桜の綺麗な季節になった。春を迎えた京は芽吹いたばかりの緑や花の赤、桃、黄色で彩られ、同じように街をゆく人の顔も朗らかだ。
市が開かれる回数もぐっと増え、街外れの田畑では、農民が稲を植え種をまき、樹木を剪定したりと余念がない。
慈しむべき光景だ、けれど、久方ぶりの京だというのに弁慶は曇り顔でそれらを通り抜ける。
賑やかなのは表向きだけだ、今年こそはいい年に、という、空元気にも似た期待の裏返し。
冬の間は……それは酷かった筈だ、まるでそれから逃げるようだ、と自嘲さえも胸に刺さるようで、らしくなく、足が速くなる。
向かったのは京の南東にある小さな山だった。
民家も寺もない、人は踏み込まぬような山だ、慣れた手つきで草をかき分け登ってゆくと、遠い昔に僧兵たちを連れ、京の街から比叡へ戻った時を思い出す。
整えられた比叡の山道と、こことでは道は違うし、見える景色だって全く違う、
それでも過るのは、同じ心を持っているからだった。
あの頃は手ごたえのない南の僧兵に対する憤りと、繰り返す日々に諦めを抱えての帰山。
今は、ただ、過去の自分を浅はかを責め、明日に対する途方もない絶望を抱えての登山。
共通するは、京の街からの逃亡。
今から一年と少し前の、年明け間もない頃だった。弁慶は清盛が呪詛をかけた龍脈を救うために応龍を消滅させた。
平家の繁栄は清盛が呪詛を使っているがゆえ。気がついたのは、もう覚えてもいない程にささやかな偶然。
元々平家にも源氏にも、なににも属していなかった弁慶が、妙な縁で九郎に組することとなり平泉へ旅立った後、何かの役にたてば、と、軽い気持ちで京まで出向き平家に薬師として忍び込んでいた最中、ふと呪詛の気配に気づいたのだ。
大がかりなものだった。とてもではないが陰陽師でもない、一回の法師でしかない弁慶の手に負えるものもなかった、
けれど、たったひとつだけ方法を、龍脈自体を止めればいいと見つけてしまったのだ。
人の手で龍脈を止めるなど、思いあがりも甚だしい事だった。けれど平家に蹂躙され苦しむ人を見ているのは辛く、どうにかできないだろうかとずっと思っていた。他に方法はなかったし、やり切る自信もあった。
自分一人の力で、九郎のかたきである清盛を討つことができたならば……院や、鎌倉殿でさえ苦戦している平家を、あっさりと一人で打てたならば。そんなうぬぼれや、術法を使ってみたいという、好奇心もあった。
そうして弁慶は、清盛に近づいた。
策は成った。呪詛は清盛に返り、彼は消え、京は解放された。
筈だった。
山の中腹に、小さな小屋があった。
もうくるってしまって開かない戸を強引に横へずらす。がたり、とずれて外れてしまったが、どうでもいいように思えた。
中へ足を踏み込むと、散々だった。前に来た時に集めていた野草や木の皮の残骸は、隙間風で散らかってしまっていて、鼠が椎の実を食べ散らかした後がある。
ここは以前、まだ比叡にいた頃に弁慶が見つけた小屋だった。一人になりたいときや京を眺めたいときに来ていた場所。平家に出入りしている間も来たが、冬の間は一切京に近づいていなかったから半年ぶりになる。
弁慶はそこから街を見下ろす。
例年ならばまさに桜が見頃で、それを愛でながら酒をひとくち、など丁度いい季節だろう。
けれど今はとても、美しくは見えなかった。
秋に思い当たった通り、やはり、応龍はもういない。
あの決戦の日、応龍を消し去った途端、街は灰色になった。
とはいえ実際に目に見えて色を失ったわけではないから、街に暮らす人々の中には気付いていない者も多いだろう、
けれど術師である弁慶からすれば明白だ。
消滅した瞬間、風が淀み、色が霞んだ。
伝承に残る龍神の神子のような特別な力などなくたって分かった、まるで水の粒が流れ落ち転がっていったかのように、街から活力が失われてしまった。
少し動じたが、最初からそうなることは分かっていた。万物は巡る。応龍とて例外ではなく、龍脈も、穢れを落としてすぐにまた巡るはずで、弁慶はただ待てば良いはず……だった。
気付いたのは半年前、秋だった。
あの日から、弁慶はほとんどを関東で過ごしていたが、やはり京が心配だった為、何度か理由をつけては京へ赴いていた。
その時もそうだった。相変わらず街は変わり映えがしない、いくらなんでもおかしい、と不審に思っていた弁慶に、その時は、ひどい景色が映った。空気が淀み、停滞も流転もしていない、ただ、腐ってゆく。
花は咲き、水は流れても、鳥は歌を歌わない。
景色だけではなかった。その年、京ではひどい不作だったという。例年の半分も米がとれず、まだ収穫直後だというのに、街には冬の飢えに対する不満で渦巻いていて、
そして今だって、賑わっているのはただ、今年こそは平穏な年をという、すがるような絶望の裏返し。
確信した。
応龍は生じていない。
弁慶は勘がいい方で、物事や、行動の結果を予測するのが得意だった、誰かの考えを推測するのにも長けていた。比叡でもそれを高く買われていたし、九郎と出会った頃などまさに人を使って暴れていたりしたし、熊野別当である兄から助言を求められたこともあった。
そんな彼にとって、策師というのは天職だと以前は信じていた。
大がかりな戦でその力を使ったことはまだ無いが、それでも鎌倉で生きてゆくのに既に何度も謀をめぐらせてきた。
主に、世間を知らない九郎に近づいて利用しようとする輩に対してだ。
弁慶は彼らを疎んでいた。九郎が傷付く顔を見たくないというのもあったし、九郎の足を引っ張ってほしくないというのもあった。自分も平家で似たようなことをしているといえば、しているのに、むしろだからかもしれない、その手の人間は全て笑顔と共に人知れず葬り去ってきた。
彼の為もあったけれど、策を貼ろうとする彼らを策で蹴散らすのが心地よかったのだ。
たまには、こちらの上をゆく古狸もいて、散々煮え湯を飲まされたりもしたけれど、
……それでも、こんなにも彼の予想を超えてしまったことは今までにはなかった。
龍脈を止めた結果、思惑通り平家は京を去った。けれど、街はずっと酷い事になっている。
罪もない人が死んでゆく、永遠に続く、まるで水に毒を混ぜたような……。最も残酷な、ひとのものとは思えない策だ。そして今だ原因は分かっていない。
戦いとは、勝てば終わりではない。ああ、こんなにも自分一人の行動で、なにかが崩れてしまうのか。
これは全て彼の咎、浅はだった彼の償うべき罪。
けれど、あまりにも大きい。
街に背を向け、ひとまず荷を紐解こう、そう思ったとき、いきなり背後から殴られた。
背中を強打し、飛ばされる。
容赦のない力だった、受け身も取れず、膝のあたりが焼きつくように痛い、むせかえり、うずくまりそうになるけれど……立ち止まってはいけない。
それは経験だ、それだけを杖に、弁慶は荷物と一緒に小屋の入口に置いてあった薙刀のところまで、痛みをこらえ駆けよる。息もままならぬまま、なんとか柄を握り振り返ると、丁度その何かが覆いかぶさってきた。必死で払うように、無我夢中で攻撃すると、なんとも悲しそうな、悲鳴なのかも判断のつかぬような声をあげ、それは一端離れた。
その隙に急ぎ、弁慶はきちんと立ち上がり、構えなおして相手を見据え……驚愕した。
人の力でも、速さでもなかった、ならば獣かと思っていたが、どちらでもなかった……ただ、人型。それは朽ちた鎧をまとっていた、けれど肉は薄く、骨ばっていて、眼球は抜けおち、そもそも肌の色も、灰。
まるであの街に似たその存在を、弁慶は伝承の中でしか知らない。
それを、おそらくは怨霊と言う。
「……なんてことだ」
驚いて躊躇する。矢先、怨霊は弁慶に襲い掛かってきた。
「っ!」
気を抜いたら殺される、判じて弁慶は必死に、薙刀をふるう。突いて、突いて、薙いで、斬り、回し、いくら腕を振るっただろう、分からなくなったころ、怨霊はふうっとそこから消えていなくなった。
倒したのかどうかも分からなかった。弁慶は得物をしっかりとにぎりしめながら、あたりを探す。けれど、まがまがしい気配はそこから抜け落ちていたし、そういえばさっきまでは聞こえなかった鳥のさえずりが、あたりに戻ってきているのに気がついて、ようやくぺたりとその場に崩れ落ちた。
そして、手が震えていることに気がついた。
「怨霊、ですか」
それは、恐ろしかった、
あまりにも恐ろしくて、恐ろしすぎて、もはや今の彼には立ち上がることさえできないけれど、笑いは零れる。
笑いの理由、ひとつは、応龍が生じない原因が分かったからだ。
怨霊というものは、黒龍の力に依存しているという、それは昔、先代の龍神の神子の伝承から確かだった。そして、今の怨霊の纏っていた鎧は、平家のものだった。つまり、誰かが黒龍の力を使役している、しかも、平家に関係のあるものが、だ。
……つまり、平家が何らかの方法で未だに縛り付けている、黒龍の力を開放すれば、応龍は蘇る。やはり弁慶のやろうとしたこと自体は間違っていなかったのだ。
彼にとって、それはようやく手に入れた希望だった。
けれど、笑みのもうひとつの理由は、それと裏返しのものだ。
目の前の灰色の、朽ちる街、弁慶が全てをかけて戻さねばならぬもの。それには、平家を倒さなければならないと分かった。
平家を倒すには、……もう顔は知れているから、きっとひとりでは無理だ、
だったら……何かを利用しなくてはならない。
何を? そんなの決まっている。
「……嫌いだったはずなのにな」
呟く。けれど、結果は弁慶を突き落すのだ、彼が嫌っていた人間と同じ所まで。
……確かに弁慶は源氏に属していた、けれど、それはただ、偶然九郎が源九郎義経だったからにすぎない、たったそれだけだったのに、
重い風が街から吹き上げる。呪いのようなそれを受け、弁慶は京をただ見下ろした。
流転をやめてしまった灰の街。そこには源氏も平家も、いよいよ関係ないし、許されない。
応龍が消滅したのと同時に、彼にとっての九郎も変わる。
「本当は、ただ君が進んで行くのを見たかっただけなのだけれど」
もはやそんな願いは叶わない、選ぶことすら許されない。
灰色の景色に弁慶は沈んだ。
数日が経った。
応龍の生じない原因は分かれど、どうすれば黒龍の力を開放できるのか、手立てはない。
弁慶はとりあえず逃げることはやめ、京の現状を調べねば、と、山と街とを往復しながら情報を集めいたが、
ある日中、いつも通り小屋へ帰ってきて、借り受けた書物を開いた矢先、がさがさと草が揺れる気配がした。
また怨霊だろうか。あれ以来出ていなかったが、あの姿を思えば、いくら弁慶でもぞっとして、少し震える、けれど姿はいつまでたっても現れず、空気も清浄だ。
ならば、獣だろうか? と思うが、それにしては音が重い。だったら人だ、弁慶は薙刀を手に、身をひそめる。
平家のものだろうか、それは都合がいい。脅してでも情報を奪い取るべきだと思った。
……けれど、現れた姿はあまりにも見覚えがあった。
「まさか」
長い髪に木の葉をたくさんくっつけて、顔をしかめながら現れたのはよりにもよって九郎だった。一番会いたくない相手だった。弁慶は小屋に身をひそめるも、そもそもそんなに大きな建物でもないし、他にはなにもないのだから、隠れきれるわけもなく、
結局、警戒もせずにまっすぐ近づいてきた九郎に、あっさりと見つかり、
「ああ、本当にいた」
目が合うなり、九郎は少し呆れたように弁慶に言った。
「……どうして」
が、ここは自分ひとりだけの秘密の場所だ。何故九郎が知っているのかも謎だし、そもそも何故京に彼がいる?
「ん? 兄上に頼まれて、院に親書をお届けした所だ」
「だったら早く帰らないと、鎌倉殿が」
「院の返事は明日、との事だからな、今日は暇だったんだ。それに、仕方ないだろう、昨日、宿に入る時にお前が見えてしまったんだ。熊野に行ったのではなかったのか? まさか京にいるとは思わなかったぞ」
九郎はすらすらと答える。……確かに、昨日街に降りていたが、でも、
「ああ、この場所のことか? 悪いが少しつけさせてもらった。そうしたら、この山の方へ歩いてゆくのが見えたんだ」
完全に口ごもってしまった弁慶に、服についた木の葉を落としつつ、九郎は何でもなく笑う。
「全然気付かなかった……」
「褒め言葉か? 嬉しいな」
「僕の修行不足かもしれない」
「そんなことはないだろう……ここは、いい眺めだな」
言う彼は更に、景色を眺めながら体を伸ばす。彼らしい仕草だ、けれどそれが今日はやけに目についた。見つめていると、振り返って、突然言われた。
「何かあったのか?」
どきりとした。けれど、
「何故です?」
その程度は笑ってごまかしても、なおも九郎の目は鋭いままだ。
「こんなところに引きこもってるから」
「ああ、薬草をとりにきたんですよ。ここにしかないものもあって」
「京までか?」
「勿論、他の用のついでですよ」
何故、気落ちしているとばれたのだろう。九郎は、弁慶が清盛と対峙したことも、なにもかも知らない筈なのに……、まさか、彼もまた、京が灰色なのに気がついたのだろうか?
疑心暗鬼で見つめていると、九郎はぽん、と、弁慶の頭に手を乗せた。
「そんな顔するな」
「顔?」
「傷ついた顔をしている」
剣を常に振るっている九郎の手は固い。その感触は少し懐かしい。
なんだか、涙がこぼれそうになって、笑う。
「そうですね、秘密の隠れ家を君に見つかってしまったから」
「お前だって、昔散々俺の秘密の場所をつきとめただろう?」
「ああ、そんなことありましたね。平泉で」
「どうした弁慶、本当におかしいぞ?」
「いいえ、なんでもないんです、なんでも」
感傷的になっている場合ではないし、最早資格もない。弁慶は大慌てで彼に背を向け、小屋に入る。
「九郎も入りますか? こんなところですが」
「いいや、そろそろ山を降りる」
「そうですか」
それは良かった、と思った、けれどそれも束の間、九郎は当り前の顔で首をかしげた。
「何を言ってるんだ、お前も行くぞ」
「は?」
本当に当たり前に九郎は言った。そんなに直ぐに降りられるなら、こんな山に引きこもっている訳ないのに。
思ったけれど、そういえば薬草を取りにきた事にしていたんだった、と、話を合わせる。
「いえ、降りる前にここを片付けて行かないと、動物のすみかになってしまいますから」
けれど、適当についた嘘は裏目に出た。
「じゃあ俺も手伝おう……って、弁慶、お前またこんなに散らかしたのか!」
言い、九郎は一度、いつもするように弁慶をむっと睨んでから、
「……全く、仕方ないな」
と、目の前の、気まぐれに採っていた薬草を、やはり広げておいた袋の中に種類別に入れ始めた。片づけるつもりなのか?
「九郎、いいから」
「馬鹿云え、お前一人でやらせていたらいつまでかかるかわからん」
「だから、先に帰っていいと」
「そうはいかない、後白河院に会うんだ、俺一人では気が重すぎる! だが、お前がいてくれれば十人力だからな、なんとしても来てもらうぞ、弁慶」
……こうなったらもう、言い訳はできないだろう。弁慶は諦めて、片付ける九郎の様子を見守った。
散々弁慶の散らかし癖に付き合わされてきた九郎の手際はとてもいい。昔は薬草を混ぜるなだの、書の端を折るなだの、弁慶にうるさく言われていたものの、それを経て、これが源氏の御曹司なのかという程の手際になってしまった。どちらが薬師なのかもはや分からない。
弁慶は、傍らでそれを見ていた。……彼は怒るだろうか、いままでたくさんの人がそうして来たように、いよいよ弁慶までもが彼の、源氏の大将としての立場を利用せざるをえなくなってしまうことになることを……九郎だけじゃなく、弁慶も忌み嫌っていた事をしなければならぬことを。
「全く、どうすればこんなに散らかせるんだ……これはどうする、弁慶?」
声をかけられ、自分がただぼんやりと九郎を見ていたことに気づき、弾かれたように返事をする。
「……ああ、なんですか?」
「これは持って行くのか?」
「はい。それは眠り薬の材料になりますから」
「そうか。ほら、お前も手を動かせ、このままだと日が暮れるぞ」
……なのに、今更になって彼のまっすぐな心が、たまらなく優しくて、胸が痛む。
生気を失い、ただ青の空に照らされて朽ちてゆくだけの京を背に、
なにも知らない九郎の笑顔を見れば見るほど、変わってしまった街が、自分の行く末が痛くて、得意だった筈の偽の笑顔が崩れおちてゆくようだったけれど、
「どこから手をつければ元通り綺麗になるのか、分からなくて」
もう、全てに心を閉ざし、嘘をつくことを選んでしまったのだから、と、懸命に繕い笑みを浮かべた。
(29/11/2008)