「九郎」
泰衡に低い声で睨まれるなり九郎は即座に立ちあがり、身を返しながら、座ったままの弁慶の手をぐいと引く。
「逃げるぞ弁慶!!」
「九郎!?」
「おい、待て」
「待ってなどいられるか!」
部屋の奥にいた泰衡をくるりと振り返りながら放った声は明るくて、足取りも軽い。泰衡の従者たちが何事かと駆け寄るも、九郎はひらりと通り抜け、気にも止めずに広い伽羅御所の渡殿へ躍り出て、そのまま門へとひた走る。
「九郎、いくらなんでも」
制するように呼ぶけれど、途端、庭の雪の白さに弁慶は眼を眩ませてしまい、
「止まれ!!」
挙句、後ろから叫ぶ泰衡の声に続きをかきけされてしまう。そちらを見ずにも、黒衣に身を包み眉間にしわ寄せる彼の顔が目に浮かぶようだった。
あちこちから家人たちも集まって来た、なおも九郎は渡殿を駆け抜ける。
「九郎殿!?」
「急ぎだ、すまん!」
いくら秀衛の人柄のため、京の貴族屋敷からすれば十分温和でくだけた土地とはいえ、泰衡の剣幕からすれば二人は掴まってもいいようなものだが、どうやらあまりにも楽しそうな九郎の様子に、家人も戸惑っているようだった。
そして彼らから見れば、九郎に連れられた弁慶は彼の仲間だろう。けれど、この逃亡劇に弁慶は全く乗り気ではなかった。
何故なら九郎はただ、泰衡の小言から逃げたいだけなのだ。そんなことのために……いくら大きな伽羅御所の端も端にいるとはいえ、こんなに騒ぎたてたらますます向こうに叱るの口実を与えているようなものではないか。後の事を考えると、九郎とは裏腹に、弁慶の頭は痛くなる。
「九郎、わざわざ厄介事を増やしてどうするんですか」
「それはそれで、今度考える!」
手を引かれたまま、冷たい板張りの床を駆け抜ける。来た時は冷たさで体の芯まで冷えてゆくようだったのに、帰りはそんなことにかまける暇もない。
「おい!」
廊を曲がる時、泰衡が追いかけてきているのが見えた。
「また後日伺うぞ、泰衡!」
ひらりと、薄水色の羽織りと長い髪を翻し言う九郎。全く、とんだ確信犯だ。
「九郎が泰衡殿の本を借りたまま読まないのが悪い」
「仕方ないだろ、本を読むとどうにも眠くなる」
実際、泰衡の本は厚いし、九郎が少しずつ読み進めていることも弁慶は知っている、だからといって、泰衡は物の貸し借りに煩いことを彼は知っている筈だ。もう冬も峠を越したというのに、収穫の季節に借りた本を半分も読んでいない言い訳に、そんなものが通じるわけがないし、そもそも、
「この前九郎だって次には返すと言っていたのだから、約束を違える理由にならない」
つまり、九郎は今日泰衡に小言を言われることも、逃げる羽目になることも知っていたのだった。それに弁慶は呆れていたのに、九郎に反省の気配はない。
「『次に返す』じゃない、『返すよう努力する』だ。俺は努力した、それに最初に、いつになるか分からないと言っておいた」
廊の終わりでわらの靴に足を突っ込みながら、九郎にしては堂々と屁理屈を言う。その間にもどんどんと泰衡は追いついてくる。彼までこんな馬鹿馬鹿しい騒ぎに加担するなんて。
「……よほど怒っているみたいですね、泰衡殿は」
見苦しいからこのまま突き出してしまおうか。先に靴を履き終えていた弁慶が、追いかけてくる泰衡に向かって微笑むと、九郎は大慌てで再び弁慶の手を引いて駆けだした。
外に出れば、空は冬晴れ。
一面の銀世界が眩しいが、暖かい。そんな中を遠く北にそびえる、片のかけた山に積もった雪が風に乗ってきらきらと輝いていた。
けれどゆっくりと愛でることはできそうにない。九郎は足を止めようとはしなかった。弁慶も彼に手を引かれたまま、薄氷の張った石段を慎重に降り、橋を渡りる。
振り返ると、遠ざかる屋敷はなおも騒がしい気配。泰衡が追いかけて来ようとしている証拠だろう。もしかしたら馬を出すつもりなのかもしれない。
「泰衡殿、本気みたいですね」
「そうだな」
明らかにこちらの分が悪い、なのに九郎の声はどうして明るい?
弁慶はいささか呆れた。けれど、踊るような九郎の髪と、さくさくとどこか楽しそうに道を進む足音を聞いていて、
「逃げきってみせる!」
と言われて、気がついた。
確かに叱られるのも嫌なのだろう、けれどそれより、ただ単に……そう、九郎は勝負をしているつもりなのだ。
成程、あまりに分かりやすくて、弁慶は彼の背を踊る髪を見、目を細めてしまう。
「君もそういうの、本当に好きですね」
彼にとっての今日の勝負、弁慶にも見えてきた。
その間にも二人は走る。
伽羅御所からまっすぐに伸びている道は石畳の綺麗なものだ。夏ならば迷わずにまっすぐに行くだろう、けれど今は冬、石は凍っている。とてもじゃないけれど全力疾走なんてできる状態ではないから、九郎はふたつめの辻、田の中を伸びる道を右に折れる。
曲がりざまに屋敷を見たが、泰衡の姿はなかった。
「弁慶、お前も協力してくれ!」
そして、同じように振り返った九郎がそう、苦しそうな素振りも見せずに笑った。
とはいえ、だ。揺れる九郎の髪を横目に思う。
本を返してもらえない泰衡にも同情はしているし……なにより恐らく、九郎の勝負、彼にとっての『負け』こそが、自分にとっての『勝ち』になる筈だ。
そして、わざわざ敵に手を貸せる程弁慶はお人よしではない。
だから足は重くなる一方で、延々と九郎に引かれる展開になる。そもそも、駆けだしてからそれなりの時間も距離もたっている。息があがるわけだ。
「これは、いい鍛錬になりそうですね」
田の真ん中、周りには伽羅御所以外に風を遮るものはなく、容赦なく西からの風が飛んできて、頬を打つ。九郎に手を引かれ部屋を飛び出した直後は痛みでしかなかったそれさえも、いつしかひんやりして気持ちいいと思うほどになってきた。
来た時には、山からやってきた雪が弁慶の紺の羽織に模様をつけて、綺麗だと、氷がゆっくりと消えてゆく様を眺めていたようにも思う。今ではそれも、九郎の髪に落ちたかと思うと一瞬で消えて、まるで儚い。
「急げ、弁慶!」
前を向いたまま九郎言う。その声は声はかすれもせず、桜の花のように雪舞う淡い景色の中に不釣り合いなほどに響く。
弁慶を引く手はなおも強く、しゃりしゃりと地面を踏む音だって途絶えることない。それでも少しずつ速さが落ちてきているのを感じた。
「九郎、素直に謝りましょう」
「それはできない!」
「悪いのは…九郎でしょう?」
「だが、泰衡につかまると……」
ついに九郎が少し口ごもった。が、その時二人の後ろから、わん、と聞き覚えのある鳴き声がした。
「金か!?」
九郎と共につい立ち止まる。振り返ると、主の代理とでも言いたげな顔で、金がこちらを追いかけてきている。しかも速い!
「そうきましたか」
金は賢い犬だ、まっすぐにこちらに来るだろう、そうしたら九郎はともかく弁慶はすぐに追いつかれてしまうに違いない。だったらもう負けを認めて泰衡に引き渡してしまおうか、思ったところで、けれど、体が宙に浮いた。
くるりとひっくり返る世界。
「九郎何を!?」
理解するまで間を要した。九郎がまるで米俵のように弁慶の体を担いでしまったのだ。
「このままではお前の思うつぼだろう!」
「それはそうだけど」
そもそもいくら日々剣の修業をしているからといって、細身の九郎に軽く体を持ち上げられたことにも驚いたが、それでも走る速さが落ちない事に弁慶は驚いて、うなじを眺めつつしがみつく。
「勝算はあるんですか?」
「なくても諦めるわけにはいかない」
「負けを素直に認めるのも勝ちですよ」
「それをできないときだってある!!」
それが今なのだと、九郎はなおも必死に走るが、さすがに金と二人の距離はぐんぐんと迫る。秋に揺れる稲穂のような色の忠犬は、あっという間に迫って来て、ついには九郎に並んでしまった。
「来たな、金」
ここからが競争だと言うように、九郎が息も絶え絶えに、しかし明るく呼ぶが、金は一声鳴いて、あっさりと二人を抜き去った。
「負けるか!」
「九郎、無茶だ」
「いいから」
べんけいには九郎の背しか見えないが、金が凄い速さで道を走ってゆくのが目に浮かぶようだった。九郎はそれを無邪気に追いかけるのだろう。どちらが犬だかこれでは分からない。
景色が凄い速さで動いてゆく。落ちそうになって、弁慶はますます九郎の背をぎゅっと抱える。
その矢先。
「わん」
と、金が鳴いたと思ったら、視界がぐらりと揺らいだ。
「あ」
「えっ」
九郎の手が離れて、宙に浮く。そのまま、何が起こったのか分からぬままに、目の前が真っ白になった。
ああ、道の脇の田の真ん中に落ちたのだと気がついたのは、冷たさから逃れるべく無理やり顔を上げた時だった。
「九郎!?」
「ここだ」
雪はあまりにも柔らかで、起きあがるのがやっとだった。顔を出すと、人二人分くらい向こうで、雪に混じってしまいそうな薄水色の羽織がゆらゆらと揺れた。声が明るいから彼も無事なようだった。
「すまない、金に飛びつかれてつい転んでしまった」
「ああ、成程」
言われてみればなるほど、金も少し手前の雪の中でもがいている。人が行き交う道と違い、田の雪は踏みならされていなくて柔らかだし、かさも深い。そんな所に落ちたりしたら……こんな風に、身動きが取れなくなるのだ。
もぞもぞと、向こうで九郎が顔を出し、そのまま、まるで泳ぐようにこちらに向かってくるのが見える。とりあえずと弁慶もそれを真似して近づいてみる。ただ、泳ぐには随分と冷たいし、重い。
「……これは、大変ですね」
「まずい、足がはまってしまった」
「ほら、九郎」
手を伸ばし、彼を引くと、今度は弁慶がずぼっと横へ転んでしまう。なんという悪循環。
「まるで底なし沼のようだ」
「こんな沼があったら、直ぐに凍えてしまうな」
「泰衡殿が来てくれるのを待つしかないですね」
実際、このまま誰も来なかったら二人で死んでしまうのではないか、そんな状況だ。現にどんどん指先から体が冷えて凍るよう。
なのに、思うようにいかない加減がおかしくて、弁慶はつい声を漏らして笑ってしまう。すると九郎も笑いだした。
差し出された腕に飛びつき、そのまま抱き合うと、頬が触れ合った。雪の中、彼の体温はとびきり暖かい。
「手を貸してみろ」
「こうですか?」
その上九郎が両手で弁慶の手を包んでくれる。しびれが消えてゆく。
これではまるで仲睦まじい純情な恋人たちそのものだ。剣や寺の修行だのでそんなものとは無縁だった二人なのに、と、弁慶はまた可笑しくなってしまう。
「何だ?」
「いいえ、別に」
きっと、九郎は自分がどれだけ可愛らしいことをしているのか分かってないのだろう、気付いた時の事を思えば、更に笑いがこぼれてしまうけれど、九郎はすぐに気付いてしまった。
「あっ……!!」
そして慌てて離れた。とはいえ、途端、また変に雪にはまってしまって……、結局、照れ混じりに再びぐいと弁慶を抱き寄せる。
自然な仕草だ、自分がやってもこうはいかないのだろう。それは少し悔しかったし、それに、さすがに冷えてきて。
だったら、と、九郎の耳元に、はあっと息をふきかけてみた。九郎はこれに弱い、びくりと身を震わせる。
「ばっ、馬鹿お前こんなところで!!」
「暖かいでしょう?」
知らぬ顔でしれっと笑うと、九郎の顔はますます赤くなった。
「……そりゃそうだけど……」
可愛いと言ったら彼は怒るだろうか? ……そういえば、冬のはじめに成りゆきのように肌を合わせその後もいくらかそうしていたけれど、睦言など交わしたことはなかった。と、ふと思い出して、きらめく雪のような瞳を泳がせている彼に、好きですとでも耳元で囁いてみようか、とも思ったが、
まるでそれを邪魔しようとするかのように、わん、と金が一声鳴いたので、九郎はそちらを向いてしまった。
「金!?」
いつの間に雪から這い出でたのだろう。金は、必要以上に慌てている九郎などお構いなしに、尻尾を振って彼に飛びついた。
「な、なんだ!?」
「そういえば、勝負の途中だった」
すっかり忘れていたけれど、九郎が仕掛けた戦いの勝者、それはどうやら金に決定したようだ。
祝福をこめてよしよしと頭を撫でると金が目を細めてくーんと鳴いた。
「では、勝者の君に」
「べっ、弁慶!?」
「九郎が泰衡殿に掴まってくれれば、僕のものになったんだけどな」
焦る九郎には構わずに、彼の懐に手を差し伸べる。冷たい!と九郎が声を上げるもそれも無視し、懐から麻袋を拝借して。
「あっ!」
袋を開けて中身をひとつつまむと、金がわおーんと嬉しそうに鳴いて弁慶に鼻をすりよせる。それは、泰衡の怒りを買うほんの少し前に彼の乳母から貰った焼き栗だった。剥いてあげると、おいしそうに頬張った。
そう、全てはこのためだったのだ。九郎は小言を聞くことが嫌な訳でも、泰衡に追いつかれるのが嫌な訳でもなかった。ただ、彼はこの焼き栗を冷める前に食べられるかどうか、たったのそれだけのためにここまで駆け抜けてきたのだ。だから小言を聞くわけにはいかなかったし、もちろん、捕まる訳にもいかなかった、という訳だ。
そして弁慶の目的は、九郎が泰衡に捕まって連れてかれる、その時にこれを奪取し、彼が長々と高速されている間に頬張り堪能することだった。今、まさにそうしようとしているように。
「卑怯だ返せ!」
「九郎がいつも一人占めしようとするからいけないんです。たまには僕も食べたい」
悔しそうな九郎を目の前に、弁慶はもう一つ取り出して、今度は自分の口に入れる。
「あっ!!!」
まだ十分暖かい上にほくほくと甘い味がして、冷えた体が温まるようだった。
「ああ、美味しい」
「悪かった! だから俺にも少し!」
「どうしましょうか。君が味わう時間はなさそうですけど?」
叫びつつ、奪還しようとのしかかる九郎を、金にあしらってもらいながらゆっくりと来た方へ眼をやる。と、九郎の動きもはたと止まる。
一騎の馬が風裂くような速さでこちらへと向かっていた。
昔話を書くと毎度弁慶があの黒いのをいつから被ってたんだろうって気になる
(24/02/2009)