね」
本当にこれが病だったらいい、思うより早く、今度は首筋に指が伸びた。
「ひあっ!」
反射的に目を閉じると、彼の指先が九郎の全てに触れているようにさえ錯覚してしまう。慌てて頭を振ると、花の香と共にふんわりと苦い匂いが混じる、薬草の香だ。
九郎はあまりその香りが好きではない。負け戦を思い出すからだ。
けれど今はそれさえおそろしく澄んだもののように思えた、言うなれば、まるで賀茂川を彩り始めた小さな緑のようで、
「でも……、風邪の類ではないようですね」
その声音はせせらぎだ。空の青や雲の色まで映すような水色だ。
九郎がおそるおそる、ゆっくり目を開くと、彼はまだこちらを見ていた。
「てっ、手はどかさないのか!?」
未だ首筋に添えられた指、ただ触れているだけなのに、まるで絞め殺されるかのような息苦しさを感じる。だが弁慶はぴたりとも動かない。
「今更どうしたんですか? ヒノエや譲くんに影響でも受けたんですか?」
その上ごく冷静な顔でそう言うが、
「ヒノエ? 今更……?」
話題の飛躍が突然で、九郎にはその意味が分からない。
「確かにお前が熱を心配してくれるのは今にはじまったことじゃないが……」
謎の問いかけ、だが薬師弁慶と、ヒノエや譲に何の関係がある? ぽっかりと今までが抜け落ちたように、九郎は首を傾げたが……それより先に、
「いえ、そうじゃなくて」
ゆっくりと顔を近づけながら弁慶は言う、
途中で一度、ごく間近で瞳が揺れた、と思ったらやわらかな何かが唇に振れ髪が頬をさらい。
あっという間の出来事、何が起こったのかやはり理解できなかった九郎はただ目を見張ったけれど、弁慶がこれまた綺麗ににこりと微笑んで、
「物欲しそうな顔してましたから」
といえば流石に気付いて、
「もっ!?」
慌てて唇に手を当ててしまって、それさえもが恥ずかしくなりばっと手を降ろした後ますます顔を赤くした。
本当なら怒るべきところだろう、それはあんまりな言い様だった、
けれど彼の口調があまりにも麗らかで、まるで自分の邪さを突きつけられているような気がしてしまったのと、やわらかな唇を思い出すと結局実際すべてその通りで言い返すことができずに、起き上がる。
「すまなかった」
謝らねばならぬ気がして、謝った。
本当に、自分はどうなってしまったのだろう? 困惑して、九郎は目を伏せてしまう、と、弁慶が鈴の音のようにしゃらり微笑んでゆっくりと言った。
「気にすることはないですよ、九郎。言ったでしょう、だから君はあてられてしまったんですよ」
それはいつも、九郎が見ている気がしていたやわらかな表情で、結局九郎は戸惑いを置き去りにそれにまた吸い込まれる。
間違いなく、九郎はこうして笑う彼が好きだった。
それに……今なら分かる、これは誰より心を許した顔じゃないか。だから九郎はそれにとても戸惑っていたのだ。
九郎にだけそうして微笑んでくれるのが、嬉しくて、さっきまでとは違う心地で胸が詰まる。
彼の向こうに桜の花吹雪がくるりと螺旋を描きながら落ちる景色が見えるようだった。
踊る、白が踊り、九郎にも舞い落ちる、風もないのに心が揺れて、彼も揺れる。
「ああ、きっと春の病ですね」
ただ見つめるばかりの九郎の前で、弁慶はぱさりと衣から頭を出す。
「彼らは望美さんに対してとても懸命だから。僕も恋などしたいような、そんな気分にさせられます」
「春のせいだったのか?」
「ええ、そうですよ九郎」
その言葉は冗談めいていたけれど、たしかにこの暖かな陽気のせいだと言われれば、ああ、彼の微笑みが特別に見えたことも、今日この日に唐突に彼に戸惑ってしまったことも、全てが腑に落ちるようで、
今ならば、そう、彼が病だというのならば、何を言っても許されるように聞こえて、
「……だったら、もう一度」
と言いながら、九郎はゆっくり瞳を閉じてふわりと唇を重ねた。
たったそれだけで、暖かな、一面鮮やかな花に彩られた、夢物語か絵巻かのような場所にいるような心地になれたから、成程これは確かに春の病なのかもしれないと思った。
九郎に映る弁慶が突然妙に鮮やかに見え、結果慌ててしまったのは、ただ春のせいだった。
分かってしまえば簡単で、次の日に仕事であちこちへ赴いた後、今度こそ景時に会うために彼の屋敷へ向かう頃には、九郎は随分すっきりとした心持になっていて、安心して彼らを訪れることができた。
道中、たった一日で随分と開花した桜の白が、赤いつぼみに混じっている姿も目を細めつつ眺めながら屋敷へあがると、弁慶は既にそこにいて、昨日と同様、やはりヒノエや譲、望美に囲まれていた。
「九郎さん! こんにちは!」
「邪魔するぞ、景時」
「九郎、おつかれ〜」
「九郎さんも遊びませんか? オセロっていうんですよ」
「悪いが、今は少し休みたい。後で教えてくれないか」
「はーい!」
と、望美たちと挨拶を交わした後、やはり昨日と同じように縁側に腰を降ろす。
今日もいい天気だ、日差しは暖か、そこから九郎は彼らをのんびりと眺めることにした。
今日はなにやら板の上に円盤を並べる遊びに夢中になっている。まだはじめたばかりなのだろうか、譲が色々と説明してみせながら望美と勝負をしているようだ。
その間でも彼らの会話は途切れない。特に、弁慶とヒノエはよく喋っている。あの二人が特別なのか、熊野という土地柄なのか、二人は顔を合わせれば止め処なく話をしていて、九郎はたまに見ていて疲れてしまう。勿論今日もなにやら張り合っていて、ヒノエも弁慶も互いに勝ち気な顔を向け笑顔で睨みあっている。
似ているな、と、笑いながら声をかけようとして、……だけど九郎ははたと気がついた。
昨日気付いたくるくると表情を変える弁慶の癖。
彼は鏡を演じていたのだ。
今、彼が勝ち気に振舞っているのは、ヒノエがそうだからだ。同じように望美に華やかな笑顔を向けるのは、彼女の笑顔が華やかだからで、景時にはどこか気が抜けた風なのも、朔ならばよそよそしさが混じるのも、全て相手がそうしているからだ。
とことん器用な奴だな、と思った。九郎にはけして真似できないだろう。つい目を細めてしまうと、途端、まるで九郎の心が聞こえたかのように弁慶がこちらを向いた。
「ん? どうしました、九郎?」
その顔はやはり、九郎の記憶に鮮明な、あの柔らかな微笑みだった……のだが、
「!!!」
今度は愕然として、九郎は目を見開いた。
待て、鏡だというのなら……それは九郎の顔なのか? 自分がそんな、まさに今日の天気のような、春本番な顔で彼を見ていたというのか!?
気付くなり、顔が昨日よりさらに青くなるのを感じた。
「九郎?」
……しかも、いつからだ?
意識するようになったのは京へやってきてからだ、でもその前からずっと弁慶はそんな風に微笑んでいたのは覚えている。鎌倉でも、もしかしたら……平泉でも?
九郎の胸は途端に物凄い勢いでばくばくと鳴りはじめる。戦場を駆ける馬の足音のような、しかも一頭では足りない程のそれは驚いたからだとか、緊張しているからだとか……そんなものじゃない!
「九郎さん?」
「またどこか具合でも悪くなったんですか?」
弁慶が心配そうに、立ちあがってすっとこちらに近づいてくる。それだけでも九郎は追いつめられるような想いになるというのに、彼が光の中に踏み込むなり、肌の白が更に白に染まって、それに目がとまってしまって、なんというか妙に、触れてみたいと思う程に、なまめかしい、などと思ってしまって……
「…………ええっ!?」
その発想に自分自身で驚いた。なっ、なまめかしい? 誰が? 誰を?
「九郎?」
九郎は再び後ずさる。
弁慶は春の病だと、昨日九郎に言った。けれど、そんな、春より前からそんな風に彼を見ていたのだとしたら、
それは春のせいじゃない。九郎のせいだ。
知らなかっただけで、そう九郎はずっと彼のことをそんな風に思っていたのだ、しかも無意識に!
九郎は慌てて立ちあがる、
「九郎、どうかした? 気が乱れている」
「仕事ですか?」
「九郎さん忙しいんですね……」
仲間たちはそれぞれに九郎を気にかけてくれたけれど、それに応える余裕はなかったし、
「ほっとけよ、姫君。で、何? あんたは今日は放置するんだ?」
「何がですか?」
「……ほんっと、あんたって性格悪いよね」
遮ることも、それに、走りだしてしまった足を止めることはもっとできず、
「くろうさーん!一緒に遊びましょうよー!!」
「……ああもう、だから春にあてられているだけなのに」
それに振り返ることさえもできなかった。ただ一心不乱に、九郎は昨日と同じように六条通りを敗走する。
心に過るは、遠い過去の春の京。五条の橋で彼に出会った。そこからの全てが桜の色で染められてゆくようで……、
「ああもう!」
耐え切れず、九郎は道端で太刀を抜き、空を切る。ひらりと舞う早咲きの花びらをふたつに分かち、肩で息を吸いながらもう一度柄を握る。
揺らぐ記憶は錯覚だ。分かっていても、これが病でない以上、薬師を頼るわけにはいかない九郎は、ふがいなくもしばらくそうして通りの隅で、花断ちの刃をふるい続けた。
綺麗な小説を読んだら綺麗な小説書きたくなって書いた話
だったんだけど……結果は言うまでもなく
(28/02/2009-16/04/2009)