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「弁慶、ちょっといいか?」
 と、屏風の横からひょいと寝所を覗き見ると、御簾の向こうで、彼は蔀戸をひとつだけ上げて、珍しく月見酒などやっていた。
「ああ、九郎」
「どうした? 珍しい」
「いえ、もう少ししたら屋島へ向かいますからね、ここの景色も見納めかと思うと」
「確かに、しばしの別れだな」
「そうでしょう?」
 にっこりと笑う顔はいつもよりも溶けていて、九郎はつい顔をしかめてしまう。
「お前は弱いんだから飲むなと言ったのに」
「保護者みたいな口ぶりですね」
「事実を言ったまでだ」
 ふふ、とか笑っている顔は、すっかりゆるんでいて、心なしか若く見える。
「望美やヒノエが見たら、呆れられるぞ」
「その前に九郎があしらってくれるでしょう」
「俺を頼るのか!?」
「ええ、君は僕が考えつかないようなことだって、平気で実行してしまうから、きっと望美さんにも丁度いい言い訳を用意してくれるでしょう」
「そうだろうか……」
 そもそも望美たちは梶原邸にいるのだから、こんな所に来る訳はないのだが、それでも少しだけ、彼女たちが来たところを想像してみる。望美だったら、どうにかできるかもしれない、ヒノエは、勢いで追い返せるかも……しれない、が、どう考えてもそういうことは弁慶の方が長けているのではないか、と、望美が言うところの『幼馴染』らしい弁慶を見下ろしていたら、彼の手が指先に触れて、引っ張られた。
「それとも、酔っ払った僕は嫌いですか?」
「調子が狂う」
 今だって、隣に来るよう一言言えばいいだけなのに、わざわざ、まるで小さかった白龍が望美にそうしていたように手を引いて、しかも腰をおろしても放そうとしない。こんな弁慶、九郎からすれば、戸惑い以外の何物だというのだろうか? 見れば、彼をからかっているような顔で笑っている。文句のひとつも言いたくなったが、
「九郎も飲みますか?」
と、見計らったように盃を差し出されてしまって、結局九郎はそれを受け取った。
「……そうだな」
 本当は少し次の戦の相談があったのだが、今の弁慶に何を言っても無駄だろうし、誘いを断るのも勿体ない気がした。
 そんな九郎に、仰々しいくらい丁寧に弁慶は酒を注ぐ。静かな夜だからなのか、それとも酒のせいなのか、月の色に似た彼の髪色が普段より柔らかに見える……こういう時の彼には、何年たっても慣れはしない。目をそらして、九郎は盃に浮く月をぐいと飲み干した。
「うまい」
「いい飲みっぷりですね、さあもう一杯」
「待て、弁慶、それはつぎすぎだろう!」
「あっ」
「勿体ない!!」
 容赦ない弁慶の酒を、けれど零してはいけないと慌てて口をつけて飲めば、そこにまた並々とつぐのだ、睨むように弁慶を見ると、何が楽しいのか、彼はにこりと笑って銚子を握って離さない。
 その調子で一方的に何杯も飲む羽目になったが、ちっとも酔いはまわりはしなかった。
「……」
「……なんですか?」
「お前みたいに酒が弱かったら、楽しいのだろうか、と、思った」
「九郎、酒に負けてもいいんですか?」
「そんなことはない! だが、今のお前は随分楽しそうだ」
 武士たるもの酒にも負けてはならぬ、というのが九郎の持論だったが、弁慶はどうも以前から酒にだけは弱かった。平泉でも何度も御館につぶされていた。そして、酔うと面倒だから、と泰衡には禁酒令を出された程だった……泰衡の言うことを大人しく聞く弁慶ではなかったけど。
 あんなに薬に長けていて、現にこの部屋にだって訳のわからない草やら油やらがたくさんあるというのに、その彼が酒には負けるというのは九郎からすれば不思議だったが、同時に、酔いがまわるというのはどんな気分なのか、少しだけ興味もあったのだった。
「うーん、どうでしょうね……ああでも、景時は酒が強くて損をしているな、とはよく思うかな」
「どういう意味だ?」
「厄介事から逃げられないですからね。この前の、京で怪奇を探っていた時も、君とヒノエと将臣くんの不毛な言い合いに巻き込まれて、しかも後片付けまでやる羽目になって、可哀想でした」
「この前……?」
 弁慶の言う時期に、将臣とヒノエと酒を飲み交わしたことなど何度もあったが、いったいどの話だ、と、九郎は月を見ながら考えようとして……すぐに思い出した。
 そう、最初は、ヒノエが望美の着ている「すかーと」というものが欲しい、と言い出したところからはじまったのだ。
 大量に作りたい、熊野であれが流行ればいい、とか言い出したヒノエに、九郎は呆れて、あれでは身を守れないだろう、と言った、そうしたら将臣が、足が見える方が楽しいだろうなどと言い出して……九郎にはその意味が分からなかったが、ふいに部屋の隅で潰れてすやすやと眠っている弁慶の、しかも肩のあたりに目がとまって……、
「っ!」
ああ、肌が見えるとはこういうことかと、分かって動じてしまった所を、二人から盛大にからかわれて、反論しようとつい、大きく手を振り払ったら、目の前の銚子だの盃だの、ヒノエがどこからか調達してきた干物だのが散らばって……それを、ほとんど景時に片付けてもらったのだった。
「起きていたのか!」
「君たちがうるさいから、目が覚めたんですよ」
 正論に、うっと言葉を詰まらせてから、
「そうか……しかし景時には、悪い事をしたな」
と、思った。なのに弁慶は、
「まあ、それが景時の性格だから、九郎が気に病むことでもないと思いますけど」
と、自分で言い出したくせにしれっと言うから、九郎は景時の肩を持ちたくなった。
 けれど、ふいに弁慶が近づいてきて、九郎が手にしていた盃を奪い、唇まで奪われて、かばう言葉も奪われた。
 視界の端で、盃がころりと転がって、並々と注がれていた酒が零れるのが見えた。なんだかえらく上物の酒だったような気がしたから、勿体ないと思いつつ、九郎は弁慶の腕に触れる。
 流されるようだった。いつだってそうだ、こうして、良く分からないままに弁慶に翻弄される。
 今だってただ、幾度か唇を重ねただけで息は上がってしまった。浚うように彼の両の手を掴んで床へ押し倒すと、足が御簾にあたってじゃらりと音がしたが、いるのは見張りのものが門のあたりにいる程度だ、気にも留めずに九郎は、肩にくちづけながら、彼の衣の中へと手を差し入れる。
 既に顔の赤い弁慶が、ふうと息がと漏れた。それを呑みこむように顔を寄せれば、色濃い瞳がゆっくりと閉じたので、倣うように目を伏せながらかすかに開いた唇を食む。
 ……本当のところ、九郎は今まで、すべきことをきちんと自分で選んできたのだろうか?
 鞍馬で剣を教わりたいと思ったのは確かにそうだ、けれど、京の街へゆくようになったのは他にすべきことが見つからなかったからだし、平泉に来いと言ってくれたのは御館で、あとはずっと弁慶と一緒だった。
 兄頼朝の力になりたいと思ったのも、鎌倉に参上すると決めたのも自分の意志だけれど、鎌倉までの道のりについてとか、鎌倉で出会ったたくさんの御家人たちについての相談も、散々弁慶にしていた。
 彼は軍師なのだから頼るのは当然だったし、彼の忠告を聞かなかったことだってあった。最後に決断するのは九郎だ。少なくともそのつもりだった。だから選んだことに後悔とか、そんなものはないのだが、
けれど、例えば望美を最初に軍に引き入れたのも弁慶で、少なくとも弁慶がいなかったら、九郎は望美と行動を共にすることはなかったのではないかと思っていて、そうしたら譲や敦盛と出会う事もなく、怨霊との戦いにも苦戦した筈で……そんな、九郎には見えないような流れを彼に作られているような気がするのだ。
 望美が来てからはそれが顕著だった。白龍が言うところの、八葉は引き合うよ、とか、そんなところなのかもしれないし、戦が順調だからなのかもしれないが、どうも落ち着かない。こんなにも功績を残せていて、それはとても嬉しいことで、彼と分かち合うべきことなのに、なんというか……実感がないのだった。
「考え事ですか?」
「えっ」
「ひどいですね」
 九郎がぐるぐると悩んでいる事など、お構いなしというように、微笑む弁慶は九郎の頭を引き寄せ咥内を深く浚う。堪えきれずに唾液が零れた、それも舌であっさりと舐めとりこくりと飲み込み笑む姿を、
「待て」
改めて九郎は組み敷く。
「ようやく僕を見てくれますか?」
「……さっきからずっと見てる」
 そして、今度こそ弁慶の肌に触れることに集中するのだ。
 けれど、それさえも、そもそも最初からしてそうだったからかもしれないが、いつまでも、自分が技量不足のような気がして仕方がないのだ、
いつまでも、彼に示されているような気がして仕方ないのだ。
「っはぁ…」
 と、艶やかに息をもらすところが彼の弱いところなのは分かった。ひとつ、ふたつと、年を重ねるごとに場所を覚えた、そこを撫で、舌を這わせ弁慶が言葉を詰まらせる様に昂った。椿油をすくった指をゆっくりと後ろへと差しこめば、最初こそ苦しそうな顔をするけれど、次第にこちらに身を寄せ急かすように身をよじるのが好きだった。
 覆いかぶさって、そこへ九郎のものを差しこむ。熱さと窮屈さに九郎も息を漏らす。けれど弁慶の声も静かに、されど高くなる。
「ん、九郎っ」
 最中、彼はよく九郎の名を呼ぶ、その声音は心地よくて、呼ばれると、無意識のままに動く速さを増してしまう。もともと堪え切れないというのに。
「……九郎……ぁあ……」
 弁慶の両の手が背に回り、声が頬をかすめる。追いつめられているのか、酒のせいなのか、今日は随分と彼の声が甘く聞こえた。耳に、脳裏に焼けつくようだ。まるでそれだけで愛撫されているかのように、体中へ熱が刻まれてゆくようで。
 こうしていると…そう、さっきまでの、自分で何も選んでないのではないか、なんて疑問は消える。ただ、彼とこうして共にいる感覚に満たされる、それが当り前のように思えてくる。
「べん…け……」
 もっと名を呼んでほしい、けれど体の下でがくがくと揺れる彼に翻弄されて、九郎は言葉を紡げない。
「まっ、…べ……」
 かわりにと、唇をかみしめ二度、三度と深くまでついてみせれば、弁慶は小さく息を堪え身を強張らせ、果てた。九郎も押さえられずに後を追って、目を閉じて、深く安堵した。けれど、
「弁慶……っ!?」
「……もう少し」
息を整える間も、目を開け彼の姿を映すよりも先に顔を抱き寄せられた。酒混じりの呼気が近づいて、また唇を吸われて、吸い返し、柔らかに噛む。
 そうしているうちに、いよいよと何もかもがどうでもいいような気がして来て、ただ、九郎の、随分と移ろってきた過去の中で、未だ弁慶と共にあるという事こそが途方もないことのように思えてきて、彼が喘ぎ呼ぶ声だけがくるくると九郎の頭の中を回り続けては響いてゆく。寛容に欲を助長させてゆき、そして、歯止めを見失っていく。
 ……酔いが回るというのはこんな感覚なのだろうか? こんなに楽しいものなら、確かに酒を飲みたくもなるというものだ。肌に食い込む指を感じながら、九郎は素直に酔わされてやると決めこんで、改めて掌を重ねた。



 やけに眩しくてしぶしぶ目を開けたら、既に陽はかなりの高さまであがっていた。
「随分寝過ごしてしまっ……ああっ!」
 しまった、今日は約束がある、それでなくてもこんな時間まで寝ているとは、と、九郎は慌てて立ち上がろうとしたところで、……そういえば、昨日は弁慶と酒を飲んで、そのまま……と、思い出す。
 首も痛かった。そういえば、今枕を使って眠っていただろうか……?
「……朝ですか?」
 なんてだらしない! と、九郎が頭を抱えていると、隣でなんでもないように弁慶がむくりと起き上がった。ちゃっかり一人だけ寝着を着ているのが恨めしいような気がしたが、そんなことはどうでもいい。
「どうするんだ、今日は景時の屋敷で会合があるのに!」
「昼餉の後でしょう、間に合いますよ」
「譲が朝食を作ってくれると言っていた」
「譲くんだったら、きっと残しておいてくれますよ……それにしてもああ、頭が痛い、喉も痛いですね、飲みすぎたかな」
「……弁慶、お前もう酒飲むな!」
 とはいえ、部屋をぐるりと見回すと、一体いつ片付けたのか、すっかりと綺麗になっていた。転がしておいた盃も、こぼれた酒も綺麗で、蔀戸もちゃんと下がっている。散らかっているのは九郎の服くらいで、この部屋だけ見ると、どちらが酔っ払っていたんだか分かったものじゃなくて、さあっと顔が青ざめる。
 万が一にもこんな姿を、他人に見られるわけにはいかない。布団から這い出で、着物に袖を通し始めたところで、弁慶が楽しそうに笑った。
「だったら、僕が酔ってしまった時には、九郎が諫めてくださいね」
「人を当てにするな!」
 くるくると、着物を重ね、最後に刀をさしたところで、ようやく落ち着いたような気がして、九郎はふうと息を吐く。
「お疲れさまでした」
 まだ座ったままの弁慶を見下ろすと、彼は呑気に微笑んでいて、顔をしかめてしまった。こういうのを『まいぺーす』と言うらしい、と譲が溜め息混じりで言っていた言葉を思い出しつつ、一緒に、昨日最初にこの部屋に入った時を思い出した。
「……ん? お前、俺が飲むなと言ったってやめないだろう?」
「ああ、確かに」
 今まで気づきもしなかったのか、九郎に言われて弁慶は目を丸くした。それを見たら、さっきまでの腹立たしさも消えるようで、つい笑ってしまう。
「そうだろう。だったら自分でどうにかしろ、弁慶」
 言えば、彼もまた微笑んだ。その顔は陽の光の下だというのに、昨日の夜同様、随分若く見えて、ほんの少しだけ戸惑ってしまって、なんだか抱き寄せてみたくなった。
 が、今の九郎には時間がない。
「ああ、こんなことをしている場合ではない! じゃあ俺は一旦部屋に戻ってくる。すぐ迎えにくるぞ、弁慶」
「ええ、また後で」
 言うと、九郎は踵を返して急いで自分の部屋へと向かった。





そのたったの八日後、屋島で弁慶はいなくなった。


「九郎、気持ちは分かるけど」
 結果的には源氏側の勝利となった。皮肉にさえ聞こえてしまいそうな歓声に背中を押されながら引き上げる時、景時が言った。
「追いかけるべきだったよ、あれは」
「分かってる!」
 弁慶が裏切った、しかもよりにもよって望美を連れて裏切った。
 まっさきに動いたのは景時だった。人質があるにも関わらず銃を構えた、それは譲によって止められたけれど、彼らが去った後に追撃を指示したのは景時で、止めたのは、九郎だった。
「鎌倉殿は、そんなに甘くない」
「分かっている……」
 それでも、九郎にはどうしてもできなかった。
「何か理由があるんだって信じたい気持ちは分かるけど」
「そうじゃない!」
「九郎、だけど」
「景時!」
 確かに大将にあるまじき迷いだろう、兄からも厳罰を受けてしかるべきとも思えたし、景時は立派だと思った。
 でも違う。
「……目を見開かなきゃいけない時だってあるよ」
「違うんだ……」
 信じたものは最後まで疑わないと決めている九郎。何度かそれに足元をすくわれた事もあった、でもそれでも九郎は変わらなかった。そうして生きてきたのだから変えられなかった。それは弱さなのかもしれない。
 でも、弁慶は…弁慶にだけは、信じるとか信じないとか、そういう事を考える対象じゃなかった。だから何度か、屋島に来る以前にだって彼の様子が気がかりなことはあっても、もう前と違うのだと感じたことがあっても、何も問えはしなかったし、
……なにより九郎が弁慶を追えなかったのは、そんな理由じゃない。
「声がする」
「声?」
「消えないんだ」
 あの月見酒の夜……だけでなく、遠い雪の日から重ね続けた逢瀬の中、何度も何度も弁慶が呼んだ自分の名、あの甘やかな声が頭から離れない。まるで耳鳴りかなにかのようにずっと響いている。刻まれている。今までこんなことはなかった。しかも、八日もたつのに、だ。
「酔いがさめた気がしないんだ……」
 まるで、まだ彼が近くにいるような気がしてならなかった。それがどうしても、九郎の決断を鈍らせる……大将失格だとしても。
 景時はそんな九郎に愛想を尽かしたのかもしれない、そんな風に九郎に言った。
「……分かった、頼朝様へ向けた書状は、望美ちゃんを取られたせいで怨霊が抑えられなくて苦戦してる、ってことにして、数日、時間を稼いでおく、でも九郎、その間に」
「……すまない、景時」
 返しながらも、九郎はどうすればいいのか分からなかった。彼は裏切ってない、そう感じていても、だったらどうすればいいのか、自分で答えを出すことができるのかも、そしてその決断に、今までのように自信が持てるのかも、何も。
 ただ、こんなに胸が痛むような酔い方は、今後けしてするものか。それだけは誓って拳を握り締めた。



十六夜弁慶ルートよりもなによりも、あの屋島の直後の九郎だけは辛すぎて妄想できない!
そんな風に思っていた頃もありました
(06/02/2009)

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サソ