屋島から逃げる船団が西へ向かう。
弁慶が乗せられた船は、彼が屋島へ来た時のものより一回り大きなものだった。甲板に人も多く……つまりそれだけ彼が、もしくは人質として連れてきた彼女が警戒されているということなのだろう。
そこはひどく居心地が悪かった。敗走の最中だ、空気は重い。しかも彼らが敗れた原因の一端を握っている人間がここにいるのだから、向けられる悪意は尋常ではない。それでも、こちらがにこりと笑えば、たいていの相手は何も手出ししてこないのだから、と割り切って、弁慶はすっぽり被った黒の衣をひらひらとさせながら、彼らの間を何食わぬ顔で歩いてゆく。
それにしても、源氏のものとも熊野のものとも随分違う船だった。外洋にまで行ける船なのかもしれない。
居心地の悪さはそこからも来ているのかもしれないし、また、弁慶が最後に乗った船……つまり源氏の大将と神子姫の乗っていた船なのだが、それをはりきって操っていたヒノエの腕が良かったのだけなのかもしれない。
やはり熊野の血が流れているのだろうか、平家の操舵術がどれほどのものなのか、少し興味も引かれたが、……もう、彼らと同じ船に乗ることもないのだから、関係ないだろう。周囲の訝しむ視線など、気にもとめぬ振りで、弁慶は引き続きあたりを見回し、甲板を行く。
探し求めるはこの船でただ一人の見知った相手、白龍の神子。
とはいえ、今の彼と彼女の関係は、裏切り者と贄でしかない。きっと彼女には歓迎されないだろうが、それでもどうしているだろうと心配はしていたし、……なにより彼女には聞きたい事があったのだ。
ひそかに進めていた、平家へ裏切る計画、ここまでのすべてが計画通りだった。
清盛が自分を受け入れることも、源氏が総門を落とすことも、そのあとにあっさりと離脱できることも、神子を人質にとれば景時は動けないだろうことも、そして九郎が……疑う事を放棄することで、無意識に心を守ってきた九郎には、けして弁慶を斬れないことも。
全てが、裏切った時の彼の表情までが予想通りだったというのに、それでも、弁慶には解らないことがひとつだけあった。
それは、彼女があまりにも悟りすぎているという事だった。
探し人は、船の中ほどで海を見ていた。
「ここにいたんですね、望美さん」
声をかけながら並び、彼女がしているように船縁に手をかけ微笑んだ。
瀬戸内には珍しく、寒々しい海風の吹く曇天が続いていて、こうして船の端にいるとそれが一層身にしみるようだったが、もしかしたらこの冴えない天気も、龍神の神子たる彼女の心を空が写し取ってしまったせいなのかもしれない。こちらを見上げる神子はそんな表情をしていた。
「あなたを…弁慶さんをまっていたんです」
けれど、声はやはり静かで、なのに荒れる風の中でも凛と響く。
言葉を交わしたのは久しぶりだった、けれど、それでもこの船上で彼女を見かける度、常にこの調子で、それは彼女にしてはあまりにもらしくない。
手荒な真似をしたいわけではけしてなかったから、剣を取り上げただけで大人しくしてくれたのはよかった。けれど、らしくない。九郎にそっくりな彼女の事だ、きっと弁慶を責め立てると思っていた、
なのに、彼女の瞳はまるで湖のように穏やかで、
「お待たせしてすみませんでした。僕も早く、君と話す時間をとりたかったんですよ、これでも忙しかったんです、裏切り者は」
弁慶が探るように言っても、表情を変えることはなかった。挙句、
「信用を得るためには三倍以上の働きをしないといけないんですね」
などと言う。弁慶は言葉をふさがれる。
「……まいったな、君は僕の心の中をすべて読むことができるんですか? 京でも、屋島でもそうでした、君はまるで…僕が裏切ることを知っていたみたいだ」
……そう、望美がしおらしいのは今に始まったことではない、むしろあの時の方が不気味だった、
九郎が怒り、景時が睨み、譲やヒノエがまっすぐな敵意を向けていた、行宮でのあの場面で、彼女は誰よりも冷静だった。
「知っていたんです」
望美は言うが、解せない。
「確かに……京で僕は君に話していました、源氏を裏切るつもりだと。しかし、君がその話を信じる筈がない。何も根拠がないんですから」
「根拠なんてありません、私は弁慶さんが裏切るのを知っていたんです」
きっぱりと、なおも彼女は言った。それは一貫して態度が揺るがない。
不思議だった。もしかして自分と同じように彼女もまた平家の間者にでもなったのだろうか、とも思ったが、まさか彼女がこの状況を利用して更に策を練る程の策師とは思えないし、そもそも彼女は弁慶と違って、裏切りなんてものとは無縁の、清らかな存在なのだから、それを勘ぐるだけ見当違いと思えた。
「……わからないな」
どうも、話の筋が見えてこない、弁慶は首を振る。
「君は、僕がこれから何をするつもりなのか知っているんですか?」
問えば、望美はまっすぐ答える。
「一人で黒龍の逆鱗を壊すつもりですよね。黒龍の逆鱗を破壊すれば、その力で作られた怨霊も滅ぼすことができる。そのためにあなたは平家に寝返った……自分を信用させて、清盛を自分に取りつかせるために」
それに弁慶はいよいよ言葉を失った。いくら彼でも……笑みが消える、誤魔化せない。
「まいったな…黒龍の逆鱗だけでなく、清盛殿の事も知っているなんて」
けれど、いくら巡っても分からないのだ、熊野で兄と話をしていたのを聞かれたのだろうか、いや、あの時の彼女は縁談話と勘違いした程だ、何も分かっていなかった。平家の間者と会っていた時も、こんな話をしている筈もなく。
結局弁慶は、頬杖をつくように黒の衣をつまみながら、諦めて再び微笑んだ。
「…お手上げです、君の洞察力なのか、読唇術なのか、僕の心は全て君に見透かされてしまっているようだ。僕よりも、よほど優秀な軍師になれますよ」
それでも彼女は、少しも態度を変えはしなかった。冷たい口調のまま、熾烈な瞳で弁慶を見上げる。
「私は軍師にはなれません。弁慶さんの心をよんだわけじゃないんです。……私は、見てしまったから。弁慶さんのしようとしている事がどんな結末になるのか。弁慶さんが一人で怨霊をすべて消し去って、清盛と一緒に消えてしまったのを」
「僕が…消えてしまう? 君に封印されるのではないのですか?」
「違います」
視線と同じようにきっぱりという彼女に、弁慶は口元に手を当て、思案する。
「僕の心を読んでいるわけではないのは本当のようだ……では、見てしまったというのは?」
「言葉で言っても、信じてもらえないかもしれません。でも、私はこれから起こること、この先を未来を見てきたんです。そして…時空を超えて…ここへ、弁慶さんが生きている時代へ帰ってきました。白龍の逆鱗を使って」
言葉に、京の街での事が蘇る。「死なないで」と言った彼女が過る。
「時空を超える…それを、神子のちからというわけですか。確かに…にわかには信じがたい話ですね」
「でも、私は帰って来たんです、誰も犠牲にしない方法を考える為に」
突拍子もない話だった、過去の龍神の神子の記述を見ても、時間を遡る力など載っていたことはなかった。
けれど……彼女が言うと、そんな、お伽噺のような話さえも、真実のような気がしてしまう。そう、望美はいつだって、弁慶の思うこととは違うことを平気で言ってのけ、実行してしまう。
それこそまさに彼が守るべき神子にたる存在であって、そしてまた、彼と関わるべきではない人なのだ……この期に及んでも未だ、彼女のことを躊躇うことなく信じられない自分とは。
「けれど、どうしてそこまで知っていてあなたは僕についてきたのですか? 殺すことも捕える事も出来たのに」
真摯な神子に、弁慶は尚も問いかけると、彼女は少し寂しそうに微笑んだ。
「もう…なにもできずに、自分の無力さを後悔したくないですから、あと、これをどうしても見せたかった」
差し出したのは鏡だった。
「それは……八咫鏡! これがあれば、どうにかなるかもしれない」
それこそが、弁慶が最も欲したものだった。何故彼女がこれを持っているのか……それよりも、いきなり開いた運命に、らしくなく指先が震える。
「弁慶さん?」
「うまくいくかもしれない」
利用した自分が言うことではないけれど、それでも黒龍の力を開放した後、神子を戦場に一人置き去りにするわけにはいかない、と、兄へ今のことを知らせておいた手紙が……彼女だけでなく、自分をも生かすのではないか?
「……生きてくれるんですか?」
「勿論です、言ったでしょう? 僕は死にたくなんてないんです」
まだやるべきことはたくさんあるのだから。
言うと、望美がやっと微笑んだ。暗い空の下でも鮮やかな、夏に開く丸い花のような笑みだった。
「よかった」
それに弁慶もつられた。が、喜びを分かち合うより、今自分がすべきは策を練り直すことだ。早速取りかからねば、と思ったが、別れの挨拶をするより先に、望美が口を開いて……、
「それと……どうしてついてきたんだって話ですけど、殺すだなんて、考えるはずないです、弁慶さん」
一瞬だった。言葉と共に、あんなに輝いていた笑顔が急にしぼんだ、それどころか零れた言葉も、夏の雨のように重くなった。
「……捕まえることだってできなかった、だって九郎さんには言えなかった」
「……これが一番効率的だと?」
「違いますよ」
望美は、何故かとても寂しそうな、悲しそうな顔で、弁慶を見上げた。はっとしたが時すでに遅く、彼女は言葉を紡ぐ。
「そんな冷静になんて、私はなれません」
「そうですね、君は可愛…」
「違います! ……九郎さんに言えなかったのも、全然、そんな綺麗な理由じゃないんです、ただ、どうしても言えなかった」
感情的で素直なところは彼女の美徳だったけれど、けれどこんなにも、こんなにも苦しそうに事の葉を手繰る彼女は、ああ、甥であるヒノエと同じ年の少女なのだと……最近忘れていた、当たり前のことを思い出す。
「ただ、あなたと同じなだけです、弁慶さん」
「僕と……?」
「はい、同じだけです」
見つめる瞳に熱がこもっているのが分かった。
ここまでは気付かなかった。京でも、屋島でも、彼女の瞳には弁慶を責めるような色合いが多すぎて……それはただ、弁慶が置いてゆこうとした彼への罪悪めいた何かから勘違いしていた、こちらの一方的なものだったかもしれないけれど、
「九郎さんが大切なの、知ってますから」
涙をこぼして、望美はそう言った。
そうとまで言われれば、あまりにも簡単で。
ああ、彼女は僕の事が好きで、だから邪魔をしたくないと……結局のところ、決定的に嫌われたくないというところが『同じ』なのですね、と、本当に他人事のように思った。
「泣かせてしまいましたね」
手を伸ばし、涙をぬぐえど、心はそこにはなかった。
「悲しいです、けれど、それよりもずっと、私は怒っている」
それを見透かしたように、望美は彼の手を払うけれど、
「なにも言わないあなたが悔しいんです、弁慶さん」
やはり心は読めていないのだと確信させるようなことを言う。
「どうして九郎さんに言わなかったんですか!」
「……意外なことを言いますね」
弁慶は黒の衣を抑えながら笑う。
「だって、九郎さんを遠ざけるためにこんなことをしたんでしょう? 九郎さんを傷つけたくなかったから、裏切ったんでしょう?」
成程、さっき『同じだから』と言った意味はこういうことだったのか。『私はあなたが大切だから、共に屋島へやってきた』そうとでも言ってくれるのだろうか? そして弁慶もそうに違いないと信じてるというのか、この可愛い神子は。
「勘違いですよ、望美さん」
だけどそう、九郎が大切だから遠ざけたということも、それに……彼女が弁慶を想っているなどということも、
「全て、可愛い君の勘違いなんです」
そういうことにしておきたかった。
「……弁慶さん……」
途端、彼女は悲愴な顔をして口ごもった、そんなに自分は酷い顔をしていたのだろうか? 弁慶の心を空が映すことはないから、彼には分からないし、正直なところ、あまり興味もない。
今気がかりなことといえば、どうやって清盛をだましてくれようか、ということと、可愛い好奇心と思っていた彼女の恋心を、いたずらに助長させてしまったことを悔やんでいる程度で。
それらを置き去りにして弁慶は微笑む。
「……では、また後で来ますから。僕が言うのも変な話ですが、大人しくしていてくださいね」
「弁慶さん!!待って!!」
くるりと漆黒を翻した弁慶に、望美の声が雷のように響いた。
聞いたことないほど悲しい声だった。……これは今度はヒノエや譲に本当に殺されかねないなと思ったが、もしそれが叶う状況が訪れるならば彼らに罵られることなど、それはそれは些細なことのように思えた。
未来がかすかに見える、すべては神子のお陰だ、こうして危ない橋を渡ろうとしてくれた彼女のお陰で……、ふいに言葉が蘇る。
『同じだけです』
憂いをたたえた瞳で見上げた神子が蘇る。
「同じは筈はないでしょう」
自分がここにいることは、弁慶を救うために悲惨な運命を辿ることとなってしまった彼女のように、綺麗なものではない。
これはただ自分の引き起こした結果でしかなく、その為に望美も、……弁慶を疑う事などできない九郎も利用しているのだから、
こんな男に恋をしてしまった可哀想な少女の心などとは同等にしていいものであるはずがなかった。
弁慶さん裏切る話は、
べんみこ的には「君のことだけは傷つけたくないから目に届くところで必ず守りましょう」っていう
自分しか信じてないべんけーさんで、
五条的には「君だけはこれ以上僕の罪に巻き込むわけにもいかない(もしくは功績をあげて鎌倉殿に口実を与えてはいけない)」っていう、
他シリーズ的大事なものは遠ざけておきたいべんけーさんで、
朱雀的には「ヒノエならば必ず後のことを上手くまとめ上げてくれますから」っていう
相手の事などお見通しですよ自意識過剰べんけーさんで、
方々においしすぎるイベントだと思うんですが、今回はまんなかルートを選んでみた
(04/02/2009)